『エミール・ゾラ』

Émile Zola, le 10 mars 1883



『エミール・ゾラ』表紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1883年3月10日付『政治文学評論』 Revue politique et littéraire に掲載された評論「現代の小説家 エミール・ゾラ」で、3章からなっている。同年、カンタン書店の「現代著名人」叢書の一冊として刊行される(Émile Zola, Quantin, coll. « Les Célébrités Contemporaines », 1883)。
 エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)は小説家。「自然主義」を唱道し、「第二帝政期における一家族の自然的・社会的歴史」の副題を持つ『ルーゴン=マッカール叢書』全20巻を完成させた。主な作品に『居酒屋』(1877)、『ナナ』(1880)、『ジェルミナール』(1885)、『獣人』(1890)などがある。その後、連作『三都市』(1894-1896)、『四福音書』(1899-1902)の執筆を続ける。前半生については以下のモーパッサンの評論に詳しい。
『エミール・ゾラ』表紙 Source gallica.bnf.fr / BnF  1875年、ギュスターヴ・フロベールの家で知り合ったのをきっかけに、ゾラとモーパッサンの交流は始まった。やがてゾラのもとに集う青年たちのグループにモーパッサンも加わる。1880年、ゾラも加えた6人で共作短編集『メダンの夕べ』を刊行、短編「脂肪の塊」の成功によってモーパッサンは名を馳せ、以後専業作家としての活動を本格的に開始することになる。
 ゾラはデビュー時のモーパッサンを記事で称えて応援した。『ヴォルテール』紙上で『昔がたり』(1879年3月4日)を取りあげ、「現代の詩人たち」(1879年4月16-20日)でも有望な詩人としてモーパッサンを挙げた。さらにモーパッサンの懇願を受けて(書簡第178信)、『詩集』の書評も執筆している(5月25日)。そして、1881年7月11日付『フィガロ』には「アレクシとモーパッサン」を発表。モーパッサンとの出会いを振り返り、「脂肪の塊」や『テリエ館』について語っている。
 モーパッサンの側では1882年1月14日付『ゴーロワ』紙に「エミール・ゾラ」を発表、『ごった煮』連載前の作家の肖像を描いた。以下に訳出する論考は、この一文の内容を大幅に膨らませたものである。
 第1章では伝記的事実やこの時点までに刊行された書籍を丁寧に紹介している。第2章では「文学における革命家」として作家を称えたのち、ロマン主義を批判するゾラ自身のロマン主義的性質を指摘し、彼の小説作品を「叙事詩」と呼んでいる。第3章ではゾラの人柄や住まいを紹介したうえで、批評および劇作にも触れている。いずれの戯曲も上演に失敗したことを指摘し、「この注目すべき作家の才能はとりわけ小説向き」であると結んでいる。
 モーパッサンはゾラが「真実」を求め、正確な観察と描写を重視しているとしたうえで、「作家に個別の気質が、彼が描く事物に特別な色合いや固有の様相を、彼の精神の性質に従って付与する」と指摘する。それゆえに客観的な真実を描くことは不可能であり、「ある者にとって真実と見えるものが、別の者には誤りと見える」。とりわけゾラには「詩へ向かう傾向、大きく誇張して描きたい、生物や事物をもとに象徴を作り出したいという欲求」があるゆえに、「拡大化」というロマン主義と同じ手法を用いている。したがって「彼の教訓と彼の作品とは永遠に不和の状態にある」。
『エミール・ゾラ』挿絵 Source gallica.bnf.fr / BnF  このように論じるモーパッサンは、ゾラの理論のなかから芸術作品は「気質を通して眺められた自然」であるという定義だけを取り、遺伝や環境による決定論や「実験小説論」のような理論には目を向けない。ゾラを論じながら実のところはモーパッサン自身の文学観を述べており、その思索は「小説論」(1888)における、芸実は「個人的世界観」の表明であるという主張に行き着くだろう。その意味でこの小論はモーパッサンの文学を考えるうえでも欠かせないものと言えよう。
 なおカンタン版『エミール・ゾラ』には冒頭にゾラからモーパッサンへ宛てた書簡の自筆コピー、およびゾラの肖像画が掲載されている。以下にその書簡を訳出する。これはモーパッサン第178信への返信として書かれたもので、ゾラが言及しているのは『詩集』の書評である。また、書簡の掲載に関しては第188信に言及が見られる。文中「ルーアンへの旅行」はフロベールの葬儀(5月11日)を指す。

メダン、80年5月24日
親しい友へ、
 今朝掲載されたはずの記事を書き始める時に、君の手紙が届いた。ルーアンへの旅行でまだ動転していて、頭がよく働かない。ようやく約束を果たそうと思ったのだが、記事が優れていなかったとしても恨まないでほしい。売上の援助になるようにと思って書いたのだからね。
 私もまだフロベールの偉大なイメージを追い払うことはできていない。夜、寝る前にいつも彼の姿を思い返している。つまるところは君の言うように、死に慣れることが必要なのだろう。これからの日々、死は他の者たち、そして私たち自身を少しずつ奪っていくのだから。
敬具。
エミール・ゾラ



