モーパッサン 「彼方へ」
« Par-delà », le 10 juin 1884
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1884年6月10日、日刊紙『ジル・ブラース』 Gil Blas に掲載されたユイスマンス『さかしま』 À rebours の紹介記事。ギィ・ド・モーパッサンの署名。ユイスマンス宛書簡347信に言及されている。
モーパッサンと同じく『メダンの夕べ』寄稿者であったJ・K・ユイスマンス(1848-1907)は、やがて自然主義を離脱し、神秘主義へと向かう。モーパッサンとは友好的関係を保ち続けたが、文学的傾向は大きく異なることになる。
前半に語られる、激しい現世への幻滅と嫌悪の吐露は、後に旅行記『水の上』にも収録され、モーパッサンの悲観主義の表明として有名なものである。
今日、マラルメ、ルドンをはじめ、象徴主義を世に広く認知させたことで有名な『さかしま』であるが、モーパッサンはデ・ゼッサントを「神経症者」と捉え、これを語る口調には幾らか皮肉を交えているようである。また、もっぱら感覚の倒錯についてだけ語っており、象徴主義芸術については触れていない。
とはいえ、現実世界への幻滅という点において、そして洗練された趣味・感覚への嗜好という点で、レアリスト、モーパッサンと象徴主義とは確かに接点を持つように思われる。この時期以降、単純な人物を描く短編から、現代人の心理を描く長編へと比重を移してゆくが、そこにおいてモーパッサンもまた、独自の芸術至上主義を表明してゆくのである。
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彼方へ
彼方へ
人生が満足を与えてくれる者、楽しみ、充足を感じている者は幸いなるかな。
すべてを愛し、すべてに魅せられる者たちがいる。その者たちは、太陽や雨を、雪や霧を、祭りや自宅の静寂を、目にする一切を、成すこと全部、口にする言葉すべてを、耳にする何もかもを愛する。
ある者は、子どもたちに囲まれて、甘く、静かで、満足に満ちた生活を過ごす。ある者は、快楽と気晴らしに掻き立てられた生活を送る。
どちらの者も憂鬱に陥ることはない。
彼らにとって人生は、自らが演じる一種の楽しげな見世物であり、心地よく、変化に富んだもので、余りに驚かされることはないが、うっとりとさせられるものなのである。
しかし、別の者は、思想の閃光によって、ありうべき快楽の狭い領野を見渡し、幸福という虚無、地上の喜びの単調さと貧しさを前に呆然とする。
三十に達するや、彼らにとってはすべてが終ってしまう。待つべき何があるだろう? 何物ももう気を晴らしてはくれない。貧弱な快楽をすべて味わい尽くしてしまったのだ。
常に同じように繰り返される行為に対して、忌まわしい嫌悪を覚えない者は幸福である。毎日、同じ仕事を、同じ身振りで、同じ家具に囲まれ、同じ地平を前に、同じ空の下で再開し、同じ通りに出て、同じ人物、同じ動物に出会う、そういった力を備えた者は幸いだ。深い嫌悪を抱いて、何も変わらない、何も起こらず、すべてはうんざりさせるということに、気づかない者は幸いだ。今あるもので満足するためには、動きの遅く、狭隘で、要求の少ない精神を持たねばならないのだろうか。どうして、世の公衆は、まだ「幕を!」と叫んだこともなければ、人間以外の存在、別の形態、別の祝祭、異なった植物、異なった星々、違った発明、別種の出来事から成り立つ、次の幕を要求したことがないのだろうか。
本当に、誰もまだ、いつも同じような人間の顔への嫌悪、通りをうろつく犬への嫌悪、とりわけ馬、四本の竿の上に立ち、その足先が茸に似た、あのおぞましい動物に対する嫌悪を、感じてはいないという訳である。
ある存在の造形を判断するためには、正面から見なければいけない。正面から馬をご覧あれ、あの不恰好な頭、怪物のような頭が、二本の細く、節くれだってグロテスクな脚の上に乗っている! 黄色い箱馬車を引く時、この恐ろしい動物は、悪夢の映像さながらになる。生きていながら動きのない、これらのものを目にしないで済ますためにどこへ行けばいいのだろうか、いつも、いつも、我々が行っていることを繰り返さないためには、もはや話しもせず、考えないためには?
