「ギュスターヴ・フロベール」
« Gustave Flaubert », le 24 novembre 1890
(*翻訳者 足立 和彦)

なお、同日付『ジル・ブラース』に「フロベールと彼の家」が掲載されている。
モーパッサンは最初に公表した評論が「ギュスターヴ・フロベール」 (1876) であったが、奇しくも作家としての活動のほぼ最後の時期に、改めて亡き師について語っている。彼の作家活動はまさしくフロベールの記憶と共にあったと言えるだろう。その間には、1884年の長大な評論「ギュスターヴ・フロベール」が書かれている。

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ギュスターヴ・フロベール
ギュスターヴ・フロベール
私はすでに、作家としてのギュスターヴ・フロベールについて言いたいことはすべて公表した(1)。そこで少しばかり人間について話そうと思うが、彼はどんな類の暴露も好まなかったから、無遠慮な情報を明かすつもりはない。私はただ、彼の故郷のルーアンの町に友人たちがシャピュ氏(2)の見事な作品を贈るに際して、彼の性質の幾つかの特徴的な面をお示ししたいだけである。私がフロベールを知ったのはずいぶん遅かった。彼の母と私の祖母は幼友達だったのだが、状況によって友だち同士は引き離され、両家族は離れ離れになったのだった。それゆえ、幼少時代にはほんの二三度しか彼を見たことはなかった。
戦後、パリに出て来て一人前の大人になってから、私は彼のもとを訪れ、それが私たちの関係にとって決定的なものとなった。その思い出は私の内に留まって消えることはない。
彼の文芸に対する度を越した愛情は、その一部分を、人生の初めにおいて最も内密で親しかった友人、若くして亡くなった私の伯父アルフレッド・ル・ポワトヴァンによって吹き込まれたと、彼は語ったし、自身で書き記してもいる。アルフレッドは芸術家の道の最初の導き手であり、いわば〈文芸〉の人を陶酔させるような神秘を啓示したのだった。彼と交わした書簡の中に、私は次のような文を見いだす。
「ああ! ル・ポワトヴァン、彼はどれほど夢の中へと飛び立たせてくれたことか! 私はあの時代の傑出した人物のすべてに会ったが、彼に比べれば小物にしか見えなかった(3)。」
彼はこの友情に対する崇拝と信仰を守りつづけたのだった。
私を出迎えてくれた時、注意深く私を調べながら彼は言った。「いやはや、君は亡きアルフレッドになんて似ているんだろう。」そしてこう続けた。「もっとも、彼は君のお母さんの兄なのだから、驚くことはないわけだ。」
彼は私を座らせると質問してきた。私の声もまた、伯父の声とそっくりなイントネーションを持っていたようだ(4)。突然、フロベールの目に涙が溢れるのを目にした。修道服に似た袖の広い茶色の大きな衣服に足先から首まで包まれた彼は立ち上がり、腕を上げると、過去への思いで声を震わせながら私に言った。
「ねえ君、抱擁してくれたまえ。君を見ていると心を動かされる。さっき、アルフレッドが話すのを聞いている気になったよ。」
間違いなくそこに、彼が私に示してくれた大きな友情の真の深い理由があったのだろう。
確かに、私は失われた青春を再び彼にもたらした。それというのも、ほとんど彼のものであった家族の中で育ったので、彼の人生の最初の十五年間を育くんだ考え方、感じ方、表現の仕方や言い回しの癖さえも、私は彼に思い出させることになったからである。
彼にとって私は一種の〈昔〉の再来だったのだ。
彼は私を惹きつけ、私を愛した。人生において幾らか遅れて出会った人の中で、私が深い愛情を感じ、その愛着が一種の知的保護となった唯一の人物が彼だった。彼は、常に私にとって善きもの、有用なものであろうとし、自分の経験や知識の中から、労働と研究と芸術家としての陶酔の三十五年の中から与えうるもののすべてを私に与えようとしてくれたのである。
