ピエールとポール
『ギィ・ド・モーパッサン』
Pierre et Paul, Guy de Maupassant, 1885
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1885年、雑誌『今日の人びと』第246号 Les Hommes d'aujourd'hui, no 246 に掲載された、モーパッサンに関する評伝。
『今日の人びと』は、1878-1883年までサンカルブル書店が発行した後、1885年からヴァニエ書店が引き継いだ雑誌であり、各号1人の著名人を紹介するものだった。
本号の表紙の挿絵はコル=トックColl-Toc(Collignon と Tocqueville 2人の筆名)による。バルザックとフロベールの著作にまたがったモーパッサンが、両腕に多数の自作を抱えて旺盛な創作力を誇示している。
一方、本文末尾の署名は「ピエールとポール」となっている。実際にモーパッサンについての記事を書いたのは出版人レオン・ヴァニエ、または作家フェリシアン・シャンソールであると考えられている(シャンソールの評論集『殺戮』Le Massacre, Dentu, 1885 所収の「ギィ・ド・モーパッサン」, p. 7-14 には、『今日の人びと』と一部重複が見られる)。
フェリシアン・シャンソール Félicien Champsaur (1858-1934) は早くからジャーナリズムの世界で活動した。1878年には彼と挿絵画家アンドレ・ジルが中心となって『今日の人びと』を創刊。また、1879年『現代自然主義誌』Revue moderne et naturaliste 11月号紙上にモーパッサンの詩編「水辺にて」を掲載したのはシャンソールだったようで、この頃より2人の交流が始まっている。
著名人を諷刺画付きで紹介するこうした刊行物は当時の流行と呼べるものだった。記事の中ではプライヴェートな情報も含めて著者を紹介した上で、この時までに刊行された著作に言及している。成功著しく、デビューして数年で有名となったモーパッサンの才能を高く認めながらも、特に長編小説の評価には若干の留保が見られるようである。『ベラミ』刊行頃のモーパッサンが文壇でどのように見られていたかを垣間見させる資料となっている。
なお、コル=トック画「ギ・ド・モーパッサン」は、鹿島茂、『60戯画 世紀末パリ人物図鑑』、中公文庫、2005年、p. 12-14. に紹介されている。『今日の人びと』に関しては次の論文に詳しい。
倉方健作、「『今日のびと』(1878-1899) ヴェルレーヌによる評伝とマラルメ像を中心に」、『仏語仏文学研究』、東京大学仏語仏文学研究会、第44号、2011年、p. 89-110.
そして、『今日の人びと』全号のカリカチュアが解説とともに出版された。
鹿島茂・倉方健作、『カリカチュアでよむ19世紀末フランス人物事典』、白水社、2013年(ギ・ド・モーパッサンは p. 258)。
***** ***** ***** *****
フランス人の文学者、1850年8月5日、ミロメニル城館(下セーヌ県)に生まれる。イヴトーの神学校で学業の一部を修めるが、過度に不謹慎な詩作と、あまり正統ならざる意見が理由で放校となる。
次いでルーアン高校に入学、この時期にルイ・ブイエ、ギュスターヴ・フロベールと知り合う。二人もともにノルマンディー出身であった。程なくしてギュスターヴ・フロベールと昵懇の仲となり、週に何度も訪問し、彼の最良の生徒であり続けた。
この師との親しい関係の中で精神と観察力を鍛え、最初の詩作品や、最初の散文による習作を師に提出した。フロベールはこの若い友人にそれらの習作をすべて焼いてしまうように助言し、モーパッサンは火にくべたのであった(1)。
