モーパッサン 関連年表

Chronologie sur Maupassant




* この年表はMaupassant, La Maison Tellier, Une parite de campagne et autre nouvelles, édition préséntée, établie et annotée par Louis Forestier, Gallimard, coll. « Folio classique », no 2783, 1993より、Louis Forestier 氏製作の年表を参照して作成。ただし適宜、追加・修正を加えてある。



出来事 (モーパッサン関連、および芸術、政治)

1850 8月5日、ギ・ド・モーパッサン誕生。ミロメニル (Miromesnil, Seine-Maritine 県)の城館にて。父ギュスターヴ・ド・モーパッサン Gustave de Maupassant (1821-1900)、母ロール・ル・ポワトヴァン Laure Le Poittevin (1821-1903)。モーパッサン夫婦の仲は良好ではなかった。示談による離婚は1863年に成立。フロベールがギィの本当の父であったという、幾人かが提唱した仮説に根拠はない。唯一の真実とは、ロールの兄が若い頃のギュスターヴ・フロベール Gustave Flaubert の重要な友人だったということである。
1851 12月2日、ルイ・ナポレオン(翌年ナポレオン三世)によるクーデター。
1856 5月19日、弟エルヴェ Hervé 誕生。
1857 ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』 Madame Bovary、シャルル・ボードレール Charles Baudelaire 『悪の花』 Les Fleurs du Mal 出版。翌年、イヴァン・トゥルゲーネフ Ivan Tourgueniev 『ある猟師の物語』仏訳出版。
1859 -1860 パリのナポレオン校(現在のアンリ四世校)
1863 イヴトー (Yvetot) の神学校の寄宿生。1868年まで。規律と閉塞的な生活に嫌気がさす。最初の試作。
「落選展」(マネ、ピサロ、セザンヌ等)。
1864 休暇をエトルタ (Étretat) にある母所有のヴェルギー荘 (la villa des Verguies) で過ごす。
1866 春、一時的にル・アーヴルのリセに通う。
夏、エトルタで英国詩人スィバーン Swinburne に出会う。
1868 ルアンの高校に寄宿生として入る。「レトリック」「哲学」の学年を過ごす。フロベールの友人である、詩人ルイ・ブイエ Louis Bouilhet と交流。
1869 7月18日、ブイエ死去。
7月27日、文学科のバカロレア(大学入学資格試験)合格。
10月、パリ大学法学科に登録。
11月、フロベール『感情教育』 L’Éducation sentimentale 出版。
1870 7月、普仏戦争。召集され兵站部に配属。ルアンに送られる。
9月、スダンの敗北。帝国の崩壊と共和国の樹立。パリの包囲。
モーパッサンはパリに転属。
1871 3-5月、パリ・コミューン。
9月、除隊。
10月、エミール・ゾラ Émile Zola 「ルーゴン‐マッカール叢書」第1巻『ルーゴン家の繁栄』 La Fortune des Rougon 出版。
名目上は学業を続けているモーパッサンは、実際のところ仕事を探す。一方で試作をフロベールに見てもらう。ボートやその他の遊びにも耽る。
1872 10月、海軍省の定員外職員に任命。
1873 2月、月給125フラン(翌年正式職員となる)。
マク・マオンの権力は7年に渡って増強。「道徳的秩序」の普及が始まる。
文学:無名の若者が詩の出版を行うが多くの読者を得るには至らない(トリスタン・コルビエール、シャルル・クロ、アルチュール・ランボー)。
反対に大きな成功を収めたのは『パリの胃袋』 Le Ventre de Paris (ゾラ)。初めて Le Bon Bock によって、マネ Manet は大衆に受け入れられる。
1874 3月、フロベールの喜劇『候補者』Le Candidat 上演。
フロベールの仲介によって (彼は『聖アントワーヌの誘惑』を出版)、モーパッサンはゴンクール、ゾラ、後に「自然主義者」となる作家達と出会う。
最初の「印象派」展。
年末、一幕韻文劇『昔がたり』執筆。
1875 短編小説が雑誌に初掲載、「剥製の手」 « La Main d'écorché » (ジョゼフ・プリュニエ Josephe Prunier の筆名)。
数人の仲間と陽気で淫らな芝居『薔薇の葉陰、トルコ館』 À la feuille de rose, Maison turque を制作。4月19日、私的な上演。
郊外への散策とセーヌ河畔 (ブゾン Bezons、ブージヴァル Bougival、シャトゥー Chatou、クロワッシー Croissy )への遠出の盛んな時期(ラ・グルヌイエール)。
1876 戯曲『稽古』 Une répétition 執筆 (1幕、1904年上演)。3月、ヴォードビル座に上演を断られる。
ギイ・ド・ヴァルモン Guy de Valmont の筆名で雑誌『文芸共和国』 La République des lettres (カチュール・マンデス編集) に詩篇「水辺にて」 « Au bord de l'eau » (3月)、「日射病」 « Un coup de soleil » 他3篇(6月)、「最後の逃走」 « La Dernière Escapade » (9月)を発表。
新聞「国家」 La Nation に記事掲載(バルザック、16世紀詩人論)。
将来の「メダンのグループ」の集団が形成される。(ゾラ、ユイスマンス Huysmans、ポール・アレクシ Paul Alexis、レオン・エニック Léon Hennique、アンリ・セアール Henry Céard)ここにカチュール・マンデス Catulle Mendès、オクターヴ・ミルボー Octave Mirbeau の名を加えておく必要があるだろう。
年末、劇作に取り組む。(『リュヌ伯爵夫人の裏切り』 La Trahison de La Comtesse de Rhune)。
1877 5月、政治的危機。議会の解散。10月の選挙で共和派が大半を占める。