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エミール・ゾラ


  I

 有名になることを運命づけられているような名前があるもので、響きよく記憶に残り続ける。バルザック(1)、ミュッセ(2)、ユゴー(3)を忘れたりするだろうか。短く破裂するようなこれらの語が響くのを一度でも耳にしたなら? けれども、あらゆる文学者の名前のなかで、ゾラの名前以上に勢いよく目に飛び込んできて、深く記憶と結びつくものは恐らく他にないだろう。その名はラッパの奏でるふたつの音のように賑やかしく乱暴に飛び込んでくるや、荒々しくも響きのよい陽気さで耳を満たす。ゾラ! 公衆へのなんという呼び声! なんという目覚めの叫び! 才能ある作家にとって、そんな名を戸籍に授けられるのはなんという幸運だろう。
 かつてひとりの人間に、これよりよい名前がつけられただろうか? それはまるで戦いへの挑戦、攻撃するぞという威嚇、勝利の歌声のようである。さて、今日の作家のなかで一体誰が彼以上に自らの思想のために猛然と戦っただろう。一体誰が、不正や偽りと信じる物事を彼以上に激しく攻撃しただろう。一体誰が、多数の公衆の、初めは無関心、次いでためらい勝ちな抵抗に対して、彼以上に華々しく勝利を収めただろうか?
 しかしながら名声に辿り着く前の戦いは長かった。多くの先人たちのように、この青年作家にも長く厳しい時期があったのである。
 エミール・ゾラは1840年4月2日パリに生まれたが、エクスで幼少時代を過ごし、パリには1858年2月に戻ってきた。そこで学業を終えるも、バカロレア試験には失敗し、その時から人生との激しい戦いが始まった。その戦いは執拗だった。2年間、将来の『ルーゴン=マッカール』叢書の著者は1日1日を生き抜き、機会があれば食事をとり、逃げてゆく100スー〔5フラン〕硬貨を求めてさ迷い、レストランよりも質屋のほうに足繁く通った。それにもかかわらず詩句を吟じていたが、その詩句は生彩に欠け、形式においてもインスピレーションにおいても見るべきものはなかった。そのうちの幾つかは友人ポール・アレクシ(4)の配慮によって出版されたばかりである(5)
 自身の語るところでは、ある冬は油に浸したパンでしばらく生活したという。親類が彼に送ってくれたエクスの油だった。そしてその頃、彼は哲学的に宣言したものだった。「油がある限り、人は飢え死にすることはない。」
 別の時には屋根の上のスズメを罠で捕え、カーテンレールに串刺しにして焼いた。別の時には、最後の衣服を質入れしてしまったので、丸一週間も部屋に閉じ籠り、ベッドカバーに包まりながら毅然として「アラブ人のようにする」と称していた。
 初期の書物の一冊、『クロードの告白(6)』の細部の多くは彼個人のもののようであり、この時期の生活についての正確な観念を与えてくれる。
 それから従業員としてアシェット書店に入った(7)。その日から生活は安定し、彼は詩作をやめて散文に専心する。
 その詩は豊富だが安易なもので、すでに述べたようにあまりに安易に過ぎ、愛や芸術よりもむしろ科学を対象としていた。全体として広大な哲学的概念であり、散文で表明されるほど十分に明晰ではないがゆえに詩句に綴られるという類の壮大ぶりの一種だ。これらの試作のうちには決して、真の哲学詩人シュリー・プリュドム(8)氏が愛するような、幾らか抽象的でとりとめもないが、しかし垣間見られる真実、瞬間的に発見される深淵、翻訳不能な無限のヴィジョンなどの感触によって感動的な広大な思想は見られない。また、テオフィル・ゴーティエ(9)が秀でていた大変に微細で、細かく、繊細で、甘美で、精巧な恋愛遊戯も見られない。それは明確な特徴のない詩であり、それについてはゾラ氏自身もどんな幻想も抱いてはいなかった。彼の率直に打ち明けるところによれば、アレクサンドランの上に抒情的な感動を大いに迸らせていた時期、見晴らしのよいあの屋根裏部屋でアラブ人のようにしながら、その目でパリ全体を見いだしていた頃、しばしば自分の歌の価値に対する疑いがきざしたものだったという。だが彼は決して絶望には至らなかった。そして最も思いあぐねた時にも、無邪気なまでに野心的な考えに自らを慰めたのだった。「ああ残念なことだ! もしも僕が偉大な詩人ではないのなら、少なくとも偉大な散文家になろう。」それというのも彼には強固な信念があったからであり、その信念は強固な才能についての密かな自覚に由来するものだった。才能はまだ眠ったままで混沌としていたけれども、胎児が動くのを感じる妊婦のように、それが生まれ出ようとする力を感じ取っていたのである。
 ついに彼は一冊の短編集を出版する。『ニノンへのコント(10)』は、よく練られた文体、立派な文学的様相、現実的な魅力を備えていたが、将来の資質、とりわけ『ルーゴン=マッカール』叢書の連作において示されることになる最大限の力強さはまだ漠然としか現われていない。
 1年後には『クロードの告白』を上梓するが、一種の自伝のようなこの作品は十分に消化されておらず、スケールも小さく、興味にも乏しい。次に『テレーズ・ラカン(11)』、美しい書物で、美しいドラマが展開される。次には『マドレーヌ・フェラ(12)』、二流の小説ではあるが、生き生きとした観察力が見いだされる。
 そのあいだに、エミール・ゾラは少し前にアシェット社を離れて『フィガロ』紙に移っていた。彼の記事は物議を醸し、「サロン評」は画家たちの共和国を動転させていた。そして彼は複数の新聞にも寄稿し、その名は公衆に知れ渡った。
 ついに彼はある作品を計画し、大変な騒ぎをもたらすことになる。それが『ルーゴン=マッカール』叢書であり、副題には「第二帝政下における一家族の自然的および社会的歴史」とある。
 この叢書の最初の数巻の表紙に印刷された以下の一種の広告文は、著者の思想がどのようなものであるかを明確に告げている。
「生理学的には、『ルーゴン=マッカール』叢書は神経症状のゆっくりとした連続であり、それは最初の器官損傷に続いて一族のうちに出現し、環境に従って、一族の各個人の感情、欲望、情熱、自然でもあり本能的でもあるあらゆる人間的表現を決定する。その結果として生み出されるのが、美徳とか悪徳とかの慣例的な名前で呼ばれるものである。歴史的には、彼らは民衆から出発し、現代社会全体に拡散してゆく。社会という身体内を進んでゆく下層階級が受ける本質的に現代的な衝動によって、彼らはあらゆる地位へ昇ってゆく。そうして彼らは個人的なドラマの助けを借りて、クーデターの策謀からスダンの裏切りまでの第二帝政を語るのである(13)。」
 以下、どのような順序でこの叢書の多様な小説が日の目を見たかである。
 『ルーゴン家の繁栄(14)』、広大な作品で、後の著作すべてを胚胎している。
 『獲物の分け前(15)』、ゾラによって放たれた最初の大砲の一撃であり、のちに『居酒屋』の見事な爆発がそれに応えるだろう。『獲物の分け前』は自然主義の大家の著した最も注目すべき書物の一冊であり、弾けるようであるがよく調べられており、心を捉えると同時に真実であり、彩り豊かで力強い言葉で一気呵成に書かれ、幾らか同じイメージを繰り返し過ぎているが、否定しようのないエネルギーと議論の余地のない美しさを備えている。人の言う社会階級の下層から上層まで、召使いから貴婦人までにわたる、帝国の風俗と悪徳との強烈な絵画である。
 続いて登場するのが『パリの胃袋(16)』、素晴らしい静物画であり、ぴったりの表現によるところの有名なチーズの交響曲が見られる。『パリの胃袋』、それは市場、野菜、魚類、肉類への崇拝である。この書物からは港に帰って来た釣船のように海の幸の匂い、野菜の匂いが、土の香り、むっとするような田舎の匂いに混じって発散している。そして広い食物倉庫の奥深い地下室からは腐りかけた肉のむかつく臭い、積み重ねられた家禽の不愉快な臭い、チーズ貯蔵庫の悪臭がページのあいだに立ちのぼってくる。そしてこれらの臭気すべてが現実においてと同様に混ざり合うのだ。本を読みながら、食料のためのあの巨大な建物の前を通った時に感じたのと同じ感覚を見いだすだろう。「真のパリの胃袋」だ。
 次には『プラッサンの征服(17)』、より控えめな小説であり、地方の一小都市についての厳しく、真実味ある完璧な研究だ。野心的な司祭が徐々に主人へなりあがってゆく。
 次いで現われたのが『ムーレ神父のあやまち(18)』、一種の三部構成の詩篇であり、多くの人の意見によれば、その第一部と第三部はこの小説家が著したなかで最も優れた箇所である。
 そして『ウージェーヌ・ルーゴン閣下(19)』の番で、帝政のプリンス(20)の洗礼の見事な描写が見られる。
 それまで、成功の訪れは遅々としていた。ゾラの名は知られていた。文学に通じている者たちは輝かしい未来を予測していたが、社交界の人士は彼の名前を聞かされるとその書物を読んだというよりも、それについて話されるのを聞いたことがあるのを示すために、「ああ、そう!『獲物の分け前』ですね」と繰り返したものだ。奇妙なことに、彼の名声はフランスよりも外国において広まっていた。とりわけロシアにおいて読まれ、情熱的に議論が交わされていた。ロシア人にとって彼はすでにフランスの〈小説家〉であったし、そうあり続けていた。それというのも、この野性的で勇敢な破壊屋の作家と、心の底ではニヒリストのあの民衆とのあいだに築かれた共感は十分に理解できる(21)。あの民衆にあっては、破壊することへの情熱的な欲求は病の域にまで達している。実際、隣国に比して彼らが享受する自由があまりに少ないことに鑑みれば、それは宿命的な病である。
 だが『公益』紙がエミール・ゾラの新しい小説『居酒屋(22)』を掲載すると、真のスキャンダルが沸き起こった。思ってもみるがいい。作者は言語のなかでも最も露骨な言葉を流暢に用い、どんな大胆さを前にしても尻ごみせず、そして登場人物たちは民衆の出自で、彼自身も民衆の言葉、俗語で執筆したのである。
 たちまち抗議が起き、予約購読の取りやめが続いた。新聞の編集者は不安になり、連載は中断され(23)、小週刊誌『文芸共和国』において再開された。当時、魅力的な詩人カテュール・マンデス(24)が編集していた雑誌である。
 小説の単行本が刊行されるや、巨大な好奇心が沸き起こった。何版もの本が店頭から消えた。そして『フィガロ』紙の読者に絶大な影響力を持つヴォルフ(25)氏が、作家と彼の著作にために勇敢にも戦闘に乗り出したのである。
 直ちに大反響を呼ぶ大成功となった。『居酒屋』は瞬く間に最高の売上に達し、一巻の本が同じ期間でそれほどの数に達したことはかつてない(26)
 大爆発のこの書物ののち、彼は穏やかな作品『愛の一ページ(27)』を刊行した。ブルジョワ家庭における情熱の物語である。
 次に現れたのが『ナナ(28)』、また騒乱を招く書であり、その売上は『居酒屋』をも上回った。
 最後に、作家の最新刊『ごった煮(29)』が刊行されたばかりのところである。


