モーパッサン年表

Chronologie sur Maupassant




* この年表は主に以下を参照して作成した。ただし適宜、追加・修正などを加えてある。モーパッサン以外の芸術に関する事項は緑色科学・技術に関する事項は紫政治・社会に関する事項は茶色で表記する。
・Guy de Maupassant, La Maison Tellier, Une parite de campagne et autre nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Folio classique », 1993.
・Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 2 tomes, 1974 et 1979.
・Marlo Johnston, Maupassant, Fayard, 2012.
・アラン・パジェス『フランス自然主義文学』、足立和彦訳、白水社文庫クセジュ、2013年.


Index
1816 1818
1821 1822
1830 1835 1839
1840 1846 1847 1848
1850 1851 1852 1853 1854 1855 1856 1857 1858 1859
1860 1861 1862 1863 1864 1865 1866 1867 1868 1869
1870 1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879
1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889
1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899
1900 1902 1903 1906 1907 1909
1910 1911 1912 1914 1917 1919
1924
1930 1935
1949
1962




出来事 (モーパッサン関連、および芸術、政治)

1816 9月29日、アルフレッド・ル・ポワトヴァン(ロールの兄)誕生。
1818 10月28日、ロシアのオリョールにて、イヴァン・トゥルゲーネフ誕生。
1821 5月27日、ルイ・ブイエ誕生
9月28日、ギィの母となるロール・ル・ポワトヴァン誕生。
11月28日、ギィの父となるギュスターヴ・モーパッサン誕生。
12月12日、ギュスターヴ・フロベール誕生。
1822 5月26日、エドモン・ド・ゴンクール誕生。
1830 2月25日、コメディー・フランセーズでヴィクトル・ユゴー『エルナニ』初演。古典派に対するロマン派の勝利を告げる。
7月26-30日、七月革命。七月王政成立。
11月、スタンダール『赤と黒』刊行。
12月17日、ジュール・ド・ゴンクール誕生。
1835 バルザック『ゴリオ爺さん』刊行。
1839 3月、スタンダール『パルムの僧院』刊行。
1840 4月2日、エミール・ゾラ誕生。
5月13日、アルフォンス・ドーデ誕生。
1846 7月6日、アルフレッド・ル・ポワトヴァンとルイーズ・ド・モーパッサンが結婚。
11月9日、ギュスターヴ・ド・モーパッサンとロール・ル・ポワトヴァンが結婚。
1847 5月23日、ルイ・ル・ポワトヴァン誕生(アルフレッド・ル・ポワトヴァンの息子)。ギィの従兄で、後に風景画家になる。
6月16日、ポール・アレクシ誕生。
1848 2月5日、J・K・ユイスマンス誕生。
2月16日、オクターヴ・ミルボー誕生。

2月22-24日、二月革命。七月王政瓦解。第二共和政成立。
4月3日、アルフレッド・ル・ポワトヴァン死去。
1850 8月5日、ギィ・ド・モーパッサン誕生。セーヌ・マリティーム県、トゥールヴィル=シュル=アルクにあるミロメニルの城館にて。父ギュスターヴ・ド・モーパッサン (1821-1900)、母ロール・ル・ポワトヴァン (1821-1903)。
ギュスターヴ・フロベール (1821-1880) がギィの本当の父であったという、幾人かが提唱した仮説に根拠はない。唯一の真実とは、ロールの兄アルフレッド (1816-1848) が、青年時代のフロベールの重要な友人だったということである。
8月18日、オノレ・ド・バルザック死去。
11月4日、レオン・エニック、グァドループにて誕生。
1851 11月19日、アンリ・セアール誕生。
12月2日、ルイ・ナポレオンによるクーデター。
1852 11月、国民投票の結果、ルイ・ナポレオンがナポレオン3世として帝位に就く。第二帝政成立。
1853 クリミア戦争(-1856年)。
1854 グランヴィル=イモーヴィルの城館に移住。

ゴンクール兄弟『革命下のフランス社会史』。
1855 ゴンクール兄弟『総裁政府下のフランス社会史』。
1856 5月19日、弟エルヴェ誕生。
1857 ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』 。
ゴンクール兄弟『18世紀の内面的肖像』(-58年)。
シャルル・ボードレール 『悪の花』出版。
1858 イヴァン・トゥルゲーネフ 『ある猟師の物語』仏訳出版。
1859 父ギュスターヴがパリのシュトルツ銀行に入社。家族でパリに移住(パッシーのマルシェ通り3番地)。
10月、パリのナポレオン校(現在のアンリ四世校)に入学。

ゴンクール兄弟『18世紀美術』(-75年)
1860 年末に両親が別居。父はパリに留まり、エヴラール銀行に勤める。ロールはエトルタに別居前に購入していたヴェルギー荘に2人の息子と共に移住。

ゴンクール兄弟『文士たち』。
1861 エトルタの聖職者オブール神父の授業を受ける(62年まで)。

ゴンクール兄弟『尼僧フィロメーヌ』。
1862 ギュスターヴ・フロベール『サラムボー』(11月刊行)を読む。

ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』刊行。
ゴンクール兄弟『18世紀の女性』。
1863 年頭、治安裁判所の証書によって両親の別居が決定。
5月、サロン(官展)の「落選展」(マネ、ピサロ、セザンヌ等)。
10月、イヴトーの神学校の寄宿生に。1868年まで。規律と閉塞的な生活に嫌気がさす。最初の試作。
1864 2月22日、ジュール・ルナール誕生
休暇をエトルタで過ごす。

