ポール・アレクシ 「五人」

Paul Alexis, « Les Cinq », le 22 avril 1881



(*翻訳者 足立 和彦)

「五人」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1881年4月22日、『ジル・ブラース』紙(1面最後から2面)に掲載されたポール・アレクシの評論。一年前に刊行された『メダンの夕べ』の五人の共著者(セアール、モーパッサン、ユイスマンス、エニック、アレクシ)について語っている。
 エミール・ゾラ(1840-1902)は、1860年代から「自然主義」を唱道、『ルーゴン=マッカール叢書』をなす小説を精力的に発表し続け、『居酒屋』(1877)や『ナナ』(1880)で成功を収める。1880年、彼のもとに集った青年たちと共同で短編集『メダンの夕べ』を刊行、自然主義流派の存在を印象づけると同時に、とりわけ「脂肪の塊」を掲載したギィ・ド・モーパッサンに小説家としての道を切り開いた。
 1881年4月11日、ゾラは『フィガロ』紙に「セアールとユイスマンス」と題する記事を発表。「メダニスト」のうちの二人、『美しい一日』(1881)を公刊したセアール、『所帯』(1881)を発表したユイスマンスについて語った。
 これに対し、批評家のオーレリヤン・ショールが「シューヤとブールー」と題する記事を『エヴェヌマン』紙(4月17日)に発表。ゾラの文章を模倣しながら、ゾラが自分の影響力を誇示している様を諷刺した。
 アレクシの一文はショールに対する反論として書かれたもので、五人の若者はゾラの「生徒」ではなく、ゾラとの関係は対等であり、各人が好きなように執筆しているのだと主張している。刊行から一年、『メダンの夕べ』に集った青年作家たちが、文壇からどのように見られていたのかを窺わせる記事となっている。末尾にアレクシは『メダンの演劇』の計画があると告げているが、実際にそのような作品集が刊行されることはない。
 なお、ゾラはこの後、7月11日の『フィガロ』に「アレクシとモーパッサン」を発表している。
 ポール・アレクシ(1847-1901)はエクス=アン=プロヴァンス出身。同郷のエミール・ゾラの最も忠実な友人であり、自然主義の擁護に努めた。短編集に『リュシー・ペルグランの最期』(1880)、『愛への欲求』(1885)、『プラトニックな恋』(1886)、『恋愛教育』(1890)、『三十の小説』(1895)。長編に『ムリヨ夫人』(1890)、『ヴァロブラ』(1901)。戯曲に『リュシー・ペルグランの最期』(翻案、1888)、『ザンガノ兄弟』(ゴンクールの翻案、1890)、『シャルル・ドマイ』(同、1892)などがある。また、ゾラの伝記『エミール・ゾラ 一友人の手記』(1882)を著している。加えて、ジャーナリストとして『国家の未来』、『クロッシュ』、『ジュルナル』、『レヴェイユ』、『民衆の叫び』などの多数の新聞・雑誌に寄稿した。


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五人


 最初、私はこの記事の題を「シューヤ、ブールー、カスナヴェ、ヴァン・デル・クイック、ジョルジュ・ピティヴィエ(1)」としたいと思った。
 だが植字工がそれでは長すぎると抗議した。そこで、実際的な人間、真の自然主義者である私は、植字工を尊重することにした。
 この威厳ある労働者は、私が言うことを聞いたのに気をよくして、別の助言をしてくれた。
「朝刊紙であなたの同僚のひとりが、あなたがた、セアール(2)、ユイスマンス(3)、エニック(4)、ギィ・ド・モーパッサン、それにポール・アレクシさんを滑稽にからかっていますよ! それで、これを最後に、彼が五人全員を巻き込んでいる滑稽な伝説ときっぱりけりをつけるための最良の手段は、真実を語ることです。事実を! ただ事実を! 本当の真実は決して公衆をうんざりさせません。そしてそれが、遅かれ早かれ、可愛らしいおしゃべりたちの口をつぐませることになるんです。」
 私たちの植字工はなんと優秀なことだろう!


