モーパッサン 書簡
Correspondance de Maupassant
(*翻訳者 足立 和彦)

ただ残念なことに、現時点(2018年1月)において、モーパッサンの完全な書簡集はまだ世に出ていない。
Guy de Maupassant, Correspondance, édition établie par Jacques Suffel, Evreux, Le Cercle du Bibliophile, 3 volumes, 1973. が今日なお参照すべき文献であるが、その後、多くの書簡が個別に雑誌に発表され、今日に至っている。完全な書簡集実現の努力は継続中である模様だが、あまりに散逸しているために、まだ時間がかかるようである。
ここでは、中でも重要と思われる書簡をご紹介してゆきたい。適宜、解説を加える所存である。なお、参照を容易にするため、上記書の掲載番号を冒頭に、宛名とともに併記する。
(なお右上下の画像は、1875年2月20日付、友人ルイ・ル・ポワトヴァン宛書簡(35)中の、モーパッサンのデッサン。)
書簡リスト

- 48. ロベール・パンション 宛
- 60. ポール・アレクシ 宛
- 61. ロベール・パンション 宛
- 89. 母親 宛
- 145. トレス夫人 宛
- 159. ギュスターヴ・フロベール 宛
- 160. ギュスターヴ・フロベール 宛
- 175. ギュスターヴ・フロベール 宛
- 176. エミール・ゾラ 宛
- 177. エドモン・ド・ゴンクール 宛
- 178. エミール・ゾラ 宛
- 235. エミール・ゾラ 宛
- 415. モーリス・ヴォケール 宛
***** ***** ***** *****
48. ロベール・パンション 宛
À Robert Pinchon
À Robert Pinchon
(解説 ボート仲間である親しい友人に向けて近況を語った書簡。詩人としてパルナス派と交流しつつ、短編小説の執筆も始めた当時の状況をよく伝えている。またこの頃既に病の症状が出ており、モーパッサンは以後、終生病気と闘い続けることになる。書中言及の「詩」は「水辺にて」 « Au bord de l'eau » で、「ひげの女」 « La Femme à barbe » はポルノ詩編である。「ボートに乗って」 « En canot » は後に「水の上」 « Sur l'eau » と改題される。「プチ・ピエールの冒険」は恐らく、後の「シモンのパパ」であるだろう。ジョゼフ・プリュニエはボート仲間での愛称で、最初の短編の筆名にも使用している。)
*****
1876年3月11日、パリ
親愛なるトック帽へ、
昨日君の手紙を受け取り、僕はその上に感動の涙を零した。直ちに思いついたのは、君のために大がかりの募金か宝くじをやるか、あるいはファルシーに一晩分の売り上げを諦めるように頼んで、君が僕らのところへ来れるようにしようということだった。間違いなく、パリ全体、とりわけ郊外が僕の呼びかけに応えるだろう。
・・・僕のほうでは、今は芝居には手をつけていない。劇場の支配人は、彼らのために仕事してやるに値しないと決定的に分かったのさ!!! 本当のところ、彼らは僕らの作品に魅力があるとは認めるのだが、上演はしないんだ。僕としては、出来が悪いと思いながら上演してくれるほうがよっぽどいいと思う。レーモン・デランドが僕の『稽古』を、ボードヴィル座でやるには繊細に過ぎると判断したなんて、言うまでもないことさ。僕もそんなに頑張った訳でもないしね。心臓には大いに困らされている。診察を受けに行き、完全な休息に、臭化カリウム、ジギタリス、夜更かしの禁止を命じられた。「この処置は何の効果ももたらさなかった。」それで今度は砒素、ヨウ化カリウム、イヌサフランのチンキを与えられた。「この処置は何の効果ももたらさなかった。」それで医者は僕に専門医に相談するように命じた。名医中の名医、ポタン博士・・・。彼の宣言するところでは、心臓自体は全く何の問題もないが、僕はニコチンの毒に侵され始めているという。僕ははっとさせられたので、直ちに全部のパイプを飲み込んでもう目にしないようにした。けれども心臓はいつも同じようなままだ。確かに、禁煙してまだ二週間だけれど。
・・・僕は一篇の詩を作った。最も偉大な詩人の一人という評判を一気に与えてくれるだろう。今月二十日に『文芸共和国』に掲載される。もしも編集者兼経営者が読まないでいてくれたなら。何故ならこの男性は熱烈なカトリック信者で、僕の作品はといえば、言葉は貞淑で、イメージと題材の点では、人が作ることの出来る中で最も不道徳で、最も淫らで、云々のものだから。フロベールはとても情熱的で、雑誌の編集責任者のカチュール・マンデスに送るように言ったんだ。彼はといえばすっかり仰天して、経営者に反して掲載しようとしている。それから彼はパルナスの何人もに詩を読んで聞かせた。それが話題に上って、この前の土曜日には、ゾラも出席した文学者の夕食会の場で、一時間ばかり、僕を全く知らない者たちの間で僕が話題の種になっているみたいだった。ゾラは拝聴しながら言葉を挟まなかった。マンデスは僕を何人かのパルナシアンに紹介してくれて、僕はお世辞をたくさんぶつけられた。でもただ一点、二人の人間が・・・のせいで死んでしまうという話を出版するのはきわどいことだ・・・。有名なバルベー・ドールヴィイのように予審判事の前に立たされることにならないだろうか?
