モーパッサン
「イヴァン・トゥルゲーネフ」
« Ivan Tourgueneff », le 5 septembre 1883
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1883年9月5日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載されたトゥルゲーネフの追悼文。6日付『ジル・ブラース』 Gil Blas にやはり「イヴァン・トゥルゲーネフ」の題で、さらに10月7日付『ゴーロワ』にも、「幻想的なもの」 « Le Fantastique » と題する記事を載せ、都合三度、トゥルゲーネフについて語っている。なお今日、アルファベット表記(仏語)は Tourgueniev だが、当時は綴りに揺れがある。
フロベールの影響の大きさの陰に、このロシア作家のモーパッサンへの影響は等閑視されがちだが、追悼文に見られる愛情・敬慕の念からも、その存在の無視出来ないことが察せられる。とりわけ短編小説の技法に関して、トゥルゲーネフに負うところが大きかったように思われる。
「ただ人生を」の標語は、自然主義という(狭い)教義を越えたところにある、現代的レアリスムとしてのトゥルゲーネフ文学を示すが、同時にこの主張を、追悼文執筆者の文学観に照らし合わせることも可能であるだろう。
(1880年11月21日「「ニヒリズム」の語の発明者」も参照頂きたい。)
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フランスを祖国とした、ロシアの偉大な小説家、イヴァン・トゥルゲーネフが、一月にも渡る痛ましい苦しみの後に亡くなった。
彼は、今世紀における最も優れた作家の一人であり、同時に、あらゆる面で最も正直な、最も実直な、最も誠実な人間であり、我々の出会うことの出来る中で最も忠誠心溢れる者だった。謙虚さを、ほとんど忍従の域にまで押しやり、新聞紙上で語られるのを望まなかった。一度ならず、賞賛に溢れる記事によっても、まるで侮辱を受けたかのように傷つけられたのであったが、それというのも、文学作品以外のものが書かれることを認めていなかったのである。芸術作品の批評でさえ、まったくのおしゃべりに見え、彼の書物の一冊について触れる際、作者や、彼の人生についての個別の詳細をジャーナリストが挙げると、彼は一種、作家としての羞恥の交じった、紛れもない苛立ちを感じたのであり、彼にあっては、謙虚さは慎みのようであった。
この偉大な人物が亡くなった今日、数後を費やし、彼がいかなる者であったかを語ろう。
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私がイヴァン・トゥルゲーネフに初めて出会ったのは、ギュスターヴ・フロベールの家においてだった。
扉が開かれると、巨人が現れた。おとぎ話に語られるような銀髪の頭。長髪は白く、太い眉も白く、大きな口髭も白く、それはまさしく銀白で、輝き、反射に照らされていた。そして、この白さの内に、穏やかで善良な顔があって、少しばかり力強い輪郭を備えていた。まさしく「波を溢れさす」川の神、あるいは更に、永遠の父の顔であった。
身長が高く、幅広で、太っているのではないがどっしりとしていて、それでいてこの巨人の身振りは、子どものようで、内気で控えめだった。彼はとても穏やかな、少しばかり柔らかい声で話し、まるでぶ厚すぎる舌を動かすのが困難なようだった。しばしば、彼はためらい、自分の思考を表現するために正確なフランス語を探したが、いつでも驚くべき正確さでそれを見つけ出し、このちょっとしたためらいが、彼の言葉に特別な魅力を与えるのだった。
彼は魅力的に物語る術を知っていて、些細な事柄にも、芸術的な重要さ、面白い彩りを添えたのだが、精神の示す高い価値よりも、善良で、いつもびっくりしているように見える純情さの故にこそ、彼は人から愛された。それというのも、彼は信じられないほどに純情であったのだ。世界中を巡り、今世紀のあらゆる偉人に知られ、一人の人間が読むことの出来る一切を読み、ヨーロッパ中の言語を自分のものとして話した、この才能ある小説家がである。パリの中学生にとっても単純素朴に見える物ごとに、彼は驚き、仰天するのだった。
手に取ることの出来る現実は彼を傷つけるのだとも言えただろうが、それというのも、彼の精神は書かれた物事に対しては少しも驚かずにいながら、現実の些細な体験にも反発したからである。恐らく、極端なまでの廉直ぶり、本能的な懐広い善良さ故に、人間の性質の持つ、冷酷さ、悪徳、欺瞞に触れることに、一種の戦慄を覚えるのだった。一方、彼の知性は反対に、机の前で一人黙想する時、人生を理解させ、その恥ずかしむべき秘密にまで通暁させた。ちょうど窓から、通りの上の、自分の関与しない出来事を眺めるように。
