コントとヌーヴェル
「短編」か「中編」か、それが問題だ
Sur le « conte » et la « nouvelle » de Maupassant
Aujourd'hui, Maupassant est célèbre par ses « contes et nouvelles ».
そんな文章を目にしたとしよう。「モーパッサンは今日『中短編小説』で名高い」とでも訳そうか。
だが果たしてこの訳は「正しい」訳といえるだろうか。
日本語では(いつからか)「短編小説」「長編小説」そして「中編小説」と、もっぱら作品の「長さ」による分類がなされる。だがフランス語の conte, nouvelle, roman は必ずしも「長さ」による分類ではない。
「ロマン」は普通に言う「小説」全般を指すといっていいだろう。『マノン・レスコー』も『戦争と平和』も、同じ「ロマン」と呼ぶ限りにおいて「長さ」は問題にはならない。「ロマン」の話はここでは措いておくとして、問題は「コント」と「ヌーヴェル」の違いである。
「ロマン」に対し「コント」「ヌーヴェル」は比較的「短い」作品に当てられる呼称なのは確かだ。だがコントとヌーヴェルの間の違いは「長さ」にはないし、厳密にこの両者を区別することは出来ない。
もちろん全く差がないわけはなく、相違は語源に由来する。
コントはそもそも、いわゆる「お話」であって、「むかしむかしあるところで」の御伽噺以来の口承文学の伝統を持つもの。笑い話や好色めいた話が多いのはもちろん、妖精譚や怪談という、ありそうもない話も含んでいる。コント・ファンタスティックというけれど、この場合ヌーヴェルは用いない。
一方、ヌーヴェルは、この語が今日も「ニュース」を意味するように、伝聞による、ごく最近の「本当にあった話」が始まりにある。いわゆる「三面記事」もその系譜にあるといっていい。もっとも人は「本当らしい嘘」を語り、聞くのが好きなものだから、なんとなく「本当らしい」話はみんなヌーヴェルということにもなってゆく。
フランスにおいて、文学ジャンルとしてのコント・ヌーヴェルの歴史は古く、中世の韻文「ファブリオー」の後、ボッカッチョ等のイタリアの影響を受けて16世紀にはとりわけ盛んだった。ラ・フォンテーヌは韻文によってそれを洗練させ、ヴォルテールはじめ18世紀にも「コント」は盛んに書かれた。そして19世紀には新聞・雑誌を媒体に、コント・ヌーヴェルは新たな最盛期を迎えることになり、そこにモーパッサンも位置づけられる。
語源によるニュアンスの違いは、今日も両者の使い分けに多かれ少なかれ影響を残しているにせよ、元々似通った面のあるものだから、厳密に区別する人はあんまりいない。なんとなく「コント」と呼んだり「ヌーヴェル」と呼んだりしている。それが(多分)実情であるだろう。
付け加えなければいけないのは英語の影響だ。nouvelle と同語源の novel は、conte と「長さ」において対になる。その影響があって、今日 nouvelle と conte は、日本語の「中編」「短編」の意味でも使われるようになっている。言葉の意味など変わるものだが、ここに躓きの石があるといっていい。
さて、短かめの小説を「なんとなくコントと呼んだりヌーヴェルと呼んだり」したのは、まさしく今日その大家と目されるモーパッサン自身でもあった。言葉使いが適当なのは彼に限ったことではないのだけれど、この作者の「いい加減さ」に、研究者はしばしば頭を悩ましたものなのである。
モーパッサン研究の先駆者アンドレ・ヴィアルはロマン(長編)とコント(短編)とを大別した上で、ヌーヴェル(中編)はその両者の中間、両方の特徴を備えていると論じた。この区別は一見すこぶる明快だけれど、ちょっと待てよと、後の研究者は疑問を呈した。作者自身が区別してないものを、そう明快に分けて考えることが出来るのだろうか?