ゴンクール兄弟『ルネ・モープラン』。
1865 12月5日、コメディー・フランセーズにてゴンクール兄弟『アンリエット・マレシャル』初演。公演は6回で打ち切られる。

ゴンクール兄弟『ジェルミニー・ラセルトゥー』。

クロード・ベルナール『実験医学研究序説』
1866 、一時的にル・アーヴルのリセに通う(?)。
1867 8月31日、シャルル・ボードレール死去。

ゾラ『テレーズ・ラカン』出版(ラクロワ書店)。
ゴンクール兄弟『マネット・サロモン』。
1868 4月、ルソー『新エロイーズ』読書。
5月23日、神学校を放校になる。悪童たちの集団「オアシス」に加盟し、不良行為を働いたため。
夏、エトルタで休暇中に、イギリスの詩人アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン (1837-1909) に出会い、交流。
ルーアンの高校に寄宿生として入る。「レトリック」「哲学」の学年を過ごす。
フロベールの友人である、詩人ルイ・ブイエ (1821-1869) と交流。

ゾラ『テレーズ・ラカン』第2版出版(リブレリ・アンテルナショナル)。序文において「自然主義作家の集団」を擁護する。
ゴンクール兄弟『シャルル・ドマイ』(『文士たち』第2版)。
ドーデ『プチ・ショーズ』。
1869 7月18日、ルイ・ブイエ死去。詩篇「ルイ・ブイエの死について」執筆。
7月27日、文学バカロレア(大学入学資格試験)合格。
8月、エトルタで絵画を描くギュスターヴ・クールベに出会う。
9月、スウィンバーンと再会。
10月、パリ大学法学科に登録。モンセー通り2番地に下宿。父も同じ建物に暮らしていた。ただし実際には多くの時をエトルタで過ごした模様。
11月、フロベール『感情教育』 出版。

ドーデ『風車小屋だより』 。
ゴンクール兄弟『ジェルヴェゼ夫人』。
ボードレール『パリの憂鬱(小散文詩集)』。
1870 6月20日、ジュール・ド・ゴンクール死去。
スペイン王位継承を巡ってフランスとプロイセンが対立。
7月14日、ヴィルヘルム1世の電報をビスマルクが意図的に編集して公表(エムス電報事件)。両国で世論が沸騰。
7月19日、フランスは宣戦布告し、普仏戦争勃発。

ギィは8月15日、クリクト市役所にて登録、17日に入隊する。
8月、ヴァンセンヌにて入隊検査。
9月にはルーアン第2師団、兵站部に配属。
9月2日、スダンの敗北、ナポレオン3世捕虜に。
9月4日、帝国の終焉、臨時政府の成立。パリ攻囲。

12月5日、ルーアン開城、逃走する軍隊の中にモーパッサンもいた(一晩に60キロを歩く)。オンフルールからル・アーヴルへ。
1871 1月28日、停戦協定。
2月8日、国民議会選挙。
2月17日、アドルフ・ティエール首班に就任。

3月、伯父コルドムの援助でエトルタに。
3月18日―5月28日、パリ・コミューン。
6月、ルーアンに滞在。
8月31日、ティエール大統領に就任。
9月、兵役代理によって除隊。
10月、エミール・ゾラ『ルーゴン‐マッカ=ル叢書』第1巻『ルーゴン家の繁栄』出版。
1872 1月7日、海軍省への入省を志願する。
1月18日、空席はないとの返事。
3月、席が空くまで無給にて図書館に配属。
10月、海軍省の定員外職員(無給)に任命。
10月、ドーデ『アルルの女』、ヴォードヴィル座で初演、不成功。

ゾラ『『獲物の分け前』出版。
ドーデ『タラスコンのタルタラン』。
1873 2月1日、月給125フラン(年俸1,500フラン)、150フランの賞与の正規職員に。経理部に配属。
5月24日、アドルフ・ティエール大統領辞任。パトリス・ド・マク=マオンが就任。その権力は7年に渡って増強。「道徳的秩序」の普及が始まる。
7月11日、ルネサンス座でゾラ『テレーズ・ラカン』初演。上演は9日間で終った。
8月、週2日をアルジャントゥイユで過ごす。ボート「バラの葉」号で遊ぶ。友人にレオン・フォンテーヌ(プティ・ブルー)、アルベール・ド・ジョワンヴィル(アジ、または一つ目)、ロベール・パンション(トック帽)、モーパッサンは「ジョゼフ・プリュニエ」と名乗っていた。
朝の5-7時には武術の稽古。フェンシングやピストルに秀でていた。
9月、数日をエトルタで過ごす。海軍省に勤めていた間は、派遣命令を所持していたので列車の料金が通常の4分の1で済んだ。

