「『ニヒリズム』の語の発明者」

« L'Inventeur du mot « nihilisme » », le 21 novembre 1880



「『ニヒリズム』の語の発明者」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1880年11月21日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された評論で、ロシアの作家イヴァン・トゥルゲーネフ(Ivan Tourgueniev, 1818-1883)を紹介している。
 トゥルゲーネフはフランスに長く滞在し、とくにフロベールとの親交が深かった。ゾラやモーパッサンをロシアに紹介することにも貢献した。
 モーパッサンはフロベールの家でトゥルゲーネフと出会い、このロシア作家を深く敬愛した。1880年5月のフロベールの死去からしばらくして、この一文がトゥルゲーネフに捧げられているのは、「もう一人の師」に弟子が捧げたオマージュだったと言えるだろう。
 なおこの種の記事をあまり喜ばなかったトゥルゲーネフに対し、モーパッサンは11月16日の書簡において、『ゴーロワ』では純粋な文学記事は好まれないので、「ニヒリズム」という流行の語と関係づけることが必要だとし、トゥルゲーネフから始めて「外国作家たち」についての記事を続ける意向を述べているが、実際にそのような記事が書かれることはない。Cf. Alexandre Zviguilsky, « Correspondance Tourguéniev - Maupassant », Cahiers Ivan Tourguéniev, no 17-18, 1993-1994, p. 128.
イヴァン・トゥルゲーネフ  論の最後に、モーパッサンは短編小説家としてのトゥルゲーネフの才能を称賛している。「脂肪の塊」の作者自身の趣向の表れであろう。モーパッサンはこの時期、最初の短編集となる『テリエ館』の準備中だった。
 1883年、トゥルゲーネフの死去に際して、モーパッサンは追悼文「イヴァン・トゥルゲーネフ」(9月5日)を執筆する。もうひとつの追悼文「イヴァン・トゥルゲーネフ」(『ジル・ブラース』、9月6日)には、本記事「『ニヒリズム』の語の発明者」の文章が再利用されている。


