「イヴァン・トゥルゲーネフ」
« Ivan Tourgueneff », le 6 septembre 1883
(*翻訳者 足立 和彦)

前日の9月5日付『ゴーロワ』に掲載された「イヴァン・トゥルゲーネフ」に続けて、モーパッサンはここで改めてロシアの作家の業績を紹介し、これを称えている(さらに10月7日付『ゴーロワ』掲載、「幻想的なもの」でもトゥルゲーネフについて語られる)。
もっとも本記事の主な部分は「「ニヒリズム」の語の発明者」(1880年11月21日付『ゴーロワ』)を再利用したものとなっている。
春に最初の長編小説『女の一生』を発表したばかりのモーパッサンは、フロベールに次いで文学の師を失うことになった。これ以降、本当の意味で自立した小説家としての道を歩んでいくが、そこで彼も「あるがままの人生だけ」を追及していくことになるだろう。
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イヴァン・トゥルゲーネフ
イヴァン・トゥルゲーネフ
亡くなったばかりのこの優れた作家の名は、将来、文芸の歴史における偉人たちの名の中に残りつづけるだろう。
ロシアが目下の困難な時期を抜け出し、あの若く新しい民衆が文明と芸術においてしかるべき位置を占めた時には、どのような才能がその道を切り開いたのか、今日よりもよりよく理解できるようになるだろう。
トゥルゲーネフは、その才能と、文芸の力で政治において果たしたその特別な役割によって、先覚者たちの中の第一線を占めることになるだろう。
そもそも、彼らの祖国の若い文学の先頭を歩いた作家たちは、五人か六人に限られるであろう。
我々は彼らの名前をよく知らない。自国の外に存在するものを、我々は何も知らないのである。
その者たちとは、まずはプーシキン、若きシェークスピアであったが、才能の花開く最中に亡くなった。それは彼の表現によれば、彼の魂が広がっていた時、彼が「力強い作品を着想し、産み出すことができる」と自ら感じていた時のことだった。
彼は決闘で1837年に殺された。
レールモントフ、バイロン的詩人にして、バイロンよりも一層に独創的、より生き生きとして、より心震わせ、より力強かった。
彼は1841年に決闘において二十七歳で殺された。
ゴーゴリ、スケールの大きな小説家、バルザックとディケンズの家系に属する創作家だった。
もう一人、まだ存命中の人物がいる。政治家にして小説家、ここ数年大きな役割を演じたばかりである。それがレオン・トルストイ伯爵、我々の国でも例外的に大きな成功を収めた書物『戦争と平和』の著者だ。
最後に、イヴァン・トゥルゲーネフが亡くなったばかりである。
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トゥルゲーネフの文学的キャリアは、もっとも波乱に富み、もっとも特別なものの一つだった。
彼はとても若い頃にデビューした。デビューしたての全ての小説家と変わらず、自分を詩人と思っていて、幾つかの詩を作って出版したが、大きな成功は得られなかった。その時、失意が襲って来るのを感じて、文芸を断念する心構えもありながら、彼は哲学を学びにドイツへ行こうとしたのだが、そこに、ロシアの有名な批評家ベリンスキー(1)からの思いがけない励ましが届いたのだった。この人物は彼の国の文学動向に決定的な影響力を持っていたし、その権威はといえば、どの時代の、どの国のどんな批評家も持ちえなかったほどに広く支配的なものだったのだ。
当時、彼は『同時代人』という名の雑誌を編集しており、この雑誌のための散文の小品を、トゥルゲーネフに求めたのだった。
トゥルゲーネフは若く、情熱的で、自由主義で、地方の真中、ステップの中で育ち、自分の家で農民が、苦しみと恐るべき労働の内に、従属と悲惨の内にあるのを目にしており、慎ましやかで忍耐強いこの労働者に対して深い同情の念を抱き、抑圧する者に対しての憤慨に満ち、圧政に対する憎しみに溢れていた。
彼は数頁の内に、この不運な者たちの苦しみを描いた。たくさんの情熱と、真実と、激しさと、文体とでもって描いたので、大きな感動が社会のあらゆる階層の内に広まった。
急で思いがけないこの成功に押しやられ、彼は一連の、常に田舎の人々の内からくみ取られた短いエチュードを続けて発表したが、一つの的を狙うたくさんの矢のように、これらの頁のそれぞれは、領主による支配、農奴制の醜い規則を、全霊を込めて攻撃したのである。
そのようにして作られたのが、以後歴史的なものとなったあの著作であり、その題は『あるロシア領主の回想(2)』という。
だがこれらの切り取られた断片全部を一冊の書物にまとめようと望んだ時に、永遠なる検閲がその拒否権を行使した。