文学:無名の若者が詩の出版を行うが多くの読者を得るには至らない(トリスタン・コルビエール、シャルル・クロ、アルチュール・ランボー)。
ゾラ『パリの胃袋』 。
ドーデ『月曜物語』。
エドゥアール・マネはサロンに展示した「ル・ボン・ボック」によって初めて、大衆に受け入れられる。
1874 3月11日、フロベールの喜劇『候補者』初日。
4月14日、「野次られ作家」の最初の夕食会。エドモン・ド・ゴンクール、フロベール、ドーデ、ゾラ、トゥルゲーネフ。
4月15日、物資部、4等官に任命される。月給150フラン(年俸1,800フラン)。
4月、フロベール『聖アントワーヌの誘惑』出版。
4月15日-5月15日、ナダールのアトリエで最初の「印象派」展。

この頃、フロベールの仲介によって、エドモン・ド・ゴンクール、ゾラ、後に「自然主義者」となる作家たちと出会う。
年末、一幕韻文劇『昔がたり』執筆。

ゾラ『プラッサンの征服』。
ドーデ『若いフロモンと兄リスレル』。
1875 短編小説「剥製の手」が雑誌『ポン・タ・ムッソン=ロレーヌ年鑑』に掲載、ジョゼフ・プリュニエの筆名。
4月19日、仲間と共作の陽気で淫らな芝居『バラの葉陰、トルコ館』、画家ルロワールのアトリエで私的な上演。
4月27日、ノルマンディー散策の後、ゾラより『ムレ神父の過ち』を受け取る。
7月、郊外への散策とセーヌ河畔(ブゾン、ブージヴァル、シャトゥー、クロワッシー)への遠出(ラ・グルヌイエール)。
8月後半、エトルタに滞在。
10月頃、中編「エラクリユス・グロス博士」、戯曲『稽古』執筆。
1876 3月、『稽古』、ヴォードヴィル座に上演を断られる。
ギィ・ド・ヴァルモンの筆名で雑誌『文芸共和国』(カテュール・マンデス編集) に詩篇「水辺にて」(3月)、「日射病」他3篇(6月)、「最後の逃走」(9月)を発表。
4月11日―5月9日、第2回「印象派」展。
8月、1か月の有給休暇を取得。
10月、ヘルペス再発に苦しむ。
10月、クローゼル通り17番地に転居。
10月22日、最初の雑誌記事「ギュスターヴ・フロベール」を『文芸共和国』に発表。
11月、フロベールの仲介により、新聞『国家』に記事「書簡に見るバルザック」掲載。
年末、戯曲『リュヌ伯爵夫人の裏切り』を執筆。

ゾラ『ウジェーヌ・ルーゴン閣下』。
ドーデ『ジャック』。
この頃、将来の「メダンのグループ」の集団が形成される(ゾラ、ユイスマンス、モーパッサン、ポール・アレクシ、レオン・エニック、アンリ・セアール)。
1877 5月、政治的危機。議会の解散。10月の選挙で共和派が大半を占める。

1月1日、3等官、月給175フラン(年俸2,100フラン)に昇格。
1月、新聞記事「16世紀のフランス詩人たち」掲載。
4月4日―4月30日、第3回「印象派」展。
4月16日、「トラップ」亭で会食。メダンの若い一団によって計画され、フロベール、エドモン・ド・ゴンクール、ゾラを囲む。
4月24日、フロベール『三つの物語』を受け取る。「ギィ・ド・モーパッサンへ/先輩より抱擁を/G・フロベール」
5月17日、画家ベッケールのアトリエで『バラの葉陰、トルコ館』、2度目の上演。フロベール、ゴンクール、モーパッサンの父などが観劇。
8月、2か月の有給休暇を取得し、スイスのロエッシュ=レ=バンで治療。
9月、エトルタに滞在。ロベール・パンション、ルイーズ・ド・ミラモンと芝居を上演。
11月3日、『ブヴァールとペキュシェ』執筆中のフロベールにエトルタ近郊について教える詳細な手紙を執筆。
11月11日、「聖水授与者」が、ギィ・ド・ヴァルモンの筆名で『モザイク』紙に掲載。
年末、長編小説『女の一生』のプランを立てる。

エドモン・ド・ゴンクール『娼婦エリザ』。
ゾラ『居酒屋』。
ドーデ『ナバブ』。
1878 年頭、改稿した戯曲『レチュヌ伯爵夫人』完成。コメディー・フランセーズに提出するも受諾されず。
3月19日付『ゴーロワ』紙に詩篇「最後の逃走」掲載。
長篇詩「田舎のヴィーナス」執筆。
5月1日-10月31日、万国博覧会開催。
5月、ゾラがメダンに地所を購入。改築・増築を繰り返す。
12月、海軍省を辞めて、文部省に異動。

ゾラ『愛の一ページ』。
1879 1月18日、アンビギュ座でゾラ『居酒屋』初演。翻案はウィリアム・ビュスナックとオクターヴ・ガスチノー。大成功を収め、上演は250回を数える。
1月30日、マク=マオンが大統領を辞任。ジュール・グレヴィが就任。
2月、『昔がたり』上演。フランス第三劇場(デジャゼ劇場)。
『改革』誌に「シモンのパパ」掲載。
出版社トレスの作品集『寸劇と独白』第6集に『稽古』発表。
4月10日―5月11日、第4回「印象派」展。
9月、ブルターニュに旅行。ヴァンヌ、カンペール、ポン=ラベ、ブレストからサン=マロへ。
11月、『現代自然主義誌』に1876年発表の詩「水辺にて」が再録され、そのことによって数週間後、エタンプの検事局より公序壊乱の廉で予審開始。
「脂肪の塊」に取り掛かる。
12月、教育功労勲章を受ける。