もう一度繰り返すが、作家についてはよそで話したので、それについてはもう何も言う気はない。こうした人物についてはその書を読むべきで、彼らについて下らない話をするべきではない。
彼の私的な性質の内の二つの特徴だけを指摘しよう。それは人生経験によって決して弱まることのなかった、印象や感動への純真な鋭敏さと、身内への情愛や友人への献身における忠実さであり、それは他に例を見ないものだった。
ブルジョア(彼はそれを考え方の卑しい者と定義していた)を嫌悪していたので、同時代人の大半にとって、彼は毎食事に金利生活者をたいらげる、情け容赦のない人間嫌いとして通っていた。
反対に、彼は言葉は激しいが穏やかな人間であり、その心は一人の女性に深く動かされたことはなかったと思われるが、とても優しい人物だった。死後に公開された書簡について多くのことが言われ、書かれたし、最近公開された書簡を読んだ者は、そこに恋文が溢れていたので、彼が大きな情熱に捕われていたと信じただろう。彼の愛し方は多くの詩人と同じで、自分が愛している女性について思い違いをすることで愛していたのだ。ミュッセ(5)も同じことをしたのではないだろうか。少なくとも彼は〈彼女〉と一緒にイタリアやスペインの島々に逃避し、不十分な愛情に旅の背景や、彼方での孤独という伝説的な魅惑を付け加えはしたけれども。フロベールはといえば、女性から離れたまま一人で愛すること、自分の書物に囲まれながら、散文を書く合間に彼女に手紙を書くことのほうを好んだのだった。
彼女は返信のたびに、自分に会いに来ないこと、侮辱的な執拗さで自分なしに過ごそうとすることを激しく非難したので、彼はマントで彼女と会う約束をし、有益な義務を達成することに勝者のような満足を感じながら彼女に告げている。「来週、僕たちは素晴らしい午後を一緒に過ごせるんだと思ってみてごらん(6)。」
一人の女性を真の感情で愛していたら、彼女のそばで全生涯を過ごしたいと狂おしく願うものではないだろうか?
ギュスターヴ・フロベールは生涯にわたって唯一の情熱と、二つの愛情に支配されていた。その情熱とは〈フランス語の散文〉へのものであり、愛情の一方は母親へ、もう一方は書物へと向けられていた。
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人間として思考を始めた日以来、脳の恐るべき努力に打ち倒され、首を膨らませて横たわっているのを私が目にした日まで、彼の全存在は〈文学〉の、より正確には〈散文〉の虜だった。彼の夜は、文章のリズムに取り憑かれていた。クロワッセの書斎での眠らない長い夜の間、朝まで灯るランプはセーヌ川の釣り人にとって信号の役を務めていたが、彼は愛する大家たちの遺した調和のとれた文章を朗読するのだった。大きな口ひげの下、唇から出る響きのよい言葉は、そこで接吻を受け取っているかのようだった。イントネーションは優しかったり激しかったりし、愛撫と魂の高揚に溢れていた。間違いなく、好きな友人を相手に、ラブレー(7)、サン=シモン(8)、シャトーブリアン(9)の長い一節や、ヴィクトル・ユゴー(10)の詩句を暗唱すること以上に、彼の心を揺り動かすことは存在しなかった。それらの言葉は荒れ狂う馬のように彼の口からほとばしるのだった。
書くことの痛ましい苦労や、思考と形式の神秘的な調和に十分に満足できないという彼の置かれていた状態は、恐らく部分的には、あらゆる言語、あらゆる時代、あらゆる国の大家に対する無制限の賞賛から生まれたのだろう。彼の実現不可能な理想は、とても美しく、あまりに異なったものについての記憶の総体に由来していた。彼は叙事的、抒情的であり、そして同時に、人生にありふれた卑俗さに対する比類のない観察者でもあった。そして超人的な努力によって、造形的美への趣向を服従させ、屈服させて、世界の日常的で凡庸なあらゆる細部を綿密に表現するに到ったのだ。
