「詩人たち」

« Poètes », le 7 septembre 1882



「詩人たち」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1882年9月7日、日刊紙『ジル・ブラース』Gil Blas に掲載された時評文(4-5段目、モーフリニューズの署名)。詩人ルイ・ブイエ(Louis Bouilhet, 1821-1869)について語っている。
 8月24日、ルーアンにおいてブイエの胸像の除幕式が行われた。モーパッサンは8月21日付『ゴーロワ』紙に「ルイ・ブイエ」を発表。詩人を顕彰すると同時に、除幕式の準備が不十分なことに懸念を漏らしていた。本記事においては、式典がもっぱら地元名士によって行われ、著名な文学者の出席がなかったことを皮肉を込めて批判している。そのうえで改めてブイエを称え、この詩人の特色は韻よりもリズムにあるとして、モーパッサン自身の詩論を展開している。なお彫像の制作委員会にはモーパッサンも加わっていた。
 末尾にはシュリ・プリュドム(Sully Prudhomme, 1839-1907)による未発表の詩が紹介されている。この詩は女性の扇に書かれ、扇自身の語りという構成になっている。末尾には、扇に詩を書くことがなぜ流行しないのだろうかと疑問が述べられているが、モーパッサン自身が詩をしたためた扇の存在が知られている。
 本評論には、1870年代に自ら詩人をもって任じていたモーパッサンの姿が垣間見える。「リズムの芸術」は「ニュアンス、こもった音、密かな調和、事物と言葉の適切な結びつき」からなるという言葉は、80年代のモーパッサン自身の散文の理想を間接的に語っているとも取れるだろう。



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詩人たち


  墓に眠る私の遺骸の上に
  生存時からすでに半ば私を覆った
  世の忘却が満ちるのを感じる(1)

 先日ルーアンで胸像の序幕式が行われた詩人ルイ・ブイエは、『最後の歌』のこの詩句を書いていた時、死の時まで彼を追い続ける「不運」のことを思っていた。彼は貧しく、真の文学者には正当な価値を認められていたが、公衆からはいつも十分に評価されていなかった。
 彼は詩人=芸術家だった。芸術とは、韻文であれ散文であれ、通俗的な読者から最も評価されないものであり続けている。一般大衆はただ単に自分が普通に考えていることが韻文で表現されるのを望んでいる。大衆にとって韻とはほとんど記憶術の手段でしかなく、リズム、言葉の音調的な配列、諧調と概念との調和には無縁である。だから公衆はほとんどいつでも影を現実と思い、偽の詩人を本物と見なし、ボードレール(2)よりもミュッセ(3)を、ルコント・ド・リール(4)の見事な作品よりも愛国的な決まり文句を好むのである。
 いったい誰が「真昼(5)」、「象たち(6)」、「カイン(7)」、「遠吠えする犬たち(8)」、「コンドルの眠り(9)」をそらんじているだろうか? ――誰もいない。ただ詩人たちを除いては。
 ルコント・ド・リール氏は知られざる偉大な詩人であり、そうであり続けるだろうし、アカデミー会員でもないだろう(10)。だが少なくとも40人のうちの38人より不滅である(11)。なぜならこれほどの知性による作品は、無知な者の意見よりも力強いからである。ルイ・ブイエはといえば、演劇での輝かしい成功にもかかわらず世間には知られないままだった。この詩人による最も貴重な作品『メレニス(12)』と「化石(13)」、それに愛らしい軽やかな詩作品を世間はほとんど知らなかったし、生来の無定見から評価もしなかった。彼はそのことに苦しんだ。自分についてはほとんど話さなかったが、時折悲しみを垣間見させたのだった。

  夢は死に、よみがえるという希望もない
  時は逃れ、詐欺師たる「傲慢さ」が
  青春の日々を虚無へ押しやる
  あたかも羊の群れを導く牧人のように(14)