エドモン・ド・ゴンクール『ザンガノ兄弟』。
ドーデ『亡命の諸王』。
1880 2月、ゾラ『ナナ』を出版。
2月21日、フロベールの公開書簡、『ゴーロワ』紙に掲載。結果、エタンプ事件は免訴決定。
3月、目の不調。年を追うごとに深刻になり、激しい偏頭痛を伴う。
4月、『メダンの夕べ』 出版(「脂肪の塊」収録)。華々しい成功によって、モーパッサンは一躍有名になる。
同月、シャルパンティエ書店より『詩集』出版。
4月10日―4月30日、第5回「印象派」展。
5月8日、ギュスターヴ・フロベール死去。
同月、『ゴーロワ』紙と契約。『パリのあるブルジョアの日曜日』連載(5月31-8月16日)。
6月1日、3か月の有給休暇申請。以後、職場に戻らず、自らのペンで生計を立てることになる。
7月12日、コミューンの受刑囚に大赦。
7月14日が国民の祝日となる。

8月13日、3か月の半給休暇を申請。
8月、エトルタ、ついでサルトルヴィル滞在。
8月20日、『ゴーロワ』紙に「エトルタ」掲載。ショードロン・デュ・ディアーブルの筆名。
9月8日、コルシカへ旅行し、アジャクシオで母と再会する。ヴィコ、バステリカ、ピアナ、コルバラの修道院を訪れる。
10月、旅から戻る途中、自然主義文学者による雑誌『人間喜劇』 発刊計画に参加の意を掻き立てられる。しかし雑誌は陽の目を見ることがない。
秋、頭痛に苦しむ。また、母からエトルタ、グラン・ヴァルの菜園を譲り受ける。1883年、そこに別荘「ギエット」荘を建設する。
11月半ば、トゥルゲーネフの仲介で『ヌーヴェル・ルヴュ(新評論)』と関係を持ち、『ブヴァールとペキュシェ』発表について検討。
11-12月、『テリエ館』に取りかかる。
12月、半年の無給休暇を申請。
フロベールの死を受けて、エドモン・ド・ゴンクールは将来のアカデミー会員にモーパッサンの名を加える(後年、モーパッサンの病を知って候補から外す)。
年末、デュロン通り83番地に転居(84年7月まで)。ジゼル・デストックとの関係が始まる(間をはさんで1886年まで続く)。

ゾラ『実験小説論』。
ショーペンハウエル『思考、箴言、断片』(翻訳ジャン・ブルドー)。
1881 1月、エトルタに滞在。
1月29日、ゾラ『ナナ』の初演を観劇。
2月、 『ヌーヴェル・ルヴュ』に短編「家庭」を寄稿。
3月、『ルヴュ・ブル(青色評論)』に短編「いなか娘のはなし」を寄稿。
サルトルヴィルに新たに宿を借りる。3年にわたってしばしば宿泊。
4月2日―5月1日、第6回「印象派」展。
4月25日、『ナナ』100回公演の祝宴に出席。
5月、短編集『テリエ館』出版(アヴァール書店)。
『女の一生』の執筆再開。
6月16日、ジュール・フェリーによる初等教育の無償性を定めた法律制定。
北アフリカで反乱。7月、モーパッサンはアルジェリアへ。ルポルタージュを発表。
9月、コルシカ島のバスチアに上陸し、エルバルンガで母と再会。そこからイタリアへ向かう。フィレンツェ、ジェノヴァ。ゴルフ=ジュアンでアダン夫人に会う。
9月26日、トゥルゲーネフより「あなたの名前はロシアで評判になっている」と知らされる。
10月、パリ、次いでエトルタへ。
10月25日、「仲間意識?……」において、マクシム・デュ・カンとフロベールを巡って論争。
10月29日、『ジル・ブラース』への寄稿が始まる (モーフリニューズの筆名)。
この年、ベルギーで刊行の『19世紀の新サチュロス高踏派詩集』に「ひげの女」など3篇の詩が掲載される。

フロベール『ブヴァールとペキュシェ』。
ドーデ『ニュマ・ルメスタン』。
1882 1月初め、拳銃で手を怪我する。
1月、ジュール・ヴァレスと交流。
この頃より、エルミーヌ・ルコント・デュ・ニュイとの関係が始まる。
1月、ユニオン・ジェネラル銀行株の大暴落による金融危機。 1月、ユイスマンス『流れのままに』出版。
3月1日より、第7回「印象派」展。
3月、キストメケール書店がゴダール・ドクール『テミドール』再刊。
モーパッサンは書評「読書つれづれ」を執筆、後に序文として再録される。
3-4月、サルトルヴィルに滞在。
3月28日、教育相ジュール・フェリーによる初等教育法成立。
5月、短編集『マドモワゼル・フィフィ』出版(キステメケール書店)。
5月、南仏滞在 (マントン、サン=ラファエル)。
5月18日、ポール・デルレードによる「愛国者連盟」設立。
7月-10月、エトルタに滞在。
8月24日、ルーアンでルイ・ブイエ像の除幕式。モーパッサンは制作委員会の一員だった。「ルイ・ブイエ」を発表。
9月14日、コメディー・フランセーズでアンリ・ベック『鴉の群』初日。不成功に終る。
11月28日、シャルパンティエ提案の契約を拒絶。
『詩集』豪華版の出版を企図(1884年にアヴァール書店から刊行)。
12月、ヴォー男爵『射撃主たち』に序文を寄稿。