***
本当に、我々はわずかなもので我慢している。陽気になったり、満足したりすることが可能なものだろうか? 一体、新しいもの、未知なるものへの、身悶えするような欲望にさいなまされることがないものだろうか?
我々は何を成すのか? 我らの満足は何に限定されているのか? とりわけ女たちを見てみよう。彼女たちの思考が最大限に活動するのは、自分の体を包み隠す布地の、色合いや襞を組み合わせ、欲望をそそらせようとすることにある。なんという惨めさ!
彼女たちは愛を夢見る。一人の男の目の奥を見つめながら、いつも同じ言葉を囁くこと。それがすべてだ。なんという惨めさ!
そして我々は、何をするのだろうか? 我々の快楽とはどんなものか?
駆ける馬の上にまっすぐ身を起こし、障害物を越えさせ、膝を締め付けることで何らかの動作をさせることができるのが、心地よいのであろうか?
手に銃を抱え、森や野を駆け巡り、目の前を逃げ去るあらゆる動物を、血の雨を降らせて空から落ちる鶉を、人が撫でるのを好み、子どものように泣く優しい目をしたノロジカを、殺すことが心地よいのだろうか? 別の男を相手に、決められた規則に従って、色のついたカードを交換し合って、金を得たり、失ったりするのが心地よいのだろうか? 人はこうした遊びに幾晩も過ごし、常軌を逸してそれを愛している!
腕に女性を抱いて、拍子を合わせて飛び跳ね、調子よく回ってみせるのが心地よいのか? その女性を愛している時には、髪に、あるいは服の端にさえ唇を押し当てるのが心地よいのか。
これが我々の大いなる喜びのすべてである! なんという惨めさ!
***
別の者は芸術を、「思想」を愛する! まるで人間の思想に変化があるとでも?
絵画とは、色合いでもって単調な風景を再現しては、決して自然に似ることがないか、人間を、いつでも人間を描き、決して成功することはないのに、生きているような様子を与えようとすることだ。そんな風に、何年もの間、存在するものを模倣することに空しくむきになるものだ。そして、人生における行動の、動きも音もない複製を作ることで、鍛錬された目に対して、何をなそうとしたのか分からせることさえほとんどできないのである。
どうしてこんな努力を? どううしてこんな空しい模倣を?
それ自体とても悲しげなものを、どうして平凡に再現するのか? 惨めさ!
詩人は、画家がニュアンスでなそうとすることを、言葉で試みるのか? いつでもどうして?
最も巧みで、最も創意に富んだものを四冊も読めば、もう別のを開くのは無駄である。それ以上、何も知ることなどない。この者たちもまた、人間を真似することしか出来ない! 彼らは不毛な労働に消尽する。なぜなら、人間は変わらず、役に立たない彼らの芸術も変化しないからである。我々の短絡的な思考が動き出すようになって以来、人間はいつも同じである。感情も、信仰も、感覚も同じであり、人間は少しも進歩しなかったし、後退することもなく、動きさえしなかった。私が何者であるかを学び、自分の考えることを読み、小説中の平凡な出来事の中に自分の姿を眺めることが、何の役に立つのだろうか?
