「幻想的なもの」

« Le Fantastique », le 7 octobre 1883



「幻想的なもの」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1883年10月7日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された評論。前半は「幻想文学」について論じ、後半はロシアの作家イヴァン・トゥルゲーネフ(Ivan Tourgueniev, 1818-1883)について語っている。
 科学主義、合理主義の精神の到来によって、過去の迷信は払拭され、それによって「幻想文学」も終わりを迎えることになるだろう。そのように述べるモーパッサンではあるが、初期の短編「水の上」から87年の「オルラ」まで、彼自身、少なくない数の「幻想小説」を執筆している。このジャンルを二期に分け、ポー、ホフマンに代表される「現代的」な幻想小説を論じる言葉は、モーパッサンのこの種の作品を考えるうえでも示唆的である(1881年の評論「さらば、神秘よ」も参照)。
イヴァン・トゥルゲーネフ  後半部では、幻想的な物語の一流の語り手としてトゥルゲーネフについて語られている。「イヴァン・トゥルゲーネフ」(『ゴーロワ』、9月5日)、「イヴァン・トゥルゲーネフ」(『ジル・ブラース』、9月6日)に続く、ロシアの作家への追悼文の意味合いを兼ねており、モーパッサンの敬意と愛情の念の伝わる一文となっている。もっともここで語られるエピソード自体は「幻想」には関わっていない。


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幻想的なもの


 二十年来、ゆっくりと、超自然のものは我々の魂から消え去っていった。それは、瓶の蓋を開けた時に香りが蒸発してゆくように、蒸発してしまったのだ。瓶の口を鼻孔に近づけ、長い、長いあいだ吸いこんでも、ぼんやりとした匂いをわずかにそれと認めることしかできない。すでに終わったのである。
 我々の孫たちは、大変に奇妙で本当らしくもないものに対して祖父たちが持っていた素朴な信仰に驚くことだろう。かつては、夜、不可解なものに対する恐怖、超自然的なものに対する恐怖がどのようなものであったのか、彼らは決して知ることがないだろう。精神の訪れ、ある種の生物や事物のもたらす影響、はっきりと意識のある夢遊病、交霊術者のあらゆる詐術といったものを、今でも、数百人の者が信じることに夢中になっているとしても、それはわずかな数に過ぎない。すでに終わったのである。
 我々の哀れな精神は、不安で、無力で、限界があり、原因を知ることのできないあらゆる結果に恐れをなし、絶えず起こりながら理解することのできない光景によって恐怖に駆られていたので、何世紀ものあいだ、奇妙で子供じみた信仰のもとに震えてきたのであったが、そうした信仰も未知なるものを説明する役に立っていたのである。今日、我々の精神は、自分が間違っていたことを見抜き、理解しようと努めているのであるが、まだ知ることはできていないのである。最初の一歩にして偉大なる一歩が、踏み出された。我々が不可思議なものを拒絶したのは、それがもはや未探索のものでしかないからなのだ。
 二十年後には、非現実なものに対する恐怖は田舎の民衆の内にさえもはや存在しないだろう。天地創造は昔とは違った様相、違った姿、違った意味を持ったかのようだ。そこから間違いなく導き出されるのは、幻想文学の終焉である。
 この文学には、大変に異なった期間と異なった様子とがあり、騎士道物語、『千一夜物語』、英雄叙事詩から、妖精譚や、ホフマンやエドガー・ポーの心を震わせる物語にまで至る。
 人がためらうことなく信じていた時代には、幻想作家たちは驚くべき物語を繰り広げるのになんら用心することはなかった。彼らは最初から不可能の中に入り、そこに留まったままに、本当らしくもない取り合わせ、幽霊や、恐怖を生み出すためのあらゆる恐ろしい策略を無限に変化させていったのである。
 だが、ついに精神の内に疑いが入り込むや、技法はより繊細なものとなった。作家はニュアンスを探し求め、超自然の内に入り込むよりもむしろその周囲をさ迷った。可能性の限界に留まることで恐ろしい効果を見いだし、魂をためらいと恐怖の中に投げ込んだ。決心のつけられない読者は、もはや何も分からず、絶えず底の失われる沼の中のように足場を失い、乱暴に現実に取りすがっては、またすぐにそこに入り込もうとするのだが、悪夢のように痛ましくも興奮をもたらす混乱の中で再びもがくことになるのだ。
 ホフマンやエドガー・ポーの非常なる恐るべき力は、この智に長けた巧みさ、幻想的なものに触れ、混乱させるこの特別な手際によるのであり、自然な出来事でありながらそこには何か説明のつかないもの、ほとんど不可能なものが存在しているのである。

