「一冊の書物を巡って」
« Autour d'un livre », le 4 octobre 1881
(*翻訳者 足立 和彦)

もっとも実際には、モーパッサン自身が当時の文学論争の中心にあると考える、理想主義(イデアリスム)と現実主義(レアリスム)との対立を論じるのが主題になっている。(モーパッサンは流派に捕われない立場を明確にするために「自然主義」の語をあえて避けている。)
ロマン主義の系譜(デュマ、ジョルジュ・サンド)に連なる「理想主義」を、現実を偽る文学、大衆に迎合する「偽善」の文学として批判することを通して、間接的にであれ、著者自身の文学理念の表明となっていると言える一文。「あるがままの現実」を描くと主張する「現実主義」は、モーパッサンの言う一般大衆の「偽善」的態度によって批判を受ける。実際、この年に出版された『メゾン・テリエ』について、表題作が娼婦を主題にしている点で好ましくないとモーパッサン自身も批評されている。
「人間的偽善」と「鏡の誠実さ」との闘い。『女の一生』や『ベラミ』を執筆する作家の姿勢を、この語の内に見てとることができるだろう。
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一冊の書物を巡って
一冊の書物を巡って
先日、ブリュッセルから郵便で一冊の書物を受け取り、その物語は知っていたものなのだが、それを読むことで心から驚かされ、多くを考えさせられた。そもそも、この作品には一級の品質が備わっている。その題名を『牡』といい、作者はカミーユ・ルモニエ氏(1)である。これはある密猟者のごく単純な物語であり、彼は一種の獣人、森の中で育った生きた植物であって、樹液に溢れる見事な獣であるが、その男がある農夫の娘に恋に落ちる。娘は、この恐るべき牡の情熱溢れる激昂に対して成すがままであり、すなわちは身を任せる。ついで倦怠が訪れる。彼女は関係を断とうとするが、密漁者は嫉妬に狂って恋人を見張る。彼は愛人に言い寄る者の一人を殴り殺すが、自分自身も藪の中で、傷ついた獲物のように憲兵の銃弾に斃されて死んで終わる。つまり素材はいたって簡単なものだ。これは不変の物語、愛についての不変のドラマである。
この作品の重要な価値は田舎風で荒々しい雰囲気に因るもので、その中において、作者は人物たちと行為とを巧みに展開させている。木々の香り、沸き立つ樹液、田園の発酵する匂いの全体に酔わされる。
それにしても、この小説にまつわる物語の中で一つ驚くべきことがある。それというのも、これが連載小説として掲載された時には、大きな怒りを掻き立てたのだ。この小説は自然主義、ないしは現実主義のもの、低劣で汚らわしい情動を呼び起こすものとして扱われたのだった。ところが、もしもこの書物に対して与えるべき批評があるとすれば(私はそのように批評したいと思うのだが)、それは、まったく正反対に、この書物は一篇の詩として着想され、書かれているということなのである。それは叙事詩である。そこでは農民は英雄に匹敵するまでに巨大化して現れる。田園生活の些事が叙事詩の規模をもつ。その詩はつまり詩人特別の、事物を肥大化させる視点を通して眺められているのであり、小説家の冷静な目によってではない。
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では、どうして、震え立つ樹液に掻き立てられたこの詩篇を、現実主義と呼ぶ者たちが現れたというのだろう! どうして、これほどとんでもない混乱が起きえたというのだろうか?
公衆の精神の内では何が起こったのか? ごく単純な事柄である。――公衆は「理想主義」や「現実主義」の語に、小説家と同じ意味を与えはしないのである。いつまでも混乱が起こっては、お互いに理解しあうことを妨げている。
公衆にとっては、この事件において、「芸術」も「文学」も問題になってはいない。芸術家にとっては、理想主義者とは夢想家のことであり、その仕事は「詩情」と呼ばれる一種の事物を肥大化させるプリズムを通して、人生を変形させて提示することにある。
反対に、現実主義者とは、人生をあるがままに、その荒々しい真実の内において示すと主張する者のことである。
二つの流派はともに合理的なものである。もっとも私の感覚では、真の小説家とは意識的に理想主義者にも現実主義者にもなるべきではない。あるいはむしろ、彼はその両方になる義務を有しているのである。私には太陽のように明らかに思われるが、彼の唯一の主張は、芸術家としての彼の目に映るがままに人生を表現することであり、流派についての固定観念も、どんな類の取り決めもあってはならない。自然が彼に与えた特別な気質に従って彼は感じ取るのだ! 従って、願わくは、彼に備わった巧みさ、技術、意識全体をもって、彼が表現するように。つまりは彼が最善を尽くすように。それ以上に何を望むことがあるだろうか?
