「偉大な死者たち」

« Les Grands Morts », le 20 juin 1885



(*翻訳者 足立 和彦)

「偉大な死者たち」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1885年6月20日、日刊紙『フィガロ』 Le Figaro に掲載された時評文。ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)の遺体をパンテオンに安置することの是非に関して意見を述べている。後半はヴァイオリン奏者パガニーニにまつわる逸話を語っている(この部分は旅行記『水の上』(1888)に再録される)。
 ヴィクトル・ユゴーは1885年5月22日に83歳で亡くなり、5月26日に国葬が決定された。5月31日に凱旋門に棺が置かれ、6月1日に盛大な国葬が執り行われた際には2百万人が参集したという。パンテオン安置に関しては当時新聞紙上で盛んに議論された。騒ぎのために『ベラミ』の売れ行きが芳しくないと、モーパッサンは愚痴を漏らしてもいる(7月7日母親宛て第389信)。
 本記事では、「土に帰る」ことを望んだ故人の遺志に反する決定が下されたことに異が唱えられ、詩人の死生観について論じられている。なおユゴーに「偉大な死者たち」と題する詩篇がある(1855年4月17日の日付)。本記事のタイトルはそれを参照したものかもしれない。
ヴィクトル・ユゴー  偉大な詩人(だが「ただ詩人」であった)ユゴーについてのモーパッサンの評価はいつでも最大級だが、小説家・劇作家としては認めていなかった。霊感の働くままに膨大な著作を残したロマン派の首領は、創作態度においてフロベールの反対と言ってもよく、その辺りに留保の理由が認められるだろう。ユゴーが代表するロマン主義に対する批判は「メダンの夕べ」(1880)などにも見られる。
 記事の後半では、パガニーニの死後、遺体の埋葬が認められなかったという逸話が語られている(記事の一部は「サン=フェレオール」(『ルーアン新聞』、6月21日)に再録)。モーパッサンによれば、棺は一時期カンヌ沖合のサン=フェレオール島に埋葬されていたとあるが、これは事実に相違する伝説のようである。


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偉大な死者たち


 人々の興奮が幾らか静まった今、ヴィクトル・ユゴーの遺体をパンテオン(1)に安置するという、最初の熱狂のなかで下されたあの決定が、著名な詩人の名誉を称えるのに真にふさわしい振る舞いなのかどうか、問い直すことができるのではないだろうか?
 確かに、偉人に対して民衆が取り行う葬儀が美し過ぎるということはないし、あらゆる崇拝に値するこの詩人は、どんな葬儀にも値する者でもあった。しかしながら、彼が目を閉じるや否や、誰にとっても神聖であるべき故人の遺志に背くとは、死者に敬意を捧げるにしては奇妙なやり方ではないだろうか?
 彼は、簡素な墓地で自分の子どもたちの傍に葬られることを望んだのではなかっただろうか?
 消尽した肉体にあって魂がもはや思考のともし火でしかないような最後の時に、この世を去ろうとする瀕死の者が、どのようにして最後の希望を述べるだけの力、意志、精神力を見いだしえたのだろうか。彼ははっきりとそれを表明し、それから息絶えた。それなのに、この死者は偉人であるという口実のもとに、彼の栄光を称えるために、一国民全体がすぐに彼の最後の願いを無視するのである。それはほとんど冒涜といっていいものである。そして、この偉大なる夢想家の才能を本当に愛したすべての者、彼の魂の内密な思考、霊感の源たる何かを深く理解しようとしたすべての者にとって、彼の精神が抱いた宗教、詩人としての心が抱いた宗教全体を傷つけるように思われるだけに、この冒涜は一層遺憾に思われるのである(2)
 ヴィクトル・ユゴーは神を信じていた。
 彼は神を信じていた。自分を神の直接にして重要な発露であると確かに見なしていたためにである。
 信仰とは論理、科学、論証の問題でしかないと考える実証主義的哲学者(3)には、彼は決して属さなかった。彼は次のようなことは絶対に認めなかっただろう。すなわち、ある人間の価値は相対的でしかなく、大地とは些細な埃でしかなく、才能とは(あらゆる人間の思考が、動物の知性よりわずかに明晰なだけの混乱した光でしかないのに対し)何人かにおける幾らか洗練された思考でしかなく、無限の創造を見通せる目からすれば、人類における最も偉大な者も、微生物のなかの最も小さなものと同じように無意味で目にも留まらないものだ、というようなことをである。
 そもそも、そこにこそ、各人が自身の精神の詩的傾向に従って定式化する宗教的確信のなかでも最も興味深い特徴のひとつがあり、その出発点には人間の重要さがあるのに対し、地球そのものの重要さは、宇宙の全体のなかではまったく取るに足らないものなのである。
 つまり、各人は自分の性質に従って、自身の神、あるいは〈虚無〉を夢見ている。ある者は混乱した欲望と憧憬に従い、別の者はもう少し独善的ではない論理に従うが、いずれにもついて回るのは、人間の精神の根本的認識の無力さである。精神は感覚によって明かされるもの以外には何も知ることができない。我々は、既知のものに比較しうる未知のものを組合すことしかできない。我々が世界、永遠であったりつかの間であったりする出来事、政治的ないし個別的な事実、我々の神や友人たち、対象、事物、つまりは一切を眺める見方は、我々の欲望や希望の色合い次第なのである。だから民衆はいつでも、民族の気質、風俗、頭脳の出来具合に従って自分たちの神の概念を抱いている。
 確実なものを知ることはできず、正確なものを知ることもできないのだから、これらの夢に敬意を払い、自分たちのものを隣人のものより優れていると見なしてはいけない。いずれも盲人の夢想に過ぎないのである。