 この打ち勝ちがたい不運が死の時まで彼につきまとった。真の友人たち(それは芸術家としての彼の友人ということだ)は、彼を記念して作られた胸像の除幕式が、眠っている栄光を目覚めさせる機会となることを望んだのだった。詩人たちがそろってやって来たことだろう。バンヴィル(15)、シルヴェストル(16)、シュリ・プリュドム(17)、ブールジェ(18)、カテュール・マンデス(19)、リシュパン(20)、コぺ(21)、ブショール(22)などである。そしてどれほどたくさんの小説家、ジャーナリスト、劇作家、故人の古い友人や忠実な讃美者が、彼の像の周りに集まりたいと願ったことだろう! ルーアン、ルーアン自身もが己が亡き息子を盛大に称える準備ができているように見えていた。「当局」も協力してくれていた。
 それなのに惨めな儀式だけで済まされたのだが、人の言うところでは、よく分からない地方の自己愛の問題の結果か、あるいは単に委員会のルーアン在住メンバーの不手際のお陰なのだという(23)
 有名過ぎる人物が来ることで、疑わしい権威のもとに儀式の細部を取り決めた医師、歯科医、薬剤師などの県の名望家を覆い隠してしまうことが恐れられたのだろうか?
 祝宴の日を真夏の8月、ちょうど皆がパリから遠く離れている時期に決定することで、「現代の著名人」の邪魔をすることを避けようとしたのだろうか? それが一層本当らしく見えるのは、ほんの6日前に投函された招待状は、ほとんど門番にしか出会わなかったからである。
 あれこれと推測されている。
 ギヨーム氏(24)の作品の大理石を覆っていた幕がおろされた時、『メレニス』の著者の前には地方の医学、薬学、歯科学の代表しかいなかった。しかもこの祝宴には足部治療が欠けていた。
 ギュスターヴ・フロベール(25)の死後、委員会の委員長を務めていたラウル・デュヴァル氏(26)は、恐らくはあまりに有名だったために、この機会にたいへん立派な医師と交替していた(27)。この医師の職業的手腕に疑いの余地はないが、芸術的・文学的能力に関しては今日なお確認を要するだろう。
 つまりは、このセレモニーが失敗したのは、ブイエの謙虚な友人たち、昔の同僚たちが抱いた一種の死後も続く嫉妬が理由なのだろう。彼らはこんな風に急ぐことによって、死後すでに13年になる魅力的な作家を自分たちだけ、そしてもっぱらルーアン市のために取っておき、陰らせることはなく、この機会に私的な誇りとしたがったのだろう。あるいは彼らは単に不器用かつ無知なままに行動することで、「化石」の詩人に対して深い敬愛を抱くすべての者を悲しませたのである。


***

 彼の作品で最も知られているもの、最も頻繁に引用されるもののタイトルは「ある女性に」である。
 誰もが以下の詩句をそらんじている。

  最も稀なる日々においても、お前は
  私の勝ち誇る弓の下で凡庸な楽器に過ぎなかった。
  ギターの空洞に鳴り響く調べのように
  お前の胸の空虚で私の夢を歌わせたのだった。

  今やさらば! おのが道を行け 私は去る。
  額の赤らみに控えめな白粉を振るがよい。
  杯を空けてしまえば 宴は終わりだ
  まだワインが残るなら 召使いが飲むだろう(28)

 だがこの詩句は美しいにしても、二冊の詩集のあちこちに見つかる、精妙に細工され、見事に凝られた甘美な宝石、繊細な小品にも、彼の内にあったたいへんに抒情的で力強い息吹が吹き抜ける堂々とした詩篇にも、恐らくは及ばないだろう。「鳩(29)」、「化石」、「大修道院(30)」よりも偉大なものはない。「ピュー神(31)」、「愛の歌(32)」、「新生児に(33)」よりも優美なものはない。
 花と鳥の恋愛について彼が語るのを聴いていただきたい。鳥はまさしく大き過ぎる、