・・・君はドーデの『ジャック』を読んだか? 大変優れている。ゾラは昨日、次の土曜日に出版の新しい小説を一部送ってくれた。見事だと思う。政治に関するもので、ルエールの物語だ。
・・・僕の『ひげの女』のお蔭で「情熱的な」――あらゆる点で― ―ファンに知り合えた。でも彼女相手にポティファルの奥さんと対面する哀れなヨセフの役を演じている。シュザンヌ・ラジエのことだ・・・
上記のシュザンヌ・ラジエは、マチネで公衆の前で僕の一作品を絶対に朗誦したいと言っている。それは五月初めになるだろう、そこで彼女が上演する。今、僕はあらゆる女性に涙をこぼさせるような感動的な作品を書いている。
・・・僕の小説『ボートに乗って』は近日中に『オフィシエル』に、『プチ・ピエールの冒険』は恐らく『オピニオン・ナショナル』に載るだろう。恐らくというのは次の訳による。この新聞は僕の小説を受け取り、掲載すると約束した。それから土壇場になって、ごく自然な良心の配慮から、僕にお金を得たいという意志があるのかと尋ねてきた。疑いもなくそれがあると僕は答えた。すると編集者が、彼らにはまさしく僕に支払う意志はないと言ってきた。それで僕はこう答えてやった。僕には僕の作品を引っ込めて他に回すという意志があると。すると最終的な意志を決定するまで待ってくれと頼んできた。そういう訳で、目下『オピニオン』は僕をそれ(オピニオン)なしの状態に放っているんだ・・・
ジョゼフ・プリュニエ
60. ポール・アレクシ 宛
À Paul Alexis
À Paul Alexis
(解説 公開当時からアレクシ宛てと推察されている手紙である。書簡中にもあるように、モーパッサンは文学について議論することを好まなかった。従って、本書簡は彼の文学観を窺う上で貴重なものであり、しばしば論文にも引用される。ここで展開されるモーパッサンの論が、フロベールに多くを負うていることは、フロベールの書簡集を紐とけば理解できる。それは受け売りと言ってもいいほどであるのだが、弟子がいかに師の教えをよく吸収したか、そしてフロベールの教えが、技法について以上に、むしろ創作の根本理念についてであったことを、本書簡はよく語っている。独創的であることを、モーパッサンは何よりも大切と考えつづけた。
また文末近くの言葉から、当時ゾラのもとに集まりつつあった若い文学青年たちが、世に出るための模索をしていた様が窺える。言うまでもなく三年後の『メダンの夕べ』が、その結実となった。)
*****
海軍植民地省
1877年、1月17日
友に
今受け取ったばかりの手紙で、『国家』紙の方で、僕に関して揉め事が起こったことを知った。それで、僕の小説を『団結』に持って行くのを数日待ってもらいたい。相手方に新しい議論の種を与えないように。不可避的に、ボナパルト派の編集に何らかの影響を及ぼしかねないからね。
事態が解決し次第、君にお伝えするので、その時になったら、お申し出の件を進めてくれるようにお願いしたい。
我々の関心事であるマニフェストについてよく考えてみたのだけれど、告白するように、文学全体についての僕の信仰宣言を行う必要があるようだ。
僕は自然主義や現実主義を、ロマン主義と同じくらいに信じてはいない。こうした言葉は、僕の感覚では絶対的に何も意味しないし、対立する気質同士の争いの役にしか立たない。
自然なもの、現実のもの、人生が、文学作品の「必要不可欠」な条件だとは、僕は思わない。そうしたものは全部言葉でしかない。
ある作品の「存在」は、ある特殊な、名前もなく、名づけようもないものにかかっていて、それを確認することはできても、分析することはできない。電気のようなものだ。それはある文学的放射体で、漠然と人はそれを、才能とか天才とか呼んでいる。「理想的」なものを作り、「自然な」ものを否定する者は、自然なものを作り、他のものを否定する者と同じぐらいに、物事が見えていないと思う。対立する気質の否定、それだけのことだ。僕がある一つのものを見分けないからといって、必然的にそれが存在しない、ということにはならない。
僕はシャトーブリアンを十分に賛嘆して見るが、でも愛してはいない。僕はシェニエ、ボワロー、コルネイユ、モンテスキュー、それにヴォルテールを見事だと思う。無限の喜びをもってヴェルギリウスを、同様にギリシャ教会の哲学的教父たちを読む。彼らは優れた作家だった。しかしながら、僕らが使う言葉の意味では、彼らは全く生きてはいない。
僕らの才能の性質がどのようなものであろうとも、オリジナルになろう(オリジナルと奇抜であることを混同してはいけない)。何物かの「オリジン」になろう。何の? 僕にはどうでもいい。それが美しくさえあれば、そして、既に完結した伝統と結びついてさえいなければ。プラトンは、確かこう言ったと思う。「美とは真実の崇高さである。」僕は全くこの意見に与するし、もしも、ある作家のヴィジョンが常に正確であることに拘るとすれば、そのことが、その作家の解釈がオリジナルで、真に美しいものであるために必要だと、僕が信じるからだ。けれども、文学が現実に持つ力、天才、才能は、解釈の内に存在する。眺められた事物は作家を通り、そこにおいて個別の色合い、その形態、その発展、その帰結を、彼の精神の成熟の度合いに比して、獲得することになる。シェークスピアは自然のままだった。だが僕が彼を、詩人たちの中で最も優れた人物だと見るのは、彼が最も賞賛すべき解釈者だったからだ。
全ては美しくなりうる。時や、国や、流派などが何であろうとも。何故なら、あらゆる気質を持った作家が存在するものだからだ。古典主義者たちは、絶対的、決定的な文学形式を見出したと信じなかっただろうか? だが彼らの内、何が残ったのか?
コルネイユが幾らか、ボワローが少し、ボシュエが少々だ!!
ロマン主義者たちは勝利の叫びを上げ、それに世界中が応えた。彼らは、芸術の崇高な形式を発見したと考えた。
何が残っただろう?