II

 ゾラは文学における革命家、すなわち、すでに存在するものに残酷なまでに敵対する者である。
 生き生きとした知性、新しさに対して情熱的な欲望を持つ者なら誰でも、つまり精神の性質が活発な者は誰でも、必然的に、自分が知り過ぎたものに対する倦怠ゆえに革命的となる。
 ロマン主義のなかに育ち、この流派の傑作に浸り、抒情的な情熱に揺すぶられて、我々はまずは熱狂の時代を過ごすものであり、それはイニシエーションの期間でもある。だがそれがどれほど美しかろうとも、ひとつの形式はやがて致命的なまでに単調となる。とりわけ文学にしか関心を持たず、朝から晩までそれを行い、それで生きている者にとっては。その時、変化への奇妙な欲求が我々のうちに生まれるのだ。最高の傑作でさえ、情熱を込めて熱愛するうちには嫌悪を催させるようになる。我々がそれを作り出す技法を知り過ぎてしまうためであり、いわゆる熟知してしまうことになるからである。最後には我々は別のものを探すようになる。いやむしろ、別のものへ戻ってゆくのだ。だが、この「別のもの」を取りあげ、改めて扱い、それを補完し、我々のものとする。そして我々は、時には良心をもってそれを自分が発明したと思い込むのである。
 そんな風にして文芸は革命また革命、ある段階から次の段階へ、無意志的な記憶から無意志的記憶へと進んでゆく。というのも今や真に新しいものなどありえないからだ。ヴィクトル・ユゴー氏やエミール・ゾラ氏は何かを発見したわけではないのである。
 この文学的革命はそれでも大騒ぎなしには済まされない。公衆とはすでに存在するものに慣れ、文芸には余暇にしか親しまず、芸術の閨房の秘密に疎く、自分の直接的な利益に触れないものに対してはものぐさで、すでに確定した称賛の念をかき乱されることを好まず、自分の事業以外で精神の活動を強要するようなもの一切を恐れているからである。
 さらに公衆はその抵抗に際して、蟄居型の文学党派に支えられている。本能的にすでに穿たれた畝をたどってゆくこれら一団の者たちの才能には、自発性というものが欠けている。彼らはすでに存在するものを超えたところには何物も想像できず、新しい試みについて話される時には学者ぶって「すでにあるもの以上によいものを作ることはできない」と答える。この答えは正しい。だがよりよいものを作ることはできないと認めたうえでも、別な風に作りうるということには同意できよう。つまり、源は同一のものなのだが、その流れを変えれば、芸術のたどる曲折は異なり、その事象は異なった風に変化に富むだろう。
 つまり、ゾラは革命家である。だが、自分が破壊しようとするものへの称賛のうちに育った革命家であり、あたかも祭壇を離れた司祭、結局は〈宗教〉を支持するルナン(30)氏のようである。ルナン氏は〈宗教〉の妥協の余地ない敵だと多くの者が信じていたのであるが。
 したがって、自らを自然主義者と名づけたこの小説家は、ロマン主義者たちを荒々しく攻撃しながらも拡大化という同じ手法を用いているのだが、ただその応用の仕方が違っているのである。
 彼の理論とは以下のものである。感覚を超えたものを認知することはできないのだから、我々は人生以外にモデルを持たない。結果的に、人生を歪曲すればよくない作品を生み出すことになる。それは誤った作品を作り出すことだからだ。
 想像力は、ホラーティウス(31)によって次のように定義されている。

もし画家が、人間の頭に馬の頸をつないで色とりどりの羽根を身にまとわせたいと思い、あちこちから手足と胴を集めてきたなら――こうして上のほうは美しい女であったものが、下のほうは恐ろしくみにくい魚になってしまうなら――(32)