  両の翼を開いて花を覆うためには。

  ほほ笑む花に鳥は己の苦しみを伝える。
  花は緋色に染まり、鳥は花に似ている
  一緒にいるのを見ると 見分けがつかない
  花が歌っているのか 鳥が咲いているのか。

  花と鳥は同じ時に生まれた
  毎日 同じ露に生命を与えられ
  朱色の夫婦は同じ愛に満ちあふれる。
  だが花が死ぬ時 鳥も死なねばならない

  幸福が逃げ去った小枝の上に
  頭が傾ぎ 羽根がしおれるのが見える
  欲望を燃え立たせる若い心はひとつならず
  この花のように愛し 鳥のように死にたいと望むだろう!(34)

 私はさらに「ピュー神」の冒頭の詩句だけでも引用したいという欲望を抑えられない。

  中国に小さな奇妙な神がいる
  寺院もない神で その名をピューという。
  その名を見つけた とても稀な書物によれば
  若く ほほ笑み ずんぐりだという

  その民は陶器のなかにいて
  ぽっちゃりした人形を平和に支配している
  彼らはボタンの花を摘みに
  絵の風景のなかの青い茂みへ行く(35)

 ここには見事な優美さと真似できない愛らしさがないだろうか? ルイ・ブイエはまずもってリズムの芸術家だった。今日の詩人たちはまず韻の芸術家である。
 私は理解してもらえるように努めるが、うまくいくかは自信がない。「熟練の」職人だけがこの芸術上の繊細な問題をはっきりと理解し、詩作品の真の価値を一目で捉えることができるだろう。
 ブイエの主要な特質はリズムにある。彼は響きのよい偉大な詩句を練りあげ、言葉によって表される思想にまさしくふさわしい程度の響きを与えることが誰よりも巧みだった。言葉はその固有の価値の他に、それが占める場所しだい、隣接、影響、関係、組み合わせという無数の状況しだいで、変わりやすくも本質的な価値を持つ。リズムの芸術の一切はニュアンス、こもった音、密かな調和、事物と言葉の適切な結びつきからなっている。偉大な芸術家だけがこの秘密の組み合わせを感じ取り、知り抜き、思うままに調節することができる。この芸術において、ユゴー(36)こそは大家中の大家である。
 現在の詩人たちの一番の関心は韻にある。一般的には、多様性に富み、支えとなる子音があればよい韻であるのに十分と思われているが、まったくそうではない。真の韻、天才的な韻は、〈レジャン〉のようなダイヤ(37)よりも見つけるのが難しい。それは予想外で、驚かせると同時に魅了しなければならない。最初の韻を投げたあとで詩人は、ふたつめの韻によって驚きと幸福で芸術家の心を震えさせなければならない。思考の魅力とは別に、詩句の特別な価値とは別に、韻はひとつの世界である。その力を定義することはできない。それは感じなければならないものだ。それは複雑な言葉遊びのような何かであり、同時に見事な芸術作品でもあるだろう。
 そしてここでもまたヴィクトル・ユゴーこそがこの技量における大家である。ブイエは、今日なされているように、韻の大変難しい芸術を極端にまで進めることはなかった。だが彼は偉大で誠実な芸術家として、彼の時代の最良の者と同等の者として残り続けるだろう。


***

  詩人たちについての話を続けよう。
 最近、ある夜会で偶然に、今日の芸術家のなかで最も完璧なひとりが、前の週に作ったばかりの未刊でまだ知られていない詩篇を読む機会があった。
 多少退屈したときに女性たちがするあのゆっくりした動作で、ひとりの女性が扇子であおいでいた。それから彼女は自分の扇子を眺め始めた。斜めから、文字を読むように少し目を細めて眺めていた。実際、彼女は羊皮紙に書かれた詩句を読んでいたのだった。というのもその愛らしい女性用の扇子は、古い書物のように黄色がかった羊皮紙でできていたのである。
 以下がその詩句である。

