『バラの葉陰、トルコ館』について
Sur À la feuille de rose, maison turque

売春宿「バラの葉陰、トルコ館」を舞台に、騙されてやって来た地方のブルジョア、ボーフランケ夫妻の浮気の物語を骨格に、次々に訪れる滑稽な客と娼婦とのやり取りを織り交ぜた、一種のスラップスティック・コメディーである。
1875年3月8日付母親宛書簡に、「何人かの友人たちと僕で、ルロワールのアトリエで絶対的に猥褻な作品を上演します。フロベールとトゥルゲーネフが来てくれるでしょう。この作品が僕たちのものだとは言う必要もないでしょう」と記されている。また、フロベールの友人エドモン・ラポルトには、「二十歳以上の男性と、事前に処女を喪失済みの女性しか入場を認められないでしょう。王家のボックス席は偉大な侯爵の影で占められるでしょう……」と書き送っている(4月13日付書簡)。そして、1875年4月19日、ヴォルテール河岸4番地の画家モーリス・ルロワールのアトリエで、初めて私的な上演が行われた。主な配役は以下のとおりで、女役も男性が演じた。
ミシェ:アルベール・ド・ジョワンヴィル
クレット・ド・コック:モーリス・ルロワール
ラファエル:ギ・ド・モーパッサン
ボーフランケ氏:オクターヴ・ミルボー
ボーフランケ夫人:レオン・フォンテーヌ
端役(汲み取り人、せむし、退役大尉、青年、工兵、マルセイユ男、イギリス人):ロベール・パンション
ジョワンヴィル、フォンテーヌ、パンションはモーパッサンのボート仲間だった(上の画像は45年版『バラの葉陰』に載せられた、ルロワールの手になる「トック帽」こと、ロベール・パンションの姿)。彼らは週末にセーヌ川でボートを漕ぐのを楽しみとしていたが(その光景は晩年の短編「蠅」などに描かれている)、そうした乱痴気騒ぎの中から、この陽気かつ猥褻な笑劇の計画が持ち上がった。レオン・フォンテーヌは以下のように証言している。
当時、僕たちは憂さ晴らしをしようと決意を固めたグループだった。僕たちの「パトロン」はジョゼフ・プリュニエ(ギ・ド・モーパッサンの仮名)だった。冬の長い時間をつぶすために、僕たちのグループは自然主義的即興作品を書こうというアイデアを思いついた。最初にアイデアを思いついたのは誰だったか? 確かにジョゼフ・プリュニエだ。青年作家がペンを手に取ったが、各人がアイデア、才気あふれる言葉を出し、一場面一場面と、笑いながら、冗談を言いながら、作品が作られていった。だから喜びの中でそれは懐胎され、集まった仲間の数だけ父親がいたというわけだ。とはいえ、ジョゼフ・プリュニエは中心人物、皆のアイデアをまとめる役だった。もっとも彼は「トック帽」(ロベール・パンション)に大いに助けてもらったということは言っておく必要がある。彼はすでにいくつかの戯曲を作っていたのだった。(1945年版『バラの葉陰』序文より。)
当日、モーパッサンが招いた先輩作家ギュスターヴ・フロベール(稽古には立ち会う)、イヴァン・トゥルゲーネフは見物しなかった。それもあって、モーパッサンは再演を企画することになる。1877年3月2日付書簡で、彼はパンションに告げている。
[バラの]葉の知的な観客は、この傑作再演のために、九名の署名(その内の三名はこの見事な作品を知らない)を持つ嘆願書を作成した。僕はアトリエ、俳優を見つけ、あと残っているのは一つだけ、それはたいへん注目すべき君の演技に夢中の公衆の熱狂的な喝采を掻き立てるために、君がパリに戻って来る時期を決めることだけだ。だから急いでくれ、大衆は待ちきれずに噂をしている。この重要な問題についての早急の回答を待っている。
2度目の上演は、1877年5月17日、フルール通り26番地、画家ベッケールのアトリエで行われた。再演の配役ではミシェをジョルジュ・メルルが、ファトマをアルベール・ド・ジョワンヴィルが演じた。観客にはモーパッサンの父ギュスターヴ、敬愛する先輩作家のエミール・ゾラ、トゥルゲーネフ、フロベール、エドモン・ド・ゴンクール、台本作家のアンリ・メイヤックや、若い自然主義作家たち、さらに仮面をつけた8名の女性がおり、その中には女優のシュザンヌ・ラジエ、高級娼婦ヴァルテス・ド・ラ・ビーニュがいた。セアールは証言している。
シュザンヌ・ラジエは繊細な感情を害されて退出し、トゥルゲーネフは賞讃し、ゾラは厳格さとピューリタンぶって見えないかという懸念との間に引き裂かれて重々しい態度を崩さず、フロベールはこの荒々しい恋愛物語がもたらす若さの再来に夢中になっているのが見られた。(「トック帽とプリュニエ」、『エヴェヌマン』紙、1896年8月22日。)
エドモン・ド・ゴンクールもまた気分を悪くし、日記に以下のように記した。
その晩、フルール通りのアトリエで、若いモーパッサンが『バラの葉』と題する、自身の手になる猥褻な芝居を上演し、彼と友人たちによって演じられた。
