「クロニック」

« Chronique », le 14 juin 1882



(*翻訳者 足立 和彦)

「クロニック」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1882年6月14日、『ゴーロワ』紙に掲載された記事。二つの話題からなっている。
 最初はアルジェリアに関して。1881年6月11日、オラン南部のエスパルト栽培地において、アラブ人がスペイン人入植者を虐殺するという事件が起こった。犠牲者に対するフランス政府による補償についての議会審議に関連づけて、モーパッサン自身の体験が語られている。
 モーパッサンは1881年夏にジャーナリストとしてアルジェリアを旅行し、問題の事件のあった場所も訪れていた。「捕虜」(『ゴーロワ』、1881年7月28日)に、その時の様子が語られている。本記事では、事件の根底にはスペイン人入植者のアラブ人に対する非道な振る舞いがあったとして、西洋の植民地政策を批判的に論じている。
 ついで、アブデルカーデルの残した城塞を訪れたこと、およびアルザス出身の老女との出会いが回想される。普仏戦争後に子どもと一緒にこの地へ渡った女性の不幸な暮らしに触れたうえで、政府が本当に補償すべきなのはこのような人たちではないかと結ばれている。この部分は推敲を経たうえ、1884年刊行の旅行記『太陽の下へ』に収録される。

 記事の後半は、当時話題となっていた犯罪事件について論じている。1882年5月29日、パリ西部、イヴリーヌ県の町ル・ペックにあるコルビエール島で、三人の男が水死体を発見した。遺体は10メートルほどある鉛管で縛られ、猿ぐつわをされていた。猿ぐつわを留めるピンは唇にも刺さっていたという。検死によって、頭部を7回殴られ、6度刃物で刺されたことが確認された。捜査の結果、被害者はルイ・オベール、殺害犯はマランとガブリエルのフネルー夫妻、およびマランの弟のリュシアンであると判明する。尋問を受けて彼らは罪を白状した(6月10日の『ゴーロワ』紙に「ル・ペックの犯罪」(ルイ・ランベール署名)という見出しで詳細が報じられている)。
 マラン・フネルーは薬剤師で、彼の薬局で働いていたルイと妻のガブリエルが恋仲になった。関係が明るみに出て二人は別れたが、マランは復讐を計画。「協力しなければ殺す」と言って妻を脅し、ルイをシャトゥーにある家へ呼んだ。待ち伏せして彼を捕えると、ハンマーと仕込み杖によって殺害し、弟の協力も得て、死体をシャトゥー橋からセーヌ川に投げ捨てたのだった。本記事発表後、裁判の結果、8月13日にマランは死刑、ガブリエルは終身刑、リュシアンは7年の徒刑に処される(上告の結果、マランは終身刑に減刑され、リュシアンは無罪となる)。
 本記事においてモーパッサンは、この事件の突飛さが大衆小説のようだといい、想像上の復讐の場面を描いてみせる。その後、「現実はもっと単純である」として、異常に見える外見の裏に平凡で実際的な動機があったことを示している。
 この事件は小説家にとって「教育的」だという。それは、小説家は「嘘をつく」ものだからだ(その「嘘」の典型的な例として、モンテパンやデュ・ボワゴベーといった大衆小説家の名が挙げられている)。しかし、読者の興味を掻き立てようとして小説家が生み出す「嘘」よりも、裸の「真実」こそが心を打つのだとすれば、小説家はその「真実」に到達することができるのだろうか? 「一見突飛に見える事件の背後に平凡で揺るがしがたい真実がある」という本事件の構図のうちに、モーパッサンはいわば小説の理想の形を見ていたと言えるかもしれない。
 なお、当初「ル・ペックの犯罪」と呼ばれたこの「フネルー事件」は、その猟奇的な性質ゆえに新聞紙上を大いに賑わした。とりわけガブリエルの人物像や彼女の果たした役割が議論を呼んだ。モーパッサンも8月16日、『ジル・ブラース』紙に「ある女性」を発表。ガブリエル・フネルーを引き合いに出し、女性一般の性質について持論を展開している。