3月8日『薔薇の葉陰、トルコ館』再演。フロベールも観劇。
4月16日、「トラップ」亭で会食。メダンの若い一団によって計画され、フロベール、エドモン・ド・ゴンクール Edmond de Goncourt、ゾラを囲む。
夏、ロエッシュ Loècheの ヴァレ le Valaisで治療。
年末、長編小説『女の一生』のプランを立てる。
ゴンクールの『娘エリザ』 La Fille Élisa、ゾラの『居酒屋』 L’Assommoir 出版。
1878 年頭、改稿した戯曲『レチュヌ伯爵夫人』La Comtesse de Rhétune 完成。コメディー・フランセーズに提出するも受諾されず。
3月19日付『ゴーロワ』紙に詩篇「最後の逃走」 « La Dernière Escapade » 掲載。
長篇詩「田舎のヴィーナス」 « Vénus rustique » 執筆。
12月、海軍省を辞めて、文部省に異動。
1879 2月、『昔がたり』 Histoire du vieux temps 上演。フランス第三劇場(デジャゼ劇場 Théâtre Déjazet)。
『改革』誌 La Réformeに「シモンのパパ」 « Le Papa de Simon » 掲載。出版社トレス Tresse の作品集『寸劇と独白』 Saynètes et monologues 第6集 に『稽古』 Une répétition 発表。
秋、ブルターニュ、ジェルシーに旅行。
11月、『現代自然主義誌』 Revue moderne et naturaliste に1876年発表の詩「水辺にて」 « Au bord de l'eau » が再録され、そのことによって数週間後、エタンプ Étampes の検事局より公序壊乱の廉で予審開始。
『脂肪の塊』 « Boule de suif »に取り掛かる。
12月、教育功労勲章を受ける。
1880 2月、エタンプ事件、免訴決定。
3月、目の不調。年を追うごとに深刻になり、激しい偏頭痛を伴う。
4月、『メダンの夕辺』 Les Soirées de Médan 出版(『脂肪の塊』収録)。華々しい成功によって、モーパッサンは一躍有名になる。
同月、シャルパンティエ Charpentier 書店より『詩集』 Des vers 出版。
5月8日、フロベール死去。
同月、『ゴーロワ』紙と契約。
6月、休暇届けを出す。以後彼は職場に戻らず、自らのペンで生計を立てることになる。
とりわけ『ゴーロワ』紙 Le Gaulois に執筆する。同紙と『ジル・ブラース』紙 Gil Blas にモーパッサンのほとんどの短篇小説とクロニックが掲載されることになる(しばしば偽名を使った。ショードロン・デュ・ディアーブル Chauderons du Diable、モーフリニューズ Maufrigneuse)。合計で、300以上の中短編小説と、約250のクロニックを残す。
7月、コミューンの受刑囚に大赦。
7月14日が国民の祝日となる。
9月、コルシカへ旅行。
10月、旅から戻る途中、自然主義文学者による雑誌『人間喜劇』 La Comédie humaine 発刊計画に参加の意を掻き立てられる。しかし雑誌は陽の目を見ることがない。

