第60信 ポール・アレクシ宛

Lettre 60 : À Paul Alexis



(*翻訳者 足立 和彦)

書簡第60信掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1877年1月17日の書簡。1923年2月18日付『フィガロ 文芸付録』 Le Figaro, supplément littéraire に、ジョルジュ=エマニュエル・ラング「ギィ・ド・モーパッサンのいわゆる自然主義 未刊の書簡に基づく」と題する記事で初めて公開された。6頁からなるこの書簡は、現在ハーヴァード大学のホートン・ライブラリー Houghton Library に保管されている(MS Fr 154)。マルロ・ジョンストンは伝記に本書簡を引用する際、編者によって削除されていた1文を復元しており、以下の訳ではその文を補っている(Cf. Marlo Johnston, Guy de Maupassant, Fayard, 2012, p. 191)。
 1876年、エミール・ゾラのもとに集った文学青年の交流が活発になるとともに、「自然主義」を確立する闘争も本格化した。この年の4月13日-6月7日にかけて『公益』紙 Le Bien public に『居酒屋』 L'Assommoir 連載されるが(第1-6章)、読者の批判を受けて中断。カテュール・マンデス編集の『文芸共和国』 La République des lettres に場を代えて、7月9日-77年1月7日まで掲載された(第7章-13章)。モーパッサンの書簡はこの連載終了直後に書かれている。
 この書簡から程なく、エニックによる講演が行われ(1月23日)、『居酒屋』単行本が刊行される(1月25日)。3-4月にはユイスマンスが、ブリュッセル発行の『アクチュアリテ』誌に「エミール・ゾラと『居酒屋』」を発表。4月16日にはモーパッサン、ユイスマンス、セアール、エニック、アレクシにオクターヴ・ミルボーを加えた6人が、エドモン・ド・ゴンクール、フロベール、ゾラをトラップ亭に招いて大家と称える。
 この時期、若者たちは毎週火曜日、モンマルトルの安レストラン、マシーニ(「居酒屋」Assommoir と呼ばれていた)、のちにはコンドルセ通りのジョゼフの店に集まり、文学について議論しあっていた。書簡冒頭にあるように、自分たちの「マニフェスト」を表明することも検討されたのだろう。

 書簡中にもあるように、モーパッサンは自分の文学について話すことを好まなかったので、本書簡は彼の文学観を知るうえで貴重なものとなっている。
 ここで展開される論が師フロベールに多くを負っていることは、フロベールの書簡集を紐とけば理解できるだろう。それは受け売りと言ってもいいほどだが、そのぶん、弟子がいかに師の教えをよく吸収したかが確かめられる。特定の流派に属することは芸術家の自由を阻害するものでしかない。何よりも自らの個性に基づいたオリジナルな作品を創り出すことが大切だ……。モーパッサンは終生、独創的であることを尊重し続けるだろう(独創性に関するフロベールの教えは「小説論」(1888年)に明かされる)。
 そのような自主独立を尊ぶ姿勢は、自然主義を掲げる青年たちとの連帯と相容れないように見える。しかし、一方には名を揚げるための苦労があり、モーパッサンの側にも仲間の協力を必要とする面があった。手紙の末尾では自分から「成りあがる」手段についての議論を持ちかけている。70年代後半、自然主義とつかず離れずの距離を取るモーパッサンの姿が窺われる。
 この時期にマニフェストが書かれることはないが、彼らの交流は、3年後の『メダンの夕べ』刊行につながってゆくだろう。