***

 したがって、ヴィクトル・ユゴーがどのように彼の創造者を認識していたかを探ろう。
 賞賛すべき詩人、模倣不可能な詩人、だがただ詩人であって、精密な科学にも現代哲学にも縁の薄かった彼は、幾らか漠然とした偉大なイメージによって着想し、彼の理神論は、一種の詩的汎神論であった。彼は兄に対するように神に向かって話しかけたに違いない。自分自身がそうするように、神が小動物や小さな花々に関心を向けるのを目にしたのだ。植物、樹液、動物、子ども、自然によるあらゆる創造と繁殖に対して彼が抱いた至高の愛は、この汎神論的傾向、神をもうひとりの自分として認識していたことの、十分に確かな印ではないだろうか。このもうひとりの自分は、自分よりも偉大で、広大で、永遠であるが、本質は同じであり、彼と同じように、自分の創り出したものについて感動するのである。
 彼の優れた詩のなかで恐らく最も美しいものは、混乱しているが力強い信仰を表明したものであろう。それは、偉大で宇宙的な変転、死者たちの精髄によって花開く春、飛翔する魂の発露のような軽やかで掴み難く神秘的な何かを抱く香り高い潮風への信仰だった。
 「パン」(4)と他の多くの素晴らしい詩篇、『静観詩集』(5)全部、『諸世紀の伝説』(6)のすべてを読み返されんことを。そうすれば、死んだ人間が緑の平野に融合すること、バラの花が解体した肉体から成ること、偉大な自然によって詩人の精髄が鳥の喉に分散していることを、彼が信じていたことが分かるだろう。彼があんなにも森、泉、雲、木、植物、昆虫、密かに生きるものすべてを愛したのは、感動に浸ったこの偉人が、そうしたものすべてが部分的に、かつて人間たちを作っていた物質から成っていることを感じていたからである。あまりにも小さなこの大地の上では何も消え去らず、失われず、すべては変化するのである。
 物質の一原子も、運動の一部も、どんな生命の振動も無に帰することはなく、すべてが絶えず別の物質、別の運動、別の生命を形成し、この世のすべてを構成する要素の数は無限ではないのである。
 そういう訳で、彼は恐れることなく静謐に死を待ったのだった。彼はもはやヴィクトル・ユゴーという名を持たないだろうが、それが何だろう! 彼は花々の香り、森の緑、夏の夜の心地よい空気の一部になるだろう。
 そして人々は彼を鉛の棺に閉じ込め、巨大な記念建造物の下、暗い地下墓所の底へ安置するのである!