一方、構造主義ばやりの70年代にはジャンル論というのが盛んで、昔話の構造が語れるなら「短編小説」の構造だってある筈だと、色んな人が議論した。この時に「コント」と「ヌーヴェル」は構造的に一緒なのか違うのか、というような議論もあったようだけれど、あんまり明快な答は出なかったように思う。そもそも昔の人が区別してなかったのだから、仕方ないんだろうけれど。
モーパッサンは conteur (コントを書く人)だったか nouvelliste (ヌーヴェルを書く人)だったか。従ってこういう問いにも答は出ない。プレイヤッド版の出した意見はその点で極めて分かりやすく "Contes et nouvelles" として作品集を編んだのであった。巷の作品集はいまだに autres contes, autres nouvelles と編者の気持ち次第で色々だが、そういうのは纏めて récits (物語)でいいじゃないか、という研究者も中はいるのである。
(ただしプレイヤッド編者は「語り手」のあるものをコント、三人称記述をヌーヴェルと一応区別している。)
区別はないと言うけれど『脂肪の塊』と『首飾り』、『メゾン・テリエ』と『ジュールおじ』はやっぱり色々違うんじゃないの、という意見もあるだろう。実際、モーパッサンは新聞掲載1回分の小品を、質量ともに充実した作品に書き直す、ということをよくやっている。『百万フラン』が『遺産』になり『子ども』が『パラン氏』になり、『イヴリーヌ・サモリス』が『イヴェット』になり、『オルラ』も二つのヴァージョンがある。こうなると「短編」「中編」の区別をいやでもしたくなる(しかしこれはコントかヌーヴェルか、とは全く別の日本語的問題)。
だが区別というのはいつでも曖昧さが付きまとうものなので、じゃあこれは短編、これは中編と何によって区別するのですか、と言われると困ってしまう。『マドモワゼル・フィフィ』など長さの点でも内容の点でも、はたして短編だか中編だか分かったものではない。
そういう訳で当面、コント・ヌーヴェル問題に関してはこれ以上議論のしようもないのだが、では何故モーパッサンは区別しなかったか。その点について触れておくのは悪いことではない。
ごく簡単に言って、モーパッサンにとって重要だったのは、それが「ロマン」であるか無いかであった。そしてロマンこそが文学として格が高く、コントにせよヌーヴェルにせよ、ロマンに比せば「劣る」ものであった。名前などどっちでも良かった、らしいのである。
このジャンル間の貴賎に関する意識はモーパッサン個人のものではなく、当時の文学者一般のものだったといっていいだろう。そして、何故このような差別があったかというのは、当時の新聞を開いてみれば、実はよく分かるのである。
世紀末の小説家は皆、新聞・雑誌を主要な媒体としているので、19世紀半ばまでのように「新聞に書く」こと自体を「売文」として卑しむ風潮は薄い。もっとも詩人は常にジャーナリズムを馬鹿にするが、そこには「売れる」ものに対する嫉妬がないわけではないようだ。
バルザックの『老嬢』以来、新聞連載小説(フォユトン)は人気を博し、新聞の売り上げを左右するほどであった、とは文学史の本でお目にかかる記述。当時の新聞は紙1枚二つに折った4ページが普通だが、大体2-3ページの下段をどどーんと占めるのがフォユトンである。要するに新聞を開くとばばーんと目に飛び込んでくるように出来ている。
ところが中短編小説には決まった欄は存在しなかった。1ページ目、ないし2ページ目の1柱か2柱が割り当てられるわけだが、基本的にその他の「記事」と見た目の区別は存在しない。これは要するにコント・ヌーヴェルは「雑文」の内と考えられていたのである。
従ってモーパッサンにとって、ロマン(フォユトン)こそが小説家としての本領を示す場であった。モーパッサンはしばしば「ロマン」について語ったが、決して「コント」「ヌーヴェル」について語ることはなかった。80年代半ばから、作者が次第に長編に比重を移してゆくのには、その他の理由も多々あるけれども、一つにこの「ロマンが上」という意識があったのは確かだろう。短編、中編はいわばその「小手調べ」のようなものだったのである。
そうすると「今日中短編で名高い」というのは作者にとっては皮肉な運命ということになるのだろうか。だがそう一概にも言えない辺りに、モーパッサンという作家の複雑さがある。
彼自身、自分が優れたコントないしヌーヴェルをたくさん書いたという意識、自負を持っていたことは後年の書簡に窺われる。フランスにコントを流行らせたのは自分だとさえ言い切っているほどである(ただし後年のモーパッサンの言葉には注意する必要があるが)。大体82-84年頃の中短編の執筆速度には目を見張るものがあり、彼がこの種の作品に「向いて」いたのは事実であろう。金のために書き飛ばしたのが事実であるにせよ何にせよ、そこに傑作が幾つも含まれていることは疑いがない。
少し話を戻し、当時の新聞紙上ではコントとその他の記事に区別がなかった、ということを考えたい。というのも、ここから面白い事態が展開するのである。
