テオドール・ド・バンヴィル
 「誠実さ」

Théodore de Banville, « La Sincérité », 1885



(*翻訳者 足立 和彦)

テオドール・ド・バンヴィル 解説 1885年、テオドール・ド・バンヴィル『幻想書簡集』 Lettres chimériques 中の第25章「誠実さ ギ・ド・モーパッサンへ」の翻訳。初出は日刊紙『ジル・ブラース』、1883年7月1日である。
  テオドール・ド・バンヴィル (Théodore de Banville, 1823-1891) は高踏派の詩人であるが、1879年末『ジル・ブラース』Gil Blas 創刊当初から、同紙へ評論や短編小説の連載を行っていた。モーパッサンが寄稿を開始した1881年末以降、「同僚」として二人の間に交流があったものと推測される。
 1880年「脂肪の塊」(『メダンの夕べ』所収)、1881年『メゾン・テリエ』、1882年『マドモワゼル・フィフィ』によって短編小説家として評判を勝ち得たモーパッサンは、1883年初の長編『女の一生』の(スキャンダルも含めた)成功によってその地位を確かなものとし、若手作家の代表格と目されるに至る。その事実については他にも証言が見られるが、バンヴィルはその「奇跡」の理由をモーパッサン作品の「誠実さ」によって説明してみせる。ここでいう「誠実さ」とは、社会的慣習や偽善に捕われないことであり、また、人物や世界を極端に美化することもなく、必要以上に露悪的に描きもしない姿勢を意味している。
 モーパッサン自身が時評文「一冊の書物を巡って」(1881年10月4日『ゴーロワ』)の中でレアリスム文学の「鏡の誠実さ」を説いているように、「誠実さ」は確かにモーパッサン文学を理解する一つの鍵であるだろう。


