J・K・ユイスマンス
J.-K. Huysmans
ジョリス=カルル・ユイスマンス
Joris-Karl Huysmans, 1848-1907

1870年3月、セーヌ県の国民遊撃隊に登録。普仏戦争勃発後、8月にシャロンの演習地に赴くが、赤痢にかかって病院に送られる。以後、各地を転々とし、9月上旬にパリへの帰還を許された(その経験は「背嚢を背負って」に語られる)。戦後、内務省に勤めながら作家活動を続ける。
1874年、散文詩集『薬味箱』を自費出版(ダンテュ書店、翌年、リブレリ・ジェネラルより再刊)、オランダ語風に読むジョリス=カルルを筆名とした(後にはもっぱらJ.-K.と署名)。作品にはボードレールの影響が濃い。この年、陸軍省に勤めるアンリ・セアールと出会う。
その後、エミール・ゾラを発見し、みずからも自然主義者として活動する。1876年、『マルト ある娼婦の物語』を検閲を避けるためにブリュッセルで刊行(ジャン・ゲー書店)。ポール・アレクシ、レオン・エニックらとグループを形成する。77年3-4月にはブリュッセルの雑誌『アクチュアリテ』に論文「エミール・ゾラと『居酒屋』」を掲載し、ゾラを擁護した。同年8-10月、「背嚢を背負って」を『アルティスト』に連載(初稿)。1879年には『ヴァタール姉妹』をシャルパンティエ書店より刊行、「エミール・ゾラへ 熱烈な賞賛者にして献身的な友人より」の献辞を掲げる。なお、この頃までにお針子アンナ・ムニエとの関係が始まっており、彼女が1893年に入院し、95年に亡くなるまで続く。
1880年、共作短編集『メダンの夕べ』に「背嚢を背負って」を寄稿(初稿を大きく改稿)。同年秋、週刊誌『人間喜劇』発刊を企て、編集長を務める予定だったが、出版者との交渉が決裂して雑誌は陽の目を見ることがない。その後も『所帯』(1881、シャルパンティエ書店)、『流れのままに』(1882、キストメケール書店)など、庶民の生活に密着した作品を執筆した。

1899年にはパリを離れ、ヴィエンヌ県リギュジェにおいて、サン=マルタン大修道院の近くに居を構える。その地で修練士になることを考えたが、1901年に修道士が追放され、ユイスマンスはパリに戻った。聖人伝『スヒーダムの聖女リドヴィナ』を発表したのち、修道院での生活を『修練士』(1903)に綴る。ルポルタージュ『ルルドの群集』(1906、いずれもストック書店)が最後の著作となった。
ユイスマンスは絵画批評にも秀でた。美術批評に『現代芸術』(1883、シャルパンティエ書店)、『ある人々』(1889、トレス&ストック書店)、『三人のプリミティフ画家』(1904、ヴァニエ書店)がある。1880年代後半にエドモン・ド・ゴンクールとの交流が深まり、1900年よりアカデミー・ゴンクールの初代会長を務めた。
1907年5月12日、ユイスマンスはパリにて死去。モンパルナス墓地に埋葬された。

『メダンの夕べ』刊行後もふたりの関係は良好だった。1880年秋、書簡第194信でモーパッサンは週刊誌『人間喜劇』への協力を伝えている。1881年には「不名誉という先入見」(『ゴーロワ』、5月26日)で『所帯』に触れているほか、1882年に「読書つれづれ」(『ゴーロワ』、3月9日)で『流れのままに』、1884年には「彼方へ」(『ジル・ブラース』、6月10)で『さかしま』の書評を執筆している(第347信)。もっとも、それ以降のユイスマンスの活動は、モーパッサンの関心を惹くものではなかったように見受けられる。
ユイスマンスの側では、1893年3月8日の『エコー・ド・パリ』のモーパッサン特集に回答「ギィ・ド・モーパッサン」を寄せている。青年時代を振り返り、モーパッサンが友人に対して常に情愛をもって接していたことを懐かしんでいる。