「五人の宣言」
« Manifeste des cinq », le 18 août 1887
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1887年8月18日、『フィガロ』紙に発表された、エミール・ゾラ『大地』に対する抗議声明。若い世代の自然主義からの離反を象徴し、自然主義の衰退を示すものとして文学史に取りあげられる一文である。記事のタイトルは « La Terre / À Émile Zola »「大地 エミール・ゾラへ」となっているが、« Manifeste des cinq »「五人の宣言」と呼ばれることが多い。執筆者は、ポール・ボンヌタン(1858-1899)、J・H・ロニー(ロニー兄、1856-1940)、リュシアン・デカーヴ(1861-1949)、ポール・マルグリット(1860-1918)、ギュスターヴ・ギッシュ(1860-1935)の連名となっている。
エミール・ゾラ(1840-1902)は、1871年の『ルーゴン家の運命』以来、全20巻からなる『ルーゴン=マッカール叢書』の執筆を進めた。第7巻『居酒屋』(1877)、第9巻『ナナ』(1880)などの成功によって、作家としての地位を確立するとともに、「自然主義」の理念を文学界に普及させる。1880年には、ユイスマンス、モーパッサン、セアールらとともに共作短編集『メダンの夕べ』を著し、自然主義の存在をアピールした(1878年、パリ郊外のメダンに地所を購入後、彼はそこで執筆に専念していた)。ゾラは商業的にも大きな成功を収める一方、保守的な批評家からの批判は激しく、その作品は粗野で下品であるとみなされることが少なくなかった。
1887年、ゾラは『叢書』第15巻『大地』(『ジル・ブラース』紙に5月29日―9月16日連載、後にシャルパンティエ書店より刊行)を発表する。本作に描かれる農民は「動物性」に溢れており、性的ないし暴力的な場面も少なくない。当時の読者にとってスキャンダラスだったこの作品も多くの批判を呼び、そのなかで「五人の宣言」も書かれることとなった。
本論における批判の中心は、ゾラの作品が卑猥かつ下品であるということである。「人間的資料」を収集することによって「真実の文学」を追求するという自然主義の理念を、主導者のゾラ自身が裏切っており、マンネリズムと自己模倣に陥って堕落する一方、スキャンダルによる売り上げを当て込んで猥褻さを誇張していると糾弾されている。ゾラが性的な描写にこだわるのは、禁欲的生活を送る彼自身が、性的能力に関する精神的不安を抱えているためではないかと揶揄されてもいるが、この種の当てこすりはそれ自体、あまり上品なものではないように見受けられる。
「五人の宣言」の著者は1856-61年の生まれであり、ゾラとは15-20歳ほど年が離れている。彼らはいずれも自然主義の影響のもとに小説家としてのキャリアを開始し、「自然主義者」というレッテルを貼られることも少なくなかった者たちである。そのような彼らが自分たちのオリジナリティを主張するためには、〈師〉たるゾラのくびきから脱却することが不可欠であり、『大地』がそのきっかけを与えたのだと言えるだろう。
もっとも、自然主義流派「分裂」の陰には、年長作家エドモン・ド・ゴンクール(1822-96)、およびアルフォンス・ドーデ(1840-97)の存在があったと考えられている。ゾラとゴンクール、ドーデは、ギュスターヴ・フロベール(1821-1880)を介して長らくの友人であったが、次第にライヴァル間の反目が目立つようになっていた。ゴンクールは1885年2月より自宅の「屋根裏」をサロンとし、毎日曜の午後に若者たちを積極的に迎え入れていたのだった(ドーデはサロンの中心的人物だった)。もっとも、ゴンクール自身は「宣言」発表の日、『日記』に以下のように記している。
8月18日、木曜日――今朝、『フィガロ』紙を開くと、おおいに驚かされたことには、冒頭にゾラの文学的死刑宣告が掲載されており、以下の五名によって署名されていた。ポール・ボンヌタン、ロニー、デカーヴ、マルグリット、ギッシュ。いやはや、五人のうちの四人は私の「屋根裏」の参加者だ!