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 そういった次第で、私たちの小グループがどのようにしてできたのかを以下にお話ししよう。
 私は、ああ! 五人のなかで一番年寄り、つまりユイスマンスよりも数週間ばかり年長なのだが――三十三歳だ――私は1869年からゾラを知っている――どんなふうに彼と知り合ったかは他所で語ったことがある。私はすぐに彼の家の子どもであるかのように仲良くなった。
 1876年、我が友はバティニョールのサン=ジョルジュ通り21番地(5)に住んでいた。ある日曜日、彼は午後をギュスターヴ・フロベール(6)宅――そこに毎日曜日、トゥルゲーネフ(7)、エドモン・ド・ゴンクール(8)、アルフォンス・ドーデ(9)、そして時々はテーヌ(10)、ルナン(11)、マクシム・デュ・カン(12)、モーリス・サンド(13)、ジョルジュ・プーシェ(14)、ラウル・デュヴァル(15)も来ていた――で過ごすために出かけるところだった。
 ゾラがすでに帽子をかぶっているところに、呼び鈴が鳴った。召使が知らない人物の名刺を差し出し、話したがっているという。それがアンリ・セアールだった。
 アンリ・セアールは堂々と家の主のほうへ進み出ると、彼のすべての書物を読み、とても力強いと思ったので会いに来たと、簡潔に語った。このような訪問に慣れていなかったので、ゾラはほとんど困惑しながら青年を迎え入れた。そして一時間後、フロベール宅で、彼は今しがたの訪問について語った。その時、フロベールはとても感動して、偉大にして善良なフロベールは叫んだのだった。
「結構じゃないか! それはとても親切なことだ……そういうのはいつでも嬉しいものだね。」


***

 何週間後かの日曜日、アンリ・セアールはまたサン=ジョルジュ通りにやって来て、呼び鈴を鳴らした。今度は友人のユイスマンスを伴っており、ユイスマンスはベルギーで出版されたばかりの『マルト』(16)を持参していた。二人とも『パリの胃袋』(17)を読んでゾラを発見したのだった。
 私の側では、レオン・エニックと知り合いになっていた。時折、五時頃に『文芸共和国』の「パルナス」の真ん中で彼に出会っていた。このカテュール・マンデス氏(18)の雑誌は、当時、『居酒屋』の第二部を掲載しており、そこに私は短編小説を持っていったのだった。少しして、キャピュシーヌ大通りでのエニックの『居酒屋』についての講演(19)――この講演はパルナス陣営に大きなスキャンダルを生んだ――の後、私はエニックをサン=ジョルジュ通りに連れてゆき、ゾラに紹介した。カテュール・マンデスを介して、カーニヴァルの夜に仮面舞踏会の入り口で、私はユイスマンスにも出会っていた。氷はすぐに溶けた。翌朝にはもう『マルト』を読んでいた! 翌日には、新しい友人に名の知られていない雑誌を二冊送った。そこに『リュシー・ペルグランの最期』(20)が掲載されていたのだ。数日後、ユイスマンスが、エニック、アンリ・セアールと一緒に夕食をとろうと自宅に呼んでくれた。次の週に、私はこの三人の新しい友人にギィ・ド・モーパッサンを紹介した。彼とは、フロベール宅に出かけるようになった一年前から関係があった。その時から、私たちは五人になった! 私たちの小グループは破壊できないほど強固にできあがった。ある木曜日の晩、五人そろって列を作り、私たちはゾラ宅へ赴いた。それ以来、毎木曜の晩、私たちはそこへ出かけたのである。


***

 さて、ゾラ宅において、私たちの本当の態度はどのようなものだろうか? 私がこのような細部にまでこだわるのは、これを最後に馬鹿馬鹿しい伝説をお終いにすることが問題だからである。人々は悪意をもって我々を蔑視している。私の目の前には、私たちの同僚が我々に割いてくれた酷評の一部が置かれている。いやはや! 四年のあいだに結構な山となったものだ! そこには私たちに向けられた以下のような悪口が見られる。「奢った若者たち――文学の屑――平凡な模倣者――無能な追従者――まったく無能――師の栄光の塵払い、等々」――たくさんの見事な他の例は置いておこう。つまり私たちは乞食であり、貧乏人であるというわけだ! ゾラが我々を養っている! 私たちは『ビデ』、『おまる』、『尿瓶』といった作品を準備している! 私たちは下水掃除人、不潔な者、文学における屎尿汲み取り人なのだ!
 このごみの放下車の前に、尊敬すべき人物、繊細で上品でパリジャンらしい精神の持ち主の名前を集めてみせたら、たくさんの人を驚かせることだろう。彼らは憎しみからこうした言葉を我々の頭上にぶちまけたのだった。だがどうして彼らに対してそんな悪戯をする必要があるだろうか? 彼らは私たちの存在を大衆に明かし、我々のデビュー作に注意を集め、我々の成功を準備してくれたのではないだろうか?――有用な敵に感謝しよう。


