「ルイ・ブイエ」

« Louis Bouilhet », le 21 août 1882



(*翻訳者 足立 和彦)

「ルイ・ブイエ」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1882年8月21日、日刊紙『ゴーロワ』に掲載された評論。詩人ルイ・ブイエを顕彰する目的で書かれている。
 ルイ=イアサント・ブイエ(Louis-Hyacinthe Bouilhet, 1821-1869)は詩人、劇作家。セーヌ=アンフェリュール県(現在のセーヌ=マリティーム県)カニー出身。ルーアン中等学校(現在のコルネイユ高校)でフロベールと出会い、親友となった。
 韻文物語『メレニス』(1856)でデビュー。『マダム・ド・モンタルシー』(1856)、『エレーヌ・ペロン』(1858)などの韻文劇で成功を収めた。1859年、科学を題材とした長篇詩「化石」を含む詩集『花綱と玉縁』を刊行。パリ北西郊の町マント(現在のマント=ラ=ジョリ)で暮らした後、1867年よりルーアン図書館の司書を務めた。1869年7月18日に病気のために急逝、ルーアン大墓地に埋葬された。
 フロベールの尽力により死後、詩集『最後の歌』(1872)が出版され、戯曲『マドモワゼル・アイセ』(1872)がオデオン座で上演された。1891年、ルメール書店より『作品集』が刊行されている。
ルイ・ブイエ胸像 Source Wikimedia Commons  ブイエの死後、フロベールが委員長を務める委員会は募金を集め、ブイエの墓碑を立てるが、資金が余ったため、さらにルーアン市内にブイエの像の乗った泉の制作を計画した。当初ルーアン市の許可がおりなかったために時間がかかり、1876年にようやく認可されたものの、1880年にフロベールは死去、完成を目にすることができなかった。その後、モーパッサンも委員会のメンバーに加わり、ようやくモニュメントは完成に至る。建築家ルイ・ソヴァジョ設計のルーアン美術館 Musée des Beaux-Arts de Rouen の一角に据えられた。
 本記事は8月24日に除幕式が行われるのを前に、世間の注目を集めることを目的として書かれている。末尾において、準備期間の短さゆえにパリ在住の芸術家が十分に集まれないのではないかと危惧が述べられているが、実際に式は延期されないまま簡素に済まされることとなった。モーパッサンは「詩人たち」(『ジル・ブラース』、9月7日)を発表、ルーアンの地元名士の嫉妬が原因だとして、皮肉混じりに不満を表明する。その際に改めてブイエの詩作品を称えている。
ルイ・ブイエ  本文に触れられているように、モーパッサンは1868年、ルーアン中等学校に通っている頃にブイエと出会い、彼に師事して詩作を学んだ。しかしブイエが急死したためにわずか半年ばかりの交際となった(詩篇「ルイ・ブイエの死について」)。この交流が青年詩人に与えた影響を1870年代の作品中に見いだすことは難しいが、モーパッサンはブイエを称賛することをやめず、クロニック(時評文)のなかでたびたび彼の詩を引用している(「詩人の恋愛」、「詩人たちの中国」、「偉大な死者たち」)。
 「思い出」(『ゴーロワ』、1884年12月4日)にはふたりの年長作家の姿が描かれているほか、『ピエールとジャン』冒頭の「小説論」においては、完璧な傑作という理想に関するブイエの教えが披露されている。モーパッサンにとって、ルイ・ブイエこそが理想の詩人であり続けたと言えるだろう。