 つまりは我々の想像力の努力の一切は、馬の胴体に美しい女性の頭部を乗せ、この動物を羽で覆い、醜い魚の尾で仕上げることにしかならない。つまりは怪物を造り出すことになるのだ。
 結論を述べよう。正確に本当でないものすべては歪められたものであり、すなわち怪物となる。そこから、想像力に頼る文学は怪物しか生み出さないと結論するまでにたいした距離はない。
 人々の目や精神が怪物に慣れているのは本当であり、そうなれば怪物はもはや怪物ではない。それというのも、我々に驚きを掻き立てる限りにおいてこそ怪物だからだ。
 つまり、ゾラにとっては真実だけが芸術作品を生み出すことができる。想像してはならない。観察し、見たものを細心細密に描写することが必要なのである。
 つけ加えておくべきは、作家に個別の気質が、彼が描く事物に特別な色合いや固有の様相を、彼の精神の性質に従って付与するということである。ゾラは自分の自然主義を「気質を通して眺められた自然(33)」と定義した。これこそは文学全般に対して与えることのできる、最も明確で、最も完璧な定義である。この気質こそが商標なのだ。芸術家の才能の大小に従って、彼が我々に翻訳して伝えるヴィジョンに大なり小なりの独自性を刻印することになる。
 それというのも完璧な鏡であると主張することは誰にもできないので、絶対的な真実、無味乾燥な真実など存在しない。我々は皆ひとつの精神の傾向を備え、それが我々をして時にある仕方で、時に別の仕方で見るように仕向ける。すると、ある者にとって真実と見えるものが、別の者には誤りと見える。本当のもの、絶対的に本当のものを作るというのは実現不可能な主張でしかなく、せいぜいは見たり感じたりする能力、自然が我々に与えた感受性に従って、自分の見たものを見たままに正確に再現し、感じたままの印象を与えようと努めうるに過ぎない。
 あらゆる文学的争いは、すなわちはとりわけ気質の争いである。人はしばしば精神の多様な傾向を、流派の問題、教義の問題に仕立てあげるものだ。
 だからゾラは観察された真実のために執拗に戦ってはいるけれども、大変に引き籠って生活しているし、決して外に出ずに、世界を知らないのである。では彼は何をするのか? 二、三冊のノート、あちこちから得た幾らかの情報でもって登場人物、性格を再構築し、自分の小説を築きあげるのだ。最後に彼は想像する。論理的と思える線にできる限り従い、可能な限り真実に寄り添いながら。
 だがロマン主義者の子として、その手法において自分自身ロマン主義的である彼には、詩へ向かう傾向、大きく誇張して描きたい、生物や事物をもとに象徴を作り出したいという欲求がある。もっとも彼自身、自分の精神のこの傾向をよく感じている。彼は絶えずそれと戦いながらいつでも屈しているのだ。彼の教訓と彼の作品とは永遠に不和の状態にある。
 だがそもそも、ただ作品だけが残るのであってみれば、教義など何になるだろう。この小説家は称賛すべき書物を生み出してきたが、にもかかわらずそれらは著者の意に反して叙事詩の様相を保持しているのである。それは作為的な詩情のない、先人が採用した慣例の外にある、他のどんな詩法の二番煎じも免れた、先入見を持たない詩篇なのだ。その詩篇においては、事物はそれが何であれ現実においてと等しい姿で現れるが、作家が自らのうちに抱く、大きくはするが常に忠実で誠実な鏡には、嫌悪を催すものか魅惑的なものか、醜いものか美しいものかは関係なく、決して変形させられはしないが拡大して映されるのである。
 『パリの腹』は食べ物の詩ではないだろうか? 『居酒屋』はワイン、アルコールと酔いの詩では? 『ナナ』は悪徳の詩ではなかろうか?
 もし高尚なる詩情、娼婦の見事な拡大化でないのなら、これは一体何であろうか。
「彼女は、自分の住まいの積みあげられた贅沢品の真ん中に立っており、打ちひしがれた男たちが足元にひれ伏していた。恐るべき住処を骨で埋め尽くす古代の怪物のごとくに、彼女は足先を男どもの頭上に乗せていた。そして破局が彼女を取り囲んでいた。ヴァンドゥーヴルの燃えあがった怒り、中国の海に溺れたフーカルモンの憂鬱、正直者として生きることを余儀なくされたステネールの荒廃、満足しきったラ・ファロワーズの愚かさ、ミュファ家の悲劇的な崩壊、前日出獄したフィリップが通夜をしたジョルジュの白い遺骸。破産と死よりなる彼女の作品は完成した。場末の塵芥から飛び立った蝿は社会の腐敗を発酵させ、ただ上に止まるだけでこれらの男たちに毒を注いだ。それは結構なこと、正当なことだった。彼女は自分の世界、乞食と捨てられた者たちの復讐をしたのだ。そして栄光のなかにあって、虐殺の場を照らす朝陽にも似て、これら横たわった犠牲者たちの上に彼女の性がのぼって光を投げかける一方で、彼女は見事な獣としての無意識を保ち続け、自らの仕事に無知のまま、いつでも善良な少女であったのだ(34)。」
 けれどもエミール・ゾラに対して、あらゆる革新者に敵対する者たちを怒らせたのは、彼の文体の粗暴なほどの勇敢さだった。文学上の「礼儀正しさ」に関する約束事を引き裂き、破り、紙製の輪に入った筋骨隆々の道化師のように通り抜けていったのだった。彼には正確な語、率直な語を使う大胆さがあり、その点で16世紀のたくましい文学の伝統に回帰している。そして礼儀正しい迂言法に対する尊大な軽蔑にあふれている彼こそが誰よりもよく、ボワロー(35)の有名な詩句を我がものとしたかのようだ。

  私は猫を猫と呼び、等々(36)

