「スティリアーナ」
« Styliana », le 29 novembre 1881
(*翻訳者 足立 和彦)

文中で言及される「真に純血の文学者」とは、モーパッサンの師ギュスターヴ・フロベール(1821-1880)に他ならないが、恐らくは個人的な話にならないようという配慮から、匿名の作家として挙げているものと考えられる。「事柄を指し示すための語の絶対的な正確さ、文と概念との律動的な一致」は、弟子が師から学んだ文体の理想を要約する言葉である。同様の理念は、「繊細さ」(1883)、「小説論」(1888)などでも繰り返し語られている。
とくに本論では、「空気の底」や「~の影」といった慣用表現がやり玉に挙げられている。モーパッサンにとって、言葉は正確なイメージを喚起することが重要であり、読者は文字通りに「言われた事柄を〈見る〉」ことが出来なければならない。それゆえに、本来の字義を失った慣用表現は、言葉を惰性的に使用し、自らの目で事物を見ていないものとして批判されている(このような批判は1880年の詩「通りの会話」にも見られる)。
サルセーや、文末でのユベルティーヌ・オークレールなど、新聞上で他の書き手との交流が行われている点も興味深い。この時期、駆け出しのジャーナリスト・小説家は、紙面上で他者との対話を積極的に行うなかで、自らの文学観を確固たるものにしてゆく。ここにモーパッサンの「論争家」としての一面を窺うことが出来るだろう。
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スティリアーナ
スティリアーナ
ジュールダン氏
それでは話している時、一体それは何なんです?哲学教師
散文です。ジュールダン氏
なんと! 私が「ニコル、スリッパを持ってきて、それから夜用の縁なし帽を渡しておくれ」と言う時、それは散文ですか?哲学教師
その通りです(1)。
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実際、それは散文である。もちろん誰もが散文で書き、散文で話している。それというのも、ジュールダン氏の哲学教師によれば、散文と韻文しか存在しないからである。
しかしながら、私はまったく違う風に考え、モリエールよりもはるかに繊細な区分けをしたいと思っている。したがって、私は以下の点で自説を曲げるつもりはない。すなわち、議会で発されるあらゆる政治演説は一様に意味不明な言葉で作成されており、大抵の場合、新聞は、唯一群衆にも理解可能なひどいフランス語で書かれている。それゆえに一般的には、散文でも韻文でもないのである。我々の周囲にあるものはすべて、意味不明な言葉かひどい言葉である。それを証明することが有用だろうか?
そう、確かに。それというのも、安食堂で骨付きロースを頼んだり、友人の「奥方」や「お嬢様」が元気かどうかを尋ねたりするために十分に舌を動かせる者は誰でも、フランス語を話しているという無礼で空想じみたうぬぼれを抱いているからである。
文字を書きなぐることができる者は誰でも、虚栄心を膨らませて自分には文体があると思いあがる。どんなリポーターも自分を文人と思い込み、どんな門番も、ある作家の作品を読むと審判者になった気分で、よく書かれているとか書き方が悪いとか宣告するが、それは自分の精神の凡庸な愚かさに見合っているかどうか次第なのである。
では文体とは何なのか? そう人は問うだろう。結局のところ、私もよく知っている訳ではないし、今一度モリエールに倣って答えたい誘惑に駆られる。「どうして阿片は眠らせるのですか?」「ナゼナラ眠ラセル力ガアルカラデス(2)。」上手な書き方を教え、料理女のように散文をものする文法家や教師のうぬぼれにもかかわらず、文体についても同様なのである。
ところで最近、大手の日刊紙上でこの主題についてなされているちょっとした議論が、私にはたいへん教育的であるように思われた。低ブルターニュ人(バ=ブルトン)と称しているが、私はむしろ青踏派(バ=ブルー)と呼びたい夫婦が、フランシスク・サルセー氏(3)に手紙を書いて、アルフォンス・ドーデ(4)の一文の意味について意見を求めた。新鮮さの疑わしい魚の匂いを嗅ぐように改行を嗅ぎ分け、構文を解体し、文法を手中にし、一語一語を吟味するなどした挙句、上述の夫婦は適任の審判者に委ねたいと思い、サルセー氏を選んだのである(5)。卓越した批評家は答える際、現代的文体の特権を引き合いに出し、それは古典主義の文体とはもはや似ていないのだと論じた。夫婦は反論し、論争はまだ終わっていない。
サルセー氏は最新の記事を概ね以下の言葉で終えていた。「この問題は、空しい政治論争や、我々を駆り立てるあらゆる無駄な議論よりもどれほど興味深いことだろう!」
この問題が興味深いという点を否定するのは差し控えておく。だが私はその問題を、新聞を埋め尽くす耐え難い政治論争と同様に、空しく無駄であると考えるのである。
***
どういう訳でか?