ああ! もし詩人が空間を横切り、星々を探索し、別の世界、別の存在を発見し、私の精神に対して絶えず、事物の性質や形態を変化させ、変化し、驚くべき未知の中に絶えず私を歩ませ、謎めいた扉を開き、予想もしなかった、素晴らしい地平に誘ってくれるのであったなら、昼夜を問わず、読みふけることだろう。だが彼ら、この非力なる者たちには、言葉の配置を変えては、画家のように、私自身の像を見せることしかできない。それが何だろう? 人間の思考は不動のものであるのだから。
明確で、すぐ近くにあり、越えることの出来ない限界に一度ぶつかるや、思考はまるでサーカスの馬のように、瓶に閉じ込められた蝿のように回転し、その中を飛び回っては、いつでもぶつかってばかりいる。我々は我々自身の内に閉じ込められ、我々の外に出ることが出来ず、我々の夢の砲弾を、撃ち放つこともなく引きずるよう、余儀なくされている。
我らが脳の努力の成果は、滑稽なほど不完全な手段によって些細な事実を確認することであって、とはいえ、その手段は、肉体の器官の無能力を幾らか補ってはいる。二十年毎に、苦労して亡くなる惨めな研究者が、空気中に未知のガスが含まれていることを、ラシャの上に蝋を擦ることで、計量不可能で、説明出来ず、形容しがたい力を取り出せることを、省みられることない無数の星の中に、別の角度から見てすぐ近くにある、まだ誰も見つけたことがなく、ずっと命名されていなかっった星があることを発見する。それが何になるのか?
我々の病気は細菌によるのか? 大変結構。だが細菌はどこからやって来るのか? そしてこの目に見えない者自身の病気は? そして太陽は、どこからやって来るのか?
我々は何も知らず、何も目にしておらず、何もできず、何も見抜くことがなく、何も想像出来ず、我々自身の内に閉じ込められ、幽閉されている。それなのに人々は、人間の天才に目を見張っている!
我々の記憶力は、学者によってなされ、書物に記された、混乱して惨めな観察記録、千の内十も覚えておくことができない。我々は、自らの非力と無能力を確認するのでさえ、その術を知らない。なぜなら、人間同士を比較することしかできないので、一般的で決定的な、その無能力を正しく計れないのである。
治癒の手段も存在しない。ある者は旅をする。人間と植物と動物以外のものを見ることは決してない。
遠くへ行きたいと望むことで、すべてがいかに近く、短く、空疎であるかを知ることになる。――未知なるものを探すことで、すべてが平凡ですぐに終ってしうまうということを知る。――地上を経巡ることで、それがなんと小さく、いつも同じであるかということを理解する。
その食欲が平凡で、自らの無知と快楽に満足して生きられる者は、彼方への、別の事物への、「未探索」の広大なる謎への、激しくも空しい飛翔の思いに、絶えず駆られることのない者は幸いである。
まだ人生に関心を持ち、それを愛したり、我慢したり出来る者は幸いである。
***
小説家、J. K. ユイスマンスは、その驚くべき書物、『さかしま』の中で、こうした気難しい人間の抱える病を、創意に富み、奇妙で、思いもかけない仕方によって分析し、語ってみせた。
主人公、デ・ゼッサントは、あるゆる快楽、魅惑的と評判のあらゆる物、あらゆる芸術、あらゆる趣味に手をつけた後、人生は味気なく、単調で、どれも似通った時間は忌まわしいと悟り、想像力と奇想の力によって、絶対的に人工的で、絶対的に奇怪な、通常、人が成すのとまさしくさかしまの生活様式を作り上げる。
以下、まずもって、この特別な人物の精神状態を理解するための引用である。――「彼はただ、個人的な快楽のために、もはや他人を驚かせるためでなく、快適で、にもかかわらず稀な様式で飾られた部屋を作ろうと、興味深いと同時に静謐で、将来、孤独になりたいと思う時に備えた設備を作ろうと考えたのだった。
・・・家具と装飾の配置を決めるだけとなって、もう一度、色合いとニュアンスとの組あわせを検討した。