ユゴーの幾つかの作品。それは恐らく、これまでに書かれた中で最も美しい詩だ。だが、ただ幾つかの詩篇だけだ。――それは残るだろう。その理由は、ユゴーが優れた天才詩人だったからであって、彼がロマン主義者たちを生み出したからではない。
ユゴーはロマン主義を創り出す必要があった。何故なら、それが彼の才能の本質だったからだ。――ただ彼一人が、ロマン主義者だった。
別の流派が現れて、現実主義、自然主義と呼ばれた。それは何人かの才能ある者の内に受肉化し、通り過ぎて行くだろう。――何が残るのだろうか? 彼ら偉大なる者たちの、幾つかの美しい作品。
一つの教義は、ある作家の勝利である。というのもそれは彼から出たのであり、彼と同一であり、彼の性質、能力であるからだ。だが一般的に言って、その教義は彼の後に来る者を殺してしまう。ちょうどロマン主義がパルナス派の詩人たちを殺したように。その内の何人かは、もしも独立を勝ち得たならば、恐らくは生き延びることができただろうが。
ロマン主義は必要だったのだ。
今日、ゾラは傑出し、眩いばかりの、そして欠くべからざる人物だ。だが彼の方法は、芸術の表明の一つのあり方であって、「総体」ではない。ユゴーの方法が、同じ芸術の別の表明であったように。
彼らのヴィジョン、彼らの解釈は異なっている。だが、どちらの者も、文学が進むべき宿命的な道を切り開いたのではない。彼らは二人ともそう信じた。二人ともに、個性と才能とを持っているからだ。僕は確信するのだけれども、自然主義の後には、原‐理想主義者がやって来るだろう。ただ反動がけが宿命であるからだ。――歴史はそこにあり、人間の性質同様に、それも変化することがないだろう。ロマン主義者たちが既にそこを通ったからといって、中世が現代の現実以上に閉ざされているとは僕は信じない。全ては、それを手にする術を知る者にとって良いものだ。ある流派に属する滑稽な者たちが、ある歴史的時代への入り口を閉じた訳では少しもない。そこを別の仕方で眺めることが必要で、そこに閉じ篭らないことが必要なのだ。
僕は「メランコリック」な者たちが、しばしば突然に広げて見せる地平の広さを好む。官能的な者たちの、真の、刺すような、しばしば狭隘な情熱を好むように。
どうして自ら制限するのか? 自然主義は幻想的なものと同様に限定されている……。
以上だ。
僕は、文学も、原則も議論しない。そうしたことは全く無意味だと信じているから。人は誰をも転向させることはできない。だからその目的で、この長い手紙を書いた訳ではない。君が十分に、僕の見方と文学的信仰とを理解してくれるようにと思ってだ。それを僕は、いささか不器用に、一まとめにして、幾らか気取って、散漫な仕方で表明した。だがこの主題を追求したり、理屈をまとめたり、「上品に」お見せするような暇が僕にはない。浮かんで来たままだ。言い方が下手で、整合性がないとしたら、許してもらいたい。
この手紙は、僕らの「サークル」の外に出てもらっては、もちろん困る。君がゾラに「お見せする」ようなことがあれば遺憾に思う。彼を僕は心から好いているし、深く賞賛しているのだが、恐らく気を悪くすることになるだろう。
「成り上がる」手段について真剣に議論する必要があるだろう。五人いれば多くのことができるし、恐らく、今まで使われたことのない「策略」もあるだろう。
一つの新聞を六ヶ月ほど包囲し、友人たちで記事や要求や色々なものを浴びせかけて、遂には僕らの誰か一人を入れさせようか? 思いもしない手を見つけて、一撃で、公衆の注意を掻き立てる必要があるだろう。恐らくは滑稽なことだろうか? 十分に機知に富んだ爆弾。つまり、相談することにしよう。
敬意を込めて握手を。火曜日に、それ以前に会わなければ。
ギ・ド・モーパッサン
61. ロベール・パンション 宛 (断片)
À Robert Pinchon
À Robert Pinchon
(解説 電報風の文体で近況を語った手紙。戯曲『リュヌ伯爵夫人の裏切り』の進行状況が窺われると同時に、文学的思想として自然主義と一定の距離を置くモーパッサンの「戦略」の表明が興味深い。)
*****
[1877年 2月]
・・・文学に関するニュースは無い。『国家』紙とは関係を絶った。ひどい新聞だ。
僕の芝居は完成しそうだ・・・(三幕の途中)短編小説を一本仕上げた・・・。『居酒屋』は熱狂的な成功を得た(二十版)。一気に読むと見事な効果を与える。本当に美しく、驚くべき力に溢れている。フロベールは短編集を四月二十日頃に出版するはず。『エロディアス』が素晴らしい。僕は詩を軽蔑している者たちの仲間に属している。彼らは僕の引き立て役になってくれるだろう。それは悪いことじゃない。僕は演劇や長編小説においては自然主義へ向かっている。何故なら、その類のを作れば作るほど、人をうんざりさせることになるから。他の者たちにとってはまったくの儲け話だ。友らよ、反抗に気をつけよ!・・・
・・・ラジエは僕の『最後の逃走』をマチネで朗誦したいと言っている。『シモンのパパ』は六月に下らない雑誌に載るだろう。
ジョゼフ・プリュニエ
89. 母親 宛 (断片)
À sa mère
À sa mère
(解説 詩篇「最後の逃走」を3月19日付『ゴーロワ』紙Le Gauloisに掲載した経緯について書かれた書簡。「現実の中に詩を理解する」モーパッサン詩学が当時の社会においてはどのように見られていたのかが窺える。別の詩篇「田舎のヴィーナス」についての言及も見られ、詩人モーパッサンの様子を伝える書簡の一通。タルベは当時の『ゴーロワ』紙の編集長。話題の詩篇に付された前書きは「最後の逃走」解説に掲載。バルドゥー氏は当時の文部大臣。フロベールと親交があり、モーパッサンは彼のつてを頼りに海軍省から文部省への転勤を画策した。)
*****
海軍
植民地省
パリ、1878年3月21日
苦しんでいらっしゃると知って残念に思います、親愛なる母上様。辛抱し切れない思いで五月が来るのを待っていますが、きっと幾らか気晴らしを与えてくれるものと思います。ようやく冬は過ぎ去ったのですし、そこに重要な点があります。こちらでは、全てのマロニエが(3月20日のを除いてですが)緑になり始めていますし、空気は春の香りで一杯です。
・・・・・・・・・・