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クロニック


 目下、我々の政治家は、オラン南部の高原にあるエスパルト(1)畑において、アラブ人に侵略されたスペイン人に支払う賠償金について議論している(2)
 スペイン政府は横柄な態度を取り、この問題についての意見は分かれている。どんな意見も述べず、そもそも意見を持ちさえしないまま、私は、植民者の虐殺があった直後に訪れたこの国についての思い出を呼び返したい。
 サイダ(3)を過ぎるとすぐに山地に入り込む。赤く焼け焦げ、いつでも燃えるような石の山である。それからまた裸の平野が果てしなく続き、その後、一種の荒野に至ると、五十メートルおきにビャクシンの茂みが生えている。それがハサスナの森と呼ばれているものだ。そしてようやくエスパルトが目に入る。一種の短いイグサで、それが果てしない空間を覆っている様は海を思わせる。この陰鬱な土地に家は存在しない。ただアラブ人の茶色い低いテントが、奇妙なキノコのように地面にへばりついている。
 このエスパルトの海にまさしく一族が住んでいた。彼らはアラブ人よりも野蛮で残忍な集団だった。それがスペインのエスパルト栽培者だ。このように世界から遠く離れて孤立し、女子どもと一緒に群れを作り、あらゆる法の外に放り出された彼らは、人の言うところでは、彼らの祖先が新しい土地で行ったことを行っていたのだった。つまり彼らは隣人のアラブ人たちに対して暴力的、好戦的で恐ろしかったのである。
 アラブ人はすべてに耐える。そして最後に殺すのである。
 ブーアマーマ(4)がやって来た。サイダから二十四キロのアシ=ティルシヌに彼がいることを利用して(当時、彼は塩湖の向こうにいると思われていた)、スペイン人たちが暮らしていた場所の周囲の二つの部族、ハラル族とハサスナ族が、エスパルト栽培者たちを虐殺した。
 彼らは鉄道の支線で働く者たちには敬意を払った。だがスペイン人はどんな者でも容赦しなかったのである。
 そして何日にもわたって負傷者がさ迷った。手足を切られた子どもや、虐待された女たちだ。この哀れな者たちは揃って線路に近寄ってきた。そして被害者を探す列車が通ると、裸足のまま泣きながら駆けてきて、呼び声をあげたのだった。
 私が到着する一週間前にもまだ、十八歳になる娘が発見されていた。比類ないほど美しかったが、強姦され、ナイフで刺され、一糸まとわぬ姿のまま列車のほうへ走ってきたのである。
 こうした事柄は恐ろしい。だが、誰が始めたのかを知らなければなるまい。あちらでは、エスパルト栽培者の集団のなかよりも、反乱する騎兵隊に出くわすほうがましだと一般に言われている。
 あの寂しい国までエスパルトを収穫しにいこうとするあれらの冒険家たちは何者なのだろうか? 以前の生活はどのようなもので、人が言うところの前歴はどのようなものだったのだろうか?
 私はこの者たちを目にした。いやはや! 率直に言って、彼らの家に泊まるよりも、たとえ反乱中であっても、アラブの部族のもとにいるほうが安全だと思うことだろう。