 彼はしばしば、この裸の真実に対する愛情を挑発にまで押し進め、読者を憤慨させるに違いないと知ったうえで自分の描写に満足し、読者の口に粗野な言葉を押し込み、それを消化する術を教え、気難しいことを言わなくさせようとするかのようだ。
 彼の文体はゆったりとしてイメージに溢れ、フロベール(37)のように簡潔にして正確なものではなく、テオフィル・ゴーティエのように彫琢された繊細なものでもなく、ゴンクール(38)のように微細に分断され、中世の吟遊詩人トゥルヴェールのごとくに複雑で、細やかに魅力的なのでもない。彼の文体は過剰であり、激烈で、まるですべてを押し流す氾濫した川のようである。
 生まれついての作家であり、見事なまでに天分を備えた彼ではあるが、他の作家のように自分の道具を極端なまでに完成の域に高めようと働くことはない。彼はそれを支配者として用い、思うままに導き、調節するのだが、ある種の大家のうちに見いだされるあの見事な文章を引き出したことは決してない。彼は言語の達人ではないし、時には彼は知らないのではないかと思われる。ある言葉の組み合わせ、構成の生み出すある種の調和、理解されることのない音節の釣り合いが、狂信的なまでに繊細な者、〈言葉〉のために生き、それ以外の何も理解しないような者の魂の奥底に、のちに残る震え、ほとんど感知できないような甘美な感触、芸術的痙攣をどれほどまでに生み出すことができるのかということを。
 もっともそういう者たちは稀である。大変に稀であり、文章に対する愛情を語っても誰からも理解されることがない。人は彼らを気狂いとして、ほほ笑みを浮かべながら肩をすくめて「言葉は明確で単純でなければならない。ただそれだけさ」と主張するのだ。
 耳を持たない人間に音楽の話をするのは無意味なことだろう。
 エミール・ゾラは公衆に、巨大な公衆に、公衆のすべてに向って話し、繊細な者たちだけに向っているのではない。彼はこの種の繊細さを一切必要としていないのだ。彼は明晰に、響きのよいきちんとした文体で書く。それで十分なのである。
 あまりに多くのからかいがこの男性に投げつけられたのではないだろうか。それも粗野で、たいして代わり映えのしないからかいである。飽くことなく、ある作家を専業の屎尿汲み取り人に、友人たちを補佐に、作品を肥溜めに喩えて文学批評をするのは本当に簡単なことだ。もっともこの種のはしゃぎぶりは、自らの力を感じ取る自信家を驚かせることさえほとんどないのである。
 この憎しみはどこから来るのか? それには十分な理由がある。まず、自分たちの抱く称賛の念の平穏さをかき乱された者の怒りであり、次に何人かの同僚の嫉妬であり、また別の同僚の敵意であって、つまり論争において彼に傷つけられたのである。そして最後に仮面をはがされた偽善者の憤慨である。
 それというのも、人々、彼らのしかめ面、見た目の美徳の背後に隠れる悪徳についての自分の考えを、彼はあけすけに述べたのである。だが、偽善の理論はあまりにも深く我々のうちに根をおろしているので、それ以外のすべてのことは許されるのだ。望む者になりたまえ、気に入ることをすればよろしい。だが我々があなたを紳士として遇せるように身なりを整えなさい。本当のところ、あなたのことはよく分かっていますが、我々にとっては、あなたが本来のあなたとは違う者の振りをしてくれれば十分なのです。そうすれば我々はあなたに敬意を表し、握手もすることでしょう。
 けれどもエミール・ゾラはすべてを述べる自由、誰もが行っていることを語る自由を精力的に要求し、ためらうことなくそれを手にした。彼は普遍的に行われている喜劇にだまされず、それに混じることもなかった。彼は叫んだのだ。「どうしてそんな嘘をつくのか? 誰もだませなどしないというのに。お目にかかるあらゆる仮面の下の、あらゆる顔はすでに知れている。あなた方は互いに行き違いながら、繊細な微笑を浮かべてみせる。その微笑は『みんな分かっていますよ』と告げているのだ。あなた方は耳元で醜聞、露骨な話、人生の真の裏面について囁きあう。それなのに、誰か勇気ある者が力強い声で話したり、大声ながら無関心な口調で穏やかに社交界の公然の秘密を語り始めたりすれば、騒ぎが持ちあがり、憤慨が装われ、やれメッサリナ(39)風の羞恥、やれロベール・マケール(40)の傷つきやすい自尊心ということになる。――けれどもこの私、私はあなた方に立ち向かい、あの勇敢なる者となろうではないか。」そして彼はそうなった。
 恐らくは文芸において、エミール・ゾラ以上に憎しみを掻き立てた者はいまい。さらに彼は、何人もの残忍で妥協の余地のない敵を持つという栄誉に浴している。彼らは事あるごとに狂信者のように彼を非難し、あらゆる武器を用いるのであり、彼は猪のような鋭敏さでそれを受け止めている。彼の辛辣な言葉による攻撃は伝説となっている。
 もしも何度かは、受けた殴打によって死にそうな目に合うことがあったとしても、彼が身を慰めるのに足りないものがあっただろうか? 彼より有名で、世界中に名の知れ渡った作家はいない。外国の一番小さな都市でさえ、すべての本屋に、すべてのキャビネ・ド・レクチュールに彼の書物を見ることができる。最も執拗な敵方でさえも、もはや彼の才能を否定できない。そして彼があれほど困った金銭も、今では波打つように彼のもとへ流れ込んでいる。
 つまりエミール・ゾラは、生前にはごく少数の者しか獲得することのできないものを所有するという稀な幸運に恵まれた。名声と富である。この幸運に恵まれた者を数えるのは簡単だろう。一方で、死後に有名となり、その作品に値千金が支払われるようになるのは後の相続人に対してという者は、世に数えられないほどいるのである。


