モーパッサン
「偉大なる死者たち」

« Les Grands Morts », le 20 juin 1885



(*翻訳者 足立 和彦)

ユゴー 解説 1885年6月20日、日刊紙『フィガロ』 Le Figaro に掲載された時評文で、ヴィクトール・ユゴーの遺体をパンテオンに安置することの是非に絡め、この偉大な詩人について語ったもの。合わせて、ヴァイオリニスト、パガニーニに纏わる逸話を語っているが、この部分は旅行記『水の上』に再録されることになる。
 偉大な詩人(だが「ただ」詩人であった)ユゴーについてのモーパッサンの評価はいつでも最大級であるが、小説家・劇作家としてのユゴーは認めていなかったようである。霊感の働くままに膨大な著作を残したロマン派の首領は、創作態度においてフロベールの反対と言ってもよく、その辺りにモーパッサンのある種の留保の理由が認められるだろう。
 なおユゴーが亡くなったのは5月22日。凱旋門に棺が置かれ、盛大な国葬が執り行われた。パンテオン安置に関しては、当時新聞紙上で議論された。騒ぎのために『ベラミ』の売れ行きが芳しくないと、モーパッサンは愚痴を漏らしてもいる。
 付け加えておけば、ユゴーの遺体は今もパンテオンに眠っている。

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 人々の興奮が幾らか静まった今日、ヴィクトール・ユゴーの遺体をパンテオンに安置するという決定、最初の熱狂の内に下されたこの決定が、有名な詩人の名誉を称えるのに真に相応しいことなのかどうか、問い返してみることが出来ないだろうか?
 確かに、偉人たちに対して民衆が取り行う葬儀が美しすぎるということはないし、この詩人は、あらゆる崇拝に値したし、同様にどんな葬儀にも値する者であった。だがしかし、彼が目を閉じるや否や、誰にとっても神聖であるべき彼の遺志に背くとは、死者に敬意を捧げるにしては奇妙な仕方ではないだろうか?
 彼は、簡素な墓の中、子供たちの傍に葬られることを求めたのではなかっただろうか?
 どのようにして、瀕死の者、この世を去ろうとする者、消尽した肉体にあって魂はもはや思考のともし火でしかない最後の時に、この瀕死の者は、最後の希望を述べるだけの力、意志、精神力を見出しえたのだろうか。彼ははっきりとそれを表明し、それから息絶えた。そして、この死者は偉大なる者であったという口実のもとに、一民族全体が、彼の栄誉を称えるために、すぐに彼の最後の願いを無視するのである。そこには、ほとんど冒涜といっていいものがあり、この冒涜が一層惜しまれるのは、この偉大なる夢想家の才能を本当に愛した者全て、彼の魂の内密な思考、霊感の源であるだろう何物かを深く理解しようとした全ての者たちにとって、彼の精神の抱いた宗教、詩人としての彼の心の抱いた宗教を傷つけるように思われる故なのである。
 ヴィクトール・ユゴーは神に信を置いていた。
 彼は神に信を置いていた。自らを、神の直接にして重要なる発露であると、彼が確かに考えていたためにである。
 信仰とは論理、科学、道理の問題でしかないと考える実証主義的な哲学者たちの内には、彼は決して属さなかった。そして、次のようなことは絶対に認めなかったであろう。すなわち、人間の価値は相対的でしかなく、大地とは無意味な埃の堆積でしかなく、才能とは(あらゆる人間の思考が、動物の知性以上に明晰であることがほとんどないような、混乱した光でしかない時にあって)ある者たちにおける、幾らかなりと洗練された思考でしかなく、無限の創造を見通すことの出来る目からすれば、人類における最も偉大なる者も、微生物の内の最も小さなものと同じように無意味で、目にも留まらないものである、というようなことは。
 更には、そこにこそ、各人が自身の精神の詩的傾向に従って定式化する宗教的確信の内の、最も興味深い性格の一つがあるのであり、その出発点には人間の重要さがあって、その時、「大地」の重要さはそれ自体では、世界全体において全く些細なものなのである。
 つまりは各人は、自分の性質に従って、自身の神を、あるいは「虚無」を夢見るのである。ある者は混乱した欲望と憧憬に従い、別の者はもう少し独善的ではない論理に従うのだが、いずれの者にもついて回るのは、人間の精神の理解力は、根本的に非力であるということであって、精神は、感覚が明かすことの他には何も理解することができないのである。我々は、既知のものに比較しうるような未知のものを組合すことしかしない。我々が世界を、永遠であったりつかの間のものである出来事を、政治的な、あるいは個別的な事実、我々の神、友人たち、対象を、事物を、つまりは全てを見るのは、我々の欲望と、希望との色合い次第なのである。だから民衆はいつでも、民族の気質、風俗や、脳の構成の傾向に従って、自分たちの神の概念を抱くものである。
 確実なものを知ることは出来ず、正確なものを知ることも出来ないのだから、これらの夢に敬意を払い、自分たちのものを隣人のものより優れていると評価したりしてはいけないのだ。それらはいずれも盲人の夢想に過ぎないのであるから。