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海軍植民地省
パリ、1877年1月17日

 親しい友へ
 受け取ったばかりの手紙によると、『国家』(1)紙のほうで僕に関して揉め事が起こったらしい(2)。それで、競争相手(3)に最新の議論の種を与えないように、僕の小説を『集結』(4)に持っていくのを数日待ってほしい。不可避的に、ボナパルト派の編集部に何らかの影響を及ぼしかねないからね。
 事態が解決したらすぐに伝えるので、その時に、提案してくれた件を進めてくれるようにお願いしたい。
 僕たちの関心事であるマニフェストについてよく考えてみた。そこで告解をするように、文学全体についての信仰告白を行なう必要があるようだ。
 僕はロマン主義同様に自然主義やレアリスム〔現実主義〕を信じていない。僕の感覚ではこうした言葉は絶対的に何も意味しないし、対立する気質同士の争いの役にしか立たないだろう。
 自然なもの、現実のもの、人生が、文学作品の「必要不可欠」な条件だとは思わない(5)。そうしたものは全部言葉でしかない。
ある作品の〈存在〉は、ある特殊な、名前もなく名づけようもないものにかかっていて、電気のように、それを確認できても分析はできないのだ。それは文学的霊気で、人は漠然とそれを才能とか天才と呼んでいる。「理想的」なものを作り、「自然な」ものを否定する者は、自然なものを作り、他のものを否定する者と同じぐらいに物事が見えていないと思う(6)。対立する気質の否定でしかない。もっとも、僕があるものを見分けないからといって、必然的にそれが存在しないということにはならない。
 僕はシャトーブリアン(7)を十分に称賛するが、でも愛してはいない。僕はシェニエ(8)、ボワロー(9)、コルネイユ(10)、モンテスキュー(11)、それにヴォルテール(12)を称賛する。無限の喜びをもってウェルギリウス(13)や、ギリシャ正教会の哲学的教父たち(14)を読む。彼らは優れた作家だった。しかしながら、僕らが理解する意味では彼らはまったく生きてはいない。
 僕たちの才能の性質がどのようなものであろうとも、オリジナルになろう(オリジナルと奇抜とを混同してはいけない)。何物かの〈起源〉になろう。何の? 何だっていい。それが美しく、すでに完結した伝統と結びついていなければ。確かプラトン(15)はこう言ったと思う。「美とは真実の崇高さである(16)。」僕は全面的にこの意見に与するし、ある作家のヴィジョンが常に正確であることにこだわるのは、その作家の解釈がオリジナルで、真に美しいものであるために必要だと信じるからだ。けれども真の文学的能力、才能、天才は、解釈のうちに存在する(17)。眺められた事物は作家を通り、彼の精神の成熟の度合いに比して、個別の色合い、形態、発展、帰結を獲得する。シェークスピア(18)は自然だった。だが僕が彼を詩人のなかで最も優れた人物だと思うのは、彼が最も見事な解釈者だったからだ。
 すべては美しくなりうる。時代、国、流派などが何であろうとも。なぜなら、あらゆる気質を持った作家が存在するからだ。古典主義者たちは絶対的で決定的な文学形式を発見したと信じなかっただろうか? だが彼らのうちの何が残ったか?
 コルネイユが幾らか、ボワローが少し、ボシュエ(19)が少々だ!!
 ロマン主義者たちは勝利の叫びをあげ、それに世界中が応えた。彼らは芸術の崇高な形式を発見したと考えた。
 何が残っただろう?
 ユゴー(20)の幾つかの作品。それは恐らく、これまでに書かれた最も美しい詩だ。だが、ただ幾つかの詩篇だけだ。――それは残るだろう。それはユゴーが優れた天才詩人だからで、彼がロマン主義者たちを生み出したからではない。