III

 ゾラは今日、41歳になる。彼の人柄は彼の才能に呼応している。中柄で少しばかり太り気味、善良だが頑固そうな様子をしている。多くの古いイタリア絵画に見られるような頭をしていて、美しくはないが、力と知性に溢れる優れた性質を表わしている。短く刈った髪がとても広い額の上にそそり立っている。まっすぐの鼻は、鋏でばっさりといった風に上唇の上できっぱりと切り取られていて、唇のほうはとても濃く黒い口ひげの陰になっている。このふっくらして、しかしながら精力的な顔の下の部分は、短く刈られたあごひげで覆われている。黒い瞳は近視だけれど貫くようで、何かを探し求め、時には軽蔑するように、時には皮肉な様子で微笑を浮かべ、一方で、特徴的なしわを寄せて上唇が巻くりあがると、ある種滑稽でもあり、からかっているようにも見える。
 丸々として力強い全体の様子には大砲の弾を思わせるものがある。そのような人物が、二音節のごつごつした名前を堂々と捧げているのであり、その二音節は、ふたつの母音の響きのなかで弾けるかのようだ。
 彼の生活は単純、まったく単純なものだ。社交界や噂、パリの騒動に敵対して、当初は騒がしい地区から離れたところにあるアパルトマンに引き籠って暮らしていた。今ではメダンの田舎に隠棲し、もうほとんどそこを離れることがない(41)
 けれどもパリにも住居を構え、年に2か月ほどはそこで過ごす(42)。だが田園を離れなければならなくなる時、彼はすでにパリの住居にうんざりし、前もって嘆いているように見える。
 メダンでと同様にパリでも、彼の習慣は同じで、その労働力は並はずれたもののようだ。早くから起き出し、午後1時半頃まで休まずに仕事をしてから昼食をとる。3時頃には机に戻って8時まで、しばしば夜にもう一度仕事に取りかかることがある。こんな風にして何年ものあいだ、ほぼ年に2冊の長編小説を書いたうえ、『セマフォール・ド・マルセイユ』に新聞記事を、毎週の時評文をパリの大新聞(43)に、そして毎月長文の論考をロシアの重要な雑誌(44)に供することができたのである。
 彼の家は親しい友人にしか開かれず、無関係な人物に対しては無慈悲なまでに閉ざされている。パリに滞在中は、普通、木曜日の夜に客を迎える。彼の家で出会うのは、ライヴァルにして友人のアルフォンス・ドーデ(45)、トゥルゲーネフ(46)、モンロジエ(47)、画家のギユメ(48)、マネ(49)、コスト(50)、彼の弟子と思われている若い作家、ユイスマンス(51)、エニック(52)、セアール(53)、ロッド(54)、そしてポール・アレクシ、しばしば出版者シャルパンティエ(55)である。デュランティー(56)は家の常連だった。時々、エドモン・ド・ゴンクールが現われるが、遠くに住んでいて夜はめったに外出しないのである。
 生活や周囲の事物のなかに人物の精神の秘密を探ろうとする者にとって、ゾラは一個の興味深い〈事例〉となるだろう。ロマン主義者に対する血気盛んな敵対者である彼は、田舎でもパリでも、まったくロマン主義的な住まいを作りあげた。
 パリでは、彼の部屋には古代のタペストリーがかけられ、アンリ二世様式の寝台が広い部屋の中央に突き出ている。部屋は教会の古いステンドグラスで照らされ、彩り豊かな光が、一徹者の文学者の巣穴には場違いにも思える無数の空想的な置物の上に投げかけられている。あちこちに昔の布地、古い絹地の刺繍、大昔の祭壇の飾りがある。
 メダンにおいても装飾は同様である。住居は方形の塔で、その足元にとても小さな家が身を寄せている様は、巨人と連れ立って旅する小人さながらである。この住居は西部鉄道の線路に沿っており、時折行き来する列車は庭を横切ってゆくかのように見える。
 ゾラが仕事をするのは並外れて大きく天井の高い部屋で、平野に面したガラス窓が全体を照らし出している。そしてこの巨大な部屋にも巨大なタピスリーがかけられていて、あらゆる時代、あらゆる国の家具で埋め尽くされている。中世の甲冑は本物かどうか知らないが、日本の驚くような家具や、18世紀の優美な品々と並んでいる。両脇に2体の石像が並んでいる堂々たる暖炉は、一日で一本の樫の木を燃やし尽くす。コーニスは黄金に塗られ、それぞれの家具には置物がたくさん乗っている。
 しかしながら、ゾラは少しも収集家ではない。彼はまるでただ買うことを目的に、ごちゃ混ぜに、掻き立てられた空想の赴くまま、視線の気まぐれ任せに、形態や色の誘惑に金を払っているようで、ゴンクールのように、正真正銘の起源や疑いの余地のない値打ちには気を払わない。
 ギュスターヴ・フロベールは反対に置物を嫌悪し、この偏執をくだらない子どもじみたものと見なしていた。彼の家には「古物」、「骨董」や「美術品」と人の呼ぶところのものは何も見当たらなかった。パリでは、インド更紗のかけられた彼の部屋には、愛情をもって住まわれ、情熱を込めて飾られた住まいに見られる、あの包み込むような魅力が欠けていた。クロワッセの田舎では、熱中して仕事に打ち込む彼の広い部屋は、ただ書物で覆われているだけだった。それから、所々に旅や友情の記念の品があったが、ただそれだけだった。
 心理学的精髄を抽象する者はここに興味深い観察対象を見いだすのではないだろうか?
 家の正面、線路によって庭と隔てられている草原の向こうにゾラが窓から見渡すのは、トリエルのほうへ流れるセーヌ川の大きなリボン、次いで広大な平野、遠くの丘陵に見える白い村、そしてその上に高地を覆う森である。時には昼食ののち、川へ通じる魅惑的な道をおりて行き、最初の支流を舟「ナナ」号で渡り、一部を購入したばかりの大きな島に漕ぎ着ける(57)。そこに優美な東屋を建てたので、夏にはそこに友人を迎えようと計画している。
 今日、彼はジャーナリズムをほとんど放棄したように思われるが、日々の戦いへの決別は決して決定的なものではないので、彼が早朝の新聞紙上で自分の思想のために戦いを再開する姿を見いだすことになるだろう。それというのも彼は本能的に闘争者だからで、何年ものあいだ休む暇もなく戦い続け、どんな小さな弱みも見せることがなかった。加えて、彼は原則を語った全部の記事を集めて書物にしたが、それらが彼の『批評集』を構成している。
 彼の明確な思想は稀なる力強さで表明されている。
 彼の『文学的文書(58)』、『自然主義の小説家たち(59)』、『われわれの劇作家たち(60)』は、最も興味深く、最もオリジナルな批評文書に分類されるだろう。それらは議論の余地のないほどに決定的なのだろうか? その問いに対しては「議論の余地のないほど決定的なものがあるだろうか?」と答え得るだろう。それが唯一、議論の余地のない真理なのだろうか?
 議論の書のリストを補完するために、『わが憎悪(61)』、『実験小説論(62)』、『演劇における自然主義(63)』、最後に出版されたばかりの『論戦(64)』を挙げておこう。
 演劇は彼の関心事のひとつだ。皆と同じように、昔ながらの常套手段、昔ながらのドラマ、昔の演技は終わったものと考えている。だが彼はまだ、彼の好みの表現を用いるなら新しい形式を引き出してはいないようだし、彼のドラマ『テレーズ・ラカン(65)』を巡って起きた運動にもかかわらず、彼の試みは今日まで勝利を収めてはいない。
 この痛ましいドラマは冒頭で、深い感動の効果を生み出した。だが恐らくは感動の誇張が決定的な成功を駄目にした。何度もこの劇の再演が試みられたが、完璧な成功には至っていない。
 ゾラの2本目の戯曲は『ラブルダン家の相続者たち(66)』で、クリュニー劇場で上演された。最も大胆で、最も知性ある者のひとり、長らくパリの舞台を導いてきたカミーユ・ヴァインシェンク氏の監督によってであった。作品は褒められたが、演技が不十分だったので、演目に長く留まることはなかった。
 それからパレ=ロワイヤル座での『バラのつぼみ(67)』は本物の失敗で、再演の希望もないものだった。
 加えて、ゾラは『獲物の分け前』から大きなドラマを引き出したばかりで、さらに人の言うところでは、もう1本別の芝居もあるという。前者の主役はサラ・ベルナール(68)嬢に当てられているというのもありそうなことである(69)
 これら演劇の試みの将来の成功がどのようなものであろうとも、この注目すべき作家の才能はとりわけ小説向きであり、この形式だけが彼のたくましい才能の十全たる発展にあらゆる点でふさわしいということは、今日すでに証明されているように思われる(70)