ゾラ『実験小説論』 Le Roman expérimental、 ショーペンハウエル Schopenhauer 『思考、箴言、断片』 Pensées, maximes et fragments(翻訳ブルドー J. Bourdeau)
1881 『ヌーヴェル・ルヴュ』 La Nouvelle Revue、『ルヴュ・ブル』 Revue bleue に寄稿する。
5月、作品集『テリエ館』 La Maison Tellier 出版。
北アフリカで反乱。7月、モーパッサンはアルジェリアへ。ルポルタージュを発表。
12月、『ジル・ブラース』 Gil Blas への寄稿が始まる (Maufrigneuse の筆名)。
1882 ユニオン・ジェネラル銀行株の大暴落。義務教育に関する法の制定。デルレード Déroulède による「愛国者同盟」 Ligue des Patriotes 設立。
ユイスマンス『流れのままに』 À vau-l'eau 出版。

4月、南仏滞在 (マントン Menton、サン・ラファエル Saint-Raphaël)。
5月、短編集『マドモワゼル・フィフィ』 Mademoiselle Fifi 出版。
夏、ブルターニュ旅行。
1883 フランス、トンキンへの遠征。
マネ、トゥルゲーネフ死去。ヴィリエ・ド・リラダン Villiers de l'Isle-Adam 『残酷物語』 Les Contes cruels、ニーチェ Nietzche 『ツァラトゥストラはかく語りき』出版。

2月27日、ジョゼフィーヌ・リッツェルマン Joséphine Litzelmann との間の私生児3人の内、最初の子(リュシヤン)が生まれる(?)。
4月、長編『女の一生』 Une vie、『マドモワゼル・フィフィ』新版。
6月、短編集『山シギ物語』 Contes de la Bécasse 出版。
11月、フランソワ・タッサール François Tassart が従僕としてモーパッサンに仕えるようになる。彼は作家の最後の10年間に関する、最も詳しく、しかしながら議論の余地のある証人となる。
12月、カンヌ滞在。以後定期的に繰り返される。
1884 『ジル・ブラース』、『ゴーロワ』各紙に、短編、クロニックの掲載が最も盛んだった年。
1月、旅行記『太陽の下に』 Au soleil
4月、『ミス・ハリエット』 Miss Harriet
7月、『ロンドリ姉妹』 Les Sœurs Rondoli
8月、『月光』 Claire de lune
11月、『イヴェット』 Yvette
ジョルジュ・サンド George Sand 宛フロベール書簡集の序文としてフロベール論を執筆。
『ベラミ』 Bel-Ami に取り掛かる。

ユイスマンス『さかしま』 À rebours 出版。
1885 ジュール・フェリー Jules Ferry 内閣失墜。
ヴィクトール・ユゴー Victor Hugo 死去。
ゾラ『ジェルミナール』 Germinal、ラフォルグ Laforgue 『哀歌』 Les Complaintes 出版。

3月、短編集『昼夜物語』 Contes du jour et de la nuit 出版。
4月‐5月、イタリア、シシリアへ旅行。
5月、長編『ベラミ』をアヴァール Havard 書店から出版。
ヨットを購入し、「ベラミ」号と命名する。
7月 ‐ 8月、モーパッサン、シャトゥルギヨン Châtelguyon に。
9月、エトルタに滞在。
12月、短編集『パラン氏』 Monsieur Parent 出版。
1886 文学、美術史上重要な出来事が続く。最後の「印象派」展。モレアス Moréasの「象徴派」宣言。ランボー『イリュミナシオン』 Illuminations、ニーチェ『善悪の彼岸』、ゾラ『作品』 L'Œuvre、ドゥリュモン Drumont 『ユダヤのフランス』 La France juive 出版。