(略)
ポタン宅を辞して、シャンプロゼー行きの列車に乗り、そこで夕食をとった。ドーデは私以上に「五人の宣言」について知らなかった。彼らは徹底的に秘密裡に悪事を働いたのだ。ふたりでそれを読み返すと、宣言は下手に書かれており、あまりに科学的用語を用い過ぎているし、著者個人をあまりにも侮辱的に攻撃しているように思われた。
なお、ポール・ボンヌタンの証言によれば、執筆に至った過程は以下の通り。当時『ジル・ブラース』に寄稿していたボンヌタンが同紙連載の『大地』を読み、批判記事の執筆を思い立った。そこで以前に関わりのあった『フィガロ』紙の編集長フランシス・マニャールに持ちかけたが、『ジル・ブラース』に関わっているボンヌタンが『フィガロ』に記事を書くことには問題があった。そこでボンヌタンはデカーヴに相談し、連名記事にすれば『ジル・ブラース』側もさほど腹を立てないだろうと判断した。マルグリットはボンヌタンに全権を委任し、ボンヌタンとデカーヴはギッシュとロニーにも声をかけた。実際に記事を執筆したのはロニーで、ボンヌタンによれば「薬学に関する新語」を乱用しがちのロニーのために、記事は「科学的=大時代的な」ものになったという(ジュール・ユレ『文学の進化についてのアンケート』、1891年)。
「五人の宣言」の反響は大きく、多数の記事が新聞・雑誌に掲載された。保守派の重鎮・フェルディナン・ブリュヌティエールは『両世界評論』9月号に、「自然主義の破産」と題する記事を発表、ゾラの作品は真実から乖離していると酷評した(『自然主義小説』に収録)。アナトール・フランスも『タン』紙(8月28日)に記事を発表、『大地』を「悪党の農耕詩」と呼んで厳しく糾弾している(『文学生活』第1集に収録)。
以下、署名者について簡略に記す。
ポール・ボンヌタン(Paul Bonnetain, 1858-1899):ニーム出身。18歳から海兵隊に入隊。その体験を踏まえて1882年に短編集『ある兵士の世界一周』を発表。自然主義色の強い最初の長編『シャルロは楽しむ』(1883)が翌年に訴訟沙汰となり、そのスキャンダルで有名となった。戯曲の他、軍隊および東洋滞在の経験に基づく小説を発表。長編小説に『阿片』(1886)、『海上』(1887)、『通称ペルー』(1888)。ルポルタージュとして『トンキンにて』(1884)、『奥地にて スーダンの印象』(1895)などがある。1899年、政府委員としてラオス滞在中に急逝した。
J・H・ロニー(ロニー兄、J. H. Rosny ainé, 1856-1940):本名ジョゼフ・アンリ・ボエックス、ブリュッセル出身。1883年よりパリ在住。『ネル・ホーン』(1886)などの最初の作品の後、1908年まで弟(Rosny jeune, 1859-1948)と共作を行う。後に一人での執筆に戻った。社会小説『マルト・バラカン』(1908)、感傷的作品『純粋な者と不純な者』(1921)などの他、特に先史時代小説『火の戦争』(1911)、『巨大猫』(1920)、『青い河のエルグヴォール』(1930)や、SF作品「クシペユス」(短編、1887)、『もう一つの世界』(短編集、1898)、『神秘の力』(1914)、『大地の死』(1912)、『無限の航海者』(1927)などで知られる。1900年よりアカデミー・ゴンクール会員、1926年に会長に就任した。
リュシアン・デカーヴ(Lucien Descaves, 1861-1949):パリ出身。1878年から銀行に勤める。82年から86年まで兵役を務めた。1882年、短編集『エロイーズ・パジャドゥの受難』を発表。これを契機にユイスマンスらと親交を深めた。1890年、『下士』(1899)に対する訴訟で有名になる。生涯にたくさんの作品を残し、なかに『閉じ込められた者たち』(1894)、『円柱』(1901)、『老兵フィレモン』(1913)などがある。1900年よりアカデミー・ゴンクール会員。1945年から亡くなるまで会長を務めた。
ポール・マルグリット(Paul Margueritte, 1860-1918):アルジェリアのラグア出身。小説として『全部で四人』(1885)、『パスカル・ジェフォッス』(1887)、『恋人たち』(1890)、『物の力』(1891)など。1896年から弟のヴィクトル(Victor, 1866-1942)と共同で執筆した。普仏戦争を扱った連作『ある時代』、すなわち『敗北』(1898)、『剣の破片』(1901)、『善良な者たち』(1901)、『コミューン』(1904)などがある。『我が父』(1884)をはじめ、何巻にも及ぶ回想録を残している。1900年よりアカデミー・ゴンクール会員。