すべて青年作家は、己が利益のため、また芸術にとっての利益のためにも、この犠牲に同意すべきであるだろうし、また次のことを理解するべきだろう。すなわち、最初から傑作を仕上げるというのはとても稀なことであり、かように性急な最初の作品は常に不完全であって、それは一種の水疱瘡のようなものなのだから放擲すべきなのだし、そこから引き出すべき利益があるとすれば、次にはより良く成すべき習練だけだということである。コペとモーパッサンは賢明にもそのように振舞ったし、強い意志を持つ者はそうすべきなのである。戦後、モーパッサンは6年間海軍省に勤め、次いで2年間、文部省においてバルドゥー大臣の秘書の役を果たした。
こんにちでは、作品によって一切のお役所仕事から解放され、彼は一身を文学に捧げており、新人たちの中で第一級の地位を占めているのである。
***
作品の分析に移る前に、次のことも述べておこう。気候の良い間、彼はエトルタの近くのギエット荘(2)に暮らしている。彼が自ら建てた小さな住まいで、毎年増築を進めている。
パリではモンシャナン通り(3)に住み、彼のアパルトマンは夕方5時までは閉じられている。彼は明け方から仕事をするのである。
わずらわしい訪問は一切受け付けない。門番は厳命を受けている。毎朝、若き大家は、勤め人の規則正しさで机の前に座る。この方式はエミール・ゾラと同じものであるが、ゾラは自分の文学仲間の内に『女の一生』の著者を数えている。
ギィ・ド・モーパッサンは大のボート好きである。この点に関してマラルメがある時語ったところによれば、『居酒屋』の著者の住む、ポワッシーの向こうの小村メダンにあるゾラ宅に昼食に招かれた際、彼は自分のボートで出かけることにした。しかし時間の計算を誤り、セーヌの気まぐれな蛇行に裏切られたせいで、メダンに着いたのは夜中だったので、スープを一杯頂くと、すぐにまた去って行ったのだという。
***
身体的には、モーパッサンはむしろ小柄でがっしりとしていて、顔はノルマンディー人らしくいくらか色づき、しっかりとした褐色の口髭、目は小さく油断なく、青年らしく力づよい肩をしている。彼はとても友好的で大変に感じがよく、書店主の一人の語ったところによると、契約を結ぶ手並みは大家のものとして通っている。弁護士の繊細さに、ノルマンディーの古狐並みの計略を合わせ持っているというのだ。懐疑主義故に人生を醜いものとして眺め、ある種の司法官同様に、人間の内にならず者しか見ず、それにしか関心を寄せない傾向にある。
人間嫌いで悲観主義的なこうした精神的傾向を、彼は二人の偉大な作家にして彼の師でもあるバルザックとフロベールから受け継いだのか、あるいはその源は天性の素質にこそ認めるべきなのだろうか? もしそうであるのなら、そのことは残念に思われもするだろう。
***
彼のように才能に恵まれた作家であれば、何をなしえないことがあろうか。彼ならば、あの力強い観察力、あの繊細な精神、あの堅固で確かな奥行きに富む文体に、陽気さと上品なからかいとに満ちた皮肉を結びつけもしようし、社会の滑稽な面を見ることが出来るし、見ることを望みもするだろう。それでも、ラビッシュ劇に登場する、大変面白く、真実に富み、実によく観察された「ペリション(4)」たちに欠けはしないのである。
すでに、いくつかの良きユーモア溢れる面白い短編小説、機知と文体との宝石の中において、この作家も笑うことができるのだということが感じ取れる。私が心配に思うのは、彼がこの楽しませるという役どころを軽視し、常に喜劇よりもドラマを上に見ているのではないかということだ。
以下、この若くしてすでに有名となった作家によって刊行された著作である。
『脂肪の塊』はゾラの友人たちによる共作短編集『メダンの夕べ』(シャルパンティエ書店)に掲載された小説である。この小説は多少刺激の強いものだが、繊細な観察に基づき、実に芸術的に書かれていて、エミール・ゾラの『水車小屋の攻防』と合わせて、作品集の中で最も有名なものであり、文学的名声を確立するに十分なものだった。
『メゾン・テリエ』と『マドモワゼル・フィフィ』(アヴァール書店)は短編集で、中の一番重要な作品をタイトルにしている。娼婦たちについての研究であり、作家の才能と、前者の滑稽な面や後者の劇的な緊張とにもかかわらず、この作家は下卑た情景の内にしか喜びを見出さないのだと信じさせるようなものだった。
