アンリ・セアール

Henry Céard



アンリ・セアール
Herny Céard, 1851-1924


アンリ・セアール  アンリ・セアールは小説家、劇作家、ジャーナリスト。1851年11月19日、ベルシー(1860年にパリ市に編入)に生まれた。父は貨物駅の職員。ルイ=ル・グラン、シャルルマーニュ中等学校で学び、優秀な成績で卒業。
 1870年9月、国民軍第126大隊第2中隊に配属。攻囲下のパリ防衛に努めたのち、3月に軍務を離れた。
 1872年夏にはラリボワジエール病院に助手として数か月通い、このときの経験がのちに作家として役立つ。73年に陸軍省に入省(82年まで勤める)。74年にJ・K・ユイスマンスと知り合った。76年4月、エミール・ゾラのもとを訪問して尊敬の念を伝え、以後交流が続く。ユイスマンス、レオン・エニックポール・アレクシ、ギィ・ド・モーパッサンとグループを形成する。また、セアールはギュスターヴ・フロベールを敬愛しており、その影響は彼の作品に深く浸透している。
 1877年8月には最初の短編「夜襲」(普仏戦争が主題)を『文学生活』に発表。78年にはメダンにいるゾラの代わりに劇場に通って講評を送ったり、『ナナ』執筆の手助けをしたりするなど、助手のような役を担った。79年にはレオン・エニックとともにゾラから『プラッサンの征服』の舞台化の許可を得て取りかかる。『フォージャ神父』の原稿は完成したが、上演には至らなかった。
 1880年1-2月には初長編『発育不良』を連載(『スロヴォ』、露訳、81年8-9月、『文学芸術評論』にも掲載)するが、単行本の刊行は見送られる。1880年4月、『メダンの夕べ』に短編「瀉血」を寄稿。普仏戦争中の攻囲下のパリにおける、臨時国防政府を指揮する将軍(ルイ・ジュール・トロシュがモデル)と愛人のパオエン夫人の物語を通して、首脳部の無能ぶりを諷刺している。
『美しい一日』表紙 Source gallica.bnf.fr / BnF  1881年には長編『美しい一日』を発表(シャルパンティエ書店)。デュアマン夫人とアルフレッド・トリュドンの逢い引きの一日を描いている。「何も事件が起こらない」という自然主義の理念を極限まで推し進めた作品として知られるが、実際には心理分析小説であり、作者の悲観主義的世界観を色濃く反映させている。
 1882年10月、陸軍省を辞めてセーヌ県の県庁に務めたのち、1883年11月よりパリ市歴史図書館(当時はカルナヴァレ館にあった)に勤務、98年まで勤める。
 小説家としては寡作だった一方、ジャーナリストとして『グラン・ジュルナル』(1880)、『エクスプレス』(1881-1882)、『ナショナル』(1897-1899)、『エヴェヌマン』(1889-1905)といった新聞に寄稿している。
 また、エニックやアレクシと同様に、80年代後半から演劇との関わりが大きくなる。1887年にアンドレ・アントワーヌ(1858-1943)が立ち上げた「自由劇場」では、12月『すべて名誉のため』(ゾラの短編「ビュルル大尉」翻案)、89年1月『諦めた人たち』、90年5月には『桃の実』を上演した。また、1909年1月にはJ・L・クローズと共作で韻文劇『ローラン』を上演している(オデオン座)。1922年、戯曲集『悪しき本』出版(リブレリ・フランセーズ)。
『今日の人々』 no 382 アンリ・セアール Source gallica.bnf.fr / BnF  セアールは長らくエミール・ゾラと親しかったが、90年代に入り、ゾラ家のいざこざに巻き込まれたこともあって関係は疎遠になる。ドレフュス事件に際しては反ドレフュス派に立ち、ゾラを批判する記事を執筆した。
 エドモン・ド・ゴンクールとは80年代前半に良好な関係にあったが、1886年11月、オデオン座でセアール翻案の『ルネ・モープラン』が失敗に終わり、機嫌を損ねたエドモンとの関係は悪化した(そのため、セアールは1900年のアカデミー・ゴンクール創立メンバーには選ばれなかった)。
 1898年、パリ市立図書館退職ののち、ブルターニュ地方に隠棲する。1906年に、ブルターニュを舞台とした、小説家としての集大成といえる大作『海辺の売地』(シャルパンティエ&ファスケル書店)を発表。1908年6月10日、マリー・ドラクロワと結婚し、パリに戻った。
 1918年、ジュディット・ゴーティエの跡を継いでアカデミー・ゴンクール会員。1919年、『戦争ソネ集 1914-1918』刊行。
 アンリ・セアールは1924年8月16日にパリで死去。ベルシー墓地に埋葬された。

アンリ・セアール  モーパッサンとセアールの関係は良好だった。1883年、モーパッサンは「海上異聞」をセアールに捧げているが、セアールに関して記事を書くことはなかった。
 セアールの側ではモーパッサンを常に評価していた。『メダンの夕べ』刊行直後には「劇評」(『グラン・ジュルナル』、1880年5月25日)で『詩集』について語り、1888年には「ギィ・ド・モーパッサン」(『挿絵入り評論』、1888年4月1日)で『ピエールとジャン』を書評している。
 1893年7月8日、モーパッサンの葬儀に際しては、ゾラに続いてセアールも「追悼演説」を行った。
 その後もモーパッサンに関心を持ち続け、「トックとプリュニエ」(『エヴェヌマン』、1896年8月22日)、「モーパッサン」(『エヴェヌマン』、1897年10月23日)があるほか、晩年までモーパッサンについての著作を書く意志を抱いていたようで、「銅像を巡って」(『プチ・マルセイエ』、1923年2月11日)を残している。

 なお、この一文は以下に多くを負うている。
Henry Céard, Une belle journée, édition de Thierry Poyet, Gallimard, Folio classique, 2022.
Ronald Frazee, Henry Céard idéaliste détrompé, University of Toronto Press, 1963.
C. A. Burns, Henry Céard et le naturalisme, John Goodman & Sons, Birnmingham, 1982.
Colin Burns, « Dossier Henry Céard », Les Cahiers naturaliste, no 68, 1994, p. 89-237.


(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)


▲冒頭へ

▲事典項目へ



Ce site vous présente les informations essentielles (en japonais !)
pour approfondir vos connaissances sur Guy de Maupassant ; biographie, listes des œuvres, bibliographie et liens utiles, etc.

En même temps, nous vous présentons la traduction en japonais des œuvres de Maupassant, théâtre, poèmes, chroniques, et bien sûr, contes et nouvelles !


© Kazuhiko ADACHI