ルイ・ブイエ
Louis Bouilhet
ルイ=イアサント・ブイエ
Louis-Hyacinthe Bouilhet, 1821-1869

フロベールの父アシル=クレオファスについて医学を学ぶが、アシルの死を機に断念し、文学に専念する。韻文物語『メレニス』(1856)でデビュー(フロベールに捧げられている)。演劇に関心を向け、『マダム・ド・モンタルシー』(1856年11月、オデオン座、78回上演)、『エレーヌ・ペロン』(1858年11月、オデオン座、80回上演)などの韻文劇で成功を収めた。1859年、科学を題材とした長篇詩「化石」を含む詩集『花綱と玉縁』を刊行。
一時期パリに滞在したのち、パリ北西郊の町マント(現在のマント=ラ=ジョリ)で暮らした。その他の戯曲に韻文喜劇『百万長者のおじさん』(1860年12月、オデオン座)、『ドロレス』(1862年9月、コメディ・フランセーズ)、散文歴史劇『ファウスティナ』(1864年2月、ポルト・サン=マルタン座)があり、1866年10月、韻文歴史劇『アンボワーズの陰謀』(オデオン座)は105回の上演を数えた。1867年よりルーアン図書館の司書を務めたが、1869年7月18日に病気のために急逝、ルーアン大墓地に埋葬された。
フロベールの尽力により死後、詩集『最後の歌』(1872)が出版され、戯曲『マドモワゼル・アイセ』(1872)がオデオン座で上演された。1882年にはルーアン市にブイエの胸像を伴った泉が立てられた。
1891年、ルメール書店より『作品集』が刊行されている。
ルイ・ブイエは今日、フロベールの親友として以外は忘れられた詩人だと言える。ブイエがデルフィーヌ・ドラマール事件を題材にするように勧めたのをきっかけとして、フロベールは『ボヴァリー夫人』(1857)を執筆することになった。ブイエ自身の作品はロマン主義および高踏派に含められるもので、古代文明への憧憬や科学への傾倒を特徴としている。

1882年、ブイエ像の除幕式を機に「ルイ・ブイエ」(『ゴーロワ』、8月21日)を執筆し、ブイエとの出会いを振り返るとともに、「詩人たち」(『ジル・ブラース』、9月7日)においてその作品を紹介している。モーパッサンはブイエを「リズム」の詩人だと評している。
また、「思い出」(『ゴーロワ』、1884年12月4日)にはふたりの年長作家の姿が描かれているほか、『ピエールとジャン』冒頭の「小説論」においては、完璧な傑作という理想に関するブイエの教えが披露されている。
モーパッサンにとって、ルイ・ブイエこそが理想の詩人であり続けたと言えるだろう。
(画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Louis_Bouilhet_par_Carjat_BNF_Gallica.png
https://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Rouen_-_Monument_%C3%A0_Louis_Bouilhet_-_Rue_Villon_-_02.jpg)
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