「不名誉という先入見」
« Le Préjugé du déshonneur », le 26 mai 1881
(*翻訳者 足立 和彦)

人間は、生涯一人の相手に忠実であることはありえず、結婚制度は「反自然的」なものである、とモーパッサンは説く。そこには「本能」を重視する自然主義者の面がよく出ている。一方で、「名誉を汚された」と考えるのは、配偶者を自分の所有物とみなす「エゴイズム」ゆえのことであるとして、復讐する夫を批判する姿勢の内に、「人間的」であることを尊ぶユマニスト(人文主義者)の姿が認められる。
「殺す夫に対して、身を誤る妻の側に立つ」という宣言は、もちろん諧謔を込めた表現であるが、青年時代に戯曲『リュヌ伯爵夫人の裏切り』を執筆した作家らしい言葉であろう。
81年春、モーパッサンは中断していた長編小説『女の一生』の執筆を再開するが、「不貞」が重要なテーマの一つであるこの小説を考える上でも、本記事は示唆的であるように思われる。
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不名誉という先入見
不名誉という先入見
毎日、新聞は「不倫のドラマ」という欄で、騙された夫が妻やその愛人を、あるいはその両方を惨殺したと我々に告げている。
この虐殺に対して、我々は冷静である。陪審員は、そろって夫であるが、この侮辱された夫の激高に対してたいへんに寛大である。彼らは殺人者を無罪放免する。そして重罪院のたいへん特別な聴衆たちは、連載小説の読者でありアンビギュ座の観客であり、感動を求めてやって来ているので、涙もろい感傷癖ゆえにこの評決を称え、騙された夫は血で「名誉を清めた」と、殺人によって汚名をそそいだと判断するのだ!
この大仰な語とともに我々は育てられ、この先入見とともに教育を受け、こうした考えとともに、我々は結婚の心構えをする。
私は、殺す夫に対して、身を誤る妻の側に立つ。
ごく最近の事例を取り上げよう。一人の男が自分の伴侶を殺した後、無罪放免されたばかりだ。騙され、さらに騙され、その上に騙されて我慢の限界に達し、彼は最後に怒りに身を任せ、罪ある女の脳を打ち抜いたのだった。
私は特別に、夫が完全に許されるように見える事例を選んだ。陪審員の寛大さは熱狂的な称賛を呼び起こしたし、あらゆる状況が、絶望に駆られて撃った男を許すかに思われる事例である。
彼は熱狂的に妻を愛している。結構。彼はすでに十度も許した。それは本当である。彼は貞淑で忠実な彼女を夢見ていた。彼にとってはお気の毒だ。彼はどこで彼女を得たのか? それは通りで出会った売春婦で、人が〈愛〉と呼ぶ特別な狂気の発作に駆られて結婚したのだった。彼にとってはお気の毒だ! 彼は、習慣とは第二の自然であり、鴨は常に川に帰るものであり、売春婦はどぶ川に帰るものだということを、忘れるべきではなかったのだ。痛んだ美徳が、市長や司祭によって修復されるというのは、政府が誠実であり、かつ知的であるというのと同じくらいに夢物語である。
年老いた密猟者に、真昼間に猟をしてもよいと許可してみたまえ。彼は、非合法行為に対する郷愁から、夜中に略奪行為を続けることを納得されるだろう。反抗したり、熟慮したり、憤慨したり、原則を主張したり、道徳を引き合いに出したりしても仕方がない。なぜなら、それこそが人間の本性だからである。自然は絶対的な権力を有しており、論理的思考や、憤慨、原則と対立する。それは自然である。服して従おう。事実を認めよう。殺した男、「愛ゆえに」、すなわち「エゴイズムゆえに」、法を修正し、自分のために例外を設け、売春婦となり、悪徳に慣れ一妻多夫制になじんでいた女性を、貞淑で自分だけのものにしようとした男に、刑を宣告しようではないか。そのような状況で結婚した者は、あらゆる事を覚悟しなければならない。そして、次の選挙への気がかりゆえに、我々の尊敬すべき議員たちは離婚に同意しないだろうから(1)、騙された男は伴侶と別居すべきであり、それぞれが好きなように生きるべきだろう。
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だが、この例は特別なものである。一般的事柄に戻ろう。
