モーパッサン
『マノン・レスコー』 序文

Préface de Manon Lescault, 1885



(*翻訳者 足立 和彦)

アベ・プレヴォー 解説 1885年に出版された、アベ・プレヴォー『マノン・レスコーとシュヴァリエ・デ・グリューの物語』 Histoire de Manon Lescaut et du Chevalier des Grieux (Paris, H. Launette) に付されたモーパッサンによる序文。
 モーパッサンはマノンに「女性そのもの」、彼にとっての永遠に女性的なるもを見て取っている。「宿命の女」に魅了される男性の心理をよく語っていると言えるだろうか。
 冒頭のお得意の女性論をひとまず措き、ここで注目したいのは作品としての『マノン』を語る作者の言葉である。複雑で捉えがたい心理、「数えられないほどの顔を持つ」人間の真の姿を描くこと。さらには「目に見るように」生き生きと描き出し、まるで現実にその人物を知るかの印象を与えること。
 モーパッサンが『マノン』に見出したものは、まさしく彼自身にとっての小説の理想像であった。そしてそこにある普遍性こそが作品を「傑作」とし、後世にまで読み継がれるものにするのだという結末の表明に、芸術家としての作者の自負、あるいは決意を見て取ることが出来るだろう。そこにはフロベール、ブイエの遺志もまた込められている。
 無論、今日もなお『マノン・レスコー』は、そしてモーパッサンの多くの作品も読み継がれている。彼等の言葉を頼りに、「古典」の由縁を今一度問い直してみたいと思う。

***** ***** ***** *****


I

 幾世紀にも亘る経験が、女性というものは例外なく、真に芸術的、真に科学的な仕事に向いてはいないということを証明しているにも関わらず、今日、女医や女性政治家が我々に押しつけられようとしている。
 その試みは空しいものである。何故なら未だ女性画家も女性音楽家も目にしないが、あらゆる門番娘、一般的に結婚を控えたあらゆる娘達が熱心に努力を傾け、優れた成功をもたらすに十分な根気強さで、ピアノや作曲さえもを勉強し、油絵の具や水彩絵の具を浪費しては、頭部や裸体のデッサンを試みながら、扇や花や皿の底、あるいは平凡な肖像画以外のものを描くに至らないのである。
 この世において女性の役割は二つであり、両方ともとてもはっきりとしていて、愛らしいものである。すなわち恋愛と母性だ。
 賞賛すべき我々の教師たるギリシャ人は、今日人が信じている以上に、生活に関して賢明であり明確な概念を抱いていたが、男性の伴侶のこの二重の使命をよく理解していた。彼等の明晰な知性は不明瞭なものを愛さなかったので、はっきりと、絶対的な仕方で、女性の人生におけるこの二つの姿勢を定めたのだった。
 彼等に子供を授けるべき女性達は、注意を払って選ばれた健康で丈夫な者達であり、家の中に閉じ込められ、いずれ成人してギリシャ人になる彼等の息子達、いずれ母となる彼等の娘達を産み、育てるという神聖な義務、清く自然な仕事にかかりきりになった。
 彼等に愛情を捧げ、休息の時を魅力的、精神的、優しげなものとするべき女性達は、自由に生活し、賞賛と心づくしと雅なやり取りに取り巻かれた。偉大な遊女達であり、その義務は美しく誘惑的であること、見る目を奪い、精神を捕まえ、心をかき乱すことにあった。
 この女達に求められたのは、気を惹くこと、あらゆる技と手管とを用いて、誘惑と愛撫の繊細で謎めいた技術を学び、実践することだけであった。彼女達の美しさには大変敬意が払われたので、ヒポクラテスを探しにアフリカまで一艘の船が差し向けられたほどであり、それというのも彼女達の内の一人が妊娠し、危険な状態にあったのだった。
 偉人達、芸術家、哲学者、将軍達は、この遊女達の家に暮らし、彼女達の助言を聞き、親密さの内に女性達の抱くあの繊細な優美さを見出し、彼女達の愛の内にあのほとんど神聖な何か、唇と目から彼女達の注ぐ官能的で詩的なあの酩酊を求めるのだった。実際、天与の力で女性というものは、ただ肉体の形、唇の微笑み、視線の力だけで男を支配し、魅惑することが出来る。抵抗しがたい支配力が彼女から発されると、我々を包み、従わせ、我々は抵抗することも、闘うことも、逃れることも出来ないその時、女性は、偉大なる勝利した女達、偉大な誘惑する女達の種族に属しているのだ。
 彼女達の内のある者は世界史を支配し、自分達の世紀に詩的で気を惑わすような魅力を振りまいている。だが、もしも我々が、遠くからでも、かつて生きた女達の今は失われた優美さの影響を受けることがあるなら、もしも、ヴィクトール・クーザンがロングヴィル嬢に対してそうだったように、年代を隔てて今なお我々が彼女達に恋することがあるならば、詩人達が夢想し、創り出した女性達はどれほどに一層、我々を熱中させることだろう。
 かつての、その美しさが遠くから我々を感動させる愛らしい者達の名は、クレオパトラ、アスパジー、フリネ、ニノン・ド・ランクロ、マリオン・ドロルム、ポンパドール夫人などだった。
 そしてあの今は亡き魅惑的な女達、古代史の中で漂うような衣服を纏っていた女達、大きなエナン(婦人帽)をかぶった、ミシュレが描く「秘密の罪の内にあって荘厳であった」中世の女達、我等が国王達の宮廷をあれほどにも雅びなものとしていた女達のことを思う時、我に反して心を動かされた我々は、あまりに悲しく、あまりに優しいヴィヨンのバラードを口ずさむのである。