列車の中で偶然に、この後見制度の委員の一人とさし向いになったお陰で、公的な人物によって与えられる認可を若い著者は得ることができたが、この人物は自分の立場で、この親切の支払をしてくれたのである。
書物は大変な反響を呼び、差し押さえられ、逮捕された著者は一月監禁されて過ごしたが、それは我々の国においてこの種の罪で刑を宣告された者の入る刑務所ではなく、「留置所」の中で、浮浪者や追い剥ぎと共に過ごしたのだった。それからニコライ皇帝(3)によって亡命させられた。
皇太子によって要求されたにもかかわらず、恩赦には長い時間を要した。その理由は恐らくは、皇帝の相続者の求めに応じて、皇帝に一通の書状を送ったのだが、そこでトゥルゲーネフは皇帝の神聖なる御足(「あなた様のまことに慎ましくまことに身を低くする従者」という我々の決まり文句の異文)に対してまったく平伏しなかったことにあるのであろう。
彼はずっと後になってから国に帰ったが、もうそこに住むことはほとんどなかった。ようやく、1861年2月19日、ニコライの息子、アレクサンドル皇帝が農奴制の廃止を宣言した。毎年記念の祝宴が設けられ、この政治的大事業に関わった者皆が出席した。さて、この会合のある一日、有名なロシアの政治家ミリューチン(4)が、トゥルゲーネフに向かって杯を掲げ、彼に言ったものである。「皇帝は特別に私にお命じになられました。農奴解放を決心するに至った大きな理由の一つが、あなたの書物『あるロシア領主の回想』を読んだことであった、とあなたに伝えるようにと。」
この書物はロシアにおいては、民衆のものであり、ほとんど古典となって残っている。誰もがそれを知っており、暗記して、称賛している。それが著者の作家として、自由主義者としての評判の源であり(彼のことをほとんど「解放者」と呼んでもいいだろう)、同時に、その書物は彼の民衆の間での人気の根源ともなっているのである。
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だが、もう一つ別の政治的役割が、さらにこの作家に割り当てられることになる。彼こそが、「ニヒリスト」を発見し、その名を付けなければならなかったのだ。
病気の原因が長い間我々の体の調子を乱した後になって、症状がどのようなものであるのかを発見できるように、まだはっきりと確認できない漠然とした不安が、ロシアの国を苦しめていた。トゥルゲーネフは注意深く底まで見通す観察者であり、この精神の新しいあり様、民衆の病の発作のゆっくりとした出現、まだはっきりとしていないこの政治的高揚に最初に気がついたのであるが、それがロシア全体をひっくり返すに違いなかったのである。
大きな騒ぎを呼び起こした書物『父と子』において、彼はこの生まれたばかりのセクトの精神的状況を確認した。それをはっきりと指し示すために、彼は「ニヒリスト」という語を発明し、創り出したのだった。
世論とはいつでも盲目なものであり、憤慨したり、冷笑したりした。青年たちは二つの陣営に分かれた。一方は抗議したが、他方は称賛し、宣言した。「これは本当であり、彼だけが正しく見たのである。我々は彼が断言する通りのものである。」この時から、いまだ定まっていなかった、「空気中にあった」教義が、明確に定義され、「ニヒリスト」たち自身が真に自分たちの存在と力とを意識し、恐るべき党派を形成したのである。
別の書物『煙』において、トゥルゲーネフは革命家の精神の進展と歩みを追ったが、同時にその欠点、彼らの非力さの原因をも追及した。それで彼は一度に両方の陣営から攻撃された。彼の不偏不党ぶり故に、敵対しあう両派がともに彼に反抗したのである。
それというのもロシアにおいては、フランスにおいてと同様に、一つの党派に属していなければならないのである。権力の友にでも敵にでもなりたまえ。白でも赤でも信じるがいいが、とにかく信じたまえ。もしも揺らぎない懐疑家として、静かに観察するだけでよしとするなら、もしも自分には二義的と思えるような争いの外に留まるなら、あるいは、もし一方の集団に属していながら、友人たちの過失や狂気に異議を唱えようものなら、危険な猛獣として扱われることになるだろう。至る所で狩り出されることになるだろう。裏切り者、背教者として、侮辱され、罵倒されるだろう。それというのも、あらゆる人々が憎む唯一のものとは、宗教においても政治においても、精神の真の独立というものだからである。
トゥルゲーネフは故あって自由主義者だとみなされていた。革命家たちの弱点を語ったので、偽の兄弟として扱われた。それでも彼は、この絶えず増大してゆく、大変に興味深いと同時に危険でもある党派についての自分の研究を続けた。そして最後となった偉大な小説『処女地』は、驚くべき明晰さによって現在のニヒリスムの「精神状態」を示している。