エドモン・ド・ゴンクール『フォスタン』。
ゾラ『ごった煮』。

1883 1月13日、クリュニー劇場においてビュスナック作『トマサン夫人』上演。モーパッサンが関わったという噂あり。
目の痛みを訴え、ランドルト博士の診察を受ける。
2月、『シャ・ノワール』編集次長のエドモン・デシャンといさかい。この雑誌は12月30日の号からモーパッサンが「代表取締役」という冗談を掲載していた。
2月27日、ジョゼフィーヌ・リッツェルマンとの間の私生児3人の内、最初の子(リュシヤン)が生まれる(?)。
3月、カンタン書店より評論『エミール・ゾラ』刊行。
4月、長編『女の一生』、『マドモワゼル・フィフィ』新版(ともにアヴァール書店)。アシェット書店は一時、駅の売店での『女の一生』の販売を中止。
モーパッサンは弟エルヴェをクレディ・リヨネ銀行へ入行させられないかと画策。
画家アントワーヌ・ギユメや友人たちとセーヌ川でボートに乗る。
4月30日、エドゥアール・マネ死去。
8月25日、ユエ条約(アルマン条約)締結。フランスはトンキン、アンナンを保護領化。
6月、ルーアン、エトルタへ。
6月、短編集『山鴫物語』出版(ルヴェール・エ・ブロン書店)。
7-8月、シャテル=ギヨンに滞在。ポトツカ伯爵夫人と文通。
9月3日、イヴァン・トゥルゲーネフ死去。追悼文「イヴァン・トゥルゲーネフ」執筆。
9月、エトルタに滞在。
11月1日、フランソワ・タッサールが従僕としてモーパッサンに仕えるようになる。彼は作家の最後の10年間に関する、最も詳しく、しかしながら議論の余地のある証人となる。
12月、カンヌ滞在。以後定期的に繰り返される。月末にパリへ。
この年、ジュール・ゲラン『娘の娘』に序文を寄稿。

ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』。
ドーデ『福音伝道師』。
ポール・ブールジェ『現代心理論集』。
ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』 。
ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』出版。
1884 『ジル・ブラース』、『ゴーロワ』各紙に、短編、クロニックの掲載が最も盛んだった年。
1月、旅行記『太陽の下に』(アヴァール書店)。
1月末、カンヌへ。
1月30日、ドイツで発禁処分となった書籍『ベルリンの社会』の著者であるという噂を否定。この日、ショニーのド・ポワリー男爵夫人宅で『昔がたり』上演。
2月、ジョルジュ・サンド宛フロベール書簡集の序文として「ギュスターヴ・フロベール」を掲載。
2月、カンヌの宿泊先で誤って出火。修正を入れていた『詩集』の原稿を焼失した。
3月、「文学者協会」に入会(フランソワ・コペとジュール・クラルティが推薦者)。
この頃より、ポトツカ伯爵夫人と交流。彼女が主催する「死体の会」の一員となる。
ロシアの女性画家、マリー・バシュキルツェフ (1860-1884) との文通。
3月末、モンシャナン通り10番地のアパルトマンに、従兄のルイ・ル・ポワトヴァンと一緒に住む。
4月、『ミス・ハリエット』(アヴァール書店)。
5月、『詩集』豪華版(アヴァール書店)。
6月6日、ユエ条約(パトゥノートル条約)締結。
6月、秋までエトルタに滞在。何人かの女性たちの訪問あり。
7月、『ロンドリ姉妹』(オランドルフ書店)。
8月、『月光』(モニエ書店)。
8月、ポール・ジニスティ『三人の愛』に序文。
11月、『イヴェット』(アヴァール書店)。
『ベラミ』に取り掛かる。
12月、カンヌ、ヴィラ「我が喜び」に母と共に滞在。モーパッサンの名をかたって盗みを働いた詐欺師について不満を述べる。
12月1日、独立美術家協会による第1回サロン(パリ・アンデパンダン展)開催。

エドモン・ド・ゴンクール『愛しい人』。
ゾラ『生きる喜び』。
ドーデ『サフォー』。
J・K・ユイスマンス『さかしま』出版。
書評「彼方へ」発表。
ルイ・デプレ『自然主義の進化』。
1885 1月末、カンヌに。
3月、短編集『昼夜物語』(マルポン・エ・フラマリオン書店)出版。
3月30日、ジュール・フェリー内閣失墜。
4月‐5月、イタリア旅行へ。アンリ・アミック、・画家アンリ・ジェルヴェクス、ジャーナリストのジョルジュ・ルグランと共に。ヴェネチア、ローマ、ナポリ、シチリアへ。パレルモのカプチン派修道院の地下墓地、ワーグナーが《パルジファル》を作曲した家、カターニア、シラクザなどを訪れる。
5月、長編『ベラミ』を出版(アヴァール書店)。
5月22日、ヴィクトル・ユゴー死去。「偉大なる死者たち」発表。
6月、パリに戻る。7日、「『ベラミ』批評に答えて」を『ジル・ブラース』に掲載。
6月15日、新しいシャ・ノワールの開場の祝宴に出席。
7月半ば、エトルタに滞在。
7‐8月、シャテル=ギヨンに滞在、『モントリオル』を準備。
8月末-9月、エトルタに滞在。
9月末、エルヴェがマリー=テレーズ・ファントン・ダンドンと婚約。
秋、ビュスナックと共作で『ベラミ』の舞台化を検討するが、実現に到らず。
11月、エトルタに滞在。
12月、短編集『パラン氏』出版(オランドルフ書店、契約上は翌年2月刊行のはずだった)。
12月7日、マリー・カーン宅で夕食。以降、社交界に顔を出し、高校生だったマルセル・プルーストとも顔を合わせる。
この頃、弁護士エミール・ストロースと妻ジュヌヴィエーヴ(作曲家フロマンタル・アレヴィーの娘、先の夫はジョルジュ・ビゼー)と知り合う。
年末から翌年にかけて南仏へ。アンティーブで「ヴィラ・ミュテルス」を借りる。弟エルヴェが園芸の会社を設立するのを助ける。
ヨットを購入し、「ベラミ」号と命名する。
この年、シャルパンティエ書店から短編集を出版。