結果として、彼の博識は創作に対しては幾らか邪魔であったかもしれない。まずもって学者であった古代の教養人の古い伝統を受け継いで、彼は並外れた学識を蓄えていた。今しがた読み終えたばかりのようによく知っている膨大な蔵書に加えて、公共施設や、興味深い作品を発見したあらゆる場所で閲覧した想像しうる限りの書物について、彼が取ったノートの集まりが存在した。この膨大なノートを彼は暗記しているかのようだったし、十年前に記録した、探している情報があるはずのページや段落を記憶によって言い当てた。それほど彼の記憶力は常識外れのものに思われたものだった。そうして彼は自分の書物を実現する際には、正確さに細心の注意を払い、自分自身の目で些細な事柄やたった一語を確認するのに一週間かけて調査を行うのだった。食事をとりながら彼について話していたアレクサンドル・デュマ(11)が言ったことがある。「なんと驚くべき労働者だろう、あのフロベールは。彼は家具の引き出し一つを作るために、森じゅうの木にかんなをかけたものだ。」
『ブヴァールとペキュシェ』を書く時に、ある植物学の法則についての例外が必要になった。それというのも、例外のない規則はないのだから、自然による生産の意義に反するだろうと主張したのだった。フランスのあらゆる植物学者が質問を受け、答に窮した。私はそのために五十回も使いに走った(12)。ようやく自然史博物館の教授が、彼が求めていた植物を発見した。その知らせを受け取ったフロベールが狂喜した様は本当とは思えないほどだった。
したがって、彼はほとんどいつもクロワッセにいて、本に囲まれ、母親の傍にいた。彼は素晴らしい息子であり、後には姪にとっての素晴らしい伯父となった。彼の妹は出産後に亡くなったのだった。
人生のあらゆる状況において、彼は子どものような心、おとぎ話の妖怪のような振る舞いを見せた。いつでも幾らかは母親の保護の下にいた。彼が身も心も捧げている〈フランス語の散文〉は、しっかりした女性ではないし、生活の指導者でもないからである。
クロワッセで、セーヌ川と木々に覆われた丘陵とに挟まれて、親子二人でほとんど一年中、一緒に過ごしていた。彼は書斎に閉じこもり、休息として窓から外を眺める。正面側の窓にゴーロワ人の大きな体をぴったりと寄せる時には、石炭を積んだ黒い大きな蒸気船や、アメリカやノルウェーからの美しい三本マストの帆船が、ルーアンの方へ上ってゆくのが見えた。帆船は、あえぐ蠅さながら盛大に煙を吐く小さな曳き船に引っ張られながら、庭の中を滑っていくように見えるのだった。反対に小さな庭の方を眺める時は、二階の高さのところにボダイジュの並木道が見え、すぐ近くには、窓を影で覆う巨大なユリノキがあり、その木はほとんど彼の友だちだった。
彼はフロベール夫人と一緒に、二人の老人のように暮らしていた。母親に対しては絶対的な敬意を払い、それはまるで少年の服従のようで、情愛のこもった尊敬の念に心を動かされずにいることは不可能だった。
*****
かつて幾らか旅行し、喜んで泳ぎもしたけれど、彼は運動を激しく嫌悪していた。彼の全存在、すべての快楽、ほとんどすべての情事は、頭脳のものだった。若い頃には女性相手に大いに成功したが、すぐに彼女たちを軽蔑するようになった。しかしながら、彼の心は呼びかけに溢れていたようである。そして、恐らくは一人の男を燃え立たせる偉大な感情を感じることはなかったが、思い出は時と共に大きくなり、人が後ろに残してきたものはすべてそうであるように、胸を痛ませるものとなったのだろう。