『ゴーロワ』に関しては、あまり騒がしく勝利を宣言したくはありませんが、とはいえお褒めではなかったこのアイデアが、そんなに不出来なものとも思っていないのです。次の点によくご留意ください。現実の中に詩を理解するというこのようなやり方は、因習に閉じ籠る者、理想の監視人、「崇高」を歌う粗暴なオルガンたちを驚かすでしょう。タルベは僕に言いました。「憤慨した抗議があったし、それも多くの人々からですよ」そのために、彼は僕の詩の冒頭に、お読みになったような可愛らしい記事を付け加えたのです。さて、どこかの民主主義的な新聞においてなら、古い階層の者たちが忌まわしいレアリスム云々かんぬんと罵声を浴びせたことでしょうが、保守的な新聞、ボナパルト派の最も穏健な機関紙、『フィガロ』のライヴァルとして好都合な新聞においては、僕の詩を評価するということには、特別な射程があるのです。
加えて、僕は待機し、時宜を選んだのですが、それはフロベールに詩篇をバルドゥー氏に渡してもうためです(今週にやってくれるでしょう)。そのことはご承知の状況においては計り知れないほどに有効なのです。
ウジェーヌ・ベランジェに会いましたが、称賛は受け取りませんでした。このような物の見方には息が詰まるとか「ヒキガエル」には怒りを覚えた云々。一時間ばかりの間、とんでもないパラドックスを持ちだして自分の詩学を擁護して楽しんでから、彼をすっかり憤らせたまま放っておきました。彼は叫びましたよ。「それはデカダンス、デカダンス、デカダンスだ」僕は答えました。「自分の時代の文学運動を追わない者、オリジナルな見方と表明の仕方を持たない者は誰であれ、失敗者に過ぎない」云々かんぬん。
彼が言うにはサルドゥーは生き残るだろうが、フロベールやゾラのは一行も残らないのだそうです。僕はそこにまた、僕流のちょっとした演説をぶちました。遂に、彼が僕に噛みつきそうなのを見て、僕は逃げ出しました、自分の議論が生んだ効果に惚れ惚れしてね!!!
フランス座のニュースはありませんが、僕は冷めています。それというのも確信をもっているのですが、ここに述べるには長すぎる多くの理由から、僕の作品は受け入れられないでしょう。僕はついてないのです。父さんに『ゴーロワ』へ行って、四部か五部もらってお母さんに送ってもらうように頼みました。
今は長編を中断しています。『田舎のヴィーナス』を仕上げるためで、全力で仕事をしています。それというのも『最後の逃走』の掲載の後、今から三週間か一月以内に新作を発表しなければならないことになりそうだからです。あまりに肉感的になりすぎないように努めるのが難しい。いずれにせよ際どいのですが、意図の巧みさでもってデリル神父を言いくるめます。新聞紙上へのこうした掲載の甚大な利点は、フランス中に運んでくれた上に、力づくで人々の記憶の中に入れてもらえることです。ちょうど植物の種を風がどこか遠くに蒔いてくれるように。
今コペとは最高にいい関係にあります。ドーデとの仲はいつも冷めていて、ゾラとは情愛を持って接しています。
さようなら、親愛なる母上様、千度も二千度も心から抱擁を。女中たちによろしく。
あなたの息子
ギ・ド・モーパッサン
ご健康に関していつも正確な情報をお知らせください。
145. トレス夫人 宛
À Mme Tresse
À Mme Tresse
(解説 一幕韻文劇『稽古』を出版者トレスが毎年発行する『寸劇と独白』 Saynètes et monologues 第六集に掲載するにあたって、モーパッサンが著作権料に関する要求を申し出ている書簡。この作品、実は以前に執筆済みのものであるが、モーパッサンはその事実を隠して交渉を有利に進めようとしているらしい。したたかさを見せる一面、まだ無名の作家が作品を売ることの難しさをよく物語る証言となっている。なお、『稽古』は作者の生前に上演されることはないままに終わる。)
*****
教育芸術省
大臣官房
1879年、8月22日、パリ
奥様、
利益に関する事柄は触れるのが難しいので、反論を持ち出すよりはむしろ、どんな条件も受け入れたいとは思います。昨日、お宅であったことがまさしくそのことなのです。お宅を出てから、この問題は手紙でやりとりするよりないと判断いたしました。
金銭に関するやりとりに触れず、私はあなたの申し出を受諾しました。しかしながら、我々の交わした契約は、私を厳しく困難な状況に置くということを、知って頂きたいのです。私の側の理由の正当さを認めてくださるものと思います。
あなたは、貴社の作品集のために、「ルイ十五世様式の衣装つき」の小品をお求めになりました。思い出していただけると存じますが、取り掛かっている最中の作品をしばらく中断しなければいけないので、最初、私はためらったのです。あなたは強く主張され、この作品に大きな関心をお示しくださいました。それで、あなたの書店との関係を取り結ぶために、それが長く続くように期待していますが、私は作品に取り掛かり、謝礼についてはお尋ねしませんでした。二ヶ月、私は時間をかけました。更に、あなたの要望に合わせて作品を修正いたしました。そして、あなたは50フランを提案なさる。それはちょうど、今現在、新聞紙上に載せる時評一本につき、私が受け取る金額なのですが、私は二時間でそれを仕上げるのです。
実際のところ、とても少ない金額です。いささか失礼でさえないでしょうか。もし作品が上演されれば、更に50フランくださるとのこと。もし作品が上演されれば、少なくとも500フランか、600フランは手にすることができるでしょう。50フランという金額は、したがって何物でもありません。しかしながら、この作品を上演するには、私には困難な点があるのですが、それはこの作品の製作の条件に由来するもので、実際のところ、初めは予想もしなかった類の困難です。
あなたはルイ十五世様式の衣装をお求めになった。さて、バランド氏は、私の作品を上演してくれる心積もりがあり、何か持って来るように迫っているのですが、昨年、彼は小品、「月の住人」の上演を中断しました。一晩ごとに衣装の賃貸代が30フランかかる、というのがその理由で、彼の劇場のわずかな収入では、この種の出費は許容出来ないのです。彼はワットー風の衣装も持っていません。それ故に、私もこの障害にぶつかり、たとえささやかな私の著作権を放棄しても(一晩約7フラン)、取り除くことが出来ないでしょう。この劇場の他では、通常の条件で私に開かれている劇場としては、フランス座やオデオンは恐らく無理で、ジムナーズ座は韻文作品をやらないので、小品をどこへ持って行けばいいのか分かりません。とりわけ文学的で、サロンやあなたの作品集向けに着想、執筆され、社交界の諺劇風で、ささやかな筋で、舞台に乗せ、世間を驚かせるのに必要な、いささか大げさな効果を取り入れてないような作品のことです。
それ故、もし私が懸念しますように、衣装の問題がバランド氏をしり込みさせた場合、あなたのお勧めに従って、私は50フランのために二ヶ月、働いたということになるのです。あらゆる点から見て、私は、自分の長編の執筆を続けたほうがよかったのではないでしょうか?