ゾラ『ジェルミナール』。
ドーデ『アルプスのタルタラン』。
ジュール・ラフォルグ『哀歌』出版。
1886 1月、短編集『トワーヌ』出版(マルポン・エ・フラマリオン書店)。
1月19日、エルヴェ・ド・モーパッサンとマリー=テレーズ・ファントン・ダンドンとの結婚式。二人の間には娘シモーヌが生まれ、彼女はジャン・オソラと結婚することになる。
3月、アンティーブ、カンヌに滞在し、『モントリオル』を執筆。
4月27日、エトルタの動産に課される税の査定額が高すぎるとして、セーヌ=マルティーム県庁に減税を願い出る。
4月末、『XIX世紀』紙のためにサロン評を執筆。
5月、短編集『ロックの娘』刊行(アヴァール書店)。ポトツカ伯爵夫人宛ての献辞に「認められない男からのオマージュ」と記す。
5月、ジャン・ロランが小説『とてもロシア的』の中で、ボーフリランの名を付してモーパッサンの肖像を描く。あまり好意的ではない。「あれは偉大なるフロベール・ゾラ種馬飼育場産なる、文学造形型種馬だ。わめいては、自分を見せびらかしている」等々。かろうじて決闘沙汰には到らずに済む。
この頃、サロン評の刊行を試みるが実現せず。校正のみが残された。
5月15日-6月15日、第8回の「印象派」展。
6月後半、シャトゥーに滞在、友人を招く。
7月、シャテル=ギヨンに滞在。数日をエトルタで過ごす。
8月前半、ファーディナンド・ド・ロスチャイルド男爵に誘われて、イギリス、ハンプシャー州のワデスドン・マナーに滞在。ブールジェの勧めに従い、オックスフォードを訪れる。
8月半ば、数日エトルタに滞在後、サン=グラティヤンのマティルド皇女宅を訪れる。
9月、エトルタに滞在。「ギエット」荘に友人を招く。
9月18日、ジャン・モレアスが『フィガロ』紙に「象徴主義」を発表。象徴主義の到来を宣言する。
10月末、アンティーブ、「アルプス」荘に滞在。
12月、ヨットで周遊。サン=ラファエルにいるマリー・カーンを訪問。
この年、オスカル・メテニエに「マドモワゼル・フィフィ」の舞台化を許可(上演は1896年に自由座で)。
画家アンリ・ジェルヴェクスがモーパッサンの肖像画を制作。

アルチュール・ランボー『イリュミナシオン』 。
ゾラ『作品(制作)』。
ニーチェ『善悪の彼岸』。
エドゥアール・ドリュモン『ユダヤのフランス』出版。

1887 1月、長編『モントリオル』出版(アヴァール書店)。
2月14日、抗議文「エッフェル塔に反対する芸術家たち」が『タン』紙に掲載される。モーパッサンも署名を寄せる。
3月30日、アンドレ・アントワーヌによる「自由劇場」最初の公演。デュランティ作、ポール・アレクシ脚色『マドモワゼル・ポンム』、レオン・エニック『ジャック・ダムール』(ゾラの短編に基づく)など4本を上演。ゾラ、ドーデ、マラルメなどが観劇。
5月、短編集『オルラ』出版(オランドルフ書店)。
5月、ブーランジェ将軍の動乱。
6月末、エトルタ滞在。「ギエット」荘にはシャワーとビリヤード室が増築。
7月8-9日、パリからオランダのヘイストまで気球「オルラ」号による旅行。
8月18日、ゾラ『大地』に反対する「五人の宣言」(ボンヌタン、ロニー、デカーヴ、マルグリット、ギッシュ)が『フィガロ』紙に掲載。自然主義「党派」の消滅を示す。
8月、弟エルヴェ、最初の入院。
9月、狩猟の季節にエトルタに滞在。
10月、カンヌのヴィラ「コンチネンタル」荘を借りる。
10月、ヴィルソン事件(勲章の売買をめぐる汚職事件)。
12月2日、ジュール・グレヴィ大統領辞任。サディ・カルノー就任。
1888 1月、『ピエールとジャン』出版。重要な論考「小説論」を付す。
1月末、南仏へ。
4月、「ベラミ」号でカンヌ、トゥーロン、マルセイユを周航。
5月、『月光』新版(オランドルフ書店)。
6月、旅行記『水の上』出版(マルポン・エ・フラマリオン書店)。
9月、エトルタ滞在、頭痛に苦しむ。
9-10月、エクス=レ=バンで湯治。
10月、短編集『ユッソン夫人推薦の受賞者』(カンタン書店)出版。
11月5日、パリを発って北アフリカへ。6日にマルセイユから出港、8日にアルジェに到着。アマム・リガ、ウアルセニ、アルジェへ。
12月9日頃、チュニスに。
12月、『ジル・ブラース』を辞め、『エコー・ド・パリ』に移籍。
ゴンクールに宛てて『ジェルミニー・ラセルトゥー』初演を祝う言葉を送る。
28日にはブリュヌティエールに宛てて、『両世界評論』に小説を送ると伝える。
この年、ナダールによる肖像写真の撮影。