以下にお話しするのは、彼の死のちょうど一年前にあったことである。
彼から受け取った手紙の中で、辛い仕事をこなすあいだ一人にならないように、クロワッセに一泊二日で過ごしに来てほしいと、彼は私に頼んでいた(13)。
私が入ってくるのを見ると、彼は言った。
「こんにちは、坊や、よく来てくれたね。楽しいことではないんだ。分類していない古い手紙をぜんぶ焼いてしまいたい。死んだ後に誰かに読まれたくないからね。それを一人ではやりたくないんだ。君は夜の間、肘掛け椅子に座って読書するといい。私がうんざりした時には、少しばかりおしゃべりしよう。」
それから彼は私を連れて、セーヌの谷間にそそり立つボダイジュの並木道を何度か往復した。
三年前から、彼は私を親しく「君」と呼び、時には「坊や」、しばしば「我が弟子」と呼んでいた。
そうしてクロワッセに彼に会いに行った日のことを思い出す。ボダイジュの下を歩いている間ずっと、私たちはルナン氏(14)やテーヌ氏(15)のことを話し合った。彼は彼らのことを愛し、大いに称賛していた。
それから私たちは、一階の食堂で二人で夕食をとった。たっぷりとした極上の夕食だった。彼は古いボルドーワインを何杯か飲みながら繰り返した。「さあ、頭を興奮させなきゃいけない。心を動かされたくはないんでね。」
続いて書物が壁を覆う広い書斎に戻ると、彼は五六本のパイプに葉を詰めて吸った。艶のある白い陶器の小さなパイプで、彼はとても愛好していたのでマントルピースはそれで一杯で、煙草で褐色になったその柄が、時々、テーブルの上の東洋の皿の中にある、無数の鵞鳥の羽ペンに目を向けさせた。その先端はインクで黒くなっていた。
そして彼は立ち上がった。「手伝ってほしい」と彼は言った。私たちは寝室に移った。書斎に通じている狭く細長い部屋だった。ものが載った棚を隠しているカーテンの下に、大きなトランクがあるのが目に入った。それぞれ取っ手を持ち、隣の部屋へと運んだ。
火が燃える暖炉の前にそれを置いた。彼は開いた。紙で一杯だった。「これが我が人生だ」と彼は言った。「一部は残して、他は焼いてしまいたい。坊や、座って本を取るんだね。私はこれを廃棄するとしよう。」
私は腰を下ろし、一冊の本を開いた。何の本だったか覚えていない。彼は言ったのだった。「これが我が人生だ」と。この素朴な偉人の内密な物語の大きな断片が、あの木製の大きなケースの中にあったのだ。彼は新しい日付のものから手に取り、最後に一番古いものへ辿り着くことにした。あの夜、彼の傍にいるのは私だけで、まるで彼の心のように、自分の心が締め付けられるのを感じていた。
彼が目にした最初の何通かの手紙はたいしたものではなく、著名だったり無名だったり、知的だったり平凡だったりする、現存する人たちの手紙だった。それから長い手紙を広げると、思案顔になった。「これはサンド夫人からのものだ。聞いてごらん」と彼は言った。哲学と芸術についての美しい一節を読むと、喜びに溢れて繰り返した。「ああ、なんと偉大な女性だろう」。彼はまた他のものを目にした。有名な人たちのものがあり、また他のものは名声ある人のものだったが、彼らの愚かさを彼は大声で強調した。その内の多くのものは保存用に分類された。
次の手紙には一瞥をくれるだけで、乱暴な動作で火にくべるのに十分だった。手紙は燃え上がり、広い書斎の一番暗い隅までを照らし出した。
時が過ぎていった。彼はもう話さず、ずっと読みつづけていた。彼は故人の集団の中にいて、長い溜息が胸を膨らませていた。時折、彼は名前を呟き、悲しみの身振りをした。墓の上ではしないような、本当に残念に思っている人の身振りだった。
「次は母さんからのだ」と彼は言った。また断片を読んでくれた。彼の目に涙が浮かび、頬を流れるのが見えた。