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「ニヒリズム」の語の発明者


 我々の偉人や小人物でさえも、皆、外国でも知られている。我々の国には、その名が海を越え、山を越え、イギリス、ドイツ、あるいはロシアの新聞に定期的に名前の挙がらない、それほどに貧相な文学者や凡庸な政治家は存在しない。
 反対に、我々の国では隣人たちのことを何も知らないが、彼らの中にも有能な者や天才さえもが存在する。だがその評判はフランスの国境どまりなのである。
 たとえば、今世紀のロシアの作家で五本の指に数えられる者のうち、教養あるフランス人のもとにまで名声の届いている者はといえば、間違いなく三人を超えない。
 しかしながら将来において、これら五人の作家は、先駆者としてのみでなく古典作家として、ロシア文学の父として跡を残すことだろう。その作家とは、まずはプーシキン、若きシェークスピアであったが、才能の花開く最中に亡くなった。それは彼の表現によれば、彼の魂が広がっていた時、「力強い作品を着想し、産み出すことができる」とみずから感じていた時のことだった。
 彼は「決闘」で1837年に殺された。
 レールモントフ、バイロン的詩人にして、バイロンよりも一層に独創的、より生き生きとして、より心震わせ、より力強かった――1841年に「決闘」において27歳で殺された。
 このような存在を破壊した者たちは人類の憎悪を被ってしかるべきではないだろうか。彼らの生命は人間の精神にとって、そして後世のすべての世代にとって重要であるのだから。
 ゴーゴリ、小説家で、バルザックとディケンズの家系に属し、1851年に亡くなった。
 レオン・トルストイ伯爵、彼はまだ存命である。現代世界の最も偉大な作家のひとりであり、昨年フランスでも成功を収めた『戦争と平和』と題されたあの素晴らしい書物の作者である。
 最後にイヴァン・トゥルゲーネフである。我々のうちでもよく知られたパリ人であり、「ニヒリスト」の語の発明者、今日では大変に強力なあのセクトの存在を最初に示した者であり、彼はいわば合法的にその名を付与したのである。
 文学者という職業のお陰で、彼はたえず自分の周りを観察し、精神の新しいあり様、民衆のうちの脳の病の特殊な発作、まだ知られておらず、認められてもいなかった政治的、哲学的高揚に最初に気がついたのであるが、それがロシア全体をひっくり返すに違いなかったのである。
 真の水夫は遠方から嵐を予感するものである。真の作家とは、バルザックがそうしたように、前を見据え、未来を見抜くのである。
 トゥルゲーネフがこのロシア革命の種子を認めたのは、それがまだ地下で芽を出しながらも、日の下に芽吹く前のことであった。それがなされた一冊の書物、『父と子』は大きな騒ぎを呼び起こしたが、その中で、彼は生まれたばかりのこの種のセクトの精神的状況を確認したのである。それをはっきりと指し示すために「ニヒリスト」という語を発明し、創り出したのだった。
 世論はいつでも盲目なものであり、憤慨したり、冷笑したりした。青年たちはふたつの陣営に分かたれた。一方は抗議したが、他方は称賛し、宣言した。「これは本当であり、彼だけが正しく見たのである。我々は彼が断言する通りのものである。」この時から、いまだ定まっていなかった「空気中にあった」教義が明確に定義され、「ニヒリスト」たち自身が真に自分たちの存在と力とを意識し、恐るべき党派を形成したのである。
 別の書物、『煙』において、トゥルゲーネフは革命家の精神の進展と歩みを追ったが、同時にその欠点、彼らの非力さの原因をも追及した。そして彼は一度に両方の陣営から攻撃され、彼の不偏不党ぶりゆえに、敵対する両派の過激集団が彼に反対して寄り集まったのである。それというのもロシアにおいてはフランスにおいてと同様に、ある党派に属していなければならないのである。権力の友にでも敵にでもなりたまえ。白でも赤でも信じるがいいが、とにかく信じたまえ。もしも揺るぎない懐疑家として、静かに観察するだけでよしとするなら、もしも自分には二義的と思えるような争いの外に留まるなら、あるいは、もし一方の集団に属していながら、友人たちの過失や狂気に異議を唱えようものなら、危険な猛獣として扱われることになるだろう。至る所で狩り出されることになるだろう。裏切り者、背教者として侮辱され、罵倒されるだろう。それというのも、宗教においても政治においても、あらゆる人々が憎む唯一のものとは精神の本当の独立だからである。
 トゥルゲーネフはゆえあって自由主義者だとみなされていた。革命家たちの弱点を語ったので、偽の兄弟として扱われた。それでも彼は、この絶えず増大してゆく党派についての自分の研究を続けた。この党派は大変に興味深いと同時に危険であり、今日では皇帝を震えあがらせている(1)。そして彼の最新巻、『処女地』は、驚くべき明晰さによって現在のニヒリズムの精神状態を示している。
 幾人かの執拗な侮辱にもかかわらず、彼の人気はロシアではとても高く、サンクト=ペテルブルクに帰るたびに喝采が待ち受けている。とりわけ若者が彼を崇拝している。とはいえ、彼に対するこの好意の最初の理由は、すでに遠い昔となった時代、彼の最初の書物が世に出た時にまで遡るのである。
 彼はまだ大変に若かった。デビューしたてのすべての小説家と変わらず自分を詩人と思っていて、幾つかの詩を作って出版したが大きな成功は得られないでいた。その時、失意が襲ってくるのを感じて、文芸を断念する心構えもありながら、彼は哲学を学びにドイツへ行こうとしていたのだが、そこに、ロシアの有名な批評家ベリンスキー(2)からの思いがけない励ましが届いたのだった。この人物は彼の国の文学動向に決定的な影響力を持っていたし、その権威はといえば、どの時代の、どの国のどんな批評家も持ちえなかったほどに広く支配的なものだったのだ。当時彼は『同時代人』という名の雑誌を編集しており、この雑誌のための散文の小品をトゥルゲーネフに要求したのだった。