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 亡くなったばかりのロシアの偉大な小説家、イヴァン・トゥルゲーネフは、彼の気が向いた時には第一級の幻想作家だった。
 彼の書物のそこここに、血管の内に震えを走らせるような、不可思議で魅惑的なああした物語のひとつが見いだされる。しかしながら彼の作品においては、超自然的なものはいつでも大変に漠然とし、すっかり覆われているので、彼がそれをそこに置こうとしたのだとあえて口にすることができないのである。むしろ彼は、自分が感じたことを感じたままに語り、彼の魂の混乱、理解できないものを前にしたその苦しみ、そして別世界からやってきた未知の息吹のように通り過ぎていく説明のつかない恐怖の刺すような感覚を、それと察知するに任せている。
 彼の作品『奇妙な物語(1)』のなかで、ある小さな村で、彼が一種痴呆の夢遊病者を訪れたことを語っているが、それがあまりに特別な語り口なので、奇をてらった言葉もなく、驚かすような表現もないのに、読んでいるうちに息が荒くなってくる。
 『トック、トック、トック(2)』と題された小説においては、ある高慢で愚かな幻視者の死を彼は語っており、大変驚くべき力で困惑させるので、頁を繰りながら気分が悪くなり、神経が高ぶり、おびえさせられる。
 傑作のひとつの『三つの出会い(3)』においては、説明がつかないが可能ではある未知なものに対する、あの繊細で捉え難い感動が、文学的美と偉大さの最高度に達している。主題は些細なものである。ある男が三度、異なる空の下、互いに離れた場所、まったく異なった状況において、歌っている女の声を偶然に耳にする。その声は魔法のように彼のうちに染み透る。その声が誰のものなのか、彼は知らない。ただそれだけである。だが夢の持つあらゆる愛すべき不可思議さ、生命を越えたものの一切、精神を詩の空へと運び去る、虜にするような神秘的な芸術の全体が、深いと同時に明澄で、実に素朴であり実に複雑でもあるこの頁の中を通ってゆくのである。
 しかしながら、作家としての彼の能力がどのようなものであっても、いくらか厚みがあり、ためらいがちな声によって語る時にこそ、彼は魂にもっとも大きな感動を与えたのであった。
 彼は肘掛椅子に深々と腰を下ろし、頭を肩の上にもたせかけ、手は肘掛の上に動かず、膝は直角に曲げられていた。髪の毛は輝くように白く、頭から首元にまで落ちてきて、胸の上まで垂れている顎ひげと混じり合っている。白い巨大な眉毛は、大きく見開かれて魅力的で、お人よしな目の上にこぶを作っている。鼻はとても力強く、顔に幾らか粗暴な様子を添えており、ほほ笑みと唇の繊細さがわずかに和らげているばかりである。彼は相手をじっと見つめ、少しばかり言葉を探しながらゆっくりと話した。だが彼はいつでも正確な、いやむしろ唯一の言葉を見つけたのだった。彼の言うことはすべて、はっとさせるような仕方でイメージを形作り、猛禽が爪で捕えるように精神を捕まえる。そして彼は物語のうちに、大きな地平、画家が「空気」と呼ぶところのもの、思考の無限の広がりを与えると同時に、細かいところにまで正確さを添えるのであった。
 ある日、ギュスターヴ・フロベールの家でたそがれ時に、そんな風にして彼は我々に語った。父親を知らないある男の子が、父に出会い、見失い、再び出会うが、彼が父であるという確信が持てない。それは可能ではあるが驚くべき、不安を掻き立てる、強烈な印象を残すような状況下においてであり、そして少年が最後に彼を見つけたのは、人気がなく果てしない砂浜の上の溺死体としてであった。――説明のつかない恐怖の力があまりにすごかったので、我々はこの奇怪な物語を夢想したのだった。
