ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)とは

La vie de Guy de Maupassant



ナダール撮影のモーパッサン Guy de Maupassant, Château de Miromesnil, Seine-Martine, 1850 - Paris, 1893

 ギ・ド・モーパッサンはフランスの小説家。名前はギー、ギィと表記することもある。
 長編も執筆したが、300を越す中短編小説によって今日名を残す。リアリズムの技法に則りながら、日常の小市民の生活に見られる喜怒哀楽の様を、限られた紙面の中で鮮やかに描き出した。喜劇的な笑い話の一方、孤独、自殺といったテーマも頻繁に扱い、ペシミスティックな世界観の持ち主としても有名。明治・大正期の日本の作家に積極的に受容され、なかでも田山花袋への影響は大きく、日本の自然主義文学成立に重要な働きを果たした。その後も大衆に好んで読まれ続け、フランス文学の中でも最も翻訳の多い作家の一人である。

 1850年8月5日、ノルマンディー、ミロメニルの城館にて誕生。幼少時代をエトルタを中心としたノルマンディーで幸福に過ごすが、父親の浮気等が原因で両親は別居。以後父親はパリで生活を続ける一方、母親ロールが二人の息子の養育を担う。幼少時にフロベールの友人でもあった、母ロールの存在はモーパッサンの生涯に大きな位置を占める。
 イヴトーの神学校に通うが、厳格な規律に耐えられず、不良行為の廉で退校。一時期パリにも滞在した後、ルーアンの高校を卒業、バカロレアを取得する。1870年、パリ大学法学部に登録するが、直後に普仏戦争が勃発。モーパッサンは召集を受け、兵站部に配属、プロシア軍の侵攻を逃れ、ノルマンディー地方を敗走することになる。以後、終生変わらず厭戦思想を抱くことになると同時に、戦地での経験は、多くの短編小説に結実する(『二人の友』、『マドモワゼル・フィフィ』、『ミロンじいさん』)。
 除隊後、パリに戻った後、海軍省に役人として勤め始める。1878年に文部省に移るが、小役人としての生活の倦怠と貧窮の辛さは、フロベール宛の書簡から窺うことが出来る。また役人をはじめとした小市民の生活をつぶさに観察した体験も、多くの中短編小説に生かされることとなる(『宝石』、『遺産』)。
 1872年頃よりフロベールとの交友が本格的に始まり、モーパッサンは自分の試作(詩・劇・短編)をフロベールに読んでもらい、その批評を受けるということを7年以上続ける。フロベール・モーパッサン間の師弟関係は、文学史上も他に例の少ない幸福かつ実りの多いものであり、フロベールの死後も、モーパッサンの師への尊敬と愛情は変わらず、それは十編を越すフロベールについて書かれた記事に窺うことが出来る。一方、フロベールの仲介のもとにゾラをはじめとする自然主義文学者とも交流し、『脂肪の塊』によるデビューのきっかけともなる。
 小役人の憂鬱な生活の中での唯一の気晴らしは週末に友人達とセーヌ河畔へボートを漕ぎに出かけることであった。たくましい筋肉と日焼けした肌をしたスポーツマン、モーパッサンは一見当時の文学者像とかけ離れていたこともあり、周囲の作家達は彼が文学において成功を収めることを予想さえしていなかったという。それはともかく、故郷ノルマンディーの海、セーヌ河、そして後年には地中海と、モーパッサンは常に水辺を愛した作家である。『女の一生』をはじめ、彼の作品において海は重要なモチーフであり、また愛艇ベラミ号による地中海航海の様は、旅行記『水の上』(1888)に詳しく記される(他に二冊の旅行記、『太陽の下へ』(1884)、『放浪生活』(1890)がある)。

 1880年、短編『脂肪の塊』によってモーパッサンは実質的に作家としてデビューを果たす。『メダンの夕べ』はゾラの下に集う若い自然主義文学者達(ユイスマンス、セアール、エニック、アレクシ)による短編集だが、モーパッサンの短編はその完成度の高さゆえに、一躍作者の名を高めることとなった。この成功の直後、師フロベールが死去。モーパッサンは一人の独立した作家としての道を本格的に歩み始めるが、その期間はわずか十年に限られていた。
 デビュー後、モーパッサンは役所勤めを退き、文筆活動に専念する。はじめゴーロワ紙、ついでジル・ブラース紙という当時中心的な新聞紙上において、矢継ぎ早に中短編小説、また時評文を執筆する。最初の短編集は『メゾン・テリエ』(1881)。短編集は好評をもって迎えられ、瞬く間にモーパッサンは文壇に主要な位置を占める作家として認められる。
 1883年、最初の長編小説『女の一生』を発表。これも成功を収めるが、主人公ジャンヌの恋愛、夫婦生活の様が赤裸々に描かれているというスキャンダルな面が売り上げに拍車をかけたのも事実である。『女の一生』は、フロベール『ボヴァリー夫人』と共通する要素が多く認められるが、修道院から出たばかりの女主人公ジャンヌの抱く夢と希望が、現実生活の中で破れていく様を描いた作品である。吝嗇な夫ジュリヤンの浮気、溺愛する息子ポールが不良児に育ち出奔、相次ぐ両親の死の後、家屋敷も売り払うこととなり、四十にして一人孤独な老境を迎えるが、孫娘が彼女に残され、そこにわずかながらも希望を見出す。最終行、女中ロザリーの台詞、「結局のところ、人生は思っていたほど良くも悪くもないものですわ」は、ロマン主義的な劇的な生涯とも、同時代の自然主義者が描く極端に悲惨な人生とも異なった、真に現実的な生活のありようを示す作者の意思表示と読めよう。本作は副題に「ささやかな真実」と付されてもいる。