奥様、このような勘定についてご判断願いたいと思います。そしていささか性急に受諾した条件を、お受けする準備はあるとお告げした上で、公正さの点から、あなた様の契約を以下のように変更していただくことが可能だとお考えではないか、お伺いしたいのです。
原稿の委託に対して100フラン、作品はあなたに依頼され、特別な衣装という条件のもと、あなたのご希望に沿って書かれたものである故に。
もし作品が上演された場合、それは私の利益に関することなので、私はそれに向けて努力しますが、報酬としては、著作権だけで十分であり、あなたには何も要求いたしません。あなたの側では、ただ印刷にのみ関わりになってください。
お分かりのように、これによって全体の額に変更はありません。それに、まだ少ない、とても少ない額ですし、今後、このような取引は引き受けようとは思いません。最後に、このような仕方で、文学者として、二ヶ月かかった仕事に対し50フランを受け取るということを、いささかも侮辱とは思わないでしょう。
どうぞ一言ご返事ください。敬具。
ギ・ド・モーパッサン
クローゼル通り、17番地
又は、教育省
クローゼル通り、17番地
又は、教育省
159. ギュスターヴ・フロベール宛
À Gustave Flaubert
À Gustave Flaubert
(解説 師フロベールに宛てたこの書簡の中で、モーパッサンは『メダンの夕べ』が編まれるに至った経過と、そこに込められた意図を説明している。若い出版人シャルパンティエはゾラの著作を出版し、自然主義と縁があった人物。ただしモーパッサンは『詩集』以降は別の出版者を探すことになる。普仏戦争について「真実」を語るのが目的という『メダンの夕べ』、モーパッサンやユイスマンスは当時20代で戦争に狩り出され、厳しい現実を目の当たりにした。「私がルアンの人たちについて述べることは真実にはまだ程遠いのです」 (ce que je dis des Rouennais est encore beaucoup au-dessous de la vérité) の言葉に、モーパッサンの強い思いが込められているといえるだろう。
なお文末のアダン夫人の雑誌は『ヌーヴェル・ルヴュ』、問題の詩篇は「愛の終わり」である。)
*****
教育芸術省
書記課
第一部局
パリ、1880年1月5日
親愛なる先生、
この間私がクロワッセに旅行した際に、我々の小説集についてお話ししたことをお忘れになったようでので、急いで事情をご説明しようと思います。最初ロシアで、次いでフランスの『改革』紙上に、ゾラは『水車小屋の襲撃』という戦争についての小説を発表しました。ユイスマンスはブリュッセルで、別の『背嚢を背負って』という小説を出しました。最後にセアールが、自分が特派員を勤めているロシアの雑誌に、パリ包囲についてのとても興味深く、大変暴力的な物語を送ったのですが、『瀉血』というタイトルです。ゾラはこの二作品のことを知って、自分のと合せて興味を惹く本が出来るだろう、それは愛国色が薄く、特別な調子を備えたものになるだろうという意見を述べました。それで、彼はエニック、アレクシ、そして私にも、それぞれ一作書いて全体を補うように勧めたのです。そうすると、彼の名前のお蔭で本が売れて、我々一人ずつ、百か二百フランを得られるという利点があります。直ちに我々は仕事に取り掛かり、シャルパンティエが原稿を受け取りました。本は3月1日頃に世に出るでしょう。
この本を作る際に、我々には反愛国主義的な意図は全然ありませんでしたし、他のどんな意図もなかったのです。ただ我々が努めたのは、戦争について語る正しい調子を自分たちの物語に与えるとともに、デルレード流の盲目的愛国主義、偽りの熱狂を取り去るということでした。そうしたものが、赤いキュロットと銃を語る際には不可欠であると、今日まで考えられてきたのです。将軍たちというものは、揃ってもっとも高貴な感情や、偉大で高邁な熱情に沸き立つ計算家であるわけではなく、ただ他の者と変わらない平凡な人間であるだけですが、加えるに飾り紐のついた帽子を被って、別に悪意があるのでもなく、ただ愚かさが理由で人間を殺させるのです。軍事を評価する際の我々の側のこの「良心」が、この本全体に奇妙な様子を与え、誰もが無意識的に熱くなるこの種の問題についての我々の意図的な無関心が、全速力の攻撃よりも千倍もブルジョアたちを憤慨させることでしょう。それは反愛国的なのではなく、ただ単に真実であるでしょう。もっとも、私がルアンの人たちについて述べることは真実にはまだ程遠いのです。
私の詩集に関しては、ただシャルパンティエに告げただけで、彼はまだ原稿を手にしていません。この出版者の遅さを私は大いに危惧していますが、彼はどんどんと経済的な困難に嵌っています。(彼はユイスマンスに払うべき八百フランを払えず、前払いで四百フラン払っただけです。)
大臣は私を教育功労賞にノミネートしたばかりです。別に感動もしませんけれど。
ニュースとしては何もありません。アダン夫人の雑誌に一篇の詩を送ったのは、もう五週間ばかり前です。彼女から返事は来ませんでした。間違いなく、彼女にはデルレードのほうがお好みなんでしょう。
さようなら、わが親愛なる先生。敬具。
ギ・ド・モーパッサン
160. ギュスターヴ・フロベール宛
À Gustave Flaubert
À Gustave Flaubert
(解説 『詩集』出版に至る裏事情を明かしているこの書簡から、同時にモーパッサンの抱くポエジーの理念を窺い知ることが出来る。「何か物質的なものを歌う」こと。レアリスムの様相の濃いモーパッサンの詩作品は、当時の一般の読者の趣向と必ずしも相容れるものではなかった。一方、日中は役所勤めをこなし、夜に『詩集』や「脂肪の塊」の執筆に専念する苦労を、愚痴のように師フロベールに打ち明けるモーパッサン。彼にとってフロベールは、単に文学だけではない、まさしく人生の師であった。)
