ジュール・ユレ
「ギィ・ド・モーパッサン氏」
Jules Huret, « M. Guy de Maupassant », 1891
(*翻訳者 足立 和彦)

ジュール・ユレ (Jules Huret, 1863-1915) はジャーナリスト。1886年から新聞に寄稿を始め、1890年、『ボラス―プラディエス事件調書』Le Dossier de l'affaire Borras-Pradiès で名を知られる。『文学の進化』のアンケートは91年の3月から7月にわたって日刊紙『エコー・ド・パリ』L'Écho de Paris に連載され、同年に単行本として刊行された。翌年には「ヨーロッパにおける社会問題についてのアンケート」を『フィガロ』に連載(1897年刊行)。以後もルポルタージュやアンケートを発表しつづける。
詩においては高踏派の後、80年代後半には象徴主義を唱える若い詩人たちが登場し、小説においては自然主義の後に、心理小説への回帰が主張され始める。各流派が入り乱れる中、文学は今どこへ向かおうとしているのか。果たして文学はある特定の方向へ向かって「進化」しているのか。60人を超える詩人・小説家・批評家へのインタヴューを通して、ユレはこの時代の文学的地図の作成を試みる。フランス、バレス、ゴンクール、ユイスマンス、メーテルランク、ミルボー、ヴェルレーヌといった重鎮に加え、まだ若いグールモン、ペラダン、サン=ポル・ルーの名も、自然主義の首領ゾラ、象徴主義の師マラルメと共に並んでいる。
モーパッサンは「自然主義者」のグループの中に、エドモン・ド・ゴンクール、エミール・ゾラ、ユイスマンスに次いで登場する(ポール・アレクシ、アンリ・セアール、レオン・エニックの『メダンの夕べ』の仲間が後に続く)。なお、モーパッサンのインタヴューは新聞には掲載されずに、単行本が初出の模様。
1891年春、すでに体調思わしくないモーパッサンは、頻繁に南仏への旅行を繰り返しているが、この時期の彼は、インタヴューに見られるように「文学」について語ることを極度に嫌い、厭世的な態度を見せている。したがってここにモーパッサンの文学思想を窺うことはできないが、晩年の彼の姿を率直に記した記録として少なからぬ意義があるだろう。なお、モーパッサン自身、1889年には「19世紀における小説の進化」 « L'Évolution du roman au XIXe siècle » と題する記事を発表している。ダーウィニズムを社会事象に適用させる思想は、当時の流行であった。
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モーパッサン氏はパリ人の中でも最も近づき難い人物という評判である。それ故にこそ一層、私は彼に会ってみたかった。この人物は二十歳の頃の私にとって、真実というものの最も完全なる表現が受肉化したものであったし、当時はフロベール自身よりも私に近く、私は地方の片隅にいながら、彼の貴族的な姓と名前、その文体の悠々としていくらか高邁な筆勢、その心理洞察の鋭さ、正確さに対する厳密ぶり、フロベールに可愛がられた弟子であるという評判によって、バルザックの小説の主人公のような人物、いわばラスティニャックとダルテスの混じり合った精髄のような何かとして、彼のことを思い描いていたのであった・・・。幼少期の私の想像は、文壇の中でモーパッサン氏について絶えず耳にする言葉によっても、損なわれるようなことはありえなかったのである。いわく「あれはスノッブだよ。作家にとってこの世で実用的なこととは、出版社にルーヴルやボン・マルシェといった商店を選ぶことだと彼は考えている。彼もロンドンで服を選び、洗濯をさせているのさ。毎晩、と彼は言うんだぜ、私の召使はブーツを靴型の中に入れ、ズボンはズボン吊りにかけておくのさ、とね」
私は会いたかった・・・ そもそも、このアンケートにおける彼の意見は特別に私の関心を引くものだった。そして、彼がどれほど頑なであろうとも、私に返答することに同意してくれた有名人の名前を挙げれば、彼も会話に付き合ってくれることだろう・・・。
私は呼び鈴を鳴らす。一人の召使、むしろ下僕といった人物がドアを開けにやって来る。高慢なブルジョア家庭の控えの間ではどこでも見かける、あの横柄な目つきをご存じだろうか?
――旦那様はご不在です。
私は名刺に言葉を添える。すると中へ通される。アラブの絨毯のかけられた控えの間を通って、豪華な客間の中へ入る。じっくりと見る余裕はないが、柔らかな色合いが占めていて、それは全体としてははなはだ悪趣味なものに見える。
主人が入ってくる。私は彼を興味深く眺め、そして驚きに呆然とする。ギィ・ド・モーパッサン! ギィ・ド・モーパッサン! 挨拶をし、座席を選び、腰を下ろすのに必要な時間のあいだ、私は心の中でこの名前を繰り返し、目の前にいる小柄な男性を眺める。平均的な肩幅、大きな口髭は二色に分かれ、毛先がアルコールに浸したかのように栗色になっている。彼は礼儀正しく、私を椅子に座らせる。だが、文学、調査、等々といった最初の言葉が聞かれるや、彼は不愉快で、頭痛がするような様子を見せ、実際に不幸に襲われているかのように見受けられる。
――おお! あなた、と彼は言う。――彼の言葉は疲れていて、その様子はとても鬱々としている――お願いですから、私に文学の話をしないでください!・・・ 私はひどい神経痛で、明後日にはニースに出発します、医者がそう命じているんです・・・ このパリの空気は私にまったく良くなく、この騒音、この振動ときたら・・・ ここでは私は本当にひどく病気なのです・・・
私は同情し、十分に慎重にニュアンスを込めた調子で、それでもおおまかにでも幾らかの意見を引き出そうと努める・・・
――おお! 文学! あなた、私は絶対に話しません。それが気に入った時には、私は書きます。でもそれについて話すのは、御免です。そもそも、もう文学者は誰も知りません。ゾラとはいい関係のままです。ゴンクールとも、彼の『回想録』にもかかわらずです。もっとも彼らにはほとんど会いません。他の者に会うことはありません。私はデュマ・フィスしか知らないが、彼とは仕事が違います・・・ それに決して文学の話はしません・・・ もっと他のことがたくさんあります!・・・
私は窓のよう目を見開いた。
――ええ、と私は言う。そのスポーツへの彼の好みを知っていたので――ヨットとか・・・
――もっと他のことがたくさんです! ねえ、あなた、私が嘘をついていないという証拠を挙げましょう。少し前にアカデミーの椅子を提供しようと言ってくる者がありました・・・ 確実な28名の名を示しましたが、私は断りましたよ。勲章や、そうしたもの全部をね。本当に、全然関心がないのです・・・ もう話すのはやめましょう、あなた、お願いします・・・」
以上が、文学の進化についての、モーパッサン氏のとても疲れた、とても憂鬱な意見である。
ジュール・ユレ、『文学の進化についてのアンケート』、シャルパンティエ、1891年、185-188頁。
Jules Huret, Enquête sur l'évolution littéraire, Charpentier, 1891, p. 185-188. (Corti, 1999, p. 202-204.)