***

 真実は、私たちとゾラとの関係は弟子と師匠の関係ではなく、五人のあいだにある仲のよさ、情愛に満ちた連帯と変わらない――まったく変わらないのである!
 反対に、私が信じるところでは、私たちの一人ひとりは他の者たちよりもゾラといるほうがくつろげるし、より自由に彼に打ち明け話をすることができるだろう。
 彼が自習監督? 「閑職の」高等師範学校卒業生?――とんでもない!――親分?――なおさら違っている。
 ブーローニュ通りの住居(21)――そこでは読書はしない――頭に浮かんだことを話す――しばしば各人が異なった意見を持っている――あの大きな書斎で私たちがとてもよい晩を過ごし、時には笑い転げる――そんな場所を人は本当に、開かれていたり閉じられていたりする礼拝堂だと思うのだろうか? では、人は私たちについてどのような考えを抱いているのだろうか? こんなことを言う必要があるか分からないが、私たちは一人ひとり、好きなように考え、書いており、はみにも端綱にも従ってはいない。芸術は繋ぎとめておくことのできないものだ。自然主義も、首輪ではないのである。
 我々は解放され、皆が「自然の生徒」を名乗っているこんにちにおいて、この「師」という語は何を意味するのだろうか?――「師」の語は、年輩者に手紙を書く際にはまだ文頭に置かれる。それは礼儀であって、何の義務も負わせはしない。だがゾラは祖父ではない。メダンを相互学校の石畳の校庭とでもお思いなのだろうか? そうであれば、『メダンの夕べ』はどうして芽生えられただろうか? ただ「師」一人が、シューヤ、トゥールー(22)、カスナヴェ、ヴァン・デル・クイック、ピティヴィエそれぞれと関わり合いになったとでもいうのだろうか? だがあの当時、「モノクリアン・トルトニル(23)」は我々と一緒に何かを計画しえただろうか――ただ『ルソー』という本でも?


***

 さあさあ、落ち着こう!――あるいは植字工よ、気をつけてくれたまえ。――むしろ締めくくりに、まったく未公表のニュースをお伝えしよう。
 共同での見事な成功に勇気づけられた『メダンの夕べ』の六人の著者は、今から一年後に『メダンの演劇』を一緒に発表するだろう。短い六編の戯曲は、大胆だが上演可能なものである。カスナヴェの作品は『運送屋』という題で、ジョルジュ・ピティヴィエの作品は『死んだネズミに』だろう。六編の前には一行の序文が置かれるが、それをここで初公開しよう。
「これは未来の演劇である。」
 そして驚くべきことに、私たちは英雄を見つけたのだ。ある大劇場の支配人が、六編全部を上演すると約束したのである。一度の上演で行うか、二回に分けるかは、作品の長さ次第となろう。私はとても真面目にお話ししている。全員が契約書にサインしたばかりであり、違約金も発生する。この支配人は誰だろうか?――ああ! それについてはお伝えできない。お望みが過ぎるというものだろう……。一年後だ、モノクリアン・トルトニルよ!