ギュスターヴ・ギッシュ(Gustave Guiches, 1860-1935):ロット県アルバ出身。1880年よりパリのガス会社に勤めた。1886年、最初の長編『セレスト・プリュドマ』を発表。多作な小説家・劇作家で、生涯にわたって自然主義の美学に忠実だった。『敵』(1887)、『予想外』(1890)、『隣人の妻』(1898)。回想録に『人生の祝宴』(1925)、『スペクタクル』(1932)がある。
なお翻訳にあたって、原文イタリックの箇所をボールドとした。
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大地
エミール・ゾラへ
大地
エミール・ゾラへ
少し前まではまだ真剣な非難を受けることなく、自分は若い文学者とともにいると、エミール・ゾラは書くことができていた。だが『居酒屋』(1)の登場から、〈自然主義〉の土台を強固なものとした激しい論争からわずか数年しか経っていないのに、上昇する新世代は反抗を意図するに至った。紋切り型の苛立たしいほどの繰り返しにとりわけうんざりした彼らは、ロマン主義者たちの破局を偉大な作家が情熱によって突破したことを、まだあまりに覚えていたのである。
彼はあまりに力強く、見事なまでに頑固で、たいへんに勇ましかったので、ほとんど全員が意志薄弱の病に捕われている我々の世代は、ただこの力、この粘り強さ、この勇ましさのためだけに彼を愛したのだった。長い時間をかけて戦いを準備してきた〈同輩〉たちや〈先人〉たちさえも、それに独自性を備えた〈大家〉たちも、これまでの奉仕への感謝の気持ちからじっと我慢していたのである。
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しかしながら、『居酒屋』の直後から重大な過ちが犯された。青年たちには、腹の欲求を頭脳が奨励する革命時の将軍たちを手本として、〈師〉が自ら範を垂れた後に逃走し始めたように見えたのである。我々は戦場で眠る以上のことを期待していたし、跳躍の先行きを待ち望んでいたし、書物や劇場に麗しい命が注がれ、年老いた芸術を一変させることを期待していたのだ。
それでもなお彼は辛抱強くやり遂げていた。疲れを知らずに前進したので、青年たちは彼の後を追い、彼にブラヴォーの声を投げかけ、最もストイックな者たちへの優しい共感を抱いていた。彼は進み、年長者や賢明な者たちはこの頃から目をつぶり、幻想を保持し、〈師〉の鋤が汚物にはまり込むのを見ないようにしていた。確かに、ゾラが脱走してメダンに移住し、戦いと強化のために必要だったはずの努力――それもこの時代にはたいしたものではなかった――を、はるかに美学的ではない満足のために捧げるのを目にする驚きは辛いものだった。だがだいしたことではない! 青年たちは人間が物理的に逃亡することは許そうと思った! だがより一層恐ろしい脱走がすでに姿を見せていたのだ。作家の、自分の作品に対する裏切りである。
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実際、ゾラは日々一層、自らのプログラムを裏切っていた。個人的な実験をすることに信じられないほどに怠惰で、第三者によって集められた安物の資料で武装し、ユゴー(2)的な誇張で膨れあがっていながら、自分では熱心に単純さを説いているだけに一層腹立たしく、いつまでも同じことを繰り返し、紋切り型にはまっているので、最も熱烈な弟子さえをも面食らわせたのである。
そしてついには最も鈍い者でさえ、あの自称『第二帝政下における一家族の自然的および社会的歴史』の滑稽さ、遺伝的系統の脆弱さ、有名な家系図の幼稚さ、〈師〉における医学および科学についての深刻な無知に気づくに至ったのである。
それでも、内輪においてさえ、我々ははっきりと失望を認めることを拒んでいた。「恐らく彼は……すべきだったのだろう」とか、「もう少し……が少なければいいとは思いませんか」という言葉が聞かれた。失望した聖職者の慎み深い意見であって、完全に幻滅してしまいたくはなかったのである。旗を手放すのは辛いことだ! 最も大胆な者でさえ、結局のところゾラは自然主義ではないとか、バルザック(3)、スタンダール(4)、フロベール(5)、ゴンクール兄弟(6)の後に、現実の人生の研究を発明することなどできないとささやくだけで、そのような異端の説をあえて表明しようとする者はいなかったのだ。
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しかしながら、『ルーゴン=マッカール叢書』において下品な用語を用いるという不作法ぶりはますます法外なものとなり、嫌悪感は増大し、耐え難いものとなった。『テレーズ・ラカン』序文で述べられた原則によってすべてを許そうとしても、もはや空しいことだった。