『政治文学評論』、1883年3月10日付
『エミール・ゾラ』、カンタン書店、「現代著名人」、1883年
Revue politique et littéraire, 10 mars 1883, p. 289-294.
Émile Zola, Quantin, coll. « Les Célébrités Contemporaines », 1883, 32 p.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 586-598.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) Honoré de Balzac(1799-1850):小説家。人物再登場法を駆使し、自作の小説を『人間喜劇』の総題のもとにまとめあげ、復古王政および七月王政下のフランス社会全体を描きあげることを試みた。近代リアリズム小説の代表者。『ゴリオ爺さん』(1835)、『谷間の百合』(1835)、『従妹ベッド』(1846)。
(2) Alfred de Musset(1810-1857):ロマン派の詩人、小説家、劇作家。繊細な感性と憂鬱な気分に満ちた抒情詩は、後代の青年たちに大きな影響を及ぼした。『スペインとイタリアの物語』(1830)、『新詩集』(1850)。戯曲に『マリアンヌの気まぐれ』(1833)、『ロレンザッチョ』(1834)、『戯れに恋はすまじ』(1834)。自伝的小説『世紀児の告白』(1836)。1852年、アカデミー・フランセーズ入会。
(3) Victor Hugo(1802-1885):詩人、劇作家、小説家。戯曲『クロムウェル』(1827)や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829)などによってロマン主義を主導した。小説に『死刑囚最後の日』(1829)、『ノートルダム・ド・パリ』(1831)。1841年、アカデミー・フランセーズ入会。第二共和政下で代議士を務めるが、第二帝政の開始とともに亡命。ブリュッセル、ジャージー島、ガーンジー島に移り住んだ。『懲罰詩集』(1853)、『静観詩集』(1856)、小説『レ・ミゼラブル』(1862)を発表。第三共和政の成立に際して帰国、文壇の最重鎮として君臨。『諸世紀の伝説』(1859、1877、1883)、『九十三年』(1874)。1885年、国葬ののちパンテオンに埋葬される。
(4) Paul Alexis(1847-1901):小説家、ジャーナリスト。短編集に『リュシー・ペルグランの最期』(1880)、『愛への欲求』(1885)、『プラトニックな恋』(1886)、『恋愛教育』(1890)、『三十の小説』(1895)。長編に『ムリヨ夫人』(1890)、『ヴァロブラ』(1901)。戯曲に『リュシー・ペルグランの最期』(1888)、『ザンガノ兄弟』(ゴンクールの翻案、1890)、『シャルル・ドマイ』(同、1892)などがある。加えて、ジャーナリストとして『国家の未来』、『クロッシュ』、『ジュルナル』、『レヴェイユ』、『民衆の叫び』などの多数の新聞・雑誌に寄稿した。
(5) Paul Alexis, Émile Zola. Note d’un ami, G. Charpentier, 1882. ポール・アレクシ『エミール・ゾラ 一友人の手記』、シャルパンティエ書店、1882年。
(6) La Confession de Claude, Librairie internationale, A. Lacroix, Verboeckhoven et Cie, 1865 (C. Marpon et E. Flammarion, 1880).
(7) アシェット書店への勤務は1862年から66年1月まで。広報部に勤め、出版界の内幕を知った。
(8) Sully Prudhomme(1839-1907):高踏派の詩人のひとり。のちに哲学詩の傾向を強め、詩集『運命』(1872)、『正義』(1878)、『幸福』(1888)などを発表。1881年、アカデミー・フランセーズ入会。1901年、ノーベル文学賞受賞。モーパッサンはSully-Prudhommeと綴っている。
(9) Théophile Gautier(1811-1872):詩人・小説家。ロマン主義を代表する作家のひとり。唯美主義を掲げた『モーパン嬢』(1835)序文が名高い。詩集『螺鈿と七宝』(1852)は彫琢された詩篇によって、ボードレールら後世の詩人に大きな影響を与えた。長編に『ミイラ物語』(1858)、『キャピテン・フラカス』(1863)などがあるほか、幻想的な短編小説を多数残している。
(10) Contes à Ninon, Librairie internationale, Jules Hetzel et Albert Lacroix, 1864.
(11) Thérèse Raquin, Librairie internationale, A. Lacroix, Verbeckhoeven et Cie, 1867. 不倫の末の殺人事件を描く。本書第2版(1868)の序文は自然主義宣言として有名。
(12) Madeleine Férat, Librairie internationale, A. Lacroix, Verbeckhoeven et Cie, 1868. 三角関係と遺伝を主題としている。
(13) 『ルーゴン家の繁栄』に付された「序文」。モーパッサンの引用は原文と多少異同がある。
(14) La Fortune des Rougon, Librairie internationale, A. Lacroix, Verboecken et Cie, 1871. 架空の町プラッサンを舞台に1851年のクーデターを描く。
(15) La Curée, Librairie internationale, A. Lacroix, Verboecken et Cie, 1872. パリ改造による不動産投機と不倫の物語。
(16) Le Ventre de Paris, G. Charpentier, 1873. パリの中央市場を舞台に、流刑地から逃亡してきたフロランが社会から排除される過程を描く。
(17) La Conquête de Plassans, G. Charpentier, 1874. 奇怪な司祭フォージャの暗躍を描く。
(18) La Faute de l’Abée Mouret, G. Charpentier, 1875. 自然のなかでの神父の恋愛を描く。
(19) Son Excellence de Eugène Rougon, G. Charpentier, 1876. 第二帝政の政界を描く。
(20) ルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン三世)は皇帝になる以前に「プリンス」と呼ばれた。
(21) 「『ニヒリズム』の語の発明者」(『ゴーロワ』、1880年11月21日)において、モーパッサンはトゥルゲーネフの文学を紹介する際にロシアの「ニヒリズム」について語っている。一方、アナーキズムの進展するロシアにおいては、1881年、度々の未遂ののちにアレクサンドル2世が暗殺された。
(22) L’Assommoir, G. Charpentier, 1877. 洗濯女ジェルヴェーズの生涯を通して庶民の生活を描くと同時にアルコール中毒の危険を告発する。
(23) 『居酒屋』は1876年4月13日―6月7日に『公益』に連載されたが、読者の批判により中断する。
(24) Catulle Mendès(1841-1909):高踏派詩人。1860年『ルヴュ・ファンテジスト』創刊。76年には『現代高踏派伝説』を連載するなど、この流派の代表的存在。『文芸共和国』は1876年創刊。高踏派詩人の他に、ゾラ、フロベール等も寄稿した。1876年7月9日号―1877年1月7日号にわたってゾラ『居酒屋』を連載。モーパッサンも「ギュスターヴ・フロベール」「水辺にて」などの詩篇を寄稿している。
(25) Albert Wolff(1833-1891):『フィガロ』紙で活躍した時評記者。自然主義を時に擁護、時に批判しゾラと論争を行った。1877年2月5日の記事では、民衆の生活の真実を描いたとして『居酒屋』を称賛、著書の評判を高めるのに貢献した。
(26) 2月に発売された『居酒屋』は年内に38版を記録し、挿絵版も出版された。
(27) Une page d’amour, G. Charpentier, 1878. 寡婦と医者の恋、娘の嫉妬を描く。
(28) Nana, G. Charpentier, 1880. 高級娼婦ナナの栄華盛衰を描く。
(29) Pot-bouille, G. Charpentier, 1882. ブルジョア家庭の実態を暴く。
(30) Ernest Renan(1823-1892):思想家。哲学者、歴史家。『キリスト教起源史』(7巻、1863-1881)の第1巻『イエス伝』(1863)においてイエスの生涯を実証的に記述し、スキャンダルを巻き起こした。ただしルナン自身は一定の宗教心を保ち続けた。1878年、アカデミー・フランセーズ入会。その他の著作に『フランスの知的道徳的改革』(1871)、『思い出』(1883)など。
(31) Horace (65 av. J.-C. - 8 av. J.-C.):古代ローマの詩人。『試論』は後世に大きな影響を与えた。『諷刺詩』、『書簡詩』など。
(32) ホラーティウス『詩論』、松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年、231頁。
(33) « La nature vue à travers un tempérament »:「プルードンとクールベ」(『わが憎悪』(1866)所収)のなかで、ゾラは「芸術作品はある気質を通して眺められた自然の一隅である」« Une œuvre d’art est un coin de la création vu à travers un tempérament » と述べているほか、同様の定義を繰り返した。
(34) 『ナナ』弟13章末尾、娼婦ナナの絶頂を語る場面。