モーパッサンはそれぞれの新聞に「コントかクロニック」を週一回提供するという契約を結ぶわけだが、つまるところコント(小説すなわちフィクション)とクロニック(時評文すなわちノン・フィクション)は同等のもの、更に言えばほとんど交換可能なものであった。実際の紙面ではどちらも同じ欄に、同じような扱いで掲載される以上、これは当然のことであったかもしれない。
ここには19世紀末の新聞の特殊性というものがある。今の新聞とは大きく違い、情報伝達手段に限界のある以上、当時の紙面を埋めるのはほとんどが「伝聞」の情報である。「エコー・ド・パリ」(とそれに類する)題の記事が必ず一面に掲載されるが、「昨日パリの街であったこと」を伝えるこの欄の存在は、この種の新聞の性質をよく語っている。そして他には社交界の出来事が語られ、芝居初日の劇評が載り、いわゆる「三面記事」が紙面を埋める。もちろん政治色の強い新聞も存在するが、とりわけモーパッサンが寄稿した「ゴーロワ」「ジル・ブラース」等の新聞は、社交界に出入りするような上流の貴族・ブルジョアを読者対象としており、mondain (社交的)であるとともに littéraire (文学的)であることを売り文句にするような性質のものである。上流ブルジョアが社交界で話すネタの提供、それがこの種の新聞の存在意義であった。
もちろん新聞は原則的に「本当にあったこと」を語るものである。しかし噂話の延長に発達したような当時の新聞という媒体において、虚実の境界は、実のところそれほど明快であるとは言えない。
政治・風俗・文学をはじめ芸術について「語る」クロニックと、パリあるいは地方のちょっとした事件を「さも本当にあっかのように語る」コントとが同じ状況に掲載されたのは、当時の新聞が以上ようなものであったことに由縁する。
ところで、モーパッサンの短編には文字通り「三面記事」に想を得たと見なされているものが幾つかある。そのこと自体、虚実の境界を曖昧にするものであるが、そうして書かれた「フィクション」の作品が、上に述べたように一見してクロニックともコントとも判別のつかない形で掲載される。そのような特殊な状況が、モーパッサンの中短編に影響を与えずにあったはずがない。
上記のような作品の掲載状況は、モーパッサンの作品に「本当らしさ」を嫌が上にも要求する。ここではレアリスムの要請は純粋に美学的なものではない。新聞媒体、それを受容する読者の要求する、いわば社会的要請である。モーパッサンの数々の短編がいかにも「本当にあったこと」を語っているかの印象を与えるのは、もちろん第一に作者の芸術的手腕の成せる業である。だが何故にそのような純度の高いレアリスムを作者が心がけたかの理由に留意するのは悪いことではない。一度「短編集」という形で作品が編み直され、書店に並べられた際には、読者ははじめから「フィクション」であるという了解の上で読む。それは今日の我々も変わらない。だがその最初の時点で、モーパッサンの短編はどのように読まれたか、また作者がどのように読まれることを想定していたかを考え直してみるのは、大変に興味深いことである。
モーパッサンの巧みさはそこに留まらない。今日、コントであるかクロニックであるか判定が曖昧な作品が幾つか存在しているが、そうした作品が生まれたのは、まさしく「本当であること」「嘘であること」が曖昧なままに混在する当時の新聞媒体の在り様を、モーパッサンが正確に認識し、その上で、その境界線上に戯れてみせたが故であろう。その極限において虚と実が混じりあい、もはや判別不可能となること。ここにおいてモーパッサンは、文学におけるレアリスム表現の、その極点に到達していると言えるのではないだろうか。
「売文」として単に書きなぐるのではなく、ジャーナリズムという媒体の存在様態、その曖昧さを十分に知悉し、その効果を最大限にまで押し進め、そこに独自の作品を生み出すこと。コント・ヌーヴェルという「劣った」ジャンルにおいてこそ、モーパッサンのレアリスム文学がその最大の成果を見たのは、決して「皮肉な運命」とばかりは言えないのである。
付け加えておきたいのは、新聞紙上(実)へのフィクション(虚)の「侵入」を認識・理解していたのがマラルメであったという点(『追悼』を参照)。「文学的ジャーナリスト」という彼の評語は、その点で確かに正鵠を得ていると言えようか。
さてさて「モーパッサンは今日『中短編小説』で名高い」とは正しい訳かどうか、が最初の問題だった。結局のところ、conte, nouvelle が roman と大別して用いられている以上、両者合わせて「中短編」としておくのは、悪いことではないようだ。ただconte を「短編」、nouvelle を「中編」と考えるのは、先に述べたように元来のフランス語の意味とはズレるので、その点だけは留意しておきたい。
日本語で、例えば『脂肪の塊』が「短編」なのか「中編」なのか、という問いに対しては明確な答は出せない。モーパッサンの作品全体の中で相対的に言うならば、「中編」と呼んでさしつかえないとは思う(し、このサイトはその原則を採用している)。しかし「短編」と読んで悪いこともないだろう、とも思うのである。
もちろん、こんな問題は些細で、おまけにあまり意味がないのは承知している。
しかしまあ、どうでもいいけど気になること、というのは世の中には往々にしてあるものではないだろうか。
(04/08/2006)