ゾラ『夢』。
ドーデ『不滅の人』。
1889 1月14日、チュニスを出発し、16日にマルセイユに到着。
1月末、ヨット「ザンガラ」号を購入、「ベラミII」号と命名。
2月、『獣人』執筆のゾラのために推薦状を西部鉄道会社に送る。ゾラはパリ=マント間の旅行を行った。
2月末、短編集『左手』出版(オランドルフ書店)。
3月、ヴィリエ・ド・リラダンに時評文一回分の原稿料200フランを寄付。
『パリの典型たち』に「女中たち」を寄稿。
5月6日、万国博覧会開幕(10月31日まで)。「私はこの種の快楽向きの性行ではない」と記し、エッフェル塔から逃げ出す。
5月、長編『死の如く強し』出版(オランドルフ書店)。
5月末、ヴォー近郊トリエルにて、ヴィラ「シュティールドルフ」荘に滞在。ポトツカ伯爵夫人と交際。
7月、パリとエトルタを行き来する。
8月11日、弟エルヴェ、リヨン=ブロンの精神病院に入院。
8月後半、エトルタの「ギエット」荘でパーティー。「モンマルトルの犯罪」という出し物が行われた。
8-10月、「ベラミII」号で周遊。
10月、リヴォルノ、ピサ、フィレンツェ。
『エコー・ド・パリ』紙による短編小説コンクールの審査員を務める。
11月13日、ブロンにて、弟エルヴェ死去。グラースの母のもとに滞在。
11月、パリのヴィクトル=ユゴー大通り14番地にアパルトマンを借りるが、1階のパン屋の騒音のために住めず。
年末、イタリア旅行の印象を記した頁を破棄する。

文学において新しい世代が台頭し始める。
モーリス・バレスは一連の『自我崇拝』に関する作品を出版。『蛮族の目の下に』(1888)、『自由人』(1889)、『ベレニスの庭』(1890)。
ポール・クローデル『黄金の頭』、アルフレッド・ジャリは『ユビュ王』、『寝取られユビュ』の最初の原稿をすでに執筆している。
1890 原稿執筆に衰えが見える。
3月、旅行記『放浪生活』出版(オランドルフ書店)。
4月、短編集『あだ花』出版(アヴァール書店)。
4月頃、ボッカドール通り24番地のアパルトマン、マク=マオン大通りの独身用アパルトマンを借りる。
5月頭、フォンテーヌブローに滞在。
6月、エクス=レ=バンに滞在。
6月、長編『わたしたちの心』出版(オランドルフ書店)。
7月、医師の勧めでプロンビエールで湯治。湿度に困らされる。
8月、エトルタに滞在。
8月末-9月、エクス=レ=バンに滞在。アンリ・カザリス医師に会う。
夏、長編『異国の魂』(未完)に取り組む。『お告げの鐘』も構想。
9月25日、マルセイユからアルジェへ。マリーとエドゥアール・カーン、マリーの姪のイダと共に。メデア、コンスタンチーヌ、ビスクラ、オラン、トレムセンなどを旅行。11月9日、アルジェより帰国。
11月23日、ルーアンにてフロベール像の除幕式。「ギュスターヴ・フロベール」を発表。
多くの日を移動と滞在に当てる。自分自身から逃亡したかったのだとも言えよう。
この年、デュマ・フィスから誘いのあったアカデミー・フランセーズ立候補を拒否。

ゾラ『獣人』。
ドーデ『ポール・タラスコン(タラスコンみなと)』。
1891 ジュール・ユレ『文学の進化についてのアンケート』出版。ポール・アレクシの有名な電報文がそこに掲載されている。「自然主義は死なず、以下手紙。」モーパッサンの回答は陰鬱なもの。
未刊のままに終わる長編『お告げの鐘』の執筆。
3月、ジムナーズ座で3幕芝居『ミュゾット』上演。
7‐8月、リュション、ディヴォーヌ、シャンペル(スイス)で治療。
12月、遺書をしたためる。

ゾラ『金』。
1892 元日、自殺未遂。
1月7日、パッシ-にあるブランシュ博士の精神病院に入院。一年以上に及ぶ苦しみ。直接の原因は梅毒。徐々に錯乱と全身麻痺に襲われる。