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ルイ・ブイエ


 この前の水曜日にルーアン駅に届いた木箱の宛名にはこう記されていた。「ブイエ委員会委員長(1)へ」、そして下には「ギヨーム氏(2)より発送」。
 それは13年前に亡くなった詩人の胸像であり、数日後に除幕式が行われることになっている。
 それゆえ、あらゆる新聞雑誌がその名を繰り返すだろう。教養人には大いに愛されながら、こんにち公衆に読まれることの少ない彼の作品を人々は思い出すだろう。彼の生涯が語られ、その栄光が目を覚ますだろう。私はその手始めとして、優美にして力強いこの詩人について再び語ろうと思う。私は彼と知り合い、彼を愛したし、私生活における彼を目にしたのだった。
 除幕のセレモニーが行われたのち、後日、改めて彼の作品について語りたい。恐らくは、まったく未刊の詩篇や断片をお見せすることもできるだろう。今日は数行を費やして人となりについて語ろうと思うが、個人的な思い出に、彼の最も親しい友人であったギュスターヴ・フロベール(3)から聞いた事柄も交えよう。
 その頃、私は18歳で、ルーアンで修辞学級〔日本の高校2年に相当〕を修めていた。ブイエはフロベールの最も親しい仲間であったにもかかわらず、ブイエの作品を読んだことはなかった。
 町には彼を直接知る人はほとんどいなかったが、図書館員だったのでよく噂されていた。地元のアカデミーは幾らか彼を軽蔑していたが、それは郷土詩人ドコルド氏(4)の影響が理由だった。この驚くべき詩人の詩句は、アンリ・モニエによって不滅のプリュドム(5)のものとして作られたようだった。
 大衆においては、アカデミー会員の身内の者の多くがルイ・ブイエは過大評価されていると広言していたが、何人かの若者が熱烈に彼を賞賛していた。
 ある日、我々が散歩を終えて学校へ向かっていた時、自習監督が、この人物は珍しく人の評価する勉強家だったが、急に身振りで我々の歩みを止めた。そしてかつて王侯に向かってしたに違ないような尊敬と謙遜を示す身振りで挨拶した。その相手は勲章をさげた太った紳士で、長い口ひげが垂れさがり、腹を突き出し、頭をそらすようにして歩いていた。目は鼻眼鏡に隠れていた。
 散歩者が遠ざかると、我々の学習監督は長いあいだ視線で彼を追ったあとに言った。「あれがルイ・ブイエだ。」そしてすぐさま『メレニス』(6)の詩句を暗唱し始めた。その詩句は魅惑的で響きよく、愛にあふれ、すべて美しい詩句がそうであるように耳と思考を愛撫した。
 その日の夜に私は『花綱と玉縁』(7)を買い求めた。そして一か月のあいだ、この繊細な震える詩句に酔い痴れたのだった。


***

 まだ若かったので、尊敬の念をもっておずおずとしか近づけなかったフロベールに、ブイエの家に連れていってもらうことはよく頼まなかった。それでひとりで出かける決心をしたのだった。
 彼の住まいはビオレル通り(8)、地方の郊外にあって町から田舎へ通じるあの終わりのない通りのひとつにあった。一方の端はたくさんの家々のあいだに流れ込み、もう一方は最初の燕麦畑や小麦畑のなかに消えてしまうといった通りだ。通りの両側は壁や生垣で、小さかったりずいぶん大きかったりする庭を囲っている。住居はその囲いの奥にあって、通りからは離れている。
 高い壁にはめ込まれた小さな扉に吊るされた鉄の紐を引っ張ると、ずっと向こうで鈴が鳴るのが聞こえた。長いあいだ誰も出てこなかった。私が立ち去りかけた時、近づいてくる足音が聞こえた。扉が開いた。目の前に、自習監督が挨拶した太った男性が立っていた。
 彼は驚いた様子で私を眺め、私が話すのを待っていた。私はといえば、鍵が回っているあいだに、三日前から準備したお世辞に満ちた巧みな演説をすっかり忘れてしまっていた。ただ単に自分の名を告げた。彼はずっと前から私の家族を知っていたので、私に手を差し出してくれた。私は中へ入った。
 果樹やその他の陰を作る木々が植わった広い庭の先に、ごく素朴な正方形の住宅があった。まっすぐな道の両側は花で縁取られていた。専門の庭師が花壇の周りをくねらせる単純な線ではなく、あらゆる種類、あらゆるニュアンスからなる見事な花々の二列のクロス、ふたつの幅広い生け簀さながらで、混ざり合った香りが空気を濃くしているようだった。
 それは詩人の情熱のひとつだった。私はペダントリー混じりに古い詩句を暗唱してみせた。

  それから本に疲れると、私は花々を眺めた。
  有用、誠実で、魅力的な仲間。
  別のものならおしゃべりで頭をうるさがらせただろう(9)