***

 だから、ヴィクトール・ユゴーがどのように彼の創造者を認識していたかを探ろう。
 賞賛すべき詩人、模倣不可能な詩人、だがただ詩人であって、精密な科学にも、現代哲学にも縁の薄かった彼は、幾らか漠然とした偉大なイメージを通して着想し、彼が神を認めるあり方は、一種の詩的な汎神論であった。彼は自分の神に向かって、兄に向かってするように話しかけたに違いない。彼は、自分自身と同じ様に、神が、小さな動物たち、小さな花々に関心を向けるのを目にした。そして彼が植物、樹液、動物、子供、全ての被造物、自然が再生させる全てのものに対して抱いた至高の愛は、この汎神論的傾向、神をもう一人の自分として認識する仕方の、確かな印ではないだろうか。このもう一人の自分は、より偉大で、より広大で、永遠のものであるが、同じ本質から成っており、彼のように、自分の創り出したものに対してうっとりとするのである。
 彼の優れた詩の中で恐らく最も美しいものは、混乱しているが力強い彼の信仰を表明したものであって、それは、偉大で、宇宙的な変転に対しての、死者たちの精髄から生まれる花咲ける春に対しての、何か神秘的で、軽やかで、掴み難い、空へ飛び立つ魂の発露のようなものを運ぶ、香り高い潮風に対しての信仰であった。
 「パン」と他の多くの素晴らしい詩句、『瞑想詩集』全部、『諸世紀の伝説』の全てを読み返されんことを。そうすれば、消え去った人間が緑の平野に融合することを、バラの花が解体した肉体から成ることを、詩人たちの精髄が、偉大なる自然によって鳥たちの喉に分散しているということを、彼が信じていたことがお分かりになるだろう。彼があんなにも、森、泉、雲、木々、植物、昆虫、密かに生きる全てのものを愛したのは、感動に浸るこの偉人が、そうしたもの全てが、かつて人間たちを作っていた物質から成っていることを感じていたからである。小さなこの大地の上では、何物も消え去ることなく、失われず、全ては変化するのである。
 物質の一原子も、運動の一部も、生命の振動も無に帰することなく、それら全てが絶えず別の物質、別の運動、別の生命を形成し、この世の全てのものを構成する要素の数は無限にある訳ではない。
 そういう訳で、彼は恐れることなく、静謐に死を待った。彼はもはやヴィクトール・ユゴーという名を持たないだろうが、それが何だろう! 彼は花々の香り、森の緑、夏の夜の甘美な空気の一部になるだろう。
 そして、人は彼を鉛の棺に収め、巨大な記念建造物の下、暗い地下の底へと安置するのである!

***

 しかし彼の作品全部が、彼の詩句の全部が、裸の大地の中に、わずかに薄い板に遮られて置かれることを、彼が望んでいたのだと叫んでいる。木々や草の根が彼を探し、捕まえ、取り返し、地上の上へと連れ帰し、もう一度太陽の中、海風の中へと運んでゆくために。
 彼は鉛の棺に入れられ、パンテオンが彼の上にのしかかる! そして、他の者たちのように、彼が、生まれ出ずる芽の絶えざる永遠の再生の内に交じり合うことは決してないであろう。それが人の言うところの、偉大なる死者の名誉を称えるということなのだ!
 だから彼にとっては、ルイ・ブイエが我々に語ったミイラの嘆息が、本当のこととなるだろう。

 遠くの音に耳を澄まし、
 まだ青空に嫉妬を抱き、
 ミイラが震えながら目覚める
 暗い墓の奥底で。
・・・・・・
おお、ミイラが言う、ゆっくりとした声で。
死せる後も、残り続けるとは。
ハゲワシの曲がった爪の下に
震える肉体は幸福なるかな。
・・・・・・
我が深き夜へと入らんがため
四大たちがこの場を訪れる。
我等は空気! 我等は波!
我等は土、そして火!