(35) Nicolas Boileau(1636-1711):詩人。『諷刺詩』や『書簡詩』に加え、『詩法』(1674)を発表。古典主義の理論を明確にした。
(36) ボワロー『諷刺詩』第1歌、51行。「私は猫を猫と呼び、ロレは詐欺師と呼ぶ」。
(37) Gustave Flaubert(1821-1880):小説家。精密な考証を基に、推敲に推敲を重ねて小説を執筆した。『ボヴァリー夫人』(1857)、『感情教育』(1869)などの作品は後世に大きな影響を与える。他に『サラムボー』(1862)、『聖アントワーヌの誘惑』(1874)、『三つの物語』(1877)、『ブヴァールとペキュシェ』(未完、1881)。ゾラはフロベールを尊敬し、自然主義の祖と位置づけていた。
(38) Edmond de Goncourt(1822-1896):批評家・小説家。弟ジュールと協力して『ジェルミニー・ラセルトゥー』(1865)などの作品を執筆。弟の死後はひとりで創作を続けた。『娼婦エリザ』(1877)などによって、レアリスム文学の代表のひとりと位置づけられる。『ザンガノ兄弟』(1879)、『フォスタン』(1882)、『愛しい人』(1884)。美術収集家として日本美術に詳しく、また長年記した『日記』でも名高い。
(39) Messaline(vers 25-48):ローマ皇帝クラウディウスの妃。愛人シリウスと陰謀を企てるが、露見して処刑された。放蕩ぶりで有名。
(40) Robert Macaire:架空の人物。劇作家バンジャマン・アンティエが着想し、俳優フレデリック・ルメートルの演技で有名になった。のちに諷刺画家ドーミエがマケールについての一連の作品を発表。私欲に満ちた偽善者、ほら吹きの小悪党といった人物。
(41) パリ近郊の小村メダンの土地は、『居酒屋』の成功で多額の印税を手にしたのち、1878年5月に購入された。ゾラは自ら設計して家屋を増築、以後次第に拡張されてゆく。
(42) 1877年4月にゾラはブーローニュ通り(現在のバリュ通り)23番地に転居。1889年10月にブリュッセル通り21番地の2に移るまで暮らした。
(43) 『クロッシュ』、『フィガロ』、『公益』等の日刊紙。
(44) 『ヨーロッパ通報』を指す。トゥルゲーネフの紹介で1875年から80年まで原稿を掲載。
(45) Alphonse Daudet(1840-1897):南仏出身の小説家。短編集『風車小屋だより』(1869)で文名を確立。風俗小説を数多く著わした。『陽気なタルタラン』(1872)のシリーズなどが名高い。長編小説に『若いフロモンと兄リスレル』(1874)、『ジャック』(1876)、『ナバブ』(1877)、『亡命の諸王』(1879)、『ニュマ・ルメスタン』(1881)、『福音伝道師』(1883)、『サフォー』(1884)、『不滅の人』(1888)、『小教区』(1895)、『大黒柱』(1898)。1866年、共に『エヴェヌマン』紙に寄稿した際にゾラは彼と知り合い、以後ゴンクールやフロベールの家で交流するが、美学的・政治的意見に一致を見ることはなかった。
(46) Ivan Tourgueniev(1818-1883):ロシアの小説家。人道主義に立って社会問題を取りあげた。フランスに長期滞在し、フロベールと親しく、ゾラとも親交を結んだ。自然主義の作家たちのロシアでの紹介に貢献した。小説に『猟人日記』(1852)、『ルージン』(1856)、『はつ恋』(1860)、『父と子』(1862)、『けむり』(1867)、『処女地』(1877)。
(47) Eugène Montrosier(1839- ?):絵画批評家。『現代画家』(1881-1884)など。
(48) Antoine Guillemet(1842-1918):コローの弟子で、1861年にセザンヌと出会い、マネやゾラに引き合わせた。印象派に近い風景画を描くがサロンにも受け入れられる。ゾラはたびたび彼の絵を称賛した。
(49) Edouard Manet(1832-1883):画家。早くからゾラと交流があり、ゾラは1866年、68年のサロン評でマネを擁護した。68年サロンにはマネによる「ゾラの肖像」が展示され物議を醸す。のちにゾラはマネおよびセザンヌをモデルとした小説『制作』(1886)を執筆する。
(50) Numa Coste(1843-1907):エクス=アン=プロヴァンス出身で絵画を学び、セザンヌ、ゾラと交流を持つ。後年エクスに戻り、考古学、絵画批評に携わった。
(51) Joris-Karl Huysmans (1848-1907):小説家。自然主義から後に神秘主義に転じた。『マルト』(1876)、『ヴアタール姉妹』(1879)、『流れのままに』(1881)、『さかしま』(1884)、『仮泊』(1887)、『彼方』(1891)、『出発』(1895)、『大伽藍』(1898)、『修練士』(1903)。芸術評論に『現代芸術』(1883)、『ある人々』(1889)、『三人のプリミティフ画家』(1904)。1892年以降カトリックに転向。1900年よりアカデミー・ゴンクールの初代会長を務めた。
(52) Léon Hennique(1850-1935):小説家、劇作家。ゾラと親しく、後にはエドモン・ド・ゴンクールと近しくなった。小説に『献身的な女』(1878)、『ふたつの小説』(1881)、『エベール氏の災難』(1883)、『ブフ』(1887)、『ある性格』(1889)、『ミニー・ブランドン』(1899)。戯曲に『ジャック・ダムール』(ゾラの翻案、1887)のほか、歴史劇『エステル・ブランデス』(1887)、『アンギャン公の死』(1888)、パントマイム『懐疑的なピエロ』(ユイスマンスと共作、1881)など。1900年よりアカデミー・ゴンクール会員。1907-1912年には会長を務めた。
(53) Henry Céard(1851-1924):小説家、劇作家、批評家。長いあいだゾラと近しかったが、1893年に離反する。長編小説に『美しい一日』(1881)、『海辺の売地』(1906)。戯曲に『ルネ・モープラン』(ゴンクール兄弟の翻案、1886)、『すべて名誉のために』(ゾラに基づく、1887)、『諦めた人たち』(1889)、『桃の実』(1890)など。1918年よりアカデミー・ゴンクール会員。
(54) Édouard Rod(1857-1910):小説家。『「居酒屋」に関して』(1879)などでゾラと自然主義を擁護。自身も『パルミール・ヴラール』(1880)、『ミス・トプシーの失墜』(1882)などの自然主義小説を執筆するが、後年になって自然主義を否認し、独自の創作活動を行った。『死への争い』(1885)、『人生の意味』(1889)など。
(55) Georges Charpentier(1846-1905):父ジェルヴェの書店を継ぎ、1872年よりゾラの書物を出版。フロベール、ゴンクール、ドーデらの出版も手掛け、「自然主義御用達」出版人を自認。『メダンの夕べ』に継いで、モーパッサンは『詩集』(1880)をシャルパンティエから出版している。
(56) Louis Edmond Duranty(1833-1880):小説家・批評家。1856年から57年にかけて雑誌『レアリスム』を刊行。ロマン派の理想主義的姿勢を批判した。クールベ、マネ、ドガらと親しく、印象派を擁護した。小説に『アンリエット・ジェラールの不幸』(1879)など。
(57) ボート「ナナ」号は、モーパッサンがゾラのために購入を請け負ったもの。
(58) Documents littéraires, G. Charpentier, 1881.
(59) Les Romanciers naturalistes, G. Charpentier, 1881.
(60) Nos auteurs dramatiques, G. Charpentier, 1881.
(61) Mes haines, Achille Faure, 1866 (réédition : G. Charpentier, 1879).
(62) Le Roman expérimental, G. Charpentier, 1880.
(63) Le Naturalisme au théâtre, G. Charpentier, 1881.
(64) Une campagne, G. Charpentier, 1882.
(65) 『テレーズ・ラカン』は1873年7月11日、ルネサンス座で初演。
(66) 『ラブルダン家の相続人たち』は1874年11月3日、クリュニー座で初演。
(67) 『バラのつぼみ』は1878年5月6日、パレ=ロワイヤル座で初演。
(68) Sarah Bernhardt (1844-1923):女優。コンセルヴァトアール卒業後、私設劇場を転々とし、1869年、フランソワ・コぺ『行きずりの人』で成功を収めた。1872年、ヴィクトル・ユゴー『リュイ・ブラス』再演で評判となり、コメディ・フランセーズに復帰し、『フェードル』(1874)、『エルナニ』(1877)などを演じた。1880年に退団し、アメリカやカナダへの巡業で巨利を得た。『椿姫』(1880)、『テオドラ』(1884)、『トスカ』(1887)などをヒットさせ、『ハムレット』(1886)などの男役でも評判を呼んだ。1899年にサラ・ベルナール座を設立。第一次大戦中は戦地を慰問し、死後、国葬の礼を受けた。
(69) 1875年『獲物の分け前』を読んだサラが、ゾラに自分用の脚本を作るように依頼した。結果的にはサラによる上演は実現しなかった(『ルネ』は1887年4月16日にヴォードヴィル座で初演を迎える)。モーパッサンも自作の戯曲(『リュヌ伯爵夫人の裏切り』を改稿した)『レチュヌ伯爵夫人』(1878)の主演をサラに託したが、やはり実現せずに終わっている。
(70) 『居酒屋』(ウィリアム・ビュスナックとオスカル・ガスティノー、1879)、『ナナ』(ビュスナック、1881)がスキャンダルな商業的成功を収めた点にはモーパッサンは触れていない。ゾラの演劇への取り組みは以後も継続され、後年にはオペラにも取り組んだが、モーパッサンのくだした評価には今日も大きな変化は見られない。


(*翻訳者 足立和彦)

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