 短編においては『脂肪の塊』、『メゾン・テリエ』等の作品において娼婦をテーマとして描き、社会的偏見と現実の生活との落差のうちに、より現実的な人間の姿を浮き上がらせようと試みる。同時に偽善的なブルジョア社会に対する諷刺の意図もそこにはこめられている。
 一般的には扱われる主題によって、ノルマンディーの農民を描くもの、都会の小市民の生活を描くもの、そして別に普仏戦争を題材にしたもの、および幻想小説、といった区分けがなされている。エゴイスティックなまでに自己の利害に固執する農民(『穴』、『酒だる』)、ささやかな出来事に一喜一憂する都会のブルジョア階級等(『雨傘』、『家庭』、『勲章をもらったぞ』、『首飾り』)、作者の筆致はしばしば皮肉かつ批判的であるが、不幸であったり、貧しい者、娼婦をはじめとする社会階級の低いものに対しては同情的でもあった(『脂肪の塊』、『ジュール伯父』、『ささやかな悲劇』、『クロシェット』)。
 また作者自身自由恋愛を信奉し生涯独身を通したが、恋愛、男女関係を描いたものの中でも、かつての愛人の残した子どもという存在が、諸作品に繰り返し描かれることは注目に値する。捨て子の側の視点から描かれることもあれば、子どもを疎かにしていた父親の視点から語られることもあるが、いずれにせよ作者にとって重要なテーマであったことは疑いない(『父親』、『息子』、『親殺し』、『オリーブ畑』)。作者はとりわけ母親と親密な仲にあり、そのため父親との仲は疎遠であったと考えられているが、そのことも大きく影響していよう。
 今日「幻想小説」と呼ばれる作品の多くは、幻覚をはじめとした狂気の体験を綴ったものであるが(『彼か?』、『狂人の手紙』)、同時代に発展しつつあった精神医学的知見に則ったものである。一方、人間の認識能力の限界性に対する意識は、実証主義的風潮への批判を込めて、人間の理解を超えた何物かの存在を語る。代表作は『オルラ』(1887)である。

 1883年より召使としてフランソワ・タッサールが仕えることになるが、彼の記した二冊の回想録(『モーパッサンの思い出』、『新 モーパッサンの思い出』未完)は、事実関係に疑問を残しつつも、作者の私生活に関する貴重な資料である。
 1885年、長編第二作『ベラミ』は、作者自身知悉のジャーナリズムの世界を舞台とし、美貌だけを唯一の武器に、次々に女性を征服し社会的に成り上がってゆく、主人公デュロワの物語である。ベラミ(色男)は彼につけられたあだ名である。モデルが誰であるかという点で物議を醸し、またジャーナリズム批判と受け取られた本作も評判となり、作者の地位は不動のものとなる。
 作家として成功するとともに、モーパッサンは上流の社交界にも出入りし、幾人かの親しい女友達の名が今日挙げられている。また頻繁に旅行に出かけるようになり、ヨットを購入し、ベラミ号と命名(後にベラミ2号も購入される)、地中海に乗り出し、コート・ダジュール、イタリアへと旅行を繰り返す。彼がこよなく海を愛したのはもちろんだが、20代に罹患した梅毒の進展に伴う頭痛や眼疾に苦しみ、精力的な執筆活動や社交界での疲労、また薬物の濫用から、彼の身体は急速に蝕まれていった。南方への逃避は、都会の喧騒から逃れ、自由な休息の時を求めるためでもあった。またある時期よりしきりに寒気に襲われ、夏場でも暖炉に火を入れる暮らしをする中で、より強烈な日光を求めるという衝動もあった。