なぜなら、フランス人は自分たちの言語の話し方も書き方も教わっていないからである! なぜなら彼らは新聞に溢れる唖然とするような散文を毎日読んでいながら、それを大喜びで味わっているからである。なぜなら彼らはティエール氏(6)を大作家と見なし、『労働者たち』の著者マニュエル氏(7)を詩人と見なしているからである!
私は最近、真に純血の文学者が、おおよそ以下のような言葉で文体を定義するのを耳にした。「公衆を傷つけ、大抵の場合に批評家を憤慨させ、アカデミーを立腹させるもの。」彼はさらに付け加えた。「文体、それは真実、多様性、そしてイメージの豊かさである。唯一にして特徴的な形容辞を決して間違わずに選ぶこと、事柄を指し示すための語の絶対的な正確さ、文と概念との律動的な一致である」と。
彼はさらに述べた。「文は道化師のようにしなやかでなければならない。前へ後ろへ空中へとあらゆる仕方で跳ね回り、同じようなとんぼ返りを繰り返さず、多様な姿勢や数知れぬ振る舞いによって絶えず驚かさなければならないのだ。」
彼はまた言っていた。「概念は語の魂である。語は概念の身体である。文はこの魂と身体の調和を作り出す。」
まさにその翌日、私は偶然にティエール氏の著作を開き、以下の文章を読んだ。
「大地はあまりに「雪」で覆われているので、どこにも地面が見えなかった……。戦闘は八時間続いた。そして夜には六千の敵兵が「埃を噛んでいた」(8)。」――イメージの正確さ!
それから数日後、私はたまたま民法典における所有権に関するトロロン氏(9)の著作を開いた。目に飛び込んできた最初の文は以下の通りである。
「死んだり老化したりした制度がたくさんあるなかで、所有権は健康なままであり、正義の上に鎮座し、法によって強固である。今日、所有権こそが家族と一致して社会を支えており、社会は民主主義の移りゆく表面において強力に係留されている(10)。」
おお、なんということ! こんなものを読むとは! サルセー氏の低ブルターニュ在住の夫婦の住所を聞いて、意見を聞いてみたいとどれほど思うことだろう!
***
「やあ、こんにちは。お元気ですか?」
「ありがとう。悪くないですよ、あなたは? なんていい天気でしょうね!」
「ええ、でも空気の底は冷たいですよ(11)。」
こんな対話を二万回ほども聞かなかった者がいるだろうか?
それでは、お願いだから、空気の底とは何かを教えていただけないだろうか? 私は皿の底、瓶の底、ズボンの尻、財布の底を知っている。だが想像力をどれほど絶望的に働かせても、空気の底を思い描くことはできない!
それゆえ、この本当らしくもない底について話されるのを聞くたびに、私は夢見心地になり、隠れた顔を探すああした版画をじっと見るように、「風を見る」のである。いわく「空気の底を探せ!」
私は自分がどうしようもなく神経質で感じやすいことを否定しない。だがこうした事柄には、調子外れの音、石に当ったのこぎりの音、やすりのきしむ音のように苛々させられる。だから私は、毎朝、どんな政治的傾向に属するものであれ新聞を開く時には、以下のような大変驚くべき文飾に出会うことを確信している。
「このニュースには根拠の影がないとお伝えすることが許されよう(12)。」
おお、編集者諸君、あなたたちは何を言っているのか?
どんな根拠の影をニュースが持ちうるというのだろうか? 諸君が口にするその影なるものを、あなたたちは見たことがあるのだろうか? 根拠の影! なんという驚き! イギリスのご婦人が我々の言語のあらゆる機微に通じていたら、我々についてどんな意見を持つか想像していただきたい! 諸君はその物の影についてしか話していなくても、彼女たちはこの「根拠」に羞恥心を傷つけられて死んでしまうだろう!(13)
そしてここに有名な大使の言葉である。「こうした噂はすべて根拠を欠いている!」
では、こうした噂はどこから来たのでしょうか、大使殿? 私はここで止めておこう。急がなければいけない。だが、あなたがこうした言葉をよく考えもせずに書き、あなたの大臣がそれを読んで笑いもしなかったということを思うと、あなたがたはどちらも内閣専用のフランス語を用いているのだと言うことが許されるだろう。
***
一つの比喩が精神に明確な痕跡を残さないとは、なんと奇妙なことだろうか! つまり大抵の人にとって、言葉には相対的な価値しかないのである。言葉は確かに何かを表現しようとするが、明確で絶対的に正確なイメージをただちに目覚めさせることはない。人は示された意味をおおよそ理解し、表明された意図を見抜くとしても、言われた事柄を〈見る〉ことはないのだろうか? どうしてそういうことが? 貨幣の価値同様に表現の価値をただちに知覚することがどうしてないのだろうか?