我々には、人生以外にモデルがあるだろうか? 否。我々は、存在するもの以外のものを認識する手段を持っているだろうか? 否。では何を? それでは、現に存在するものを、自然がなした以上によいものとして表わすべきだと主張すべきなのだろうか? この世界を修正するのだと? その高慢さたるや途方もないものとなるだろう! しかしながらそれが公衆があえて求めていることである! 芸術、文芸、文体、作家の意識、そんなものを彼らは侮蔑する。理想主義的な文学という名で、彼らが理解しているのは「本当らしくなく」、「共感を誘う」そして「慰めになる」文学のことなのである。
私の考えでは、すべてこうした文学上の大きな問題というのはそこに限定されるのである。それ以上のものではない。すなわち、作者、行為、人物が読者に「共感を誘う」ものであること、作者自身もが自分の善良なる人物たちに対して「共感」を抱いていると感じ取れることである。最後にはタイトルに共感、行間に共感、至る所に共感である。クリーム入りのタルトというわけだ! この単純なレシピでもって、あなたも一人の理想主義者になれるだろう。
読者はほろりとさせてほしがっている。やさしく心動かされることに同意する。つまりは落涙を、ブルジョア的な小さな感動を拒まない。それらはすべて、共感を誘うものの域を出ることがまったくないのである。
しかし、偉大な系譜に連なり、厳しく、誠実で、覚めた一人の作家が、あわれな人間が自分を慰めるようなあらゆる感傷的な決まり文句、あらゆる偽りの詩情、あらゆる打算的な幻想を超越して、平穏な読者を捕まえ、びっくりしたその読者を引っ張って、現にそうであり、心を打ちつける、陰惨で、卑劣さ故に悪臭を放ち、エゴイスムで織りあげられ、至る所不幸があり、長続きする喜びもなく、最後には常に脅かす死へと、我々皆のあらゆる希望に対する刑の宣告(我々は臆病故にそれが最終的なものであるのを信じないでいようと努めるのだが)へと宿命的に至ることになる、そういった人生の中を連れて行くとすると、あるいは、彼が一人一人に対して彼らの姿を、化粧を施すことも、美しく飾ることもないままに見せるとすると、その時には、誰もが現行犯で捕まった子供さながらに機嫌を損ね、そして叫ぶのである。「僕じゃない、僕じゃないよ! 嘘だ、嘘だ!」
ある者は付け加える。「まったく! 人生が哀しいものだとしても、私は『慰め』られたいのであって、絶望させられたいのではない。私が望むのは、私の惨めさを覆い隠してくれて、幻想を与えてくれること、要するに騙してほしいのだ」
それはつまりこういうことである。「私は、自分があまり善良でなく、誠実でもなく、美徳があるわけでもないことをよく知っているし、他の者たちだって私以上ではないことも知っている。それでも、非の打ちどころのない隣人たちの中にあって、私もまた完璧な人間であると信じさせてくれればいいじゃないか!――出来る限り客を騙してきた会計事務所から帰って来た時には、同僚を破産させようと努め、彼らの出費でもって自分の腹を肥やし、やれ高値だ、やれ低値だと演技しては公衆を騙し、お人よしに売ったり買ったりさせてきた証券取引所から帰って来た時には、暴利だろうが非合法だろうが、大きな利益をあげようとしてきた商店から帰って来た時には、自分の合法の妻を破産させて養っている愛人の家から帰って来た時には、私は自分の不正直さ、打ち明けることのできない策略、良心と取引するに至った感傷主義、自分の不実さ、自分の弱さといったものについて、道義的な書物を健やかに読むことを通して慰められたいのだ。そうした書物においては、すべての商人は非の打ちどころないだろうし、資本家は正直で、夫は忠実、等々なのである。つまり、理想的な世界という光景によって、慣習どうりの生活という偽りの像によって、私は、自分の魂が浄化されるのを感じたいのだ」
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さて、一体どうなることか? 才能ある作家たち、大変に尊敬すべき小説家たちが、共感を誘い慰めになる文学に対する読者のこの好みに応えることになる。そして彼らは、色とりどりの砂糖にまぶした模範的な人間像を作りだし、社交界の貴婦人たちを閨房の中で失神させるのである。