彼は過剰なまでに、素朴で、善良で、まっすぐであり、誰よりも慇懃で、めったにないほど忠誠心に篤く、過去の、現在の友人達に忠実であった。
彼の文学に関する意見には、ある意義と射程とが含まれるが、我々皆がするようには、制限的で特殊な視点から判断するようなことがなかっただけに、一層考慮に値するものである。そうではなく、彼は、知悉した世界中の民族の文学を比較し、そうすることで自らの観察領域を広げ、世界の両端から生まれた、異なった言語で書かれた二冊の書物を結びつけもしたのである。
年齢、既に頂点を極めたかの経歴にも関わらず、彼は文学について最も現代的、最も進んだ思想を抱き、筋を持ち、劇的で巧みな構成を備えているような、古い小説のあらゆる形式を拒絶し、「人生を」、ただ人生を創り出すことを要求した――筋もなければ、大げさな波乱もない、「人生の諸断面」をである。
彼は言ったものだ。「小説」とは、文学技法において最も新しい形式である。小説は、最初は自ら用いた「妖精譚の技法」から、今日ほとんど解放されるに至った。ある種のロマネスクな魅力、純朴なイマジネーションによって、かつては人を魅了したものだった。だが趣味が純化された今日、そうした劣った手段は全て拒否し、この芸術を、単純化し、高めなければならない。この芸術は、人生の芸術であり、人生の物語とならなければならないのだ。
「気をそそるジャンル」に属するある書物の、大変な売り上げについて誰かが語った時には、彼は答えた。
―― 一般的な精神を持った人間は、繊細な精神を授けられた者よりも遥かに数が多いのです。全ては、あなたが言葉を向ける相手の、知性の階級によります。大衆に受け入れられる書物は、ほとんどいつでも、我々の気に入るものではありません。それに、もしその本が大衆にも、我々にも受け入れられるとしても、全く相反する理由によるのだということを確信なさるといい。しっかりとした観察能力を所持した彼は、それが日の目を見る遥か以前に、ロシアにおける革命の萌芽が熱を帯びているのに気づいた。この精神の新しいあり方を、有名な書、『父と子』において確認したのであった。動揺する庶民の群集の中に見出したばかりの、新しい一派を「ニヒリスト」と呼んだ。博物学者が、その存在を確認した未知の動物に命名するようにである。
この小説の周囲に大きな騒ぎが持ち上がった。ある者はからかい、ある者は憤慨した。作家が告げ知らせたものを、誰も信じたがらなかった。生まれたばかりの党派に対して、ニヒリストの呼称は残りつづけ、やがてその存在が否定されることはなくなった。
それ以来、トゥルゲーネフは、芸術家としての中立なる情熱をもって、自らが予感し、認識し、暴き出した、革命的な教義の歩みと進展を追い続けた。
どんな党派にも属さない故に、しばしば両方から攻撃を受けながら、記述し、観察することだけで良しとして、次々に『煙』『処女地』を出版したが、それらの書物は最も率直な仕方でニヒリスト達の諸段階を、この混乱した精神の力と弱みを、失墜と発展との原因を示した。
ロシアに帰る度に、自由主義的な若者達から熱愛され、喝采をもって迎えられるとともに、権力側から恐れられ、極派の者からは幾らか疑われたが、皆から賞賛された。トゥルゲーネフはしかしながら快く故国に帰ることがなかったが、それでも熱烈に愛していたのである。その故は、『猟人日記』を出版した後、牢獄に入れられた記憶を忘れなかったことにあった。
この大変に偉大な人物の作品を分析する暇はない。彼の作品はロシア文学の最も高い精髄の一つとして残ることだろう。彼は残るだろう――友人にして熱烈に賞賛した詩人プーシキン、詩人レールモントフ、小説家ゴーゴリと並んで――ロシアが最も大きな、永遠の感謝を捧げるべき人物の一人として。何故なら、彼はこの民族に、不滅にして計り知れないものを与えたであろうからだ。一個の芸術、忘れられない作品、それはどんな栄光よりも貴重で不滅の栄光である! 彼のような人物は、ビスマルク公のような人物以上のことを、祖国に対して成したのである。彼等は世界中の、優れた精神の持ち主に愛されよう。
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彼はフランスにおいて、ギュスターヴ・フロベール、エドモン・ド・ゴンクール、ヴィクトール・ユゴー、エミール・ゾラ、アルフォンス・ドーデ、今日有名な芸術家皆の友人であった。
彼は音楽、絵画を熱愛し、芸術的雰囲気の中で暮らし、芸術のもたらす、どんな微細な印象、どんな漠然とした感覚にも心震わせ、絶えず繊細かつ希少な、この種の喜びを求めていた。
どんな魂もこれ以上開かれて、繊細で、染み透るようなものはない。どんな才能も、どんな心も、これ以上に誠実で、寛大であることはないのである。
『ゴーロワ』紙、1883年9月5日付