絶対的な独立心の結果、故国において彼の置かれた状況は奇妙なものだった。権力者の側からも、革命家の側からも疑われていたが、現実には、どちらに対しても偏見のない忠実な友人であった。パリに亡命したニヒリストたちに対して、彼の家の戸はいつも開かれていた。だから毎年、彼がロシアに旅行するたびに、フランスの友人たちは、彼に対する政府の厳しい処置を心配していた。宮廷は親愛の念をはっきり示すことはしないが、彼を大目に見ていた。だが若者たちは彼を崇拝し、サンクト=ペテルブルクの通りで彼を喝采して迎えたのだった。
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彼の作品は大変に豊富である。ここで分析する余裕はないが、大変に美しい小説『春の水』の名を挙げておこう。
とはいえ、この作家の独創性が一番現われているのは、恐らくは短い小説の中においてであり、彼は素晴らしい短編小説家なのである。
底まで見通す心理学者にして繊細な芸術家である彼は、数頁の内に絶対的な作品を構成することができるし、幾つかのあっさりした、大変に巧妙な筆致で人物を完全に示すことができるので、一見したところは大変に単純な手段によって、どうしてこれほどの効果が得られるのか理解できないほどである。彼は魂を呼び出す降霊術者であり、彼に並ぶ者はなく、一個の存在の内面へと我々を導く。その存在の外面をも我々に見せるが、まるでそれを目に見るかの如くであり、それが、彼の手法、言葉、作家としての意図や悪巧みに人が気づくことは決してないままになされるのである。とりわけ、比類のない才能をもって、短編小説内の雰囲気を作り出すことができた。彼の作品の一つを読み始めるや、読者は彼が想起する場の中に捉えられるのを感じ、その空気を吸い、悲しみ、苦悩、喜びを分かち合う。彼は我々の肺の中に、なじみのない特別な香りをもたらし、彼の書物の「味」を我々に届ける。まるで甘美なまでに苦い飲み物を飲むかのようである。
彼もまた憂鬱な者ではあったが、優しく、反抗することも憤慨することもなく、事物や人間の悲惨さを確認する忍従の人であった。彼がとても個性的な調子を与えた傑作の題は、『不幸な女』、『ステップの貴族(5)』、『三つの出会い』、『ステップのリア王』、『余計者の日記』である。
文学において、彼はもっとも現代的でもっとも進んだ思想に浸っていた。小説家には人生以外のモデルは存在しないのだから、あるがままの人生だけを描くべきであり、そこには途方もない組み合わせや冒険などあってはならないと考えていた。小説における「筋」と呼ばれるものに憤慨していたが、本当らしさを欠いた出来事に興味を持てるほど素朴な精神を、どうして人が持ちうるのか理解できなかったのである。それでも、彼は詩人を敬愛していたが、その芸術とは我々にヴィジョンや幻想を提供することにある。彼はシェークスピア、ゲーテ、プーシキンを第一等に置いていた。彼の鮮明な精神は、フランス詩を人間化したヴィクトール・ユゴーの響き渡る豊穣さとはうまく調和しなかった。おそらく、トゥルゲーネフの哲学的気質は、ヴィクトール・ユゴーの純粋に夢想的な気質に驚きもしただろう。
フランスの偉大な詩人の抱く、奇妙なまでに理神論的な神秘主義的思想、宗教的かつ空想的な理論、科学的精神の完全なる欠如、見事な詩的精髄の崇高だが非論理的な高揚は、この哲学的小説家の明晰な精神の内にためらいと慎重さを目覚めさせた。彼は生まれたばかりの革命を発見し、とりわけ思想を重視し、とても易々と人々の心を見抜き、実証科学を愛し、その幼少時代から、あらゆる教義、あらゆる宗教、あらゆる神に対して反抗し、世界中でもっとも穏やかでもっとも優しいが、もっとも決然とした無視論者でありつづけ、あらゆる信仰に対して無関心だったので、人々がそうした事柄について話すことで時間を無駄にしていることに驚きさえしたのだった。
『ジル・ブラース』紙、1883年9月6日付
訳注
(1) Vissarion Belinski, ou Bielinski (1811-1848) :批評家。リアリズムの理論家で、ロシア小説の発展に貢献した。
(2) Mémoires d'un seigneur russe : 『猟人日記』の最初の仏訳の訳題。訳者は Ernest Charrière.
(3) ニコライ一世 (1796-1855)。アレクサンドル一世の弟で、兄の死後、1825年皇帝に即位。
(4) Nicolas Milutine (1818-1872) :ロシア帝国の政治家。農奴解放令の主要な立案者として知られる。
(5) Le Gentilhomme de la steppe :『猟人日記』所収「チェルトプハーノフの最後」(1870)の仏訳題。1872年12月1日付『両世界評論』に掲載。