いつでも、若く貧しい娘を裕福で未来ある若きエンジニアが娶る。従兄妹同士が愛し合って結婚するか、あるいは破産した青年を金持ちの跡取り娘が選ぶという次第である。そして、そうしたことが起こるにあたっては不意の出来事が付随しており、身分を平等にするための思いがけない遺産とか、ブルターニュの古城の庭園内での、劇的なほどに感動的な冒険である。塔の場面、狩猟の場面、決闘の場面に一家の長の場面が、変わりばえもなく存在する。とはいえ、社交界向きの小説家が勝利を収めるのは、彼が悪徳に手を染める時である。おお! 愛らしい、手袋をはめ、香水を振った、身なり正しい悪徳! どれほどに女たちは愛しているだろう、無感動で、疑い深くも魅力的なあの偉大なる罪深き紳士を! そして筋立てが展開する場所は、なんと趣味よく選ばれていることか! なんというエリートの世界、そこではあらゆる思想は詩情のようであり、あらゆる姿勢はモード雑誌の挿絵のポーズである! クリーム入りのタルト!
この「ご婦人」専用の「シロップの」文学から、小ブルジョア女性専用の糖蜜の文学に堕するまではかくも早い。そして糖蜜の文学から、門番女専用の安酒(失礼!)文学まで転げ落ちるというわけだ。むしろ安新聞の小説でもお読みになるがよろしい。
以上が、公衆の趣味を承認することの帰結なのである。
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ここに至って、尊大な、しかしながら正確な語を用いることにしよう。あの古来よりの文学論争というものは、結局のところ、誠実さに対する偽善の闘いでしかない。そこには芸術など見るべくもないのである。
我々の抱える大きな傷、常に化膿した傷とは、まさに偽善のことである。腺病さながらに、我々は骨の髄まで偽善的である。我々の生活、我々の道徳、我々の感情、我々の原則の一切が偽善である。しかも我々は無意識の内に、それと知ることないままにそうなのであって、ちょうどジュールダン氏が散文家なのと同様であるが、それにはこういう呼び名がある。外見を取り繕う技法! それはあまりにも深く我々の血管の内に行き渡っているので、以下の怪物的な現象が実在する。――まるで我々の見せかけの善良さ、我々の社交界の習慣、我々が偽りの言葉や偽りの抗議、偽りの表情を用いることに対する侮辱であるかのように、もはや偽善的でないもの一切は我々を傷つけるのだ。
おお! 人生の底にあるものを明らかにすることがあったら! 不道徳を叫ぶ男たちの良心や、少しでもあからさまな言葉には気を失う女たちの閨房を開いてみせることがあったら! おお! 彼女たちの持つ善良なる羞恥心! おお! 彼らの麗しき憤慨ときたら! 鏡を前に置かれた猿の怒りのなんと面白いことか!……
有名で尊敬されている一人の男性が、聴衆の輪の真ん中で次のように言うのを私は聞いたことがなかったろうか。「いいえ、確かに、私は信じてはいません。信仰はもはや人間のためのものではありませんよ。もっとも私は義務として信仰の勤めを果たしていますよ……『我々の社交界』のためでしかないとしてもです」そして彼ときたら、本当のところ、この告白の内にある偽善の深遠を思ってみることもほとんどないのだった。
そしてこうした御仁がそろって、自分たちの姿に似通った、偽善文学を望んでいるのである。
そう、あの香り高い小説、持参金について議論されることのないあの恋愛結婚、あの見返りを求めない献身、あの無私無欲の奉仕、それらは、現実には、公衆によって作家に注文された偽善でしかない。誰もがそのことを知っている。読者がそのことを知らないなどということはまったくないし、作者もそのことをよく知っているので、最も尊敬すべき者であってもこの偽りに対する欲求に譲歩し、本当に美しく、芸術的で男らしい作品の中に、イギリス風にうっとりとさせるエピソードを挿入し、この手品のおかげで残りの部分についても許してもらおうとする、そういったことが絶えず見られるのである。