以下に私が述べることは、恐らく、残念なことにも主観的だと思われるだろう。仕方ない。私は真実しか求めないし、人から教わる正統な公式の道徳のことは気にしない。道徳とは、無限に変化する任意の法則であり、国ごとに異なった風に配合され、専門家ごとに新たに判断され、たえず修正される代物である。私にとって重要な唯一の法則は、人類の永遠の法則、人間の接吻を支配し、道化芝居の作者に主題をもたらす、あの偉大な法則である。
我々は恐ろしいほどにブルジョア的で、小心で道徳家ぶった(道徳的と混同してはいけない)社会に生きている。私が思うに、かつてこれほどに精神が狭小で非人間的だったためしはないだろう。
結婚し、誘惑者によって「悪に引きずり込まれた」女性の弱さ(お望みなら「過ち」と言おう)は、あまりにもメロドラマ的なので、一般的に、彼女は死に価するように思われている。
デュマ・フィス氏(2)のような者たちは、何冊もの書物の中で、抵抗できない哀れな存在の抱える衝動と、その失墜について議論している。彼らのペンにかかると、非合法の接吻は犯罪の深刻さを帯びる。そして女性たちは、すべてのために報いを受ける。破棄できない結婚のために。恐ろしいことだ。法律のために。それは彼女たちに対して不当である。彼女たちを罰する残忍な先入見のために。夫たちにすべてを許し、彼らのすべてを擁護するぞっとするような世論のために。
私が不倫を許そうとしているとは信じないでいただきたい。私が望むのは、結婚が作り出すあまりに困難な状況の中で、寛大を説き勧めることだけである。
結婚は、法律によって現にあるように制定されている。したがって、我々はそれに同意しなければならない。しかしながら、それを議論することは許されている。まず、最も優れた哲学者の多くが、我々は一夫一婦制ではなく、一夫多妻制だと断言していることを確認しよう。あらゆる場合においてそのことは疑わしく、私としてはむしろ、我々は、草食でも肉食でもなく、雑食性の動物に似ていると思いたい。東洋では、一夫多妻制で満足している。西洋では一夫一婦制だが、さらに言えば妥協込みの一夫一婦制である。たった一人の男性でいいから、――よろしいだろうか、たった一人である――、生涯を通して完全に一夫一婦制に留まりつづけた例を挙げてほしいものである。
したがって、恐らく結婚制度なるものは、異常で、反自然的な状況を作り出すのであり、それを人は、無限の自己犠牲、高尚な美徳、完全に宗教的な美質を頼りにしてしか、甘受することはできないのだ。つまり、夫たる者が決して甘受することのできない状況、良心が永遠に、本能や愛情と対立するような状況である。
その場合、人間的かつ自然な観点からして、怪物的なのはどちらであろうか? 身を誤る女性だろうか、殺す男性だろうか?
こちらに一人の男がいて、エゴイズムにおいて騙され、虚栄心において傷つけられ、完全な所有という(恐らくは法外な)要求において裏切られたがゆえに、一人の人間を破壊し、その生命を奪う。何物も取り戻すことのできない生命である。そして、人が犯すことのできる唯一真に怪物的で、最も恐ろしい、最も不道徳な行為をなす。殺すのだ!
あちらに一人の女がいて、他人の気に入るように育てられ、愛こそが彼女の領分、彼女の能力、この世で唯一の喜びだ(実際、それが社会の教えることである)という考えを教わった。自然そのものによって、弱く、移り気で、気まぐれで、影響を受けやすいものとして作られた。自然と社会が一緒になって、彼女を、異性の気を引く存在に仕立て上げた。夫が(それは認められている)自由に情熱に身を任せている間、彼女はほとんどいつも一人で暮らしている。そこでこの女性は、一人の男に連れて行かれるままになるが、彼はあらゆる心配り、情熱のすべて、あらゆる技量、一切の力を込めて彼女を誘惑するのである。自然かつ普遍的な偉大なる法則にしたがって、彼女は彼の腕の中に落ちる。彼女の犯す行為は、法律の観点からは咎められるべき、罪に価するものだが、しかし人間的であり、宿命的である。あまりにも宿命的なので、世俗的および宗教的道徳の諸規則がその行為と敵対して以来、何物も決してそれを妨げることはできなかったのだ。そして、人はこの女性がろくでなし、卑劣な者、汚れた女であると宣告する一方、彼女を殺した夫に対してはひれ伏して敬意を示すが、それは、彼が名誉を回復したとみなされるからなのである。
私は、殺す夫に対して、身を誤る妻の側に立つ!
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どうして彼は殺すのか? なぜなら、彼は自分が不名誉を被ったと思うからだ!