「私の小説が道徳的か不道徳かを私は知らない。それをいくらかでも貞淑なものにしようと気にかけたことはないと告白しよう。私に分かっているのは、道徳的な人々が指摘するような卑猥なものを提示しようという意思はなかったということだ。すなわち私は一つひとつの場面を、最も激しいものも含めて、ただ学者としての好奇心をもって描いたのである(7)。」
人々は信じようとしたし、何人かの青年は、ブルジョアを憤慨させたいという欲求から学者としての好奇心を誇張さえした。だがもはや論拠を受け入れることは不可能となった。『ルーゴン』のあれらの頁を前に各人が抱く抑え難いはっきりとした印象は、もはや資料の持つ荒々しさではなく、猥褻に関する激しい偏見に由来していたのである。そこで、ある者は作家の下半身の器官の病気や、孤独な修道士の悪癖が原因だとする一方、別の者はそこに、売上に対する激しい欲求の無意識的な発展を、小説家の本能的な如才なさを見たのである。すなわちこの小説家は、書籍の成功の大部分は「馬鹿者どもが延々と続く『ルーゴン=マッカール叢書』を買うのは、文学的価値からではなく、民の声が認めたポルノグラフィーという評判による」という事実に基づくことを、賢明にも察知したのだ。
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さて、ゾラが売り上げの問題に過剰なまでに関心を抱いているように見える(我々のなかで彼が話すのを聞いた者は、そのことを知らないはずがない)というのはまったく本当である。だが同じように周知なのは、早くから孤立して暮らし、最初は必要に駆られて、後には原則から、彼が過剰に節制してきたということである。若い頃はとても貧しく、とても内気だったために、人が普通は知る年齢で女性を知ることがなかったので、彼はいつも女性について誤ったイメージに取り憑かれているのだ。そして、恐らくは腎臓病に由来する平衡障害のために、彼はある種の機能について過剰に不安を抱くとともに、その重要性を誇張して考えるのである。恐らくはシャルコー(8)やモロー(ド・トゥール)(9)、それに我々に醜語症患者を見せてくれるサルペトリエールの医師たちが、彼の病気の症状を特定してくれるだろう……。そしてこうした病的な動機に、性的な能力を否定されたごく若い青年や、女性蔑視者において頻繁に見られる不安を付け加えるべきではないだろうか?……
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いずれにしても、最近まではまだ我々は寛容だった。不安を掻き立てる噂も、『大地』という希望を前にして静まっていた。偉大な文学者が高尚な問題に取り組むことを、彼がすでに枯渇した土地を放棄しようと決断することを喜んで期待したのである。ゾラが農民たちのなかに暮らし、個人的で内密な資料を集め、農村に生きる人々の気質を辛抱強く分析し、つまりは『居酒屋』の立派な仕事を再開する姿を想像して喜んでいたのである。傑作に対する期待ゆえに皆が沈黙していた。確かに、単純かつ広大な主題は、興味深い新事実が明かされることを約束していた。
『大地』が発表された。失望は深く、苦痛に満ちていた。観察が表面的であるだけに留まらず、仕掛けは時代遅れ、語りは平凡で特徴に欠けている。それなのに卑猥な調子はさらに激しくなり、あまりにも低俗になりさがるので、時にはスカトロジーの文集を読んでいるのかと思うほどである。〈師〉は汚辱の底にまで沈んだのだ。
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結構! 冒険は終わりである。真実の文学であるという詐称、成功の枯渇に苦しむ脳による雑多な猥談への努力を我々は拒絶する。ゾラ的レトリックで出来た人間、巨大で超人間的でいびつな、複雑さを欠き、特急列車のドアから偶然に目にした場所に塊ごと乱暴に投げつけられた人物たちを、我々は拒絶する。世界に対して『居酒屋』を突きつけた偉大な頭脳によるこの最新作、この私生児の『大地』から、我々は決然と遠ざかるが、そこに悲しみがないわけではない。あまりにも熱烈に愛した人物を拒絶するのは辛いことだ。
我々の抗議は、〈師〉の錯誤と同一視されることから、――良いものであれ悪いものであれ――自分の作品を守りたいと思う青年たちの誠実さからの叫びであり、良心の導きの声である。我々は喜んでまだ待ちもしただろう。だが今やもう、時は我々のものではない。明日では遅すぎるだろう。『大地』は偉人の犯した一時の過失ではなく、一連の転落の決算の残余であり、貞淑な男の癒しがたい病的な倒錯であることを我々は確信している。『ルーゴン』の未来に我々は期待しない。鉄道や軍隊についての小説がどのようなものになるか、想像するのはあまりに容易である(10)。かの家系図はその病気の枝を伸ばすだろうが、もう実をつけることはないのだ!