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ギ・ド・モーパッサンへ


 我が親愛なる詩人君、もし驚くべきことが存在するというなら、君は最も驚くべき光景を出現させたといえるだろう。だが実際には驚くべきことなどありはしないのだ。奇妙で説明がつかないように見えることというのは、単にちゃんと観察されていない事柄なのである。ヴィクトール・ユゴーが正当にも栄光を独占しているパリにおいて、多少の評判やなんらかの権威を勝ち取ることがとても困難なパリにおいて、君は一気に有名になった。君は矢のようにまっすぐに目的に向かい、たちまちにして最も有名な古参作家たちと肩を並べるに至った。確かに君には大きな才能がある。だがこれほどの奇跡を成し遂げるには才能だけで十分ではなかっただろう。ではどうしてこんな奇跡が生まれたのか? それは君が大きな幸運も持っていたからなのだろうか? ああ! こんな曖昧な言葉は、使い方を誤ったせいで意味を成さなくなった語彙で満足している者たちに任せておこう!
 幸運というものは、竈で鍛冶屋がハンマーで力一杯に叩く鉄のように、人間が自ら鍛え、作り上げるものである。君はただちに有名になった。それというのも、君は本能的に見抜いたのだ。芸術の唯一の条件とは、気難しい者や群衆が等しく渇望しているものを彼らに与えることだと。それは誠実さである。誠実であるということ、すべてはそこにある。その他に規則はなく、その他に詩学もない。反対のことを言う者たちは皆、嘘をついてきたのだ。おお! 君がどんな気取りもどんな嘘も免れてやって来て、人々にとんでもないでたらめを信じさせようとしたり、目を眩ませようとしたりするということがまったくないということを知った時、その驚きは読者にとってなんと魅力的で安心させてくれる幸福なものだったろう! 人々はあの『脂肪の塊』を繰り返し読んで飽きることがなかった。そこで君は「人間のエゴイズム」の醜さを示してみせながら、「アンチテーゼ」の誘惑に屈することなく、君の女主人公を崇高な人物に祭り上げる誘惑にも負けなかった。人はあの『メゾン・テリエ』をむさぼるように読んだ。そこで君は愚かで感傷的な、現にそうであるような娼婦たちを描いて見せ、彼女たちを持ち上げもせず、貶めもしなかったし、泥の中に引きずっていくことをせず、星々へ連れていくこともしなかった。そしてあのもう一つの小説(1)だ。その中でプロシアの将校に向けて投げつけられた露骨な言葉は、状況ゆえに荘厳なものとなっており、一人の娼婦が勇敢にも「戦の勝利」に平手打ちをくらわせる。美しく変貌したあの哀れな女性、あの復讐の娼婦を、君は村の司祭に助けさせ、司祭は娘を鐘の中に隠す。こうして君は教権支持者であると思われることも、無神論者だと思われることも恐れたりしない。君は何も恐れていないのだ。
 実際、「真実」を正面から見つめ、ありのままにそれを描こうとする者が何を怖れたりするだろうか? 長編小説『女の一生』の中で君はある女性の宿命を語っているが、出来事や人物の性格を偽りの理想へと無理やり近づけたりした場合に比べて、その痛ましい卑俗さゆえに遥かに感動的なものとなっている。出来事は毎日のように起こることであり、人物は丸ごと善良だったり悪者であったりしない。あるがままの人生が、その単純さと恐ろしさの中において描かれている。このように君は誠実であろうという偉大な考えを持っていたのであり、君が第一線に立つためにそれ以上のものは必要なかった。それにしてもその考えを抱いたのは久しく君だけだったのだろうか? いや、幸いにもそうではない。そしてもし不当にも我々の目が眩んでいるのでないなら、我々ははっきりと理解するだろう。いつの世紀においても、あらゆる偉大な詩的飛翔は誠実さに向かう努力であったということを。シャトーブリアン、ラマルチーヌ、ユゴー、ミュッセ、バルザック、ボードレール、フロベール、ルコント・ド・リール、ゾラ、ゴンクール兄弟、アルフォンス・ドーデは皆、紋切り型を真実と直接の観察で取って代えようとした者たちである。このうちの前者の者たちを、彼らの文体の中で今日時代遅れとなったものを理由にからかうというのは、貧しい議論であり実りのない争いである。「真実」の女神が井戸から出て来た時には、何通りもの裸であるあり方、裸を見せるやり方を持っているのだ。彼女が持っているのは1850年の胸であって1880年のものではないと非難するのは、最初のからかいに堕することであり、子どもっぽい議論に耽ることではないだろうか?
 一体誰が我々の目を塞いでいるのだろう。事実として人々は手から手に松明を渡してきたのであり、我々が賞讃する誠実さへのこの努力を、あらゆる天才たちはすることが出来たし、また望んだのだということを理解するのを、一体誰が妨げているのだろう? もし「批評」がこの明白な真実を正しく認識していないのなら、「批評」は誤った考えに惑わされており、それを払拭できないでいるのだ。「批評」は芸術には「流派」というものがあると思っているが、事実は正反対にも「個人」しかいないし、またありうるものでもない。どんな天才も必然的に一人の個人、孤立した存在であり、それはまさしく誠実さこそが彼の唯一の規則であり、誰も彼固有の誠実であるあり方を借用したり、盗んだりできないからである。このとても単純なことが理解できずに、大変偉大な作家にして偉大な小説家であるエミール・ゾラは、しばしば自分の批評の中で混乱している。彼はユゴーの「流派」があると信じている。そんなものが存在しないのは、ゾラの「流派」が存在しないのと同じことだ。この幻影が邪魔をして、ヴィクトール・ユゴーが若い頃に牝牛についての詩を書き、これに『牝牛』(2)という題をつけたことが、ゾラには見えていないのである。ユゴーはまさしくゾラがこんにち行っていることを行ったのであり、同じ戦いを戦っていたのだ。だが、と人は私に言うだろう。それでは模倣者が存在することを否定するのかと。もちろん、明々白々たる事柄を否定するつもりはない。だが模倣者の一団が一つの流派を形成することにならないのは、十万の盗人が集まっても軍隊ではないのと同様なのである。
 気力に欠け、卑劣で怠慢なゆえに人は模倣者となる。それ故、模倣者の最初の作品はいつでも、彼が大家の方法だと信じたものを、適応させ順守するのが恐ろしく簡単な約束事や既成の様式に還元することなのである。ところが、誰であれ大家の名に値する者には、決まった方法などない。彼の唯一の規則は、能う限りもっとも正確かつ最も素朴に自然や人生、人間の魂を観察することであり、彼の表現方法は彼が感じる無限に多様な感覚と同じだけ様々である。したがって彼の模倣者は彼の最悪の敵、彼自身とは正反対のものであり、まったく彼の一派などではないのである……。実際に誰の手にも届くような変化のない方法に苛立って、ゾラは彼がユゴー一派だと思った作家たちの誠実さを否定するに至り、そこから自然な経過を辿って、ユゴーその人の誠実さまでを否定した。それはまったくもって、時計を奪われそうになった通行人自身を逮捕しようとする巡査さながらである。