ゾラ『壊滅』。
1893 3月『家庭の平和』、コメディー・フランセーズで上演。
6月21日、ブーローニュの森で、ゾラ『ルーゴン=マッカール叢書』の完成を寿ぐ祝宴に200名が出席。アレクシ、ミルボー、エクトール・マロなどが出席。エドモン・ド・ゴンクール、アルフォンス・ドーデ、ユイスマンスは欠席。
7月6日、ギィ・ド・モーパッサン死去。
8日、サン=ピエール=ド=シャイヨー教会で葬儀が行われ、モンパルナス墓地に埋葬される。ゾラが追悼演説を行う。

ゾラ『パスカル博士』。
1894 6月24日、サディ・カルノー大統領、アナーキストのサンテ・ジェロニモ・カゼリオに暗殺される。27日、ジャン・カジミール=ペリエ大統領就任。
12月、アルフレッド・ドレフュス大尉に有罪宣告。


ゾラ、『三都市叢書』第1巻の『ルルド』出版。
1895 1月16日、ジャン・カジミール=ペリエ大統領辞任。フェリックス・フォール就任。
3月1日、エドモン・ド・ゴンクールを称える祝宴。ドーデ、ゾラを含む300人以上が出席。
11月、雑誌『夢と概念 ナチュリスムに関する資料』第1号刊行。サン=ジョルジュ・ド・ブリエリとモーリス・ル・ブロンが指揮を取る。

ドーデ『小教区』。
1896 7月16日、エドモン・ド・ゴンクール死去。

ゾラ『ローマ』。
モーリス・ル・ブロン『ナチュリスム試論』。
サン=ジョルジュ・ド・ブリエリ『瞑想の冬』。
ウジェーヌ・モンフォール『路上』。
1897 1月10日、サン=ジョルジュ・ド・ブリエリ、ナチュリスムの「宣言」を『フィガロ』紙に発表。
10月23日、パリのモンソー公園にモーパッサン像建立。彫刻家ラウル・ヴェルレによる。
12月16日、アルフォンス・ドーデ死去。
1898 1月11日、フェルディナン・ワルサン・エステラジー、裁判にて無罪。
1月13日、ゾラ「共和国大統領への書簡」を『オロール』紙に発表。「私は告発する」の見出し。
6月4日、「人権連盟」設立。
12月31日、モーリス・バレス、ジュール・ルメートルを中心として「フランス祖国連盟」設立。


ゾラ、『パリ』。
ドーデ『大黒柱』。
1899 2月16日、フェリックス・フォール大統領死去。18日、エミール・ルーベ就任。
8-9月、レンヌでの裁判。再審の結果、ドレフュスに改めて有罪宣告(ただし情状酌量)。ドレフュスは大統領における特赦を受け入れることになる。


ゾラ、『四福音書』の第1巻『豊饒』刊行。
1900 1月24日、父ギュスターヴ・ド・モーパッサン死去。
4月7日、アカデミー・ゴンクール最初の会合。ユイスマンス会長のもとにエニック、ミルボー、ロニー兄弟、ポール・マルグリット、ギュスターヴ・ジェフロワが集まる。新会員としてリュシアン・デカーヴ、エレミール・ブールジュ、レオン・ドーデが指名される。
12月14日、ドレフュス事件に関する大赦法制定。事件に関わった者が以降、訴追されることはないとされた。
1901 7月28日、ポール・アレクシ死去。

ゾラ『労働』。
1902 9月29日、エミール・ゾラ死去。
1903 2月26日、アカデミー・ゴンクールの夕食会開始。毎年文学賞を授与することが決定される。
12月8日、母ロール・ド・モーパッサン死去。82歳。

ゾラ『真実』。
1906 2月18日、エミール・ルーベ大統領任期満了。アルマン・ファリエール就任。
1907 5月12日、J・K・ユイスマンス死去。レオン・エニックがアカデミー・ゴンクール会長に就任。ジュール・ルナールが会員に選出される。
1909 4月3日、ルイ・ル・ポワトヴァン死去。
1910 5月22日、ジュール・ルナール死去。ジュデイット・ゴーティエがアカデミー・ゴンクール会員に選出される。
1911 フランソワ・タッサール『ギィ・ド・モーパッサンについての思い出』刊行。
1912 12月4日、レオン・エニックがアカデミー・ゴンクール会長を辞任。ギュスターヴ・ジェフロワが就任。
1914 6月28日、フランツ・フェルディナン大公暗殺(サラエボ事件)。
7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦(~1919年)。
1917 2月16日、オクターヴ・ミルボー死去。ジャン・アジャルベールがアカデミー・ゴンクール会員に選出される。
12月26日、ジュディット・ゴーティエ死去。アンリ・セアールがアカデミー・ゴンクール会員に選出される。
1919 6月28日、ヴェルサイユ条約調印。第1次世界大戦終結。
12月10日、マルセル・プルースト『花咲く乙女たちのかげに』でゴンクール賞受賞。大きな議論を呼ぶ。
1924 8月16日、アンリ・セアール死去。
1930 『メダンの夕べ』刊行50周年を機に再刊。レオン・エニックが「序文」を執筆。
1935 12月25日、レオン・エニック死去。
1949 1月21日、フランソワ・タッサール死去。92歳。
1962 フランソワ・タッサール『新 ギィ・ド・モーパッサンについての親しい思い出』刊行(ピエール・コニー編集)。
モンパルナス墓地のモーパッサンの墓

モンパルナス墓地のモーパッサンの墓



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