語れ、何処、いかなる国に
あるか、美しきローマ娘フローラ。
アルキピアダ、またタイス、
彼女の従妹は?
河の上、池の上、
その美しさは人のものでなく
呼べば応えるエコーは?
さても昨年の雪、今は何処に?
・・・・・・
王妃ブランシュは百合の如く
シレーヌの声で歌い。
大足のベルト、ビエトリス、アリス、
アランビュルジスはメーヌを領し、
善良なロレーヌ娘ジャンヌは
ルアンにてイギリス人に焼かれた。
彼女等は何処にいるか、聖母マリアよ?…
さても昨年の雪、今は何処に?


II

 けれども、民衆の歴史が、星のように輝く何人かの女性達の像に輝いているならば、人間の思想、芸術的な思想の歴史もまた、作家達に夢見られ、画家に描かれ、あるいは彫刻家によって大理石に刻まれた、幾人かの女性のイメージに照らされている。
 ミロのヴィーナスの身体、モナリザの顔、マノン・レスコーの姿は、我々の魂を虜にし、感動を与え、男性の心にいつでも息づいているだろうし、あらゆる芸術家、あらゆる夢想家、垣間見られるばかりで掴むことの出来ない形姿に憧れ、追い求めるあらゆる者を絶えず惑わすであろう。作家達はわずかに三、四ばかり、この優美な典型を我々に残したが、我々自身が彼女達を知っているように思われ、我々の内に思い出のように生き続け、その映像は手に触れることも出来そうなほどに、現実の様相を備えている。
 第一に、それはディドンであり、成熟の年齢において、沸き立つ血、激しい欲望、情熱的な愛撫でもって愛した女性である。彼女は官能的で、熱情に駆られ、興奮し、その唇はしばしば噛みつくような口づけに震え、その腕は抱き締めるために常に開かれ、大胆な瞳が抱擁を要求し、その炎は慎みを欠いている。
 それはジュリエットであり、少女の内に目覚めた愛は、既にして焼きつくようでありながら、いまだ無垢であり、既に打ち砕き、殺す力を秘めている。
 それはヴィルジニーであり、より純真、より内気、神的なまでに純粋であり、彼方、あの青き島に眺められる。夢を見させ、涙を流させるこの少女は、どんな荒々しい欲望も目覚めさせることはない。詩的な愛を抱く処女であり、殉教者である。
 それからここにマノン・レスコーであるが、他の者達よりもより真実の女性であり、無邪気なままにずる賢く、不実で、愛らしく、心を乱させ、精神に富み、恐ろしくも魅力的である。
 この誘惑と本能的な不実さとに溢れた人物に、作家は、女性の中にある、より優しい、より魅惑的な、より忌まわしいもの全てを受肉化させたかのようだ。マノンとは、女性の全体であり、常にそうであったし、今もそうであり、いつまでもそうであるだろう女性の姿なのである。
 我々は彼女の内に、失われた楽園のイヴを、永遠で、ずる賢く、純真な誘惑者を見出さないだろうか。彼女は決して善と悪とを識別せず、唇と瞳の力だけで、弱いと同時に強くもある男性、永遠の牡を導いてゆくのである。
 アダムは、聖書の創意に富んだ伝説によるところでは、伴侶の差し出す林檎を齧ったという。デ・グリューはこのあがらい難い少女に出会うや、そうと知ることも、理解することもないままに、ただ女の魂の伝染によって、ただマノンの持つ堕落させる性質に触れただけで、放蕩者に、悪党に、この意識せざる愛くるしい悪女の、ほとんど意識せざる協力者となる。