 その時、ブイエは私の方を振り向いてほほ笑んだ。その時に初めて、あの見慣れない魅力的な微笑を目にしたのだった。それこそまさしく彼の顔に固有の明確で特徴的な印だった。
 人はただ唇だけでほほ笑むものだ。彼は唇よりも視線でほほ笑むのだった。
 幅広で善良そうな目、どこまでも善良で鋭い目に、からかうようでも歓迎するようでもある小さな光が点っている。そこにははっきりと、いつでも油断なく鋭いが父性的でもある皮肉が見られた。それは彼の芸術家としての性質の本質そのもの、頑強な層であるようだった。それというのもこの優しく、優美でコルネイユ的な詩人は、生来的に優しく、洗練さゆえに優美で、文学的教養と意志によってコルネイユ的であるのだが、彼は誰よりもからかい好きの才気、刺すような観察眼、辛辣だが決して残酷ではない言葉を備えていたのである。彼の笑いは善良な子どもの笑いだった。
 私は住まいに入った。詩人の簡素な室内であり、彼は繊細な装飾を探し求めることはなかった。むしろ学者の部屋だったが、それというのも彼はその時代の最も優れた人文主義者のひとりだったのである。


***

 彼のデビューは困難な、とても困難なものだった。彼は姉妹に自分の相続分の遺産を分け与え、ラテン語とギリシャ語を熱心に学んだあとに医学を勉強し始めた。
 マクシム・デュ・カン氏(10)は、無遠慮な文学的打ち明け話のなかで彼について記している。「彼の知らない古代ギリシャやローマの詩人は存在しなかった。彼は習慣としてそれらを読んでいたが、少しも衒学者ぶるところがなかった(11)。」
 制作の欲求に駆り立てられ、彼は生活のために授業を持ちながら詩作を続けた。その頃に『メレニス』、優美さと力とリズムに富んだ、見事な素晴らしい作品を作った。恐らくは彼の一番の傑作だろう。
 それから彼はパリにやって来て、『マダム・ド・モンタルシー』(12)によって最初の大きな成功を得た。次いでマント、それから人生の終わりにはルーアンに住んだ。劇場での最後の成功は『アンボワーズの陰謀』(13)だった。
 2冊の詩集、『花綱と玉縁』と『最後の歌』(14)によって、彼は今世紀の第一級の真の詩人に分類されるだろう。
 彼の大きな不幸は常に貧しかったこと、あるいはパリに来るのが遅過ぎたことにある。パリは芸術家たちを育てる堆肥である。そこにおいて石畳の上を歩き、活気に満ちてくらくらさせる空気に頭を浸さなければ、才能を完全に開花させることはできない。それもただやって来るだけでは十分ではない。そこに属することが必要であり、その家々、住民、思想、風俗、内輪の習慣、からかい、機知に、早くから親しまなければならないのだ。どれほど偉大で力強く才能があったとしても、骨の髄までパリジャンになれなければ、何か地方的なものが残ってしまう。ブイエの超然とした詩は偉大な詩人の最も美しい作品にも比肩するが、演劇においては、稀に見る豊かさを備えてはいるのだが、幾らか型にはまった偉大さを好む傾向が見られる。多くの者のように二十歳でパリの大通りへやって来ることができていたら、そうしたものは捨て去られたことだったろう。
 6か月の間、ある時は彼の家、ある時はフロベールの家で、私は毎週彼に会った。彼は公の場では内気だが、親しい間柄においては比類ない才気、肥沃な才気にあふれ、古典的な堂々とした様子で、叙事的な息吹と繊細さに満ちていた。
 ある日、彼が重い病気だということを知った。その翌日に突然、亡くなってしまったのだった。
 そして私は思い出す。群集、鋭敏な繊細さを持たない鈍感な群集が、彼の花々を踏み荒らし、花壇を壊し、ナデシコやバラ、彼が歌うような優しい愛情で愛した一切を押し潰し、樫でできた重たい棺の周りに押し寄せたことを。そして棺をかつぐ四人の葬儀人夫は、小道の端から端まで、青い花々による二列の繊細な縁飾りを目茶目茶にしていったのだった。
 私は機械的に、最後の書物の末尾の作品に読まれる悲しい詩句を繰り返していたのだった。