それは嘆かわしい。この青年たちは女性に扮し、レオタードには開いた大きな性器の絵を付けている。互いを触り合い、愛の体操を模倣するこの俳優たちに対して、無意識のうちに何か分からない嫌悪感が襲ってくる。芝居の開幕では、若い神学生がコンドームを洗っている。真ん中では堂々と勃起する男根の下で、踊り子のダンスがあり、ほとんど自然のままのマスターベーションで終わるのである。
私はどれほど自然な羞恥心が欠如したら、こんなものを公衆の面前で披露できるほどの才能を持てるのだろうかと自問していたが、嫌悪感は表に出さないように努めていた。『娼婦エリザ』の著者にしては奇妙だと思われただろうから。ぞっとするのは、著者の父親、モーパッサンの父親が上演を見物していたことである。
五、六人の女性、中でもブロンドのヴァルテスがそこにいた。照れ隠しに口の端で笑っていたが、物事のあまりの卑猥さに気分を害していた。ラジエ自身も上演の最後まで残っていなかった。
翌日、フロベールは熱狂的に上演について話し、それを特徴づける文を見つけた。「そう! とっても溌剌としているね!」この卑猥さに対して溌剌とは、まったく思いがけない言葉だ。(『日記』、1877年5月31日。)
『バラの葉陰、トルコ館』は、社会道徳を蔑ろにして性的行為を大っぴらに繰り広げてみせる、ラブレー的な奔放さが横溢する(この時期のモーパッサンはラブレーを愛好していた)猥褻な笑劇である。青年たちのごく私的な余興である限りにおいて、この作品に十分な芸術的価値を認めることはできないだろうし、またその必要もないだろう。
しかしながら、作家モーパッサンの成長の軌跡を辿る上では、この作品の存在は必ずしも無視できるものではない。1874年には上品で貴族趣味的な韻文劇『昔がたり』、75年にやはり韻文からなる『稽古』を執筆していた作家志望の青年には、ロマン主義的な感性を引きずる感傷性や、上品なものを尊ぶ姿勢がまだ垣間見られていた。しかし、1876年の詩篇「水辺にて」を境に、彼は虚飾を排して赤裸々な現実を直視し、そこにより荒々しくも力強い詩情を探し求めはじめる。その模索はやがて、上品ぶった社交人士の偽善のヴェールを引き剥がし、そこに現れる生々しい人間の姿を描き出すことで出世作となった短編「脂肪の塊」(1880年)を生み出すことだろう。
だとすれば、1875年に書かれた『バラの葉陰、トルコ館』は、現実主義(レアリスム)を志向する作家モーパッサンの出発点に位置づけられるべきものである。現実を詩的に美化する性向を徹底的に否定する、ポルノグラフィックな作品の内に、イヴァン・ルクレールは「反詩的衛生法」としての意義を認めている。抒情性への回帰を拒絶し、むき出しの言葉によって愛や身体について語る新しい方法の可能性が、この笑劇体験の内に存在していたと言えるだろう。したがって、「脂肪の塊」、「メゾン・テリエ」の作者の内に、『バラの葉陰』の存在があったことの意義は決して小さくないはずである。なお、ここに略述した本作の意義については、拙著『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』(水声社、2017年)中、「『バラの葉陰、トルコ館』、反詩的衛生法」、p. 119-126. で論じている。
本作は、作家の生前中に公にされることはなかった。1945年、ピエール・ボレルの編集によって地下出版されたのが最初であり、次いで1960年に、セルクル・ド・リーヴル・プレシューより豪華版として刊行される。以降、現在までに複数の版で刊行されている。元々、二部の手稿が存在したらしいが、現在その行方は不明である。
本文、および訳注の多くは、Noëlle Benhamou ノエル・ベナムー氏による解題および注釈に基づいている(Guy de Maupassant, Théâtre, Éditions du Sandre, 2011.)。記してここに謝意を述べたい。
本作について日本語で書かれた紹介として、以下の一文がある。
種村季弘、「モーパッサン『薔薇の葉館、トルコの家』について」、『種村季弘のネオ・ラビリンス4 幻想のエロス』、河出書房新社、1998年、p. 58-66.(初出は『えろちか』、1974年2月号。)
なお、本作品は、社会的弱者(労働者、障害者、地方人、外国人)を笑いの対象としている点で、差別的な思想・表現を含んでいることは否定できない。本作品は19世紀フランスの社会状況に基づくものであるという点に鑑み、また、上記のように、モーパッサンの作品を全体としてより深く理解するためには無視することができないという文学的価値を考慮して、なるべく原文に忠実に翻訳し、ここに公開することとした。翻訳者には差別を助長する意図はないことをご理解いただきたい。