私は次のように答えよう。四万フランの陶器と四十スーの陶器とを見分けられるようになるのに、どうして長い研鑽が必要なのだろうか? 金の七宝で出来た縞模様の入っている、簡素だが豪華で美しいイスパノ=モレスク様式の皿と、装飾で覆われたジアン(14)の皿とを区別できるようになるのに?
本物と複製を苦労して識別するために、どうしてドゥルオーの競売場には博識の専門家が必要なのだろうか?……
同じ理由で、朝から晩までそうと知ることのないままに散文を作っているジュールダン氏は、この文体の問題について考えているとしても、その審判者ではないのである。その問題はたいへんに難しく、永遠に議論の的となり続けるだろう。
ギィ・ド・モーパッサン
追伸 前回の記事において、人間の法と自然法、恋愛と結婚を調和させることの難しさについて、ユベルティーヌ・オークレール嬢(15)の意見を求めたが、返事をもらえるとはあまり期待していなかった(16)。
私は以下の手紙を受け取った。
拝啓、
十一月二十二日の記事で、あなたは私にご質問になりました。以下が私のお答えです。
夫婦生活から不幸と不道徳を追放するためには、法律と自然とを一致させ、風俗と貞節とを調和させる必要があるでしょう。
もっとも、この理論を展開することは控えますが、『女性市民』紙上で結婚についての研究を続ける所存です。敬具。
ユベルティーヌ・オークレール
私はユベルティーヌ・オークレール嬢の議論を興味をもって追うとともに、この命題を再び取り上げる機会を彼女がもたらしてくれたら、その機会を利用するように努めよう。
G. DE. M.
『ゴーロワ』紙、1881年11月29日付
Le Gaulois, 29 novembre 1881.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 381-387.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
Le Gaulois, 29 novembre 1881.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 381-387.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
訳注
(1) モリエール『町人貴族』(1670)、第2幕第4場。
(2) モリエール『病は気から』(1673)第3幕間より。原文はラテン語 « Quia habet virtutem dormitivam »。ただしモーパッサンの引用は正確ではない。
(3)Francisque Sarcey (1827-1899):ジャーナリスト、劇評家。1867年から『タン』紙で劇評欄を担当し、大きな影響力を持っていた。『劇場の四十年』(8巻、1901-1902)。
(4) Alphonse Daudet (1840-1897):南仏出身の小説家。短編集『風車小屋だより』で文名を確立。風俗小説を数多く著わした。『陽気なタルタラン』(1872) のシリーズなどが名高い。
(5) フランシスク・サルセー「レトリックの授業」(『十九世紀』紙、1881年11月16日)、「言語の問題」(11月25日)において、ドーデ『ニュマ・ルメスタン』(1881)の文体が論じられた。前者は「リヨンの夫婦」、後者は「低ブルターニュ地方の夫婦」からの投書を受けてもので、モーパッサンは話を単純化している。
(6) Adolphe Thiers (1797-1877):歴史家、政治家。『フランス革命史』(10巻、1823-1827)で文名を高め、1833年にアカデミー・フランセーズに入会した。「女性文学者」(『フィガロ』、1884年7月3日)において、モーパッサンはティエールと対比させて、ジュール・ミシュレこそ「芸術家」であるとしている。
(7) Eugène Manuel (1823-1901):教師、詩人。『労働者たち』Les Ouvriers は1870年、コメディー・フランセーズで初演された1幕韻文の戯曲。
(8) mordre la poussière「埃を噛む」は、「(戦いで)地面に倒される、打ち負かされる」を意味する慣用句。
(9) Raymond-Théodore Troplong (1795-1869) :法律家、政治家。第二帝政の憲法の起草者の一人。長らく上院議長を務めた。
(10) 『民法典における所有権について』De la propriété d’après le Code civil, Pagnerre, 1848, p. 5.
(11) fond de l’air:字義通りは「空気の底」。慣例的に「実感される気温」を意味する。「心の底」(『ジル・ブラース』、1884年10月14日)にも同様の批判が見られる。
(12) ombreは「影、陰」を表すが、l’ombre de...は慣用的に「微量の~、~の気配」を意味する。
(13) 「根拠」と訳した語fondementは、古い用法として「尻」を意味しうる。「根拠」のような抽象概念は「影」を持ちえないので、「影」があるとすれば具体的な事物であるはずだという発想に基づく冗談。
(14) Gien:オルレアン南東、ロワール川沿いに位置する町。陶器の産地として知られる。
(15) Hubertine Auclert (1848-1914):ジャーナリスト、作家。女性解放論者として男女の平等や、女性への参政権付与を主張した。1881年に『女性市民』紙を創刊。
(16) 「あるジレンマ」(『ゴーロワ』紙、1881年11月22日)の末尾で、モーパッサンは「許されるなら、ユベルティーヌ・オークレール嬢の意見を聞いてみたいものである」と記していた。「自由思想」(『ゴーロワ』紙、1881年12月14日)では、改めてオークレールの書簡を取り上げたうえで、道徳についての持論を展開している。