我々はここで、あらゆる我々の信念の一般的な基盤となっている、あの驚くべき先入見の一つに関わっている。
あなたの女中があなたから盗んだからといって、あなたは不名誉を被っただろうか? ――そうではない。――ではあなたの妻があなたを騙したら、あなたは不名誉なのだろうか? ――あなたは、盗まれた男! 騙された男! 被害を受けた男! つまりは巻き上げられた男だ! あなたは、愛人をナイフでめった突きにしないままでは、自分が不名誉を被ったままだと考える。その愛人は、名誉に値し、誘惑者としての役割を合法的に果たしたと誰からも見なされるだろう。またあなたは、誘惑され、引きずり込まれ、身を任せた妻もめった突きにしなければならないと思うだろう。論理とはなんと大したものだろうか! だが、しかしだ! 不名誉とは本質的に個人的な行為によってしかもたらされないし、どんな場合にも他人の行為に由来するものではない。私が何も関わっていない行為によって(まったく反対である)、私の意志がまったく関係なく、私が妨げたいと望んでいる行為によって、自分の身が汚されうるということを、私は認めなどしない!!! いいや、本当に、それは信じがたい愚かさである。だがそういうものなのだ。騙された夫が不名誉と感じるのは、ただ滑稽さに対する恐れのみに由来している。不貞とは、見物客にとってはいつでも愉快なものであったし、ジョルジュ・ダンダン(3)は常にグロテスクである。したがって、なんとしても観客が笑うのをやめさせなければならない。そのために誰かを殺し、そうすると公衆は冷かすのをやめるのである。
自然主義作家J・K・ユイスマンス(4)がそのとても機知に富んだ小説『所帯』の中で示唆している解決法のほうを、どれほど私は好むことだろう。若い夫が家に帰って来ると、自分が「そうである」ことを思いがけず知ってしまう。一瞬の内に、彼は自分の行為のあらゆる結果を計算し、ただちに尊厳というシステムを採用することを決心する。彼は堂々とライヴァルを送って行き、それから、妻に構うことなく立ち去ってしまう。彼女は実家に帰る。彼は独身者の生活を取り戻す。そしてそれぞれの側で、よく考えてみるのである。
彼は退屈する。妻が恋しい。「スカートの危機」に捕われる。彼は何人もの愛人を試し、うんざりし、結局のところ、自分の不実な妻よりも一層劣っていると思う。彼女の側では、不倫は夢見ていたような喜びを与えてくれないものであり、人生は平板で、常に地を這うようなものであると認める。かつて、自分の心を愛の超人間的甘美さに向けて開いてくれないと軽蔑した夫のことを懐かしむ。そしてある日、二人は再び一緒に暮らすようになる。この二重の試練によって成熟し、穏やかに。
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しかしながら、ユイスマンスの描いた状況に対して不満を述べたい。私には、突然に自分の……、不幸を発見した夫が、あまりにおとなしすぎるように見えるのである。少なくとも一言あるべきだろうと思うので、以下に、殺人者のそれとは違う私の解決策をお見せしよう。
殴る男は粗暴である。撲殺は何も証明しない。だが、このような瞬間に、力と冷静さ、そして不可欠な機知を備えて一言を、血を流しながらも滑稽な、翌日には有名となるような一言を見つける男は、それによって同胞に対する議論の余地のない真の優越性を示し、短刀やピストルよりも確かに、またより見事に復讐することになるだろう。
そうした言葉の数はとても少ない。
二三の言葉が私の記憶にあり、それらが本当に発されたと認められるだけに、私はそれらを素晴らしいものだと断言する。
もっとも、誰もがそれらを知っているだろう。ある夫が……、自分の寝室に友人、親友を見つけ、彼に手を差し出す。相手は驚愕し、共犯者の後ろに身を隠し、壁際で丸くなっている。「なんだい!」と、夫は穏やかに、からかう口調でたずねる。「公の場で僕と握手するのを拒むのかい?」
あるいはまた別の言葉。「ああ! 可哀そうな友よ、君は何も……、強制されてないっていうのにねえ!」
せいぜい一ダースばかり、こうした言葉を引用することができるだろう。
そして、なんという機知のコンクールが開催されるだろうか! なんという競争心! なんという勝利! 人はこんな風に人々の集まりに寄っていくだろう。「僕が家で見つけたXに向かって言ってやった言葉を知ってるかい……。」あるいはこんな風に。「あの愚かなCは妻を殺した! 馬鹿だな、言うべき言葉が見つからなかったんだ……。」真に機知に富んだ男は状況を作り出し、事前に効果を準備することだろう! そして我々は新聞に、永遠不滅の「不倫のドラマ」欄の代わりに、それより暗くはなく、よりフランス的な「騙された夫の金言」という変種を目にするようになるだろう。
『ゴーロワ』紙、1881年5月26日
Le Gaulois, 26 mai 1881.
Guy de Maupassant, Chroniques, préface d'Hubert Juin, U. G. E., coll. « 10/18 », 1980, t. I, p. 229-235.
Le Gaulois, 26 mai 1881.
Guy de Maupassant, Chroniques, préface d'Hubert Juin, U. G. E., coll. « 10/18 », 1980, t. I, p. 229-235.
訳注
(1) 離婚に関する法律(通称ナケ法)は1884年7月27日に成立する。
(2) Alexandre Dumas fils (1824-1895) : デュマ・フィス。デュマ・ペールの息子で、小説家・劇作家。小説『椿姫』(1848) など。第二帝政下に風俗劇が大いに持てはやされた。1875年、アカデミー・フランセーズ会員。
(3) George Dandin : モリエールの喜劇『ジョルジュ・ダンダン、あるいはやりこめられた夫』(1668)の主人公。妻アンジェリックの不貞の事実を暴こうとするが、逆にやりこめられてしまう。
(4) J.-K. Huysmans (1848-1907) : 作家。『メダンの夕べ』共作者の一人。『マルト ある娼婦の物語』(1876)、『ヴァタール姉妹』(1879)、『所帯』(1881) などの自然主義的小説を執筆。1884年『さかしま』で人工美の世界に転身、『彼方』(1891) 以降、神秘主義からカトリックへと向かい、『出発』(1895) 等の作品を著した。モーパッサンは評論「読書つれづれ」で『流れのままに』を、「彼方へ」で『さかしま』を書評している。