それからまた、昔の知人や古い友人の墓地をさ迷った。まるで自分自身で片をつけてしまったと望むかのように、これらの内密だが忘れられた手紙は少ししか読まずに燃やし始め、たくさん燃やした。あたかも彼がこれらすでに死せし者たちを葬っているかのようだった。
四時が鳴った。彼は突然、手紙の中に薄い小包を見つけた。細いリボンで結ばれていた。ゆっくりと開いた後、舞踏会用の絹製の小さな靴の片方が目に入った。その中には、レースで縁取られた女性物の黄色いハンカチにくるまれた萎れたバラの花があった。それはある晩の、まさにその晩の思い出のようだった。彼は苦痛のうめき声を漏らしながらこれら三つの形見の品に口づけした。それから火に放り込み、目をぬぐった(16)。
日が昇ったが、彼はまだ終わっていなかった。最後の手紙は青春時代、もう子どもではないが、まだ大人でもない時期にもらったものだった。
それから彼は立ち上がった。「これは」と彼は言った。「分類も焼却もしたくなかったものの山だ。終わったよ。寝に行きたまえ。ありがとう。」私は自分の寝室に下がったが、眠れなかった。日は昇ってセーヌ川を照らしていた。私は考えた。「これが一つの人生、ひとつの偉大な人生なんだ。つまりは、焼いてしまうことになる多くの無用なもの、毎日のどうでもよい気晴らし、感じたこと、出会った人、家族の親しい情愛を示す幾つかの思い出、そして萎れたバラ、女性のハンカチと靴だ。」それが、彼が手にし、彼が感じ、彼自身で味わったもののすべてなのだ。
だが彼の頭の中には、青い目をしたこの力強い頭の中には、世界の起源から今日に到るまでの宇宙全体が通り過ぎていったのだ。この男性はすべてを見たし、すべてを理解し、すべてを感じ、すべてに苦しんだ。誇張された、悲痛であると同時に甘美でもあるような仕方で。彼は聖書の夢想家、ギリシャ詩人、異国の兵士、ルネサンスの芸術家、平民であり王侯、傭兵マトーであり医師ボヴァリーだった。彼はまた現代のコケットなプチ・ブルジョア女性であり、ハミルカルの娘(17)でもあった。彼がそれらすべてだったのは夢の中ではなく、現実においてであった。というのも彼のように考える者は、自分が感じているものになるのである。あまりにもそうであるために、フロベールがボヴァリー夫人の服毒の場面を書いた夜には、医者を呼びにやる必要があった。この死の夢の毒にあたって、ヒ素の症状が出て卒倒しかけたからである(18)。
我々が同時にその生産物でも被害者でもある「何かよく分からないもの」、〈概念〉の喚起し、発生させる力によって、このように自分が何人にもなれる能力を受け取った者は幸いである。労働に高揚した数時間、彼らは平凡で凡庸で単調な真の人生という妄執から逃れることができる。だがその後で目を覚ました時には、彼らはどうやって芸術家としての軽蔑と憎しみから身を守れるだろうか。フロベールの心は現実の人間性に対してそれらで一杯だったのである。
『エコー・ド・パリ』紙、1890年11月24日
L’Écho de Paris, 24 novembre 1890.
Guy de Maupassant, Chroniques, préface d'Hubert Juin, U. G. E., coll. « 10/18 », 1980, t. III, p. 402-410.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF ; https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Flaubert_memorial.JPG)
L’Écho de Paris, 24 novembre 1890.