 反対に、批評においても創造においてと同じようにまったく誠実であるように努めよう。ただ存在するということによって、あらゆる天才は、小説家であれ詩人であれ、つかの間我々を約束事と様式から解放してくれたのだということを認めよう。絶えず彼らは再生し、新たに増殖する。あの怪物たちは精神の堕落と腐敗の中に生まれ出るが、絶えず太陽、真実、明瞭なるアポロンが光の矢で彼らを貫き、打ち倒すのだ。そう、誠実であること、誰もがそれを望んでいるし、誰もがそうであるだろう。もしも悪魔がいて、人を山頂に連れて行き、崇めさえすれば少しの卑劣さと裏切りと引き換えに、この悪魔たる「紋切り型」が約束し、実に誠実にもあらゆる地上の王国を与えてくれる、そんなようなことがないのならば。ブルジョアの偏見におもねり、詩と道徳と(二つの互いに完全に異なった科学であり、共同事業を行っているのではない)を忌まわしくも混同することに同意しさえすれば、あらゆる富、あらゆる見返り、あらゆる物質的栄誉を得るのに十分である。「あるがままの」世界は一つのことしか求めない。それは人がそれを見ている振りをして、それがそうであると主張する通りに描くのに同意することであり、そうすれば世界はアラジンの洞窟を開いて、その富を惜しげもなく与えてくれるのである。
 なんらかの神によって目を眩まされたのか、あるいは愛人にして偉大な助言者たる「定型」の魂と戦うのは不可能と感じたからなのか、それというのもそれは収入をもたらしてくれるからだが、「現代喜劇」はこの妥協に同意したのであり、いかに偉大な才能によって作られようとも、この「現代喜劇」は慣習的な社会を描くことしかしなかったし、その社会はラシーヌ悲劇と同じように抽象的なものだった。それは人生を眺めていなかっただけでなく、バルザックの『人間喜劇』を読みもせず、知ってさえいないようだった。「現代喜劇」は女性を二種類に分割する。一方は母親と姉妹であり、他方は泥の中を歩く娼婦だ。それが我々に言い忘れているのは、愛したことでとても有名となった美しく貞淑なご婦人方がどうなったかであり、彼女たちはそれでも皆の賞讃と尊敬に囲まれているのである。ポンパドゥール夫人のような女たちについても説明してくれないが、司教が彼女たちに跪き、へりくだってスリッパを履かせるのである。
 アカデミー会員の大半は第一級の思索家や作家であり、個人としては大変に評価が高い。しかし道徳的、集合的人物としてのアカデミーは、常にからかいの的であったし、それ以上に正当なこともない。何故なら、全体として見るなら、アカデミーは構成員の誰もが個人としては同意しないような偏見に支配されるがままになっているからだ。アカデミーが想像し、自ら信じまた他人にも信じさせたがっているのは、最良の芸術作品は直接的な道徳的目的を提示するものだということである。この観点からするなら、『イリアス』もミロのヴィーナスも同じように実に劣った作品であろう! かような愚行がその正当な価値に引き下げられ、かような蜘蛛の巣が通りすがりの騎士の拍車に引き裂かれても無駄なことである。アカデミーは存続し、強情を張りつづけている。例会にインスピレーションを与えるための台座の上に、そして演説集の表紙の上にアカデミーが載せるのは「詩」ではなく「叡智」の像であり、問題となっているのとは別のものを作ることが賢明でありうるかの如きである。
 『両世界評論』はアカデミーへの道であり、直線が一点から別の一点に導くのと同じほどダイレクトにアカデミーへと連れて行ってくれる。この二つの機関は同じ原則の上に設立されているのだ。つまり、特別な教育、社交界における良き関係、ある種の世間体は才能の代わりとなるに違いない、というものである。したがってこの二つの機関は互いに補完しあい、支えあうに違いない! 君には理解できただろうが、一人の作家がアカデミーへの道を進みはじめるや、彼が最初に気を配るのは『両世界評論』になにか小説を載せることであり(3)、その登場人物は理想的で、地面に落ちている財布を見つけたら、中の札を取ったりせずにこれを返すのである!
 真の芸術家はこんなことに気を配ったりしない。彼が創り出すのはアマディス(4)やアルマンゾール(5)ではなく、エロア(6)やエルヴィール(7)でもなく、男であり女であって、アルバムや白い舞踏会や小さな滝で公衆を魅了しはしないが、代わりに彼は、大人も子どもも含めたすべて純朴な者、すべて考える者の心を捉えるのであり、不屈の「誠実さ」はライオンのように彼らに爪を立てるのだ。親愛なる詩人君、それが君の身に起こったことだ。道徳や品行についてどんな賞も生徒ギ・ド・モーパッサンには授与されなかった。だが無数の読者は君の催す饗宴に参加し、自分たちが飲んでいるのは苦いけれども滋味豊かな真実というワインであることを感じたのである。


テオドール・ド・バンヴィル、『幻想書簡集』、シャルパンティエ書店、1885年、181-186頁。
Théodore de Banville, Lettres chimériques, Charpentier, 1885, p. 181-186.




訳注
(1) 短編「マドモワゼル・フィフィ」 « Mademoiselle Fifi » (1882) の主人公ラシェル。
(2) « La Vache ». 詩集『内なる声』Les Voix intérieures (1837) 所収。
(3) 1890年、モーパッサン最後の小説『我らの心』 Notre cœur は『両世界評論』に連載されることになる。
(4) 16世紀スペインの騎士道物語『アマディス・デ・ガウラ』 Amadis de Gaula の主人公か。
(5) ハインリッヒ・ハイネの戯曲『アルマンゾール』 Almansor (1821) か。ただしバンヴィルの綴りは Almanzor.
(6) アルフレッド・ド・ヴィニーの詩『エロア、天使たちの妹』 Éloa, ou la sœur des anges (1824) の主人公。
(7) 詩人アルフォンス・ド・ラマルチーヌが亡き恋人を『瞑想詩集』 Méditations poétiques (1820) の中で呼んだ呼び名 Élvire。




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