 トゥルゲーネフは若く、情熱的で、自由主義者で、地方の真中、ステップの中で育ち、自分の家で農民がその苦しみと恐るべき労働のうちに、その従属と悲惨のうちにあるのを目にしており、慎ましやかで忍耐強いこの労働者に対して深い同情の念を抱き、抑圧する者に対しての憤慨に満ち、圧政に対する憎しみに溢れていた。
 彼は数頁のなかにこの悲しい不運な者の苦しみを描いた。たくさんの情熱と、真実と、激しさと、文体とでもって描いたので、大きな感動が社会のあらゆる階層に広まった。急で思いがけないこの成功に押しやられ、彼は一連の、常に田舎の人々からくみ取られた短いエチュードを続けて発表したが、ひとつの的を狙うたくさんの矢のように、これらの頁のそれぞれは領主による支配、農奴制の醜い規則を、全霊を込めて攻撃しているのである。
 そのようにして作られたのが、以後歴史的なものとなったあの著作であり、その題は『あるロシア領主の回想』〔『猟人日記』〕という。
 だがこれらの切り取られた断片全部を一冊の書にまとめようと望んだ時に、永遠なる検閲がその拒否権を行使した。列車の中で偶然にこの後見的制度の委員の一人とさし向いになったお陰で、公的な人物によって与えられる認可を著者は得ることができたが、この人物は自分の立場でこの親切の支払をしてくれたのである。
 書物は大変な反響を呼び、差し押さえられ、逮捕された著者は一か月監禁されて過ごしたが、それは刑務所ではなく留置所の中で、浮浪者や追い剥ぎと共に過ごしたのだった。それからニコライ皇帝(3)によって亡命させられた。
 皇太子によって要求されていたにもかかわらず、恩赦には長い時間を要した。その理由は恐らくは、皇帝の相続者の求めに応じて皇帝に一通の書状を送ったのだが、そこでトゥルゲーネフは皇帝の「神聖なる御足」(「あなた様のまことに慎ましくまことに身を低くする従者」という我々の平板な決まり文句の異文)に対してまったく平伏しなかったことによるのであろう。
 彼はずっと後になってから国に帰ったが、もうそこに住むことはなかった。
 ようやく、1861年2月19日、ニコライの息子、アレクサンドル皇帝が農奴制の廃止を宣言した。毎年記念の祝宴が設けられ、この政治的大事業に関わった者皆が出席した。さて、この会合のある一日、有名なロシアの政治家ミリューチン(4)が、トゥルゲーネフに向かって杯を掲げながら言ったものである。「皇帝は特別に私にお命じになられました。農奴解放を決心するに至った大きな理由のひとつが、あなたの書物『あるロシア領主の回想』を読んだことであったとあなたに伝えるようにと」
 この書物はロシアにおいては民衆のものであり、ほとんど古典となって残っている。誰もがそれを知っており、暗記し、称賛している。それが著者の作家として、自由主義者としての評判の源であり、彼のことをほとんど「解放者」と呼んでもいいだろうが、同時に、その書物は彼の民衆のあいだでの人気の原則ともなっている。トゥルゲーネフの作品は大変に豊富である。ここでは分析したり、すべての著作を引用したりする代わりに、大変に美しい別の小説『春の水』の名を挙げておこう。とはいえ、この作家の独創性が一番現われているのは、恐らくは短い小説の中においてであり、彼はまず何よりも短編作家の大家である。
 一級の心理学者、生理学者にして芸術家である彼は、数頁のうちに絶対的な作品を構成することが出来るし、驚くほど巧みに状況をまとめ上げ、生き生きとして触知できるような感動的な人物を描くことができるが、それも幾つかのあっさりした大変に巧妙な筆致でなし遂げるので、一見したところは大変に単純な手段によってどうしてこれほどの精彩が得られるのか、理解できないほどなのである。これらの短い物語からは憂鬱さが蒸気のように立ち上ってくる。それは事実の下に隠された深い悲しみである。彼の創り出す作品において呼吸される空気は、いつでもそれと見分けられる。それは精神を深刻で苦い思想で満たし、さらには肺に見慣れない特別な香りをもたらすかのようである。現実主義であると同時に感傷的な観察家である彼は、唯一彼のものである、彼のものでしかない調子を付与するのだった。完全な力強さのうちにその調子を見いだすことができるのは、次のような短い傑作である。すなわち『不幸な女』――『ステップの貴族(5)』――『三つの出会い』――『余計者の日記』などである。
 トゥルゲーネフは、今日、ほぼ一年中をフランスで過ごしている。そこには多くの友人たちがいる。ヴィアルド家(6)、エドモン・アダン夫人(7)、『タン』紙主筆のエブラール氏(8)、エドモン・ド・ゴンクール、ゾラ、ドーデ、エドモン・アブー(9)といった小説家や、その他多くの者たちである。ギュスターヴ・フロベールは情熱を込めて彼を愛し、尊敬していた。
 恐らく、我々の多くが気づくことのないままに彼に出会っている。彼は音楽を愛し、できる限り頻繁にそれを聴きにゆくので、コロンヌのコンサート(10)の常連は、毎冬、白い顎ひげ、長い白髪をした、永遠の父のような顔をした一種の巨人を見かけている。その物腰は静かで、鼻眼鏡の奥の目は穏やか、まったくもって優れた人物の様相をしており、貴族の気品でも外交官の落ち付きでもない「何か」、一種の質朴な尊厳、才能の持つ静謐さがあるのだ。もっとも、ほとんどのフランス作家よりも彼は慎み深い。彼は、決して自分について語られることのないようにしている、そんな風にさえ思われることだろう。