Guy de Maupassant, Chroniques, préface d'Hubert Juin, U. G. E., coll. « 10/18 », 1980, t. III, p. 402-410.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF ; https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Flaubert_memorial.JPG)
訳注
(1) 主に、ジョルジュ・サンド宛てフロベール書簡集の序文「ギュスターヴ・フロベール」 (1884) を指す。
(2) Henri Chapu (1833-1891):彫刻家。1855年にローマ賞受賞。「天使といるキリスト」(1857)、「ドンレミのジャンヌ・ダルク」(1872) 等。1880年に芸術アカデミー会員に選出。フロベールの浅浮彫りは、現在、ルーアンのオテル・デュー博物館の中庭にある。
(3) 現存するモーパッサン宛てのフロベール書簡にはこの文は見つからない。フロベールがモーパッサンの母ロールに宛てた書簡(1862年12月8日)に、次の言葉が見られる。「彼のことを思わない日は、あえて言えば思わない時間はほとんどありません。今では、『時代の最も知的な人物』と呼ばれている者たちを知っています。私は彼との釣り合いで彼らを値踏みし、比較すれば凡庸でしかないと思うのです。あなたの兄上が私に引き起こした目眩を、彼らの傍にいて感じたことはないのです。」
(4) 「彼はたいへんに亡きアルフレッドを思い出させます! とりわけ彼が頭を下げて詩句を暗唱する時には、時々恐ろしくなるほどです。」ロール宛てフロベール書簡、1873年2月23日。
(5) Alfred de Musset (1810-1857):ロマン派の詩人・劇作家。早熟の才能を発揮し、ロマン派の寵児となった。ジョルジュ・サンドとの恋愛はサンドの『彼女と彼』(1859) の元となった。
(6) 1846年9月5日付ルイーズ・コレ宛ての書簡に次の文がある。「僕たちのための素晴らしい午後があるでしょう。」ルイーズ・コレ (Louise Colet, 1810-1876) は詩人、小説家。『ボヴァリー夫人』 (1857) 執筆時のフロベールの恋人だった。
(7) François Rabelais (1483頃-1553):作家。『パンタグリュエル』(1532)、『ガルガンチュア』(1534) 等の小説において、古典に基づく該博な知識と言葉遊び、造語、スカトロジーとを混ぜ合わせた一大世界を創造、その作品はユマニスム文学最大の成果と言える。
(8) Louis de Rouvroy, duc de Saint-Simon (1675-1755) : 作家、政治家。1694年から1752年にかけて書かれた『回想録』が名高く、ルイ14世時代の末期および摂政時代についての貴重な証言となっている。
(9) François René de Chateaubriand (1768-1848):作家。『キリスト教真髄』(1802) 中の小説『アタラ』、『ルネ』が名高く、ロマン主義世代に大きな影響を与えた。
(10) Victor Hugo (1802-1885) : 詩人、劇作家、小説家。戯曲『クロムウェル』(1827)や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829) などによってロマン主義を主導した。第二帝政期には国外に亡命、小説『レ・ミゼラブル』(1862)を発表した。
(11) Alexandre Dumas fils (1824-1895):デュマ・フィス。デュマ・ペールの息子で、小説家・劇作家。小説『椿姫』(1848) など。第二帝政下に風俗劇が大いに持てはやされた。1875年、アカデミー・フランセーズ会員。
(12) 1880年4月4日、24日付でモーパッサンに宛てたフロベールの書簡に、この植物学についての言及が見られる。
(13) イヴァン・ルクレールの推測によれば、1880年2月8日から10日にかけてではないかという。
(14) Ernest Renan (1823-1892):エルネスト・ルナン。哲学者、歴史家。『キリスト教起源史』(1863-1881) の第1巻『イエス伝』(Vie de Jésus, 1863) においてイエスの生涯を実証的に記述した。
(15) Hippolyte Taine (1828-1893):思想家、歴史家。実証哲学を継承し、科学的手法を文芸研究に取り入れた。『英国文学史』(1864-1869)、『知性について』(1870)、『芸術哲学』(1882)、『現代フランスの起源』(1875-1893)。
(16) フロベールの手紙で繰り返し言及される、ルイーズ・コレのスリッパとハンカチではないかと推測される。
(17) カルタゴの将軍ハミルカルの娘はサランボー。傭兵マトーと共に、フロベールの小説『サランボー』(1862) の主人公。
(18) フロベールは1866年11月のテーヌ宛ての書簡の中でこのことに触れている。「私がボヴァリー夫人の服毒を書いた時、口の中にあまりにヒ素の味を感じ、あまりに自分自身が毒を飲んだので、二度にわたって消化不良を起こしました――現実に二度の消化不良です。というのも夕食をぜんぶ吐いてしまったのです。」