    扇子

  この私が そよ風を従えさえます
  私の優雅な動きに。
  おお女性たち 時にはあなたの瞳に
  生き生きと爽やかな風を引き寄せましょう。

  時には通りがかりに風を捕まえ
  柔らかい捕虜とすれば
  風はあなたの顔を愛撫するでしょう
  温かく悲し気な ゆっくりとした息吹で。

  この私が あなたのお耳に
  あなたの髪の震えのなかに
  ため息を送れば お耳は赤く染まるでしょう
  告白で燃え立つため息です。

  あなたのためにため息を掻き立てる この私は
  あなたが隠すお役にも立ちましょう
  からかいになるあなたのお口や
  ため息のために流されるあなたの涙も(38)

 そしてそこにはシュリ・プリュドムと署名されていた。詩で、しかも甘美な本物の詩で顔をあおぐとは素敵なことではないだろうか? 扇子に絵を描くことを画家に要求するように、そこに韻文を書くことを詩人に求めることがどうして流行しないのだろうか? すべての女性がこのような贅沢を享受することはできないと人は言うだろう。確かに。だがそれゆえにこそ、特別な者にとっては一層価値あるものとなるだろう。


『ジル・ブラース』紙、1882年9月7日付
Gil Blas, 7 septembre 1882.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 566-571.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) Louis Bouilhet, « Dernière nuit », dans Dernières chansons, Michel Lévy Frères, 1872, p. 226. ルイ・ブイエ「最後の夜」(『最後の歌』所収)。
(2) Charles Baudelaire(1821-1867):詩人。『悪の花』(1857)でフランス近代詩に革新をもたらした。また未完の散文詩集『パリの憂鬱』(1869)を遺し、象徴派以降の世代に大きな影響を与えた。
(3) Alfred de Musset(1810-1857):ロマン派の詩人・小説家。繊細な感性と憂鬱な気分に満ちた抒情詩は、後代の青年に大きな影響を及ぼした。モーパッサンも十代の一時期にミュッセの詩に傾倒したが、「繊細さ」(『ジル・ブラース』、1883年12月25日)においてもミュッセは「芸術家」ではなかったとされている。
(4) Charles Marie René Leconte de Lisle(1818-1894):詩人。高踏派の領主に位置づけられる。『古代詩集(1852)、『夷狄詩集』(1862)、『悲劇詩集』(1884)。
(5) Leconte de Lisle, « Le Midi », dans Poèmes antiques, Librairie de Marc Ducloux, 1852, p. 224-227.『古代詩集』所収。
(6) Leconte de Lisle, « Les Éléphants », dans Poèmes barbares, édition définitive, Alphonse Lemerre, 1872, p. 182-184.『夷狄詩集』所収。
(7) « Kaïn », dans Poèmes barbares, éd. cit., p. 1-21. 『夷狄詩集』所収。モーパッサンは Caïn と綴っている。
(8) « Les Hurleurs », dans Poèmes barbares, éd. cit., p. 171-172.『夷狄詩集』所収。
(9) « Le Sommeil du Condor », dans Poèmes barbares, éd. cit., p. 192-193.『夷狄詩集』所収。
(10) ル・コント・ド・リールは1886年にヴィクトル・ユゴーの跡をついでアカデミー入会を果たす。
(11) アカデミー・フランセーズの会員は40名。会員は「不滅の人」と呼ばれる。
(12) Melænis, conte roman, Michel Lévy Frères, 1856. 『メレニス ローマの物語』は韻文作品。古代ローマの雄弁家パウルス、按察官の娘マルシア、踊り子メレニスによる愛憎劇。
(13) « Les Fossiles », dans Poésies. Festons et Astragales, Librairie nouvelle, 1859, p. 219-263. 『花綱と玉縁』所収。