 彼は自分のしていることを知っているのか? 否。この女の愛撫が彼の目を惑わし、魂を麻痺させたのだ。彼はそのことをほとんど知らず、大変誠実に行動するので、我々自身ももはや、彼の行為が純朴ながらも卑劣であることを感じない。彼のように、我々もマノンの魅惑的な優美さの影響を受け、彼のように我々も彼女を愛するので、恐らく我々も彼のように騙したことだろう!
 我々は彼を理解し、他の者に対してするように憤慨することもなく、我々はほとんど彼の罪を許し、まさしく彼女が理由であるので彼を許す。それというのも、この目を奪うイメージを前にして、この愛の被造物の喚起そのものを前にして、我々もまた非力であることを感じるからである。
 そして、ある奇妙な事実を指摘しておかなければならないが、それは騎士デ・グリューと彼の不実な愛人の恥ずべき行為を前にしての、読者のまったく完全な寛容さである。
 それは、どんな芸術的創造も、この素晴らしくふしだらな女性以上に、力強く人間の感性に訴えてくるものはかつてなかったからであり、その繊細で病的な魅力は、まるでかすかでほとんど感じ取れない香りにように、この見事な書物の全てのページから、一文一文から、彼女について語る一語一語から放たれているように思われる。そして、この浮気な女性はそれでもなんと誠実で、策略においても誠実であり、卑しい行為においても率直であることだろう。デ・グリューは自ら我々に彼女を示してみせるが、その数行の内に、心理学を自負する大部の小説の多くよりも一層、女性についてよく語っている。――「どんな若い女性も彼女よりも金銭に無関心なものはありませんでした。けれども、お金に不自由するのではないかという不安を抱えたままでは、彼女は一時も落ち着いていられなかったのです。費用をかけずに楽しむことができるなら、決して一スーにも触れようとはしませんでした。我々の財産が何によっているものなのかも知ろうとはしなかったのです・・・。けれどもそういう風に快楽に耽っているのが彼女にはとても重要なことだったので、それがなければ、彼女の名誉や愛情について、どんな保証もありはしなかったのです。」
 この短い文章によって、どれほど多くの女性がその心の奥底までを語られていることだろうか!
 だか彼女の兄は、計算し見積もった上で、一人の財産家を見つけて妹と関係を持たせる。そんな風にして手に入った財産を喜んで受け取り、彼女はデ・グリューに手紙を記すが、彼女はまったく誠実であり、その心は卑劣な行為の内にも純真なのだ。「わたしの騎士をお金持ちで幸せにしてあげるために働いたのです。」一個の愛の獣、ずる賢い本能を持つ動物であって、根本的に欠けているのは繊細さ、あるいはむしろ羞恥の感情である。それでも彼女は愛している。彼女は「自分の騎士」を愛しているのだが、それにしてもなんと奇妙な仕方、少女の抱くなんという無自覚さであろう。別の男の家と愛情の中に、贅沢さ、豊かさ、十分な満足とを見出した時に、デ・グリューが退屈しているのでないかと彼女は心配し、気を紛らすためにと、彼のもとに一人の娼婦を送る。それから、彼がそんなものを少しも望んでいないことを知って彼女は驚くのだが、この男性の激しい愛情を決して理解していなかったからである。「誠実な気持ちで、彼女が一時でもあなたの退屈を紛らせる役に立ってくれるようにと思ったのよ。だって、わたしがあなたに望む忠実さは、心のそれなんですもの。」そして騎士が取り乱して愛人を乗せた荷馬車を追いかける時も、自分の知らないどんな力がこの哀れな男を自分の行く道に結びつけるのか、彼女は理解することが出来ない。貧しい時には彼を捨てるのをごく簡単と思った彼女、底では金銭と愛とはただ一つの同じものでしかない彼女には。