*****
教育芸術省
書記課
第一部局
1880年1月
親愛なる先生、
お願いがあってお手紙します。私の件で一言シャルパンティエに書き送って頂きたいのです。ただし、その手紙が私に促されたものとは分からないようにお願いします。
以下に事情を記します。
上記編集者に詩集の原稿を渡したところなのです。私としては、五月頃にフランセ座か、オデオンに提出しようと考えている小さな劇が受け入れられる助けになるよう、この本が四月には出てほしいのです。シャルパンティエは私に対して決して熱意を持っていないので、断られないとしても、ずっと長い間待たされる危険があります。それというのも、彼が普通に出版するような詩句は、私が彼に預けたものの調子の中にはわずかしか見られないからです。彼はいわゆる詩的なもの、感傷的で無味乾燥なものを好んでいて、詩の領域は星から露まで、そして露から星までだと、もしも何か物質的なものを歌うとすれば、バラとその香りを選ぶものだと決め込んでいるのです(例えばその葉というようなことは決してありません)。彼の書店の大家といえば、トゥリエやデルヴィリーです。
私が彼に詩の原稿を見せたはずだということをご存知であると、そしてその作品を知っていらっしゃることをおっしゃってください。私の本はとても短いものになるでしょう。ぜひとも早く出てほしいのです。
大きな作品は『水辺にて』、『最後の逃走』、『田舎のヴィーナス』、それに小喜劇『昔がたり』です。それから百二十行から百五十行の小さな詩が二篇。一つは『愛の終わり』といい、もう一つは『壁』です。これらの詩は何篇かの短い詩によって隔てられますが、その数は全部で十ばかりです。全体は二千行を超えないでしょう。読者を疲れさせるには十分です。
私はコマンヴィル夫人を訪問しましたが、彼女は病気で中には入れませんでした。もっと早くに行かなければならなかったのでしょうが、でもどうやって? 午後六時より前に役所を出ることはもう決してないのです。訪問するのは本当に不可能です。皆が気を悪くします。どうしようもありません。私が最も親しくしている家庭の者たちは傷ついています。しかしながら、私のような哀れな者にはどれほどに人生は困難で、複雑で、忙しいのかを理解してもらわなくては。六時までは事務所に残り、それからすぐに別の仕事にとりかかるのです。夕食後の訪問では夜の時間を失います。会いに行った人が見つけられない場合は言わないにしても。それから他の理由もあります。私は小説と詩の原稿に励んでいますが、それらは一月には終わるでしょう。そのために全部を放り出しているのです。何もかも。そして本当に、一日に三四時間しか自分が愛していることをする時間がない時、書き始めた作品に最も熱中している、「出産」の時には! 一度も訪問しないまま六週間を過ごしても許されるというものです。けれどご婦人方はそういうことを決して理解しません。ブレンヌ夫人も同じく、この二ヶ月の間悩みの種で、それより長い間私が訪れないので気を悪くして、喧嘩をふっかけてくるし、私を侮辱さえします。とはいえまだ時には彼女の家に行くことが出来ましたが、夕食の時間までに着き、食後はすぐに立ち去るという条件付きです。食卓でおしゃべりし、次には私はいなくなるのです。彼女はとても善良な女性なので、この種の訪問も大変よく受け入れてくれるようになりました。私には夜の時間が勤労のために残されるというわけです。他には家族の者とも十月以来会っていません。最後に、数日中にはコマンヴィル夫人のもとにもう一度出かけて、私に対してのお怒りを鎮めるつもりです。
さようなら、わが親愛なる先生。敬具。
G. de M.
175. ギュスターヴ・フロベール宛
À Gustave Flaubert
À Gustave Flaubert
(解説 恐らく、モーパッサンからフロベールに宛てた最後の書簡となったもの。「脂肪の塊」の成功の知らせを師に書き送る弟子の高揚が感じ取れよう。一方、フロベールは執筆中の『ブヴァールとペキュシェ』に関する情報の収集をしばしばモーパッサンに手伝わせていた。師弟間の交流の様子をよく伝える書簡の一通。末尾の『メダンの夕べ』共作者へのモーパッサンの辛辣な批判にも、二人の間柄が窺われる。)
*****
教育美術省
書記課
第一部局
パリ、[1880年4月末]
親愛なる先生、以下にお尋ねの情報をお伝えします。
キンポウゲ科の中では、全てのキンポウゲ属には萼があります。けれどクレマチス、タリクトゥルム、あるいはピガモン、それに同じ科に属するアネモネにはありません。
これで十分でしょうか? そうでなければ、フランス中のあらゆる博物学の先生に問い合わせることができます。この情報は博物館の助手から得たものですが、必要ならもっと上の者に尋ねましょう。
ラピエールに『ジル・ブラース』のリシュパンの記事をお求めください。
『脂肪の塊』は成功です。プーシェが十分満足していないとしてもです。私のコルニュデは彼を窒息させましたよ!!!! そのことで文句を言ってきました!! カチュールが会いにやって来て特別にお祝いを言ってくれました。あなたのように、彼は自分の意見としてこの小説は後世に残るだろう、二十年、三十年後にもまだ『脂肪の塊』について話題になるだろうというのです。私にとって大きな喜びでしたが、カチュールは真の文学者だからです。他にも、私にとって貴重な意見の持ち主の多くからお世辞をもらいました。
サルセーとビゴーは、私が物語を心理で重たくしてしまったと見ます。私はせいぜい十五ページでそれを扱い、ゴーロワ流の短編のようにただ事柄だけを述べるべきだったのでしょう!!!!