 ユゴーはロマン主義を創り出す必要があった。それが彼の才能の本質だったからだ。――ただ彼ひとりがロマン主義そのものだったからだ。
 別の流派が現れて、レアリストとか自然主義とか呼ばれている。それは何人かの才能ある者のうちに受肉化し、通り過ぎていくだろう。――何が残るのだろうか? 偉大なる者たちの幾つかの美しい作品だ。
 ある教義はひとりの作家の勝利である。というのもそれは彼から生まれ、彼と一体化したのであり、彼の性質そのもの、彼の力であるからだ。だが一般的に、その教義は彼のあとに来る者を殺してしまう。ちょうどロマン主義が高踏派の詩人たちを殺したように(21)。何人かの者は、独立を勝ち得たなら恐らくは生き延びることができただろうが。
 ロマン主義は必要だった。
 今日、ゾラ(22)は傑出し、眩いばかりの欠くべからざる人物だ。だが彼の方法は芸術表現のひとつのあり方であって、「総体」ではない。ユゴーの方法が同じ芸術の別の表現であったように。
 彼らのヴィジョン、彼らの解釈は異なっている。だがどちらの者も、文学が進むべき宿命的な道を切り開いたのではない。彼らはふたりともそう信じた。ふたりともその才能に個性があるからだ。僕は確信するのだけれど、自然主義者のあとには超理想主義者がやって来るだろう(23)。ただ反動だけが宿命だからだ。――それが歴史であり、人間の性質と同じように歴史も変化しないだろう。ロマン主義者たちが通ったからといって、中世が、現代の現実以上に閉ざされているとは僕は思わない(24)。扱う術を知る者にとってすべてはよいものなのだ。ある流派に属する愚か者が、ある時代への入り口を閉じてしまったわけではない。別の仕方で眺め、そこに閉じこもらないことが必要なのだ。
 僕は「メランコリック」な者たちがしばしば突然に開いた地平の広さを好む。官能的な者たちの刺すようで、しばしば狭隘な真の情熱を好むように。
 どうしてみずから制限するのか? 自然主義は幻想的なものと同様に限定されている(25)。どうして「食料品屋風」や「いたずらっ子式」とは別の風にセックスすることをみずから禁じるのか。多くの体位があり、僕らには新しいものを発見する「義務」があるというのに?(26)
 以上だ。
 僕は、文学についても原則についても議論しない。そうしたことはまったく無意味だと信じている。人は誰かを転向させることはできないのだから、この長い手紙を書いたのはそれが目的ではない。君が十分に僕の見方と文学的信仰を理解してくれるようにと思ってのことだ。それを僕は、いささか重々しく、ひとまとめにして、幾らか気取りつつも散漫に表明した。だがこの主題を追求したり、理屈をまとめたり、「上品に」お見せするような暇はなかった。浮かんで来たままだ。言い方が下手で整合性がないとしたら許してほしい。
 もちろん、この手紙は僕らの「サークル」の外に出てもらっては困る。君がゾラに「お見せする」ようなことがあれば遺憾に思う。僕は彼を心から好いているし、深く称賛しているけれど、彼が見たらきっと気を悪くするだろう。
 「成りあがる」手段について真剣に議論する必要がある。5人いれば多くのことができるし、恐らく、今まで使われたことのない「策略」もあるだろう。
 ある新聞を6か月ほど攻囲し、友人たちで記事や要求や色々なものを浴びせかけて、ついには僕らのうちの誰かを入れさせようか? 思いもしない手を見つけて一撃を与え、公衆の注意を掻き立てる必要があるだろう。恐らくは滑稽なことだろうか? 十分に機知に富んだ爆弾。とにかく、相談することにしよう。
 敬意を込めて握手を。火曜日に、それ以前に会わなければ。