***

 彼の作品全部、彼の詩句全部が、彼が望んでいたのは、薄い板にかろうじて遮られるだけで裸の大地のなかに置かれることだったと叫んでいる。木々や草の根が彼を探しにやって来て、彼を捕え、取り戻し、地上へ連れ帰し、もう一度日光とそよ風のなかへ運んでくれるためにである。
 彼は鉛の棺に入れられ、パンテオンが彼の上にのしかかる! そして、他の者たちのように、萌芽の永遠の絶えざる再生に交じり合うことは決してないであろう。それが人の言うところの、偉大な死者の名誉を称えるということなのだ!
 だからルイ・ブイエ(7)が我々に語ったミイラの不平が、彼にとっては本当のことになるだろう。


  遠くの音に耳を澄まし
  まだ青空に嫉妬を抱いて
  ミイラが震えながら目を覚ます
  暗い墓の奥底で。
  ・・・・・・
  おおと、ゆっくりした声でミイラが言う
  死せる後も残り続けるとは。
  ハゲワシの曲がった爪の下で
  震える肉体は幸福なるかな。
  ・・・・・・
  我が深き夜へと入らんがため
  四大がこの場を訪れる。
  我らは空気! 我らは波!
  我らは土、そして火!

  我らと共に来たれ、乾いた草原は
  緑の木々の羽飾りを望む。
  輝く蒼穹の下に来たれ
  宇宙に四散するがよい。

  我ら、汝を平原へ運ばん
  我ら、汝を揺り篭に揺すらん
  泉のささやきと
  木々のざわめきの内に。

  来たれ。宇宙の自然は
  恐らくはこの墓地にも探さん
  太陽のため、一瞬のきらめきを!
  海のため、一滴の水を!
  ・・・・・・
  そして我が腐敗なき墳墓において
  恐怖を抱きながら我は感じる
  砂のように重き幾世紀が訪れ
  我が周囲に積み重なるのを。

  ああ! 呪われよ、不敬なる民よ
  存在の飛翔を妨げ
  死の奢りの内にまどろみつつ
  醜さを保持し続ける民よ(8)


