J・K・ユイスマンス
「ギィ・ド・モーパッサン」
J.-K. Hyusmans, « Guy de Maupassant », le 8 mars 1893

ジョリス=カルル・ユイスマンス(1848-1907)は小説家。本名はシャルル・マリー・ジョルジュ。オランダ語風に読むジョリス゠カルルを筆名とした(後にはもっぱらJ.-K.と署名)。ボードレールの影響の濃い散文詩集『薬味箱』(1874)から出発したが、ゾラを発見し、自然主義者として活動する。『マルト ある娼婦の物語』(1876)以降、庶民の生活に密着した作品を執筆した。『ヴァタール姉妹』(1879)、『所帯』(1881)、『流れのままに』(1882)。耽美主義を追求する『さかしま』(1884)で転機を迎え、自然主義から離反する。『仮泊』(1887)の後、作者自身と近しい主人公デュルタルを主人公として回心のテーマを追求した。『彼方』(1891)、『出発』(1895)、『大伽藍』(1898)、『修練士』(1903)。
ユイスマンスは絵画批評にも秀でた。美術批評に『現代芸術』(1883)、『ある人々』(1889)、『三人のプリミティフ画家』(1904)がある。1892年以降カトリックに転向。80年代後半にエドモン・ド・ゴンクールとの交流が深まり、1900年よりアカデミー・ゴンクールの初代会長を務めた。

モーパッサンは1881年に「不名誉という先入見」(『ゴーロワ』、5月26日)で『所帯』に触れているほか、1882年に「読書つれづれ」(『ゴーロワ』、3月9日)で『流れのままに』、1884年には「彼方へ」(『ジル・ブラース』、6月10)で『さかしま』の書評を執筆している。それ以降のユイスマンスの活動はモーパッサンの関心を惹くものではなかったようだが、ふたりの関係が良好なままだったことが、ユイスマンスの回想に窺われるだろう。
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ギィ・ド・モーパッサン
ギィ・ド・モーパッサン
あなたが情報を求めるモーパッサンを、私はアレクシを介して知った。アレクシはある晩、エニックやセアールもいる夕食の場に彼を連れてきたのだった。それ以来、フロベール宅やゾラ宅で我々は顔を合わせた。ふたりはこの青年を大いに愛していた。彼はとても率直で、善良で陽気だった。
それから『メダンの夕べ』となり、彼は巻中の逸品、「脂肪の塊」というちょっとした傑作をもたらした。我々の関係は緊密なものとなった。我々全員、アレクシ、セアール、エニック、モーパッサン、私は、週に一度、モンマルトルの並はずれた安食堂に集まった。そこで法外なほどに生焼けの堅い肉を切り分け、とんでもない安酒を飲んだものだった。お粗末であり、危険でもあったが、我々の誰かがあれほどに陽気な食事をしたことがあるかどうかは分からない! モーパッサンはこうした宴会の中核だった。彼は滑稽な話に満ちる良きユーモア、陽気さに溢れる気さくさ、そしてそれ以上に価値あるものとして、表面の無関心さの下にあるとても心のこもった確かな情愛をもたらした。曲がった鋭い鉤爪にあふれる文学界にあって、モーパッサンの友人のなかで、彼についてわずかの悪意、わずかの卑劣さでさえ指摘する者をひとりも知らない。年月を経た友情ゆえに努力して寛大さを見せる必要もなく、誠実に、正直に、この点を正当に評価できる数少ない者のひとりである。
彼の作品については? とあなたはおっしゃる。学者ぶってそれについて話すためには一研究が必要だろうし、他の者が私よりも上手に、作家のたくましさ、彼の物語の自然さを説明するだろう。私に言えることはせいぜい、彼はこの時代の文学に単純さと良きユーモアの調子をもたらしたということであり、私の思うところでは、不幸にも彼の仕事はもう終わったということになるのなら、彼の後にこの調子が響くことはもはやないだろう。――J・K・ユイスマンス
J・K・ユイスマンス「ギィ・ド・モーパッサン」、『エコー・ド・パリ』、1893年3月8日 付録モーパッサン特集
J.-K. Huysmans, « Guy de Maupassant », L'Écho de Paris, supplément « Guy de Maupassant », 8 mars 1893.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
(*翻訳者 足立和彦)
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J.-K. Huysmans, « Guy de Maupassant », L'Écho de Paris, supplément « Guy de Maupassant », 8 mars 1893.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
(*翻訳者 足立和彦)
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