***

 灼熱の太陽の降り注ぐ午後にサイダを離れたあと、私はまずアブデルカーデル(5)のかつての町へ向かった。険しい岩山の上に城壁がぼんやりと見分けられる。それが、有名な太守が愛した住居の名残である。
 だがその頂に着いた時、私は彼方に素晴らしいものを見た。深い峡谷が古い城塞と山とを隔てている。山はすっかり赤く、それは黄金に染まった赤色、火のような赤色だ。山はぎざぎざに切り立ち、細い切込みが入っていて、冬にはそこを急流が流れる。
 峡谷の底は一面の夾竹桃の森で、葉と花の大きな絨毯となっている。
 私は苦労してそこへ降りていった。見事な灌木の下を細い川が流れている。流れは岩を飛び越え、泡を立て、曲がりくねっている。私はそこに手を浸した。水は熱く、ほとんど燃えるようだった。
 川岸には大きなカニがいて、何百ものカニが目の前を逃げていった。時折、長い蛇が水に滑り込み、巨大なトカゲが雑木林へ入ってゆく。
 突然、大きな音がして、驚きで体が震えた。数歩離れたところで一羽のワシが飛び立ったのだ。大きな鳥は驚いた様子で、急いで青い空へ飛んでいった。広げた翼があまりに幅広いので、峡谷の両側の焼けた石の壁に翼が触れるかのようだった。
 一時間歩いた後、私はアイン=エル=ハジャール(6)へのぼってゆく道に戻った。
 目の前を一人の女性が歩いていた。背の曲がった老婆が古い傘で日差しを防いでいるのだった。
 黄色や青色の布地で飾り、肌を輝かせた大柄な黒人女性を除けば、この地で女性を見かけるのはごく稀なことだ。彼女の顔には皺がより、息遣いが荒く、疲れ果てて絶望しているように見え、顔つきは厳しく悲し気だった。耐え難い暑さのなか、彼女はちょこちょこと歩いていた。私が彼女に話しかけると、突然、憤慨に駆られて怒りが爆発した。彼女はアルザス出身で、戦後、四人の息子と一緒にこの荒涼とした土地へ送られたのだった(7)。子どものうち三人はこの殺人的な気候のなかで死んだ。残った一人も今では病気である。そして彼らの土地は広いが、何ももたらしてくれない。それというのも一滴も水がないからだ。老女は繰り返した。「キャベツ一個もできないんですよ、あなた、キャベツ一個さえ!」彼女はこのキャベツという観念に固執していた。明らかに、この野菜は彼女にとって地上の幸福を表しているのだ。私に苦労をぜんぶ打ち明けると、彼女は石の上に座り込んで泣き出した。
 キャベツ一個育たない、この燃えるような土の上で途方に暮れる善良なアルザス女以上に痛ましいものを、私は見たことがない。
 別れる時、彼女は言葉を継いだ。「チュニジアでは土地が貰えるかどうかご存じですか? 向こうはいいところだといいますね。とにかくここよりはいいでしょうねえ。」
 代議士諸君、賠償金を支払うべきなのはこのような人たちではないだろうか?


***

 あのル・ペック(8)のドラマは小説家にとってなんと教育的だろうか?
 鉛管に巻かれ、唇は女性用のピンで閉じられ、四肢が縛られており、まるで異端審問官の手によるかのように拷問された死体が発見された時、誰もが驚きと恐怖に震えた。そして想像力が掻き立てられた。侮辱された夫による復讐だと言われ、恐ろしい情景が思い描かれた。呪詛の言葉に始まり、処刑に終わるその情景は十分に論理的に見えたので、誰もがそれを物語ることができただろう。
 グザヴィエ・ド・モンテパン(9)、デュ・ボワゴベー(10)会社は喜びで震えたに違いない。
 罠に引っかかった哀れな男が部屋に入ると、夫が復讐のために待ち構えている。
 劇場で耳にするような、夫の側の皮肉な台詞が始まる。客席を夢中にさせる台詞だ。それから非難があり、脅迫があり、怒りがあり、争いが起こる。打ち倒された愛人が喘ぐ一方、男は馬乗りになり、激しい怒りに身を震わせながら、敵の体を傷つけて叫ぶ。「ああ! お前の口が俺を騙したのだ、化け物め! その口が俺の愛する女、法と教会が伴侶として俺に与えた女の耳に愛の言葉をささやいたのだ。燃えるような口づけを、俺のものである唇に押しつけたのだ。結構、俺がその口を閉じてやろう。彼女のブラウスを留めるピン、お前が大喜びで外したピンでな。そして彼女を崇めたその目にも、二本のピンを刺してやろう。彼女を愛撫したその卑しい手は鉛管で縛ってやる!……」
 そして人は、細く長い鉄の針で釘づけにされた血まみれの口が、それでも開こうとする様を思い描いたのである。
 舞台にかけたらどれほど効果があることだろう!