(14) « Dernière nuit », dans Dernières chansons, éd. cit., p. 225. ルイ・ブイエ「最後の夜」。
(15) Théodore de Banville(1823-1891):詩人。『人像柱』(1842)、『鍾乳石』(1846)などで詩形式の完成に専念。『綱渡りのオード』(1857)出版後、『ルヴュ・ファンテジスト』や『現代高踏派詩集』で高踏派の中心のひとりとして活躍した。他の詩集に『抒情小曲集』(1856)、『流謫者』(1867)、戯曲に『グランゴワール』(1866)など。『フランス詩小論』(1871)において韻の重要さを主張、この詩の概説書は当時の文学青年によく読まれた。1880年代には多数の小説も執筆している。バンヴィルは1883年にモーパッサンについての批評「誠実さ」を発表している(1885年、『幻想書簡集』に収録)。
(16) Paul-Armand Silvestre(1837-1901):詩人、小説家、劇作家。『新旧詩篇』(1866)、『再生』(1870)などでセンチメンタルな高踏派詩人として知られたが、1880年代に入ると艶笑譚を大量に発表、スカトロジックな内容も多く異彩を放った。短編集に『友人ジャックのいたずら』(1881)、『腕白小僧の回想』(1882)など。モーパッサンは短編「咳」をシルヴェストルに捧げている。
(17) Sully Prudhomme(1839-1907):高踏派の詩人の一人。のちに哲学詩の傾向を強め、詩集『運命』(1872)、『正義』(1878)、『幸福』(1888)などを発表。1881年、アカデミー・フランセーズ入会。1901年、ノーベル文学賞受賞。モーパッサンはSully-Prudhommeと綴っている。
(18) Paul Bourget(1852-1935):批評家、小説家。詩人として詩集『不安な生』(1875)、『告白』(1882)などを出版。1883年、『現代心理論』で批評家として注目され、のちに活動の場を小説に転じる。『弟子』(1889)、『コスモポリス』(1893)。モーパッサンとは1870年代に雑誌『文芸共和国』を縁に出会い、以後も交流があった。モーパッサンが死去した折には追悼文「個人的な思い出」を寄せている。
(19) Catulle Mendès(1841-1909):詩人、小説家、劇作家。1860年、『ルヴュ・ファンテジスト』を創刊し、高踏派の詩人として出発。詩集に『フィロメラ』(1863)等。オペラ『グゥエンドリン』(1886、エマニュエル・シャブリエが音楽)、『イゾリーヌ』(1888、アンドレ・メサジェが音楽)でも成功を博した。小説に『童貞王』(1881)、『メフィストフェラ』(1890)など。ワーグナーを擁護したことでも有名。1866年、ジュディット・ゴーティエ(1845-1917)と結婚(1878年に法的別居、1896年に離婚)。モーパッサンは1870年代にマンデス編纂の雑誌『文芸共和国』で彼と知り合った。
(20) Jean Richepin(1849-1926):詩人、小説家。1876年に詩集『乞食の歌』を出版し、公序良俗を害した廉で訴えられ、裁判で有罪を宣告される。他の詩集に『愛撫』(1877)などがある他、多数の小説や戯曲も執筆した。モーパッサンは「小説」(『ジル・ブラース』、1882年4月26日)でリシュパンの『四編の小説』を取りあげている。
(21) François Coppée(1842-1908):詩人、小説家、劇作家。高踏派の詩人として出発するが、庶民生活を素朴に表現して人気を博した。『貧しき人々』(1872)、『赤い手帳』(1874)、『物語とエレジー』(1878)、詩劇『王位のために』(1895)など。『散文による短編』(1882)などの小説も著した。1884年、アカデミー・フランセーズ会員。
(22) Maurice Bouchor(1855-1929):詩人、劇作家。作品に『陽気な歌』(1874)、『現代のファウスト』(1878)、『パリの物語』(1880)、『象徴』(1888)など。
(23) フレデリック・ジルベール「ルイ・ブイエ像の除幕式」(『ゴーロワ』、1882年8月25日)によれば、式においては委員長およびルーアン市長リカール Ricard の演説のあと、「批評家協会」Cercle de la Critique を代表して作家・政治家のアンリ・ド・ラポムレー(ルーアン出身)が演説し、デュゲレ嬢がブイエの詩を朗読したという。会場には委員の一員でブイエ、フロベールの友人だったシャルル・ル・ブッフ・ドスモワもいた。