 とても単純な事柄が、しばしば、彼の精神の内において、そして彼の口を通して語られることで、不思議な性質を帯びるのだった。ある晩、夕食の後で、彼は我々に語ったものだ。あるホテルでの若い娘との出会いと、最初の瞬間からその少女が彼にもたらした一種の幻惑とを。彼はこの誘惑の原因を我々に理解させようと努め、彼女が目を開き、初めは視線が定まらないが、続いてとてもゆっくりとした動きで視線を人々の上に運ぶ、その仕方について話した。瞼の開き方、瞳のあげ方、眉毛の曲げ方について話し、思い出の持つ驚くべき鮮明さを伴っていたので、この見たことのない目を想起させることで、彼は我々を魅了したのだった。そして、彼がなにか恐ろしい話を語る時には、彼の口から告げられるこの単純な細部が、より一層不安なものになったのである。
 彼の言葉の甘美な魅力は、恋愛の物語においては奇妙なほどに心に染み透るものとなった。私が思うに、彼があれほどにしんみりと語った物語を、彼は書き記しているはずである。
 ロシアで、彼は狩りをしていて、一軒の風車小屋に迎えられたのだった。その土地が気に入ったのでそこにしばらく滞在することに決めた。やがて、粉屋の女房が彼をじっと見つめていることに気がついた。そして、何日か田舎風で細やかなギャラントリーを続けた後、彼は彼女の恋人になったのである。それはブロンドの、清潔でほっそりとした美しい娘で、粗野な男の妻だった。彼女の心の内にはあの女性特有の本能的な気品があって、感情の細やかな事柄を直感的に理解しながら、決して何かを学ぶことはないのである。
 彼は我々に語った、麦藁置き場でのふたりの密会を。ずっと回り続けている大きな車輪が絶えず振動して揺さぶるのだった。彼は語った、火の前に屈んで男たちの夕食を作っているあいだの、台所でのふたりのキスを。そして、背の高い草の間を一日中駆け回った後、猟から戻って来た時に彼女が投げかける一瞥を。
 彼は一週間モスクワで過ごさなければならなくなった。そこで彼は女友だちに、都会から彼女に持ってくるべきものについて尋ねた。彼女は何も望まなかった。彼はドレスを、宝石を、首飾りを、ロシア人の贅沢品である毛皮を彼女に申し出た。
 彼女は断った。
 彼は残念がり、何を提案すればいいか分からなかった。拒むことで彼を大いに悲しませることになるのだと、ようやく彼女に分からせることができた。すると彼女は言うのだった。
「分かったわ! 石鹸を一つ持って来てください」
「なんだって、石鹸! どんな石鹸を?」
「上等な石鹸、花の入った石鹸、都会の奥様たちのようなのを」
 彼は大変に驚き、この奇妙な趣味の理由がまるで分からなかった。彼は尋ねた。
「でもどうして石鹸が欲しいの?」
「手を洗って、いい匂いがするように。そうすればあなたは、奥様たちにするように私の手にキスしてくれるでしょうから」
 彼、あの優しくて善良な偉人が、こんな風にそのことを話したので、我々は涙を誘われたのだった。

『ゴーロワ』紙、1883年10月7日付
Le Gaulois, 7 octobre 1883.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 719-722.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) Étrange histoire / Странная история (Рассказ) (1870). 1870年3月1日号の『両世界評論』にメリメが翻訳。
(2) Toc... toc... toc ! (Étude) / Стук... стук... стук !... (Студия) (1870).
(3) Trois rencontres (1851). 二葉亭四迷が「めぐりあひ」として訳した作品。


(*翻訳者 足立和彦)

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