我等と共に来たれ、乾いた草原は
緑の木々の羽飾りを望む。
輝く蒼穹の下に来たれ、
宇宙に四散するがよい。

我等、汝を平原へと運ばん、
我等、汝を揺り篭に揺すらん
泉の囁きと
木々のざわめきの内に。

来たれ。宇宙の自然は
恐らくはこの墓地にも探さん
太陽のため、一瞬のきらめきを!
海のため、一滴の水を!
・・・・・・
そして我が腐敗なき墳墓において
恐怖と共に我は訪れを感じる
砂のような重き幾世紀が
我が周囲に積み重なるのを。

ああ! 呪われよ、不敬なる民よ、
存在物の飛翔を妨げ、
死の奢りの内にもまどろみつつ
醜さを保持し続けるとは。

***

 偉大なる死者たちの亡骸についての物語は、しばしば興味深いものであるだろう。そして、一人の詩人、ヴィクトール・ユゴーのような詩人、あるいはむしろエドガー・ポーのような語り手は、パガニーニの遺体についての奇妙な出来事から、どんなバラードを作り出すことだろう。
 地中海沿岸を巡ったことのある者なら誰でも、カンヌとジュアンの入り江を隔てている、レラン諸島と呼ばれる二つの魅力的な島を知っている。
 その島々は小さく、低く、松の木と茂みに覆われている。一つ目がサン・マルグリットで、岸に近い側の端に重厚な城砦があって、鉄仮面やバゼーヌが幽閉された。二つ目は、サン・トノラで、波の間、海側の端に、銃眼のついた昔の立派な城を聳えさせ、それはまさしく詩的な物語に出て来るような城で、波の最中に建ち、かつて修道士たちが、サラセン人を相手に身を護ったのであり、それというのも、サン・トノラは革命時を除いて常に修道士たちのものだったのである。革命当時には、フランス座の女優に買い取られたのであった。
 島から数百メートル南西に、波からわずかに覗く裸の島、サン・フェレオールが見える。この岩礁は奇妙なもので、猛る獣のように刺々しく、尖った岩、石で出来た歯と爪に覆われているので、ほとんどその上を歩くことが出来ない。この防御の間に見られる窪みに足を置き、注意して進まなければならない。
 どこからやって来たのか分からない土が幾らか、穴や岩の割れ目に詰まっている。そしてそこに、百合や可愛らしい青いアヤメの一種が咲いているが、種は空から降って来たのであろう。
 海のただ中のこの奇妙な岩礁に、五年の間、パガニーニの遺体は埋められ、隠されていたのだった。
 その出来事は、この天才的であり、不気味でもあった芸術家の生涯に相応しいのであるが、彼は悪魔に憑かれていると言われ、また加えて、身体も顔も大変奇妙であって、その超人間的な才能と、極端な痩身から、伝説的な人物、一種のホフマンの登場人物であったのだ。
 彼の声があまりにも弱くなった当時、唯一彼の声を聞くことが出来た息子と共に、故国であるジェノヴァに戻る時、コレラに罹って、千八百四十年、五月二十七日、彼はニースで亡くなった。
 従って、息子は父の遺体を船に乗せ、イタリアへ向かった。だが、ジェノヴァの聖職者は、この悪魔憑きの男に墓を許可しなかった。ローマの法院は、意見を求められたが、許可を与えることを敢えてしなかった。しかしながら遺体を下ろそうとしたのだが、芸術家がコレラで亡くなったという口実の下に、市が反対した。当時、ジェノヴァはこの伝染病の被害を既に受けていたのであるが、この新しい死体が災厄を悪化させるという結論が下されたのだった。
 パガニーニの息子はマルセイユに戻って来た。ここでも同じ理由で入港が禁じられた。その後、カンヌに向かったが、やはり入ることが出来なかった。
 それで彼は海の上に留まった。どこにおいても人々から追い払われた、偉大で奇妙な芸術家の遺体を波に揺すりながら。彼はもうどうしていいか、どこへ行けばいいか、自分にとっては神聖なこの遺体をどこへ運べばいいのか分からなかった。その時に、波の中に、このサン・フェレオールの裸の岩を目にしたのである。彼は棺を下ろさせ、棺は島の中央に埋められたのである。
 千八百四十五年になってやっと、彼は二人の友人と共に戻って来て、父の遺骸を探し、ジェノヴァのヴィラ・ガジョナへ移したのだった。
 破格のヴァイオリニストが、どことも分からない岩礁に、奇怪な岩場の中で波の歌う、この切り立つ岩礁に留まったままであったらと、人は思うのではないだろうか。

『フィガロ』紙、1885年6月20日付

訳者 注
ブイエの引用は、『フェストンとアストラガル』所収「ミイラの嘆息」。



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