  今日、私が愛するのは
  腕の黒い墓掘り人夫の跡取り娘、
  毎夜、私は忠実に出かけていく
  墓場での逢い引きへ。

  ざく、ざく、ざくと耳に聞こえる
  夜に穴を掘る老人の鋤の音。
  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・

  ある日、やがて、いつ? 分からない
  お前の家から四歩のところ、
  私は芝生の下に眠りにいくだろう。
  お前はまだ魅力的なことだろう!
  ・・・・・・・・・・(15)


***

 記念碑の除幕式は今月24日に行われると、地方の新聞が告げたばかりだ。この知らせが否定され、もっと先に延ばされることを期待しよう。亡くなった詩人の胸像の前に、現在のフランスの老若すべての詩人、バンヴィル(16)、コペー(17)、シルヴェストル(18)、マンデス(19)、ブールジェ(20)らを招くことができるはずのセレモニーをこんな風に急ぐことで、当日、モニュメントの周りに数少ないルーアン在住の教養人と、作家の特別の友人しか集まらない危険があるし、それでは不十分なことだろう。

ギィ・ド・モーパッサン


『ゴーロワ』紙、1882年8月21日付
Le Gaulois, 21 août 1882.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 561-565.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF;
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rouen_-_Monument_%C3%A0_Louis_Bouilhet_-_Rue_Villon_-_02.jpg)