つまるところ、効果は十分なもののように思えます。火曜に出る詩集の完璧なお膳立てとなったわけですし、私に関しては、新聞紙上で繰り返される「自然主義流派」という戯言から、この詩集がすっぱりと縁を切ってくれるでしょう。それは、『メダンの夕べ』という題の過ちのせいですが、私はずっとそれが良くないし危険だと思っていました。
さようなら、親愛なる先生、心よりご挨拶申し上げます。
G. de M.
他の短編についてのご意見をお聞かせ下さい。以下が私のものです。
ゾラ:結構、けれどこの主題はサンド夫人かドーデの手でも同じようにかよりよく扱われただろう。
ユイスマンス:上手ではない。主題もなく、構成もなく、文体も乏しい。
セアール:重たい、重た過ぎ、本当らしくなく、文体に癖があり、けれど繊細で興味を惹くものがある。
エニック:結構、作家として良い腕前、所々に混乱あり。
アレクシ:バルベー・ドールヴィイーに似ているが、サルセーがヴォルテールに似せようとしているが如し。
176. エミール・ゾラ宛
À Émile Zola
À Émile Zola
(解説 5月8日、フロベールの急死を知らせる書簡。モーパッサンは知らせを受けてクロワッセに急行。通夜から葬儀までをフロベールの姪カロリーヌとともに取り仕切った。)
*****
クロワッセ、[1880年]5月9日
親愛なる先生にして友人
我々の可哀そうなフロベールが昨日、卒中のために亡くなりました。火曜、正午に埋葬があります。埋葬の際にあなたがお出で下されば、彼を愛していた者たち皆がどれほど喜ぶか、あえて申し上げるまでもありません。
午前八時の汽車でお立ちになれば、時間には到着します。駅に車が来ていて、直接カントゥルーまで運んでくれるでしょう。そこで葬儀があります。
悲しみに暮れつつ握手を。
ギ・ド・モーパッサン
177. エドモン・ド・ゴンクール宛
À Edmond de Goncourt
À Edmond de Goncourt
(解説 前信と同じくフロベールの急逝を伝える書簡。)
*****
クロワッセ、[1880年]5月9日
親愛なる先生
フロベールが昨日亡くなりました。火曜正午に埋葬されます。可哀そうな偉大な友人への最後の訪問のために、我々のところへいらしてくださいますか?
午前八時の汽車でお立ちになれば、時間には到着します。駅に車が来ていて、直接カントゥルーまで運んでくれるでしょう。そこで葬儀があります。
悲しみに暮れつつ握手を。
ギ・ド・モーパッサン
178. エミール・ゾラ宛
À Émile Zola
À Émile Zola
(解説 フロベールの死後間もない時期と推定される書簡。『詩集』の宣伝に力を入れるモーパッサンの姿が窺われる。同時に『ゴーロワ』紙との契約を伝えており、ここから小説家モーパッサンの活動は本格的に始動することとなった。書簡後半ではフロベール哀惜の念が強く表明されている。)
*****
[1880年5月]
親愛なる先生にして友人
ご援助願いたくお手紙さし上げますが、あなたがまずお約束くださったことなのです。それは、私の詩集について『ヴォルテール』紙のあなたの記事の中で少しばかり触れて頂きたいのです。『グローブ』紙に記事が出て、『ナショナル』紙にはバンヴィルのものが載り、大変称賛の籠った引用が二つ『タン』紙に、『セマフォール・ド・マルセイユ』紙に見事な記事、また別のものが『政治文学評論』誌に、愛らしい引用が『プチ・ジュルナル』、『XIX世紀』紙に等々・・・、そして昨晩はサルセーによる講演がありました。その上、売れ行きは好調で、初版はほとんど出尽くしましたが、残りの二百部を売り払うためにもう一援助欲しいのです。二版は準備できています。ラフィットは私に小説を求め、私は彼のためにそれを書きます。値段を決めるのは断りました。あなたにこの件でご相談したいからです。さらに、私はユイスマンスと一緒に『ゴーロワ』に入ったところです。それぞれ週に一本の記事を載せ、月に五百フラン手にできるでしょう。
私がどれほどフロベールのことを思っているかはとてもお伝えできません。彼は私に取りつき、私を追ってきます。彼の考えは始終戻って来て、私は彼の声を聞き、彼の身振りを見出しますし、いつでも目の前に立って、褐色の大きな衣服を着て、腕を振り上げながら話している彼の姿を目にするのです。孤独のようなものが私の周りを覆います。恐ろしい別離の始まりで、今から年々歳々続いてゆき、愛している人を奪ってゆくのであり、その者の内に我々の思い出はあり、その者となら親密な事柄もよく話すことができたのです。こうした打撃が我々の精神を打ちのめし、何を考える際にも我々に持続的な苦しみを残します。
さようなら、親愛なる先生にして友人、私の情愛と誠意の気持ちをお信じください。そしてゾラ夫人にも心からの敬意の籠ったご挨拶をお伝えください。
ギ・ド・モーパッサン
235. エミール・ゾラ宛
À Émile Zola
À Émile Zola
(解説 『メゾン・テリエ』発売直後のゾラ宛の書簡。問題になっているのは5月12日付(11日発売)『レヴェヌマン』 L'Evénement 紙掲載のレオン・シャプロン Léon Chapron の記事「クロニック・ド・パリ」。モーパッサンの文言は婉曲で分かりにくいが、シャプロンは、「脂肪の塊」で成功したモーパッサンが自分の商売敵になるのを恐れたゾラが、モーパッサンに関する記事の掲載に乗り気でないとからかい、またそのことでモーパッサンがゾラに対して不満を抱いていると暗にほのめかしている。モーパッサンの素早い反応は、誤解からゾラの心象を悪くしないようにという配慮による。マニャールは当時の『フィガロ』紙の編集長。ゾラの記事「アレクシとモーパッサン」は、2ヶ月後にようやく掲載されることになった。 )
