カテュール・マンデス
「トラップ亭の会食」

Catulle Mendès, « Le Dîner de Trapp », le 16 avril 1877



「トラップ亭の会食」掲載誌 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1877年4月8日、『文芸共和国』La République des lettres に掲載された文章で、4月16日(記事では13日となっている)にトラップ亭 Trapp で催される会食を予告している。「今週1週間 II. 町と劇場」欄の一部で、末尾の署名は J. P. とある。これは Jean Prouvaire(ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』の登場人物)という筆名で、実際の著者はカテュール・マンデスだった。
 カテュール・マンデス(Catulle Mendès, 1841-1909)は詩人、小説家、劇作家。1860年、『ルヴュ・ファンテジスト』を創刊し、高踏派の詩人として出発。詩集に『フィロメラ』(1863)等。小説に『童貞王』(1881)、『メフィストフェラ』(1890)など。オペラ『グゥエンドリン』(1886、エマニュエル・シャブリエ作曲)、『イゾリーヌ』(1888、アンドレ・メサジェ作曲)でも成功を博した。ワーグナーを擁護したことでも知られる。1866年、ジュディット・ゴーティエ(1845-1917)と結婚(1878年に法的別居、1896年に離婚)。
 マンデスは1875年12月創刊の雑誌『文芸共和国』の編集長を務めた。雑誌は当初は月刊、1876年6月から週刊になり、1877年6月まで続いた。ルコント・ド・リール、テオドール・ド・バンヴィル、ステファヌ・マラルメ、ヴィリエ・ド・リラダンといった作家を幅広く迎え、ギュスターヴ・フロベールも作品を寄せている。1876年7月9日から77年1月7日にかけてゾラ『居酒屋』を連載するとともに、モーパッサン(ギィ・ド・ヴァルモンの筆名)、レオン・エニック(ともに76年3月20日―)、J・K・ユイスマンス(同4月20日―)、ポール・アレクシ(1877年5月6日―)にも発表の場を提供した。

「トラップ亭の会食」掲載誌 Source gallica.bnf.fr / BnF  1875年から76年にかけて、エミール・ゾラを慕う文学青年たちが集まってきた。彼らはモンマルトルの安レストラン、マシーニ(「居酒屋」Assommoir と呼ばれていた)、のちにはコンドルセ通りのジョゼフの店に集まり、文学について議論を交わした。あるときゾラ(1月に『居酒屋』刊行)がこの会合に参加したが、店の雰囲気がよくなかったため、もっとよい店に彼を招くことにし、そこにエドモン・ド・ゴンクール(3月に『娼婦エリザ』刊行)、ギュスターヴ・フロベール(『三つの物語』の刊行直前)も呼ぶこととなった。
 そして1877年4月16日(月)、サン=ラザール駅近くのレストラン「トラップ」亭において、6人の青年たちが、ゴンクール、フロベール、ゾラを現代文学の大家として称える。下に訳出する文章は、告知欄に載せられたごく短いものであり、マンデスは架空のメニューを挙げて冗談めかして語っているが、このトラップ亭での会食はのちに文学史家に取りあげられ、「自然主義流派誕生」を示すエピソードとして知られるようになる。
 宴会ののち、エドモン・ド・ゴンクールは『日記』に以下のように記した。

4月16日月曜日
 今晩、ユイスマンス、セアール、エニック、ポール・アレクシ、オクターヴ・ミルボー、ギィ・ド・モーパッサン、レアリスト、自然主義文学の青年たちが、最も友好的で陽気な晩餐会において、私たち、フロベール、ゾラ、そして私を公式に現在の三大家として称えてくれた。ここに新しい軍隊が形成されつつある。