訳注
(1) 委員長を務めていたのはLe Flé ル・フレ医師。
(2) Eugène Guillaume (1822-1905):彫刻家。1864-78年にパリ美術学校の校長、82年からはコレージュ・ド・フランスの教授を務めた。
(3) Gustave Flaubert(1821-1880):小説家。精密な考証を基に、推敲に推敲を重ねて小説を執筆した。『ボヴァリー夫人』(1857)、『感情教育』(1869)などの作品は後世に大きな影響を与える。他に『サラムボー』(1862)、『聖アントワーヌの誘惑』(1874)、『三つの物語』(1877)、『ブヴァールとペキュシェ』(未完、1881)。モーパッサンは1870年代を通してフロベールに師事し、文学について多くを学ぶ。80年代には「ギュスターヴ・フロベール」(1884)をはじめ、いくつもの記事の中で亡き師について語っている。
(4) Adolphe Decorde(1817-1901):弁護士、作家。ルーアンの科学・文芸アカデミー会員だった。ブイエの死後、1871年、フロベールが委員長を務めるブイエ委員会はブイエの像を乗せた泉の制作をルーアン市に申請するが、市議会はこれを拒絶した。その報告書を作成したのがドコルドだった。フロベールは1872年1月26日付『タン』紙に、「ルーアン市に対し、その費用は公衆の寄付によるところの、ルイ・ブイエの胸像を乗せた泉のための4平方メートルの用地の提供についての市の拒絶に関する、ギュスターヴ・フロベール氏の書簡」を発表し、抗議を表明した。その後、1876年になって市議会は記念碑の制作を承認するに至る。
(5) Joseph Prudhomme:風刺画家アンリ・モニエ(1799-1877)が創作した人物。愚鈍なブルジョアの典型。
(6) Melænis, conte roman, Michel Lévy Frères, 1856. 『メレニス ローマの物語』は韻文作品。古代ローマの雄弁家パウルス、按察官の娘マルシア、踊り子メレニスによる愛憎劇。
(7) Poésies. Festons et Astragales, Librairie nouvelle, 1859.
(8) Rue de Bihorel:ルーアン市の北にある通り。ブイエはこの通りの43番地に住んでいた。モーパッサンはrue Bihorelと記している。
(9) Pierre de Ronsard, « Élégie », dans Sonnets pour Hélène, 1578. ピエール・ド・ロンサール『エレーヌに捧げるソネ』第2集、「エレジー」。ただしモーパッサンの引用には誤りがある。ロンサール(1524-1585)はプレイヤッド派の詩人、フランス詩の改革に貢献した。
(10) Maxime Du Camp(1822-1894):作家、写真家。1851年、『パリ評論』創刊者のひとり。創作に『自殺者の回想録』(1853)、詩集『現代の歌』(1855)、『失われた力』(1867)など。旅行記に『東洋の思い出と光景』(1848)、『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア』(1852)など。歴史書に『パリ、その起源、機能、生命』(6巻、1869-1875)、『パリの痙攣』(4巻、1878)。回想録に『文学の思い出』(2巻、1882-1883)などがある。1880年にアカデミー・フランセーズ入会。
(11) Maxime Du Camps, Souvenirs littéraires, troisième édition, Hachette, 1906, t, I, Cinquième partie, « IX. Les Deuils », p. 234. マクシム・デュ・カン『文学の思い出』、第5部第9章「服喪」。
(12) Madame de Montarcy, Michel Lévy Frères, 1856. 1856年11月6日、オデオン座で初演、計78回上演された。ルイ14世の宮廷でブルゴーニュ夫人の侍女となったモンタルシー夫人を主人公とした愛憎のドラマ。
(13) La Conjuration d’Amboise, Michel Lévy Frères, 1867. 5幕の韻文劇、1866年10月29日、オデオン座にて初演。1560年、コンデ公とブリッソン伯爵夫人との恋愛を軸とした歴史劇。
(14) Dernières chansons, Michel Lévy Frères, 1872. 『最後の歌』はフロベールの尽力によって作家の死後に出版された。
(15) Louis Bouilhet, « La Fille du fossoyeur », dans Dernières chansons, éd. cit., p. 317, et p. 320. ルイ・ブイエ「墓掘り人夫の娘」(『最後の歌』所収)。点線は省略を表す。
(16) Théodore de Banville(1823-1891):詩人。『人像柱』(1842)、『鍾乳石』(1846)などで詩形式の完成に専念。『綱渡りのオード』(1857)出版後、『ルヴュ・ファンテジスト』や『現代高踏派詩集』で高踏派の中心のひとりとして活躍した。他の詩集に『抒情小曲集』(1856)、『流謫者』(1867)、戯曲に『グランゴワール』(1866)など。『フランス詩小論』(1871)において韻の重要さを主張、この詩の概説書は当時の文学青年によく読まれた。1880年代には多数の小説も執筆している。バンヴィルは1883年にモーパッサンについての批評「誠実さ」を発表している(1885年、『幻想書簡集』に収録)。
(17) François Coppée(1842-1908):詩人、小説家、劇作家。高踏派の詩人として出発するが、庶民生活を素朴に表現して人気を博した。『貧しき人々』(1872)、『赤い手帳』(1874)、『物語とエレジー』(1878)、詩劇『王位のために』(1895)など。『散文による短編』(1882)などの小説も著した。1884年、アカデミー・フランセーズ会員。
(18) Paul-Armand Silvestre(1837-1901):詩人、小説家、劇作家。『新旧詩篇』(1866)、『再生』(1870)などでセンチメンタルな高踏派詩人として知られたが、1880年代に入ると艶笑譚を大量に発表、スカトロジックな内容も多く異彩を放った。短編集に『友人ジャックのいたずら』(1881)、『腕白小僧の回想』(1882)など。モーパッサンは短編「咳」(『パニュルジュ』、1883年1月28日)をシルヴェストルに捧げている。
(19) Catulle Mendès(1841-1909):詩人、小説家、劇作家。1860年、『ルヴュ・ファンテジスト』を創刊し、高踏派の詩人として出発。詩集に『フィロメラ』(1863)等。オペラ『グゥエンドリン』(1886、エマニュエル・シャブリエが音楽)、『イゾリーヌ』(1888、アンドレ・メサジェが音楽)でも成功を博した。小説に『童貞王』(1881)、『メフィストフェラ』(1890)など。ワーグナーを擁護したことでも有名。1866年、ジュディット・ゴーティエ(1845-1917)と結婚(1878年に法的別居、1896年に離婚)。モーパッサンは1870年代にマンデス編纂の雑誌『文芸共和国』で彼と知り合った。
(20) Paul Bourget(1852-1935):批評家・小説家。詩人として詩集『不安な生』(1875)、『告白』(1882)などを出版。1883年、『現代心理論』で批評家として注目され、後に活動の場を小説に転じる。『弟子』(1889)、『コスモポリス』(1893)。モーパッサンとは1870年代に雑誌『文芸共和国』を縁に出会い、以後も交流があった。モーパッサンが死去した折には追悼文「個人的な思い出」を寄せている。




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