ギィ・ド・モーパッサン


Guy de Maupassant, Correspondance, éd. Jacques Suffel, Évreux, Le Cercle du bibliophile, 1973, t. I, p. 112-116.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) La Nation:1876年10月創刊、ボナパルト派の新聞。アルベール・デュリュイ(1844-1887)が編集長を務めた。この新聞は1877年5月に『秩序』 L’Ordre に吸収される。
(2) 『国家』紙は、フロベールの友人エドガール・ラウル=デュヴァルが政治部を担当した。そこでフロベールの仲介により、モーパッサンは記事「書簡に見るバルザック」(1876年11月22日)、「十六世紀のフランス詩人たち」(1877年1月17日)を送った。さらに劇評を頼まれ、エルックマン=シャトリアン『友人フリッツ』の批評を書くが、この芝居がラウル=デュヴァルの気に召さなかったことが判明する(フロベール宛第59信)。
(3) 『国家』紙の劇評欄をノエルという人物が担当しており、モーパッサンはその後釜に座ることを狙っていた。
(4) Le Ralliement:アレクシは1876-1877年にこの新聞に記事を掲載した。そのなかにはゾラ『居酒屋』(1877年2月4日)、ゴンクール兄弟(2月10, 12, 14日)についてのものがある。なお、モーパッサンの小説が『集結』に載ることはない。1877年に発表されるのは「聖水授与者」(『モザイク』、11月10日)のみとなる。
(5) モーパッサンはのちに「メダンの夕べ」(1880年4月17日)のなかで、芸術家の唯一の対象は「〈存在〉と〈生命〉」であると述べる。「自然なもの、現実のもの、人生」が芸術に「必要不可欠」だとは思わないというここでの言葉は、それとは相容れないように見える。1870年代、フロベールの忠実な弟子であったモーパッサンが「自由」と「独創性」を何より大事と考えていたことの表れだろう。
(6) 「イデアリスム(理想主義)」と「レアリスム(現実主義)」の対立を否定する見方は、「メダンの夕べ」でも述べられる。「ギュスターヴ・フロベール」(1876年10月23日)では、フロベールを「イデアリスト(理想主義者)」と呼んでいる。
(7) François René de Chateaubriand(1768-1848):作家。『キリスト教真髄』(1802)中の小説『アタラ』、『ルネ』が名高く、ロマン主義世代に大きな影響を与えた。
(8) André Chénier(1762-1794):詩人。フランス革命に共鳴するが、過激化とともに反対派の立場に立ち、逮捕ののち処刑された。1819年に著作が公刊され、ロマン主義の先駆者と見なされた。
(9) Nicolas Boileau(1636-1711):詩人、批評家。古典主義文学理論の確立者として知られる。『詩法』(1674)など。
(10) Corneille(1606-1684):フランス古典劇の確立者。『ル・シッド』(1637)、『オラース』(1640)など。
(11) Charles Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu(1689-1755):啓蒙思想家。異国人の視点でフランス社会を批判する『ペルシア人の手紙』(1721)で成功を収めた。長年をかけて『法の精神』(1748)を完成させた。
(12) Voltaire(1694-1778):啓蒙思想家。百科全書派のひとりで、理性と自由の名のもとに専制政治や教会を批判した。『哲学書簡』(1734)、哲学コント『カンディード』(1759)など。
(13) Virgile(前70-前19):古代ローマの詩人。ローマ文学の黄金時代を代表する。『牧歌』、『農耕詩』など。
(14) 教父とは、2-8世紀の神学者のうち正統信仰を持ち、聖なる生涯を送ったことを教会に公認された者。ここでは特にギリシャ語で著述した者を指す。
(15) Platon(前427頃-前347):古代ギリシャの哲学者。アテナイ郊外に学園を創設。ソクラテスを主人公とした約30の対話編を残した。
(16) 「私にとっての主要な困難は、それでも文体、形式であり、定義不可能な〈美〉なのですが、その〈美〉とは概念そのものの結果としてあり、プラトンの言ったように、〈真実〉の崇高さなのです。」フロベールによるルロワイエ・ド・シャンピ嬢宛書簡、1857年3月18日(Lettre de Flaubert à Mlle Leroyer de Chantepie, 18 mars [1857], dans Gustave Flaubert, Correspondance, éd. Jean Bruneau, Gallimard, coll « Bibliothèque de la Pléiade », t. II, 1980, p. 691)。
(17) 「解釈」の語は、フロベールの思想に直接見られるものではない。ここにはむしろ、芸術は「ある気質を通して眺められた自然の一隅」であるという、ゾラが繰り返したテーゼに近いものが認められる。
(18) William Shakespeare(1564-1616):イギリスの劇作家・詩人。その作品はイギリス・ルネサンス文学の最高峰とされる。『ハムレット』(1602頃)、『オセロ』(1604頃)、『リア王』(1605-06)、『マクベス』(1604-06)の四大悲劇の他、『ロミオとジュリエット』(1594頃)、『真夏の夜の夢』(1595頃)、『ヴェニスの商人』(1596頃)など。
(19) Jacques Bénigne Bossuet(1627-1704):神学者。王太子の教育係として『世界史論』(1681)を編む。追悼演説が古典主義の散文の規範として有名。
(20) Victor Hugo(1802-1885):詩人・劇作家・小説家。戯曲『クロムウェル』(1827)や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829)などによってロマン主義を主導した。第二帝政期には国外に亡命、小説『レ・ミゼラブル』(1862)を発表した。1870年、第二帝政崩壊直後に帰国。以後、国民的英雄、共和主義の象徴的存在となる。1885年に死去後、国葬を経てパンテオンに埋葬される。
(21) モーパッサンは高踏派の詩人ルコント・ド・リール、バンヴィル、マンデスらを評価していた。ここで高踏派がロマン派を乗り越えていないという批判を述べているのは例外的。
(22) Émile Zola(1840-1902):小説家。1867年頃から「自然主義」を唱道。『テレーズ・ラカン』(1867)などを執筆したのち、1871年より「第二帝政期における一家族の自然的・社会的歴史」の副題を持つ『ルーゴン=マッカール叢書』の刊行を開始。叢書第7巻『居酒屋』(1877)は連載時から議論を招き、スキャンダルも含めて単行本はよく売れた。79年には舞台化されて大成功を収め、第9巻『ナナ』(1880)へと続く。以後、『ジェルミナール』(1885)、『獣人』(1890)などを執筆し、1893年に全20巻の叢書を完成。その後、『三都市』(1894-1896)、『四福音書』(1899-1902)の執筆を続ける。
(23) 実際、自然主義の反発から生まれる象徴主義は、理想主義的な面を特徴のひとつとしている。モーパッサンの予言は当たっていたと言えるだろう。
(24) この時期、モーパッサンは韻文詩劇『リュヌ伯爵夫人の裏切り』に取り組んでいた。間接的に自作を擁護していると考えられる。フロベール宛書簡第54信には以下の1文がある。「私は目下、自然主義演劇についてのゾラの考えに反して、歴史劇を執筆しています――それも〈刺激の強い〉ものを!!!」
(25) モーパッサン自身、「剥製の手」(1875)、「ボートに乗って(「水の上」初稿)」(1876)のような幻想小説から出発した。「幻想的なもの」が限定されているという言葉には、一種の自己批判が込められている。
(26) シュフェル版『書簡集』では削除されていた文(原文では1文、訳では2文に分けている)。




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