私の記憶では、アルベール・ヴォルフが、お望み次第、ドゥタイユ(5)やヴォルムス(6)、ヴィベール(7)といったああした画家たちの一人と比較していたと思う(8)。優れた小品をものにし、絶えずそれを繰り返してはいるが、大きな画布や一定の規模の作品を前にしては無力な画家たちである。
『女の一生』が遂に登場した。この度は長編小説である。もちろんのように常に同じ品質の文体と観察とがあった。研究の対象は同じではなかったが、しかしながらこの書物は「鉄道文庫」にはふさわしくないと判断されたのだった。確か、この禁止に際して、この独占に対する質疑が議会で成されたはずである(9)。恐らく、確かに何か所かで大胆な表現の見られるこの書物は、著者の最初の小説を基準に、同じように厳しく判断されたのであろう。
にもかかわらず、この書については大変な評判が持ちあがった。それは、ようやく最初の長編を著したこの著者の人となりと、同時にいくらかはこの禁止とが理由となったものだろう。
とはいえそこにはいくらかの失望の念が見られた。公衆とは不公正なものなのか、あるいは以前の甘美な短編小説の数々故に、我が儘となっていたのだろうか。
次の長編小説『ベラミ』も、好奇心を掻き立て大きな成功を収めたが、これもまだ期待された傑作とは言えなかった。野心的なジャーナリストが、女性を利用して成り上がり、良心の一切を投げ捨てる姿を悲観的に描き出している。
以下、この小説に関して、ある新聞の述べた言葉である。
「『ベラミ』と題された新刊は、明らかな才能と哀しむべき懐疑主義に満ち溢れているのだが、これによってギィ・ド・モーパッサン氏は若い小説家たちに進むべき方向を示すことだろう。彼自身は彼らよりも頭一つ抜き出ているのである。この皮肉に富み世を見下すような書物は、悲観主義的小説の典型である。おそらく、彼は模倣者たちを活気づけることだろう。現代生活の卑小なる中傷者たち、彼らの病的な「研究」とやらはますます読者に怖れられている。
ギィ・ド・モーパッサン氏は、少なくともあえて人を誤らせるようなことをするべきではないのだ。彼は倒錯した本能の絶対的支配を、ほとんど一般的となった反世間的退廃を信じている。そして彼は全体的な誠実さをもってそれらを作品に描くのであり、彼の作品は実に不吉な魅力を備えているのだ(10)」
彼は同じ書店からさらに『太陽の下に』というアルジェリア旅行の回想録、および『ミス・ハリエット』を出版している。後者のタイトルは、この小説集の中心たる大変に詩的な作品のものである。『イヴェット』も大いに注目に値する小説であり、これ以上に堅固で巧みな腕前で下劣な情景を描いてみせることはできまい。多くの者がそれに失敗したことだろう。この作品集も、先のものと同様に短編小説のブーケであり、その中の中心的な作品をタイトルにしている。
彼はさらにモニエ書店から『月光』を出版している。また別の1ダースの短編からなる小説集、大型八つ折のイラスト入り豪華版であり、中には真の文学的宝石が含まれ、恐らく著者の最良の小説集であろう。
次いでルヴェイール書店からは『山鴫物語』。この漠然としたタイトルを持つ作品集の中に、面白い作品『モランの豚野郎!』があり、確か次の作品も含まれている。ノルマンディーの農夫が、終身年金を出すのと引き換えにある老婆の財産を入手するのだが、この老婆には死ぬ気などない。取引は彼にとって不都合なものとなってゆくので、実に農民的な陰険さから、彼はこの哀れな老婆にブランデーの樽を贈って、彼女をアル中にしてしまう。彼女はその味を覚えてしまい、それというのも何と言ってもそれが無料だからであるが、それが原因で数カ月後には死んでしまうのである(11)。
そして作品集『ロンドリ姉妹』がオランドルフ書店から、『昼夜物語』がマルポンから出版されている。
目下、『パラン氏』が予告されている。これは新しい長編小説か、あるいはまた短編集なのだろうか?(12)
彼はまたいくつもの序文を執筆しており、その中の一つはジニスティ『三者の愛(13)』に与えられた大変に興味深いものである。そこで彼はこの下品な主題についての大変に斬新でまったく個人的な理論を発表している。
彼は一冊だけ詩集を出版した。この『詩集』を、彼は次のような言葉で師に献じている。