そして公衆は、愚かなまでに完全無欠の操り人形による、いつでも変わらぬ本当らしくもない冒険を読んで、大いに楽しむのである。そして喜びの内に、その本は「よく書かれている」と声高に言うのであるが、それはこの場合、読者の大多数が作家に投げつけることのできる最悪の侮辱なのである。
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我々はあの醜悪な格言を生みだしたのではなかったか?「すべての真実が口にしてよいものとは限らない」我々はそれを文学にも適応させている。ならば嘘をつくべきなのか?――あなた方は答えるだろう「いや! 黙っているのだ」と。――それもまた、沈黙によって嘘をつくということである。そもそも作家が問題となる時には、選ぶべき場などありはしないのである。彼には自分が真実だと信じることを述べる必要があり、さもなければ嘘をつかねばならない。
従って、要約するなら、文学論争とは以下に限られる。すなわち、人間的偽善の鏡の誠実さに対する闘い、あるいは、作家固有の気質に対する読者の憤慨。
一般的に言って、我々が最も好む悪徳や欠点とは、そのイメージが最も我々を傷つけるような悪徳や欠点であり、そのことは別の格言によっても認められている。「首吊り人の出た家で、紐の話をするべからず」
私は多くの例を挙げることができるだろうが、それは差し控えよう。私はカミーユ・ルモニエ氏の書物に戻ることにする。
私は、この書は一個の詩作品であると述べた。実際に、大変はっきりと感じ取れ、大変に力強い詩的雰囲気の中で、すべては起こっている。樹木は一種の生物と化す。森は一種の生きた世界のようである。樹液が語り、歌っている。密猟者による執拗な狩りは、一個の象徴である。この人物はヴィクトール・ユゴーの半ば幻想的なああした創作物の一つのように巨大化する。それは概念、動物的な力、永遠の被造物同士の闘いであり、その闘いはこの世界そのものよりも広大なあの森の中で繰り広げられるのであってみれば、野兎を狙うちっぽけな農夫のただの待ち伏せなどではないのである。
では、どうしてこの小説が現実主義と形容されたのだろうか?
単に、森のかぐわしい香りの代わりに、獣人がいくらか感じ取られたからである。
この二つの単純な存在の単純な愛は、通常の仕方で展開し、一方においては熱狂から倦怠へと移り、もう一方においてはいつまでも激しさを保っている。この世の大部分においてそうである通りに。人生は肥大化し、拡大化し、拡張されているが、しかし虚飾は施されていない。それはいかにも一個の歌である。だがこの歌は、すべてを語っている。農民たちは叙事詩的なものと化すが、それでも本当らしく留まっている。彼らにはフロリアン(2)流の道徳はまったく無いし、デズリエール(3)風の牧歌的な優しさも無い。つまり、人物は「共感を誘う」ものでも「慰めになる」ものでもない、善良な公衆が理解するような意味においては。
『ゴーロワ』紙、1881年10月4日付
訳注
(1) Camille Lemonnier (1844-1913) : ベルギーの小説家。1881年、ここで紹介される『牡』Un mâle (Belgique, Kistemaeckers) でフランスでも名を広めた。「ベルギーのゾラ」とも呼ばれたが、今日では自然主義よりもむしろデカダン派に分類される。『取りつかれた男』 (Le Possédé, 1890) 『ブルジョアの終り』 (La Fin des bourgeois, 1892) 『恋する男』 (L'Homme en amour, 1897) 等。時評文「戦争」(1883年12月11日)において、モーパッサンはルモニエの『死体の山』を引用している。
(2) Jean-Pierre Claris de Florian (1755-1794).小説家・劇作家。特に『寓話』Fables (1792) によって名を残す。
(3) Antoinette Deshoulières (1637-1694). 詩人。劇作も行うが、牧歌および田園恋愛詩に特に秀でていた。詩篇「羊たち」« Les Moutons » 他。