(24) Eugène Guillaume(1822-1905):彫刻家。1864-78年にパリ美術学校の校長、82年からはコレージュ・ド・フランスの教授を務めた。
(25) Gustave Flaubert(1821-1880):小説家。精密な考証を基に、推敲に推敲を重ねて小説を執筆した。『ボヴァリー夫人』(1857)、『感情教育』(1869)などの作品は後世に大きな影響を与える。他に『サラムボー』(1862)、『聖アントワーヌの誘惑』(1874)、『三つの物語』(1877)、『ブヴァールとペキュシェ』(未完、1881)。フロベールはブイエの顕彰に努め、ブイエ彫像制作委員会の委員長を務めていた。
(26) Edgar Raoul-Duval(1832-1887):司法官・政治家。フロベールの友人だった。除幕式の時点では委員会の副委員長を務めていた。
(27) 委員長を務めていた医師の名はル・フレ Le Flé。
(28) « À une femme », dans Poésies. Festons et Astragales, éd. cit., p. 59. 「ある女性に」、『花綱と玉縁』所収。
(29) « La Colombe », dans Dernières chansons, éd. cit., p. 41-44.『最後の歌』所収。
(30) « L’Abbaye », dans Dernières chansons, éd. cit., p. 199-208.『最後の歌』所収。
(31) « Le Dieu de la porcelaine », dans Poésies. Festons et Astragales, éd. cit., p. 131-134.「磁器の神」、『花綱と玉縁』所収。モーパッサンが « Dieu Pu » と記しているのは記憶間違いか。
(32) « Chanson d’amour », dans Poésies. Festons et Astragales, éd. cit., p. 37-38.『花綱と玉縁』所収。
(33) « À un nouveau-né »:ブイエの2冊の詩集にこのタイトルは見当たらない。「揺り籠」、「ある子どもへ」(ともに『花綱と玉綱』所収)、または「哲学的子守り歌」(『最後の歌』所収)か。« Berceau », dans Poésies. Festons et Astragales, éd. cit., p. 99-101 ; « À un enfant », ibid., p. 117-118 ; « Berceuse philosophique », dans Dernières chansons, éd. cit., p. 247-250.
(34) « Le Tung-Whang-Fung », dans Dernières chansons, éd. cit., p. 267-268. 「トゥン=ワン=ファン」、『最後の歌』所収。
(35) « Le Dieu de la porcelaine », dans Poésies. Festons et Astragales, éd. cit., p. 131-134.
(36) Victor Hugo(1802-1885):詩人・劇作家・小説家。戯曲『クロムウェル』(1827)や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829)などによってロマン主義を主導した。第二帝政期には国外に亡命、小説『レ・ミゼラブル』(1862) を発表した。1885年5月、ユゴー死去に際してモーパッサンは「偉大な死者たち」(『フィガロ』、6月20日)を発表する。
(37) le Régent:1698年に南インドで発見されたダイヤ。1717年に摂政オルレアン公フィリップが購入したことから「レジャン(摂政)」と呼ばれる。以来フランス王冠の宝石として用いられた。1887年よりルーヴル美術館所蔵。
(38) Sully Prudhomme, « L’Éventail » dans Prisme, poésies diverses, Alphonse Lemerre, 1886, p. 13-14. シュリ・プリュドム「扇子」、『プリズム』所収。


(*翻訳者 足立和彦)

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