 なお、このときにアルフォンス・ドーデは呼ばれなかった。そのことにドーデは傷ついたと言われている。
 ひと月後の5月17日には、画家ベッケールのアトリエでモーパッサンらによる猥褻な笑劇『バラの葉陰、トルコ館』が再演される。ゴンクール、フロベール、ゾラが観客席に座るとともに、セアールら青年たちの姿もあった(ミルボーは舞台にも立ったが、5月末にアリーエジュ県の県庁に勤め始めてパリから離れたためにグループから離脱する)。
 またこの頃、火曜の会合とは別に、5人の青年たちは木曜日にゾラ宅に集まっていた。1878年5月、ゾラはメダンに地所を購入して住居を増築すると、そこに若者たちを迎えるようになる。この集いのなかで共作短編集のアイデアが生まれ、1880年4月の『メダンの夕べ』刊行につながってゆく。
 1877年4月のトラップ亭での宴会には気をよくしたエドモンだったが、そんなゾラに対して次第に反感を抱くようになる。『日記』の1879年5月28日の欄には以下の記述がみられる。

 ゾラには若く「忠実な者たち」がいて、そのうえ、この「抜け目ない」作家は彼らの称賛、熱狂、情熱の炎を維持し、掻き立てている。外国へ書簡を授与してやり、自分が主として君臨している新聞に潜り込ませて儲けさせてやり、しまいには純粋に物質的な手助けもしてやる有り様だ。

 1880年4月に『メダンの夕べ』刊行、そして5月にフロベールが亡くなると、ゾラとゴンクールおよびドーデの仲は疎遠になってゆく。エドモンは1885年2月から毎日曜日、自宅の「屋根裏」に友人たちを招き、文学を志す若者を集めるようになる(話し上手のドーデは最上の地位を占めた)。ゴンクールとゾラの反目はその後も続いてゆくだろう。
 翻って1877年4月16日のトラップ亭の会食は、「自然主義」の周囲に集う年長者たちと青年たちが親密に交流できた、決して長くはない幸福な一時期(およそ1876-80年)を象徴するものと位置づけられるだろう。


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今週1週間

〔…〕
町と劇場
〔…〕
1877年4月13日金曜日――サン=ラザール駅近く、これから有名になるだろうレストランのトラップ亭にて、6人の熱狂的な自然主義者、彼らもまた有名になるだろうが――ポール・アレクシ、アンリ・セアール、レオン・エニック、J・K・ユイスマンス、オクターヴ・ミルボー、そしてギィ・ド・ヴァルモンの各氏が――彼らの師ギュスターヴ・フロベール、エドモン・ド・ゴンクール、エミール・ゾラをもてなす。「彼らの」師? 少なくともひとりは、彼らが独占するのは適当ではないだろう(1)。――招待客のひとりが我々にメニューを伝えてくれた。「ボヴァリー」風ポタージュ、「娼婦エリザ」風ベニマス、「聖アントワーヌ」風雌鶏のトリュフ詰め、「純な心」(2)風アーティチョーク、「自然主義」パフェ、「クーポー」(3)ワイン、「居酒屋」リキュール等々。――ギュスターヴ・フロベール氏には他の弟子もいるので、「カルタゴ」(4)風ウナギ、「サラムボー」風鳩の不在を指摘するだろう。
〔…〕
J・P。


ジャン・プルヴェール(カテュール・マンデス)「トラップ亭の会食」、『文芸共和国』、1877年4月8日付
Jean Prouvaire (Catulle Mendès), « Le Dîner de Trapp », La République des lettres, 8 avril 1877, p. 144.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)


訳注
(1) 『ボヴァリー夫人』(1857)、『感情教育』(1869)の著者としてフロベールは自然主義青年たちに尊敬されたが、『サラムボー』(1862)、『聖アントワーヌの誘惑』(1874)の著者として高踏派の詩人たちからも崇められた。
(2) « Un cœur simple »:「純な心」は『三つの物語』の1編。1876年4月12-19日に『万物の助言者』Moniteur universelに連載。
(3) Coupeau:ゾラ『居酒屋』の登場人物。ジェルヴェーズと結婚するが、怪我を機にアルコールに溺れ、最後は中毒死する。
(4) カルタゴは現在のチュニジアにフェニキア人が建設した古代都市。フロベール『サラムボー』の舞台。


(*翻訳者 足立和彦)

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