 この微細で、実に深く人間的である特徴によって、アベ・プレヴォーはマノン・レスコーをして模倣不可能な創造を行った。多様で、複雑で、変わりやすく、誠実で、卑しくも愛らしく、説明出来ない心の動きと、理解出来ない感情と、不可解な計算と、犯罪的な純真さに溢れたこの少女は、驚くべきほどに真実なのではないだろうか? どれほどに彼女は、感傷的な作家達が描いてみせる、複雑なところのない悪徳や美徳のお手本と異なっていることだろう。彼等は代わり映えのしない典型を思い描くばかりで、人間はいつも数えられないほどの顔を持つということを理解しない。
 だがもし我々が彼女を精神において知るとするならば、更に我々はこのマノンの姿を目に見る。実際に彼女に会い、彼女を愛した場合と同じようにはっきりと目にするのである。あの明るくずる賢い目を我々は知っていて、その目はいつも微笑み、いつも約束しているように見え、我々の前に惑わせると同時に正確なイメージを映し出す。あの陽気で偽りの唇を、誘惑するような唇の下のあの若々しい歯を、繊細ではっきりとしたあの眉を、そして生き生きとして媚びるようなあの頭の動かし方を、魅惑するような身のこなしを、香水の滲み込んだ衣服の下、あの瑞々しい体の放つかすかな香りを、我々は知っているのである。
 彼女のようにはっきりと、完全に想起された女性は他には存在しない。どんな女性も彼女以上に女性であったことはなく、大変に優しく、大変に不実なあの恐るべき女性性の精髄をこれ以上に備えた女性はいた試しがない!
 そして、人はいつでも文学の流派というものを口にするものなので、ただ誠実さの力だけ、描き出された人物の眩いばかりの本当らしさによって、いかにこの書物が生き長らえ、今にあり、これからもあり続けるかという点に目を留めるのは、興味深いとともに教育的ではないだろうか。
 同時代に、恐らくはより技巧を凝らして書かれたどれほど多くの書物が消え去ったことか! 創意に富んだ作家が発明し、組み合わせ、同時代人を楽しませようとした一切のものは忘却の中に散り散りになった! 最も有名だった書の題名さえほとんど知られていないのである。主題を述べることも出来ないだろう。ただ、不道徳であり真実であるこの小説、あまりに正確であるので、フランス人の生活のこの特定の一時期における、ある魂のありようを疑うことも出来ないと告げ知らせ、あまりにも率直であるので、各行為のはらむ二重性に気を悪くすることも思いもよらない、この小説だけが、大家の作品として、一民族の歴史の一部を成す作品の一つとして残っているのだ。
 白い紙の上に自分の思いついた出来事を記すという奇妙な職業を選んだ者にとって、どんな理論やどんな理屈よりも強力で、明白な教訓というものが、そこにはあるのではないだろうか。

アベ・プレヴォー『マノン・レスコーとシュヴァリエ・デ・グリューの物語』序文、1885年、ローネット書店




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