 五年ばかりのうちに200を越す中短編小説、およびほぼ同数の時評記事を執筆した後、1880年代半ばより、モーパッサンの生産力には衰えが見え始める。同時に作者自身は、常に短編よりも長編小説に価値を置いており、次第に長編に力を入れるようになる。『モントリオル』、『ピエールとジャン』、『死のごとく強し』、『われらの心』がその他の長編である。
 『モントリオル』(1887)はオーベルニュ地方の温泉保養地を舞台に、一儲けをたくらむ実業家や保養客目当てに来る医者、患者達の生態を背景に、若い主人公の恋愛と別れを主筋として展開する。
 『ピエールとジャン』(1888)は最も短い長編であるが、簡潔かつ緊密な構成によって、最も成功した作品でもある。弟が、母親の若い時の不義の息子であることが、彼だけに託された遺産金が原因で発覚する。主人公は兄ピエールであり、母親に対する疑惑に苦しみ、最終的には実の息子である彼が、家と故郷を捨て、船医として海上に去るに終る。
 『死のごとく強し』(1889)、『われらの心』(1890)の二作は、上流の社交界を舞台とする点で前二作と傾向が異なるものである。『死のごとく強し』においては芸術家ベルタンが、愛人の娘に、かつての若かりし頃の愛人の姿を見出し、二人への愛情の間で迷い、自殺によって苦悩の終止符を打つ。
 『われらの心』では、情熱的恋愛に浸ることの出来ない現代女性との恋に悩む主人公マリオルの苦悩が語られる。これらの作品においては「老い」と「死」が重要なテーマを成している。また、初期の短編に見られた客観的手法によって、人物を外面から捉えるのとは変わり、主人公の内面が分析的に詳しく語られる点で、技法の点でも大きな推移を認めることが出来よう。自然主義的な「生理学」を重視した小説から、伝統的な「心理分析」の小説への移行は、同時に時代の流行の変化にも呼応するものであった。

 モーパッサンは、師フロベールの教えに忠実に、自らの文学について語ることがほとんど無かったが、彼の文学観は『ピエールとジャン』の冒頭に置かれた「小説論」に窺うことが出来る。現代の小説について論じたこの小文の中で重要な点は、リアリズム批判にある。リアリズムとは現実の忠実な「再現」ではなく、「現実よりも、より完全で、より感動的で、より説得力のあるヴィジョン」を提示することだと規定した上で、現実をありのまま、客観的に描き出すことは不可能であり、作家は自らの主観を逃れることは出来ないと断言する。真のリアリストとは「イリュージョニスト」と呼ばれるべきであり、自らの「主観的世界観」の表明こそが作家の使命である、という宣言は、今日リアリズムないし自然主義の作家と目されるモーパッサン自身の文学観が、リアリズムを超えるところにあったことを示している。その意味でプルーストの先駆けと考えることも出来るであろう。
 また同論中で、フロベールの教えを披露し、観察の重要さを説いている。一つの火、一本の木さえ他と全く同じではなく、その違いをたった一語によって示して見せよというフロベールの指導は、物と言葉の絶対的な一致を求める、古典的かつ極めて理想主義的なものであるが、「文体論」の手本として、日本人の作家にも少なからぬ影響を与えてきたものである。

 病気が進行し、1890年以降、執筆が止まり、1892年初め、ピストルによる自殺未遂の後、パッシーにある、当時高名だったブランシュ医師の精神病院に入院。一年以上をそこで過ごし、翌年7月6日、そこで生涯を終える。享年42歳。パリのモンパルナス墓地に埋葬される。
 わずか十年の執筆活動の中でモーパッサンは300を越す中短編、6編の長編、3冊の旅行記、250に及ぶ時評文を執筆した(共作を含め2編の戯曲)。なお1870年代に取り組んだ詩作品の多くは1880年『詩集』に収められ、この時期に数編の戯曲も残している(『レチュヌ伯爵夫人』)。

 生前既に大作家として有名だったモーパッサンであるが、二十世紀前半のフランスにおいて、とりわけ当時の文学者からは軽視されることが多かった。この時代の文学の動向が反リアリズムにあったことも大きく影響している。しかし一方で、広く大衆に読み継がれ、また外国においてもモーパッサンはよく読まれた。フランス本国においては1970年代以降、大学においてモーパッサンを専門に研究する学者が現れ始め、1993年の死後100周年前後に、精力的に研究が進められた。最も権威あるプレイヤッド叢書にも収められ、今日モーパッサンは「古典」として認知されるに至ったが、その道のりは必ずしも平坦ではなかった。全ての著作を収録した作品集はいまだ刊行されておらず、とりわけ散逸した書簡を集めて出版する計画は、長らくその実現が待たれている。
 日本においても明治40年代よりモーパッサンの翻訳は盛んに行われ、その数は枚挙に暇がないほどである。しかしフランス本国で再評価が始まった1970年代以降、その研究成果が十分に伝わっているとは言いがたい現状であり、とりわけ彼が残した数多くの時評文は、今日その歴史的価値だけからしても、翻訳紹介が待たれるところである。


エトルタ
写真 エトルタの浜辺






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