***

 偉人の亡骸についての物語はしばしば興味深いものであるだろう。そして、ひとりの詩人、ヴィクトル・ユゴーのような詩人、あるいはむしろエドガー・ポー(9)のような語り手は、パガニーニ(10)の遺体に起こった奇妙な出来事からどんなバラードを作るだろう。
 地中海沿岸を巡ったことのある者なら誰でも、カンヌ湾とジュアン湾を隔てている、レラン諸島と呼ばれるふたつの魅力的な島を知っている。
 ふたつの島は小さくて低く、松の木と茂みに覆われている。ひとつ目がサント=マルグリット島で、陸側の端に重厚な城砦があり、そこに鉄仮面(11)やバゼーヌ(12)が幽閉された。ふたつ目はサン=トノラ島で、沖側の端に、銃眼のついた昔の立派な城を波間に聳えさせている。それはまさしく詩的な物語に出てくるような城で、波のなかに建っており、そこでかつて修道士がサラセン人を相手に身を守った。それというのもサン=トノラ島は革命時を除いて常に修道士のものだったのである。革命時にはフランス座の女優に買い取られたのだった(13)
 この島の数百メートル南東に、波からわずかに覗く裸の島、サン=フェレオール島が見える。この岩礁は奇妙で、怒った獣のように毛を逆立てている。尖った岩や、石の歯と爪にすっかり覆われていてほとんど歩くことができない。この防御物のあいだの窪みに足を置き、注意して進まなければならない。
 どこからかやって来たわずかな土が穴や岩の割れ目に詰まっている。そしてそこに、ユリや可愛らしい青いアヤメが咲いている。種は空から降ってきたのだろう。
 海のただ中のこの奇妙な岩礁に、パガニーニの遺体は5年間埋められ、隠されていたのである。
 その出来事は、この天才的だが不吉な芸術家の生涯にふさわしい。彼は悪魔に憑かれていると言われたし、加えて身体も顔も大変奇妙であり、その超人間的な才能と極端な痩身から、伝説的な人物、ホフマン(14)の作品に登場するような人物だった。
 声があまりにも弱くなり、唯一彼の声を聞き取れる息子と一緒に故国であるジェノヴァに戻る途中、彼はコレラに罹り、1840年5月27日にニースで亡くなった。
 そこで息子は父の遺体を船に乗せ、イタリアへ向かった。だが、ジェノヴァの聖職者は、この悪魔憑きの男に墓を与えることを拒んだ。意見を求められたローマの法院も許可を与えようとはしなかった。それでも遺体を降ろそうとしたのだが、芸術家がコレラで亡くなったという理由で市が反対した。当時、ジェノヴァはすでにこの伝染病の被害を受けていたが、この新しい死体が災厄を悪化させるという結論が下されたのだった。
 パガニーニの息子はマルセイユに戻ってきたが、同じ理由で入港が禁じられた。それでカンヌに向かったが、やはり入港することはできなかった。
 それで海上に留まり、至る所から追い払われた、偉大で奇妙な芸術家の遺体を波に揺することになった。もうどうしていいか、どこへ行けばいいか、自分にとっては神聖なこの遺体をどこへ運べばいいのか分からなかった。その時、波のなかに、このサン=フェレオールの裸の岩を目にしたのである。彼は棺を降ろさせ、棺は小島の中央に埋められた。
 1845年になってやっと、彼はふたりの友人と共に戻ってきて父の遺骸を探し、ジェノヴァのヴィラ・ガジョナ(15)へ移したのだった。
 破格のヴァイオリン奏者が、どことも分からない岩礁、奇怪な岩場のなかで波の歌う、この切り立つ岩礁に留まったままのほうがよかったのにと、人は思うのではないだろうか?