*****
この水曜日 [1881年5月11日]
親愛なる師にして友に
『レヴェヌマン』紙が届けられたところですが、そこにシャプロンのクロニックが載っていて、それに私はとてもうんざりしています。このミスターが私の本を「汚物」や「不快な書物」扱いすることは、私にはまったくどうでもいいことですが、終わりの文章の中、「私は彼の顔を一度も見たことがないと急いで付け加えておくが」の言葉の内には特別の背信の意図があると思いますし、あなたの記事が出ないことで私が「彼に対してではなく」誰かに不満を抱いていることを示そうとしていて、そうしたことが、マニャール氏に対してあなたが固持していないかのように疑わせる言葉で書かれているのです。
さて、上記マニャール氏が『メゾン・テリエ』の有料広告を挿入するのを断って以来、あなたの記事が出ないだろうことを私は十分に確信していたので、そのことを何人にも告げましたが、あなたがその記事を書くより前のことでした。それ以来、この断られた記事のことについてしばしば話題にされ、もちろん私は自分の憂鬱を表明しますが、しかしあなたに対しての完全な敬意を込めてですし、あなたの繰り返しの主張にもかかわらず、マニャールがゆえに記事が出ることはないだろう、という確信があってのことでした。
今朝のこのクロニックには憤慨させられます。愚かであり、滑稽です。私に「うぬぼれ」、考えや、願望を持たせてくれるようですが、全てグロテスクです。それにどうしてアレクシについては話さないのでしょう。彼も確かに私同様にうんざりしているというのに? 私一人が問題になっているように見えます。――馬鹿げている、馬鹿げています! だがどうすればいいでしょう。何をしても滑稽なだけです。
あなたがこうしたことの多くを相手にされないことはよく承知していますが、私には憂鬱で、そのことをお伝えしたかったのです。
敬意を込めて握手を、ゾラ夫人に私よりご挨拶を申し上げてください。
ギ・ド・モーパッサン
415. モーリス・ヴォケール 宛
À Maurice Vaucaire
À Maurice Vaucaire
(解説 年少の駆け出しの文学青年に向けて、モーパッサンが助言を述べた書簡。60信と合わせて、書簡中に自らの文学観を表明した貴重な一通。何よりもまず独創的であること、そしてそのために正確な観察眼を備えること。それが、モーパッサンにとって作家の絶対条件であった。後に、『ピエールとジャン』冒頭におかれた「小説論」の中で、フロベールの教えとして同様のことを語っている。なお、文中、シャトーブリアンとあるのはビュフォンの誤りである。)
*****
シャテル‐ギヨン、7月17日
[1886?]
[1886?]
芸術の規則を確立するのは簡単なことではありません。各々の作家の気質が異なった規則を要求するだけに尚更のことです。私は信じるのですが、「作り出す」ためには、余り理屈を言い過ぎてはいけないのです。けれども、よく眺め、自分の見たものについてよく考えてみることが必要です。「見ること」、全てはそこにあります。そして「正確に見ること」です。正確に見るという意味は、自分自身の目で見て、先生たちの目では見ないということです。ある芸術家の独創性は、まずもって些細な事柄の中に見られるのであって、大きな事柄にではありません。取るに足らないような細部、粗野な事物の上に、傑作は作り出されて来たのです。事物に対し、まだ発見されたことのない意味を見出し、それを個人的な仕方で表現することが必要です。
「小石、木の幹、ネズミ、古い椅子」について話すことで私を驚かすことのできる者は、きっと、芸術の道の上にあり、後には、大きな主題にも相応しい者となるでしょう。
夜明けや、太陽、露に月、若い女性と愛について、これまでに余りに歌われ過ぎたので、こうした主題を扱いながら、新参者が絶えず誰をも模倣しないでいることは不可能です。
それに加えて、漠然としたインスピレーションは避けなければいけないと思います。芸術は「数学的」なのです。大きな効果は、単純で、うまく組み合わされた手段によって得られます。シャトーブリアンは述べています。「才能とは長い忍耐でしかない」と。
才能とは長い熟考でしかない、と私は信じます。知性さえ備わっているのであれば。
確かに、あなたには詩の資質があり、よく印象を受け止め、事物や概念を内に浸透させることのできる精神をお持ちです。私のささやかな意見によれば、あなたに必要なのは、休まず思考を働かせ、あなたの手段を十分に「利用し」、とりわけ、詩的といわれる「思考」を避けること、そして、正確な、あるいは軽視されてきた、あるいは芸術家がそれを探しに赴いたことのほとんどない事物の内に、詩情を探し求めるということです。
そして、とりわけ、とりわけ模倣してはいけません。自分が読んだものを思い出してはいけません。全てを忘れることです。そして(私が言おうとするのはとんでもないことですが、絶対的に正しいと私は信じるのです)、十分に個性的になるためには、「誰も崇めてはいけません。」
五十行ばかりでこうした事柄についてお話し、衒学ぶらないことは難しいし、暗礁を避け得たとも思いません。
敬意を込めて握手を。
ギ・ド・モーパッサン