ポール・アレクシ


ポール・アレクシ「五人」、『ジル・ブラース』、1881年4月22日付
Paul Alexis, « Les Cinq », Gil Blas, 22 avril 1881.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)


訳注
(1) Chuya, Boulou, Cassenavet, Van der Cuick et Georges Pithiviers:「シューヤとブールー」(『エヴェヌマン』、1881年4月17日)において、オーレリヤン・ショールはユイスマンス、セアール、モーパッサン、エニック、アレクシをこの偽名で呼んでいる。オーレリヤン・ショール(Aurélien Scholl, 1833-1902)はボルドー出身。1851年パリ上京後、複数の新聞に寄稿する。1863年には『フィガロ』紙に対抗して『ナン・ジョーヌ』を創刊(-1876)。『ヴォルテール』、『エコー・ド・パリ』の主筆を勤めた。戯曲や小説も執筆している。
(2) Henry Céard(1851-1924):小説家、劇作家、批評家。長いあいだゾラと近しかったが、1893年に離反する。長編小説に『美しい一日』(1881)、『海辺の売地』(1906)がある。戯曲に『ルネ・モープラン』(ゴンクール兄弟の翻案、1886)、『すべて名誉のために』(ゾラに基づく、1887)、『諦めた人たち』(1889)、『桃の実』(1890)。1918年よりアカデミー・ゴンクール会員。
(3) Joris-Karl Huysmans(1848-1907):小説家。自然主義から後に神秘主義に転じた。『マルト』(1876)、『ヴアタール姉妹』(1879)、『流れのままに』(1881)、『さかしま』(1884)、『仮泊』(1887)、『彼方』(1891)、『出発』(1895)、『大伽藍』(1898)、『修練士』(1903)。芸術評論に『現代芸術』(1883)、『ある人々』(1889)、『三人のプリミティフ画家』(1904)。1892年以降カトリックに転向。1900年よりアカデミー・ゴンクールの初代会長を務めた。
(4) Léon Hennique(1850-1935):小説家・劇作家。ゾラと親しく、後にはエドモン・ド・ゴンクールと近しくなった。短編集に『二つの小説』(1881)、『ブッフ』(1887)、長編に『献身的な女』(1878)、『エベール氏の災難』(1883)、『ある性格』(1889)、『ミニー・ブランドン』(1899)。戯曲に『ジャック・ダムール』(ゾラの翻案、1887)のほか、歴史劇『エステル・ブランデス』(1887)、『アンギャン公の死』(1888)、パントマイム『懐疑的なピエロ』(ユイスマンスと共作、1881)も著した。1900年よりアカデミー・ゴンクール会員。1907-1912年には会長を務めている。
(5) rue Saint-Georges:サン=ジョルジュ通りは1867年に rue des Apennins アペナン通りに改名された。ゾラはここに1874-77年にかけて住んでいた。
(6) Gustave Flaubert(1821-1880):小説家。精密な考証を基に、推敲に推敲を重ねて小説を執筆した。『ボヴァリー夫人』(1857)、『感情教育』(1869)などの作品は後世に大きな影響を与える。他に『サラムボー』(1862)、『聖アントワーヌの誘惑』(1874)、『三つの物語』(1877)、『ブヴァールとペキュシェ』(未完、1881)。フロベールは1869年から75年までムリリョ通り4番地、75年から80年まではフォーブール・サン=トノレ通り240番地にアパルトマンを所持し、冬をそこで過ごしていた。
(7) Ivan Tourgueniev(1818-1883):ロシアの小説家。人道主義に立って社会問題を取りあげた。フランスに長期滞在し、フロベールと親しく、ゾラとも親交を結んだ。自然主義の作家たちのロシアでの紹介に貢献した。小説に『猟人日記』(1852)、『ルージン』(1856)、『はつ恋』(1860)、『父と子』(1862)、『けむり』(1867)、『処女地』(1877)。
(8) Edmond de Goncourt(1822-1896):批評家・小説家。弟ジュールと協力して『ジェルミニー・ラセルトゥー』(1865)などの作品を執筆。弟の死後は一人で創作を続けた。『娼婦エリザ』(1877)などによって、レアリスム文学の代表の一人と位置づけられる。『ザンガノ兄弟』(1879)、『フォスタン』(1882)、『愛しい人』(1884)。美術収集家として日本美術に詳しく、また長年記した『日記』でも名高い。