『フィガロ』紙、1885年6月20日付
Le Figaro, 20 juin 1885.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. II, p. 1003-1008.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) Panthéon:ルイ15世の指示のもと、サント=ジュヌヴィエーヴのための教会として建設されるが、革命時代に偉人を称える霊廟に変更された。第一帝政および復古王政時代には教会、七月王政下には霊廟に戻されるが、第二帝政下では改めて教会とされた。第三共和政下で再度議論が交わされ、85年、ユゴーの遺体の移送を機に霊廟とすることが決められる。正面に「偉人たちに祖国は感謝を捧げる」と掲げられている。
(2) 1885年5月24日付『ラペル』紙巻頭記事「ヴィクトル・ユゴーの死」において、ユゴー家と親しかった作家オーギュスト・ヴァクリはユゴーの最期について語るなかで、死の前日の様子として次のように記している。「突然、5時半頃に回復のようなものが見られた。彼は健康そうな声で質問に答え、飲み物を求め、楽になったと言い、孫たちとその場にいた二人の友人を抱擁した。」だが、モーパッサンが述べているような遺言には触れられていない。
 1881年8月31日にユゴーは自筆の遺書をしたためたが、1883年8月2日に追加事項を記し、封筒に入れてヴァクリに渡した。そこには以下のように書かれていた。「私は5万フランを貧者に与える。彼らの霊柩車によって墓地に運ばれることを望む。あらゆる教会の祈祷は拒絶する。すべての魂に祈りを求める。私は神を信じている。」
 『ラペル』紙では上述のヴァクリの記事に続いてこの遺書が引用されている。そのため、この紙面を読んだモーパッサンは、「ユゴーが死の直前に遺言を残した」と誤って理解したのかもしれない。
(3) philosophes positifs:実証哲学 philosophie positive は哲学者オーギュスト・コント(1798-1857)が提唱した理念。現象を抽象的思弁によってではなく、科学的、実証的な方法によって説明することを説いた。
(4) « Pan »:詩集『秋の木の葉』(1831)所収の詩篇。神の創造による自然を称えている。パンはギリシア神話における牧神。半人半獣で笛を好む。
(5) Les Contemplations:1856年に刊行された詩集。ジャージー島に亡命中に書かれ、出版された。愛娘レオポルディーヌの死を境とし、幸福な「昔」、悲嘆と瞑想に浸る「今」の2部に分かれている。
(6) La Légende des siècles:第1集(1859)第2集(1877)、第3集(1883)からなる。人類の歴史を語った壮大な叙事詩集。
(7) Louis Bouilhet(1822-1869):詩人・劇作家。ルーアン在住で、ギュスターヴ・フロベールの親しい友人だった。詩集に『花綱と玉縁』(1859)、戯曲に『マダム・ド・モンタルシー』(1856)、『マドモワゼル・アイセ』(1872)など。モーパッサンは1868年にブイエと親交を持った。時評文「ルイ・ブイエ」(1882)などで思い出を語るとともに、ブイエの顕彰に努めた。
(8) Louis Bouilhet, « La Plainte d’une momie », dans Poésies. Festons et astragales, Librairie nouvelle, 1859, p. 77-83. ルイ・ブイエ「ミイラの嘆き」(『花綱と玉縁』所収)の一部。点線は省略を表す。
(9) Edgar Allan Poe(1809-1849):アメリカの小説家・詩人・批評家。怪奇的・幻想的小説で知られる。フランスには詩人ボードレールの翻訳によって紹介され、19世紀世紀後半の文学に大きな影響を与えた。モーパッサンの短編「けいれん」(1884) には、「アッシャー家の崩壊」(1839) などのポー作品の影響が明らかである。
(10) Niccolò Paganini(1782-1840):ニコロ・パガニーニはイタリアのヴァイオリン奏者。神童として10代からイタリアを演奏旅行し名声を得る。後にヨーロッパ各地で演奏して人気を博した。「無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲」などの作品も残した。
(11) le Masque de Fer (?-1703):1687年4月30日にサント=マルグリット島の監獄に収容された囚人。本名を言わず、常に仮面を身につけていた。1698年にバスティーユ監獄に移送される。正体についていろいろな憶測がなされ、フィクションにも描かれてきた謎の人物。
(12) François Achille Bazaine (1811-1888):軍人。ナポレオン三世の信望厚く、1864年に元帥に昇格する。1870年の普仏戦争においてはメス攻囲戦で降伏した。フランス敗北の主要因と見なされ、戦犯としてサント=マルグリット島に幽閉された。1874年に脱獄し、スペインのマドリッドに滞在する。モーパッサンは「バゼーヌ」(『ゴーロワ』、1883年4月15日)でバゼーヌの脱獄について詳しく語っている(後に『水の上』(1888)に再録)。
(13) コメディー・フランセーズの女優マリー=ブランシュ・アルジアリ・ド・ロックフォール、通称、年下のサン=ヴァル嬢(Marie-Blanche Alziari de Roquefort, dite Mademoiselle Saint-Val cadette, 1752-1836)は、フランス革命のあいだ、暴力を逃れるためにサン=トノラ島の修道院を購入して居住した。
(14) E. T. A. Hoffmann(1776-1822):ドイツの小説家。怪奇的・幻想的小説は、1820年代にフランスに移入され、ロマン主義文学に大きな影響を与えた。モーパッサンは時評文「幻想的なもの」などにおいて幻想文学について語る時、決まってホフマンとポーの名前を挙げている。
(15) villa Gajona:villa Gaione「ヴィラ・ガイオーネ」のこと。現在はヴィラ・パガニーニと呼ばれる。1820-25年に建造された後、パガニーニが購入した。正確には遺体は1844年にロマイローネの生家に移された後、1853年にヴィラ・ガイオーネに移された。さらに1876年、教皇ピウス9世の許しを得て、パルマのステッカータ墓地に、その後ヴィレッタ墓地に移される。モーパッサンが Gajona と綴っているのは写し間違えか。




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