1月、短編集『トワーヌ』 Toine 出版。
5月、短編集『ロックの娘』 La Petite Roque
同月、ジャン・ロランが小説『とてもロシア的』 Très russe の中で、ボーフリラン Beaufrilan の名を付してモーパッサンの肖像を描く。あまり好意的ではない。「あれは偉大なるフロベール・ゾラ種馬飼育場産なる、文学造形型種馬だ。わめいては、自分を見せびらかしている」等々。かろうじで決闘沙汰には到らずに済む。
7月 ‐ 10月、シャトゥルギヨン、エトルタ、アンチーブ Antibes 滞在。
1887 ブーランジェ Boulanger の動乱。ウィルソン Wilson 事件。ジュール・グレヴィ Jules Grévy 罷免。

1月、長編『モントリオル』 Mont-Oriol 出版。
社交界に出入りし、若い女性幾人かと交友を持つ(エルミーヌ・ルコント・ド・ヌイ Hermine Lecomte du Noüy とは数年来、ポトッカ伯爵夫人 Comtesse Potocka、マリー・カーン Marie Kann)。
5月、短編集『オルラ』 Le Horla 出版。
7月、パリからオランダまで気球旅行。
8月、ゾラ『大地』 La Terre に反対する五人組による宣言。自然主義「党派」の消滅を示す。
10月、北アフリカへ。翌年1月まで滞在。この年、他にアンチーブ、シャトゥー、エトルタにも滞在。
弟エルヴェ、最初の入院。
1888 1月、『ピエールとジャン』 Pierre et Jean 出版。重要な序文「小説論」 « Le Roman » を付す。
5月、『月光』新版。
6月、紀行文『水の上』 Sur l'eau 出版。
10月、短編集『ユッソン夫人推薦の受賞者』 Le Rosier de Mme Husson 出版。
1889 万国博覧会開催。「私はこの種の快楽向きの性行ではない」と記し、エッフェル塔から逃げ出す。
カンヌ、エトルタ、イタリアに滞在。
3月、短編集『左手』 La Main gauche出版。
5月、長編『死の如く強し』 Fort comme la mort 出版。
8月、弟エルヴェ、入院後、死去。

文学において新しい世代が台頭し始める。バレス Barrès は一連の『自我崇拝』 Culte du moi に関する作品を出版。クローデル Claudel 『黄金の頭』 Tête d’Or、ジャリ Jarryは『ユビュ王』 Ubu roi 『寝取られユビュ』 Ubu cocu の最初の原稿を既に書き記している。
1890 原稿執筆に衰えが見える。
3月、旅行記『放浪生活』 La Vie errante 出版。
4月、短編集『あだ花』 L'Inutile Beauté 出版。
6月、長編『我等の心』 Notre cœur 出版。
多くの日を移動と滞在に当てる。自分自身から逃亡したかったのだとも言えよう。
1891 ジュール・ユレ Jules Huret 『文学の進化についてのアンケート』 Enquêtre sur l'évolution littéraire 出版。ポール・アレクシの有名な電報文がそこに掲載されている。「自然主義は死なず、以下手紙」
未刊のままに終わる長編『お告げの鐘』 L'Angélus の執筆。
3月、ジムナーズ座 le Gymnase で3幕芝居『ミュゾット』 Musotte 上演。
7月 ‐ 8月、リュション Luchon。ディヴォーヌ Divonne、シャンペル Champel(スイス)で治療。
12月、遺書をしたためる。
1892 元日、自殺未遂。
1月7日、パッシ− Passy にあるブランシュ博士 Dr Blanche の精神病院に入院。一年以上に及ぶ苦しみ。直接の原因は梅毒。徐々に錯乱と全身麻痺に襲われる。
1893 3月『家庭の平和』 La Paix du ménage コメディー・フランセーズで上演。
7月6日、ギ・ド・モーパッサン死去。
8日、モンパルナス墓地に埋葬。
モンパルナス墓地のモーパッサンの墓

モンパルナス墓地のモーパッサンの墓



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