(9) Alphonse Daudet(1840-1897):南仏出身の小説家。短編集『風車小屋だより』(1869)で文名を確立。風俗小説を数多く著わした。『陽気なタルタラン』(1872)のシリーズなどが名高い。長編小説に『若いフロモンと兄リスレル』(1874)、『ジャック』(1876)、『ナバブ』(1877)、『亡命の諸王』(1879)、『ニュマ・ルメスタン』(1881)、『福音伝道師』(1883)、『サフォー』(1884)、『不滅の人』(1888)、『小教区』(1895)、『大黒柱』(1898)。
(10) Hippolyte Taine(1828-1893):思想家、歴史家。実証哲学を継承し、科学的手法を文芸研究に取り入れた。『英国文学史』(1864-1869)、『知性について』(1870)、『芸術哲学』(1882)、『現代フランスの起源』(1875-1893)。1878年、アカデミー・フランセーズ入会。
(11) Ernest Renan(1823-1892):哲学者、歴史家。『キリスト教起源史』(7巻、1863-1881)の第1巻『イエス伝』(1863)においてイエスの生涯を実証的に記述し、スキャンダルを巻き起こした。1878年、アカデミー・フランセーズ入会。その他の著作に『フランスの知的道徳的改革』(1871)、『思い出』(1883)など。
(12) Maxime Du Camp(1822-1894):作家、写真家。1851年、『パリ評論』創刊者の一人。1880年にアカデミー・フランセーズ入会。創作に『自殺者の回想録』(1853)、詩集『現代の歌』(1855)、『失われた力』(1867)など。旅行記に『東洋の思い出と光景』(1848)、『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア』(1852)など。歴史書に『パリ、その起源、機能、生命』(6巻、1869-1875)、『パリの痙攣』(4巻、1878)。回想録に『文学の思い出』(2巻、1882-1883)などがある。
(13) Maurice Sand(1823-1889):作家・画家。ジョルジュ・サンドの息子。コメディア・デラルテに関する研究『仮面と道化(イタリアの喜劇)』(1860)で知られるほか、ジョルジュ・サンドの作品集の挿絵を手掛けた。また『カリロエ』(1863)などの空想・科学小説も著した。
(14) Georges Pouchet(1833-1894):比較解剖学者。パリの自然史博物館で1879年より比較解剖学の講座を担当した。人類学の多元説を最初に唱えた者の一人。『人種の多数性について』(1858)。
(15) Edgar Raoul-Duval(1832-1887):司法官・政治家。
(16) Marthe, histoire d’une fille (Bruxelles, Jean Gay, 1876):『マルト ある娼婦の物語』は、1876年、ブリュッセルのジャン・ゲー書店より刊行された。
(17) Le Ventre de Paris (Charpentier, 1873):『パリの胃袋』は『ルーゴン=マッカール叢書』の第3巻。1873年にシャルパンティエ書店より刊行。パリの中央市場を舞台としている。
(18) Catulle Mendès(1841-1909):詩人、小説家、劇作家。1860年、『ルヴュ・ファンテジスト』を創刊し、パルナス派の詩人として出発。詩集に『フィロメラ』(1863)等。オペラ『グゥエンドリン』(1886、エマニュエル・シャブリエが音楽)、『イゾリーヌ』(1888、アンドレ・メサジェが音楽)でも成功を博した。ワグナーを擁護したことでも有名。1866年、ジュディット・ゴーティエ(1845-1917)と結婚。後に離婚。『文芸共和国』は1875-77年にかけてマンデスが編集した雑誌。
(19) エニックの講演は、1877年1月23日に、キャプシーヌ大通り39番地の会場で行われた。1月30日の『ゴーロワ』紙の記事「パリの一週間」(Spactator署名)によれば、エニックはゾラの『居酒屋』はユゴーの『九十三年』(1874)よりも優れていると主張し、パルナシアンたちを驚かせたという。
(20) La Fin de Lucie Pellegrin, Charpentier, 1880. 『リュシー・ペルグランの最期』(シャルパンティエ書店、1880年)は短編集。「リュシー・ペルグランの最期」、「フラク氏の不幸」、「ルフェーヴル神父の女たち」、「ミュール氏の日記」の4編からなる。
(21) rue de Boulogne:1886年にrue Ballu「バリュ通り」に改名。1877年4月に、ゾラはこの通りの23番地に転居した。
(22) Toulou:記事冒頭ではブールーBoulouとなっていた。植字工の間違いか?
(23) Monoclien Tortonill:Aurélien Schollオーレリヤン・ショールについてのほのめかし。




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