「ギュスターヴ・フロベール、我が愛情のすべてを注ぐ有名にして父の如き友人に。誰よりも敬愛する非の打ちどころない師に(14)」
***
以下、稿を閉じるにあたって、この作家の才能についての十分に正当な評価である。
「ギィ・ド・モーパッサン氏の才能は、驚くべき早さで成熟に達した。
まだ若くして、『女の一生』と『ベラミ』の著者は、最も困難な段階を既に乗り越えている。彼は名声を手にし、その成功には何ら偽りがない。最も正当な熱意を込めて彼の作品は読まれているが、それははっきりと現実主義的なものであり、どんな苦労の跡も留めていない。付け加えておくべきは、公衆の趣味を短編小説へと連れ戻した功績は彼のものであり、明確で、迅速に展開し、多くの場合に論理的結末を備えた小さなドラマを、短編の中に閉じ込めることに彼は秀でているのである(15)」
ピエールとポール
『今日の人びと』、246号、レオン・ヴァニエ書店、1885年。
Les Hommes d'aujourd'hui, no 246, Léon Vanier, 1885, p. 2-4.
訳注
(1) この一文は正しくない。1870年代にもモーパッサンは詩や短編小説を発表できる機会を逃さなかったし、フロベールが弟子を新聞社に紹介したこともあった。
(2) La Guillette. 1883年、エトルタにある母所有の地所を譲り受けて建設。
(3) Rue Monchanin. パリ17区、現在のrue Jacques-Bingen. この通りの10番地にモーパッサンは1884年から1889年まで居住していた。
(4) Eugène Labiche (1815-1888), Le Voyage de Monsieur Perrichon. 1860年9月10日、ジムナーズ座初演のヴォードヴィル劇。ペリション氏はブルジョアの典型として描かれている人物。
(5) Édouard Detaille (1848-1912). 戦場を題材とする歴史画に秀でていた。
(6) Jules Worms (1832-1924). 日常生活の情景を好んで描いた。
(7) Jean-Georges Vibert (1840-1902) アカデミックな流派に属する画家。劇作も手掛けた。
(8) « il est comme certains peintres, qui, ayant réussi une première fois avec une toile, la recommencent indéfiniment. » Albert Wolff, « Courrier de Paris », Le Figaro, 21 juillet 1882. 「彼には、一度一枚の絵で成功を収めると、際限なくそれを繰り返す画家たちのようなこところがある。」アルベール・ヴォルフ、「パリ通信」、『フィガロ』紙、1882年7月21日。
(9) アシェット社の独占する駅のキオスクでの販売において、『女の一生』が拒否されたのを受け、1883年4月30日、『フィガロ』紙に掲載の記事「アシェットの独占」« Le Monople Hachette » でモーパッサンは抗議を行った。
(10) 原典未詳。
(11) 短編「酒だる」« Le Petit Fût ». 実際には『ロンドリ姉妹』 Les Sœures Rondoli, Ollendorff, 1884 に収録。
(12) Monsieur Parent, Ollendorff, 1886 は短編集。
(13) Paul Ginisty, L'Amour à trois, Baillière, 1884.
(14) « A Gustave Flaubert, à l'illustre et paternel ami que j'aime de toute ma tendresse, à l'irréprochable maître que j'admire avant tous. » Des vers, Charpentier, 1880.
(15) 原典未詳。
なおこの稿の執筆にあたっては倉方健作氏のご厚意に深く感謝申し上げる。