『ゴーロワ』紙、1880年11月21日付
Le Gaulois, 21 novembre 1880.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 106-109.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) アレクサンドル二世は、1881年3月13日に暗殺され、息子がアレクサンドル三世として跡を継ぐことになる。
(2) Vissarion Belinski, ou Bielinski (1811-1848) :批評家。リアリズムの理論家で、ロシア小説の発展に貢献した。
(3) ニコライ一世 (1796-1855) :アレクサンドル一世の弟で、兄の死後、1825年皇帝に即位。
(4) Nicolas Milutine (1818-1872) :ロシア帝国の政治家。農奴解放令の主要な立案者として知られる。
(5) Le Gentilhomme de la steppe :『猟人日記』所収「チェルトプハーノフの最後」(1870) の仏訳題。1872年12月1日付『両世界評論』に掲載。
(6) Louis Viardot (1800-1883) :作家。妻ポーリーヌ(Pauline, 1821-1910)は音楽家エマヌニュエル・ガルシア Emmanuel Garcia の娘で、有名な歌手だった。1843年に彼女に会ったトゥルゲーネフは、彼女を追ってフランスに移住。以後、生涯に渡って交際を続けた。
(7) Juliette Adam (1836-1936) :旧姓ランベール。1867年弁護士、代議士のエドモンと結婚。第二帝政下、彼女のサロンにはガンベッタを中心とした協和派が集まった。1879年に『ヌーヴェル・ルヴュ(新評論)』を創刊。多くの作家と親交を持ち、自身も小説を執筆した。
(8) Adrien Hébrard (1833-1914) :『タン』紙のジャーナリストで、1872年より主筆。1879年に上院議員に。
(9) Edmond About (1828-1885) :作家、ジャーナリスト。短編集『パリの結婚』(1856)、『地方の結婚』(1868)で風俗を描く一方、『山の王』(1857)、『耳のつぶれた男』(1862)、『公証人の鼻』(1862)などの喜劇的作品で成功を収めた。1884年、アカデミー・フランセーズ入会直後に死去。
(10) ヴァイオリニスト、指揮者のエドゥアール・コロンヌ(Édouard Colonne, 1838-1910)が1873年に創設したコンサート協会。シャトレ劇場でのコンサートが好評を博した。


(*翻訳者 足立和彦)

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