***

 現実はもっと単純である。
 怒りは存在しない。何年も前から騙されていた夫は、そのことを知っていた。小事件はごく平穏に家庭内で準備され、家庭内で実行されたのである。まるで日曜日にポトフを作るかのように。
 大げさな言葉は存在せず、熱狂的な感情も存在しない。ぞっとするような損傷は、実際的な些細な用心、主婦の用心の結果でしかなかったのである。
 弟が言う。「でも口から水が入ったら、体が浮くんじゃないかな。」その考えは奇妙だが、夫はその通りだと思った。この口をどうやって塞げばいいだろう? 突然、彼はひらめく。ピンで留めてやろう。そこで「ピンをくれ!」と、夫が妻に言う。まるでネクタイを留めようとするかのように。彼女は自分の胸元から一本引き抜き、それをおとなしく夫に差し出すのだ。
 鉛管は実際的な発想によるものでしかない。それは遺体を川底に留める石であると同時に、遺体を縛っておく紐の役割をも果たした。模倣者に助言しておこう。劇的なものも気高いものも何もなく、すべては単純で平凡なのである。
 道の途中で激しく揺れたために、肉屋の店先で車から遺体が転がり落ちる。すぐに殺人者のうちの一人が、落ち着いたまま地面についた血の跡を足で消す。唾を吐いた後に男たちがよくするように。
 そして三人の犯人たちは寝に帰る。
 まったくもって、この犯罪者たちはあまりにも自然である。
 教訓。夫が商売でうまくいっていない妻に言い寄るべからず。


『ゴーロワ』紙、1882年6月14日付
Le Gaulois, 14 juin 1882.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 525-528.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) エスパルト(アフリカハネガヤ)は、地中海地方原産のイネ科の多年草。繊維を製紙原料などに用いる。フランス語では alfa「アルファ」。
(2) 「捕虜」(『ゴーロワ』、1881年7月28日)によれば、虐殺が起こったのは1881年6月11日。同年6月25日付の『フィガロ』は、「アルジェリアの虐殺」という無署名記事でこの事件を伝えている。
(3) Saïda:アルジェリアの町。オランの南東、約170キロに位置する。
(4) Cheikh Bouamama (1833-1908):1881年よりアルジェリアの植民地化に抵抗し、反乱を指揮した。モーパッサンはBou-Amamaと綴っている。
(5) Abdelkader (1808-1883):アルジェリアの反植民地抵抗運動の指導者。1830年のフランスによるアルジェリア占領以降、ジハードを唱えて抵抗を続けた。1847年に降伏し、フランス本国で幽閉された。1852年にナポレオン三世によって釈放され、後にシリアのダマスクスに移った。モーパッサンはAbd-el-Kaderと綴っている。
(6) Aïn-El-Hadjar:サイダの南に位置する町。
(7) 普仏戦争に敗北したフランスはアルザスとロレーヌの一部をドイツに割譲する。この地に住んでいて、フランス国籍のままでいたいと望む者を対象に、政府はアルジェリアへの植民を奨励した。1871年以降、アルザス・ロレーヌ出身者の多くがアルジェリアに渡った。
(8) Le Pecq:イヴリーヌ県の町で、パリの西約20キロに位置する。町の中央をセーヌ川が流れている。
(9) Xavier de Montépin (1823-1902):大衆小説家。1840年代からたくさんの新聞連載小説を執筆した。とくに有名なものに『パン運びの女』(1885)がある。『プチ・ジュルナル』に連載されたこの小説は大成功を収め、1889年には舞台にも乗せられた。なお、モンテパンはゴーストライターの協力を得ていたことが知られており、そのことをモーパッサンは「会社」と呼んでからかっていると思われる。
(10) Fortuné du Boisgobey (1821-1891):大衆小説家。『徒刑囚大佐』(1871)、『謎の事件』(1878)などの作品により、エミール・ガボリオーと並んで推理小説の元祖に位置づけられる。日本では明治期に黒岩涙香による翻案(『片手美人』、『美少年』、『鉄仮面』など)で知られた。




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