***
この抗議文において我々を駆り立てているのは敵意ではないということを、ここでもう一度言明しておくべきであろう。偉人が平穏に自身の道を進んでいくのを見るのは心地よくもあっただろう。彼の才能の衰退さえも、我々を導く動機ではない。問題はこの衰退の異常さに伴う危険である。身をさらすことが許されない危険というものがあるのだ。現実に想を得たあらゆる小説に自然に結びつけられる自然主義という称号は、もはや我々にはふさわしくない。正当な大儀を守るために、我々はあらゆる迫害に堂々と立ち向かうだろう。我々は恥ずべき堕落に加担することを拒絶する。
ある教義を代表している者たちにとって、彼らがその教義の評判を落としたことで、彼らを許しておくことができなくなるのは不幸である。そして、乱暴でさえある率直さの例をあれほど見せてきたゾラに対して、人が言えないことなど存在するだろうか? 彼は「struggle for life生存競争」を称えたのではなかったか? それも高等な種族の本能とは相容れない愚かな形態の「競争」、暴力的な攻撃を認めるような「競争」を? 「私は力だ」と彼は叫び、友人や敵を粉砕しながら、不意の到来者に対しては、彼自身が開いた突破口を閉ざすのである。
我々の側では、無礼という概念を遠ざけるし、この人物がしばしば発揮した大変な才能に対する称賛の思いで一杯である。だが「ある気質を通して眺められた自然の一隅」という有名な文句が、ゾラに関しては「病的な知覚中枢によって眺められた自然の一隅」に変化してしまったとしたら、そして我々が彼の作品に大鉈を振るう義務があるとしたら、それは我々の誤りだろうか? 『大地』についての公衆の判断は核心を突くべきであり、放たれた散弾が、未来の誠実な書物の上に散乱するべきではないのである。
若さの勤勉な力を込めて、我々の芸術的良心の誠実さにかけて、我々が気品のない文学を前にしても礼儀正しさと威厳を備えることが不可欠である。また、健康で男らしい野心の名において、〈芸術〉に対する我々の崇拝、深い愛情、至高の敬意の名において、我々が抗議の声をあげることが必要なのである。
ポール・ボンヌタン
J・H・ロニー
リュシアン・デカーヴ
ポール・マルグリット
ギュスターヴ・ギッシュ
『フィガロ』紙、1887年8月18日
Le Figaro, 18 août 1887.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
J・H・ロニー
リュシアン・デカーヴ
ポール・マルグリット
ギュスターヴ・ギッシュ
『フィガロ』紙、1887年8月18日
Le Figaro, 18 août 1887.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
訳注
(1) 『ルーゴン=マッカール叢書』の第7巻にあたる『居酒屋』は、1876年に『ビヤン・ピュブリック』、『文芸共和国』に連載された後、1877年にシャルパンティエ書店より刊行された。
(2) Victor Hugo (1802-1885):詩人・劇作家・小説家。戯曲『クロムウェル』(1827) や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829) などによってロマン主義を主導した。第二帝政期には国外に亡命、小説『レ・ミゼラブル』(1862) を発表した。
(3) Honoré de Balzac (1799-1850):小説家。人物再登場法を駆使し、自作の小説を『人間喜劇』の総題のもとにまとめあげ、七月王政下のフランス社会全体を描きあげることを試みた。近代リアリズム小説の代表者。『ゴリオ爺さん』(1835)、『谷間の百合』(1835)、『従妹ベット』(1846)など。
(4) Stendhal (1783-1842):小説家。本名アンリ・ベール。心理描写と社会批判にすぐれた小説を執筆した。『赤と黒』(1830)、『パルムの僧院』(1839)。
(5) Gustave Flaubert (1821-1880):小説家。精密な考証を基に、推敲に推敲を重ねて小説を執筆した。『ボヴァリー夫人』(1857)、『感情教育』(1869) などの作品は後世に大きな影響を与える。
(6) Les Goncourt:兄エドモン(1822-1896)、弟ジュール(1830-1870)。共作で『十八世紀の女性』(1862)などの評論や『ジェルミニー・ラセルトゥー』(1865) などの小説を執筆した。ジュールの死後はエドモンが単独で執筆を続けた。『娼婦エリザ』(1877)、『愛しい人』(1884) など。長年にわたって書かれた『日記』は時代の証言として貴重なもの。エドモンの死後、遺言によりアカデミー・ゴンクールが創設された。
(7) エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン』第2版序文(1868)の一節。
(8) Jean-Martin Charcot (1825-1893):神経学者。1872年パリ医科大学病理解剖学教授、1882年にサルペトリエール病院の神経病科教授。ヒステリーに関する研究で有名で、一般に公開されていた「火曜講義」には社交界の紳士淑女が集まった。
(9) Jacques Joseph Moreau de Tours (1804-1884):精神科医。向精神薬の研究を行い、「大麻クラブ」を創設した。
(10) 「鉄道」については『獣人』(1890)、「軍隊」については『壊滅』(1892)が書かれることになる。