彼が望んだのは、ランプの人工的な明かりによって、表現が明確となるような色であった・・・。
ゆっくりと、一つずつ、色合いを外していった。
・・・こうした色は除かれ、ただ三つが残った。赤とオレンジと黄色であった。
何より、彼はオレンジを好み、自らの経験によって、ほとんど数学的正確さでもって宣言した、自身の理論の真実性を確認したのである。すなわち、真の芸術家の感覚的性質と、彼の目が特別かつ鮮明な仕方で眺める、色合いとの間には調和が存在する。
実際、それぞれの色固有の調子も、ぼかしやニュアンスの持つ謎めいた魅惑も認識できない、粗野な網膜を持った一般大衆を無視し、震えるようで力強い色調の、華美や栄光に鈍感なブルジョアの目も無視し、文学や芸術によって洗練され、鍛錬された瞳孔の持ち主しか残さなければ、以下のことは確かであるように思われた。すなわち、彼らの内、理想を夢見つつ、幻影を求め、寝床においてヴェールを求める者の目は、一般的に青とその派生色、モーヴや藤色、淡灰色に愛撫されるが、それは柔らかであって、その個性を変質させ、純粋な紫や、はっきりとした灰色になる境を越えない限りにおいてである。
・・・最後に、弱く、神経質な人間の目、その感覚的欲求が、燻製や塩漬けによって引き立てられた料理を求める者の目、極度に興奮し、痩せ細った者の目は、ほとんど皆が、あの刺激的であり病的な、人工的な荘厳さと、激しい熱とを持った色を深く愛するものである。すなわちオレンジ色である。」
***
さて、視覚、嗅覚、聴覚、味覚の意図的な転換、錯覚によって、ジャン・デ・ゼッサントは、意想外で、さかしまの一連の感覚を得る。それは彼にとって微細で、洗練された、倒錯的な魅力を、騙された器官、退廃した本能の逸脱の内にもたらすのである。だから、「(旅行のための)移動は彼にとって無用のもと思われ、想像力は容易に、事物の粗野な現実に取って代わることが出来るように思えた。」
有名なレストランで売られる、巧みに調合されたワインが美食家を騙し、この変質した偽の飲み物を味わって感じる快楽が、自然で混じり気ないワインを味わって感じるのとまったく同じであるならば、人を欺くこの逸脱を、この巧妙な嘘を、知性の世界において利用しない手があるだろうか。何の疑いもなく、その時には、物質世界においてと同様に簡単に、夢のような甘美さを楽しむことができるだろうが、それはあらゆる点で本物と同じであり、幻滅した人間にとっては、それが偽物であるが故に、一層誘惑的でさえあるのである。従って、彼の意見によれば、日常の生活において、最も満足させるのが困難と評判の欲望を充足させることも可能であり、それはちょっとした策略で、その欲望の追い求める対象を、擬似的に洗練させることで可能なのである。
それから、一連の奇妙で、滑稽な経験が始まる。――「彼が言っていたように、自然はもうその時を終えた。自然は、風景、空の嫌悪すべき単一さによって、洗練された者の注意深い忍耐を、決定的なまでに退屈させた。結局、故国に閉じ篭った専門家のなんという凡庸さ、これこれを取り、別のものを除外する商売女のなんという矮小さ、牧場や木々の単調な店、山と海との、なんと凡庸な代理店!」
彼は何をするのか? 例えば、彼は旅行に出る、香りを手段として。「現在、彼は驚くような、変化に富んだ風景をさ迷いたいと望み、響きよく、ゆったりとした文句で第一歩を始め、一気に広大な田舎への散策の道を開いた。霧吹きを使って、部屋の中に、アンブロジア、ミッチャムのラヴェンダー、スイートピー、ブーケからなるエッセンスを、芸術家によって蒸留された時には、「花咲く牧場のエキス」の名を授けるに相応しいエッセンスを振り撒いた。それから、この牧場の中で、彼は月下香、オレンジの花、アーモンドの、精密な混合液を導入し、やがて人工リラが生まれる一方、ボダイジュが変質し、地面の上に、褪せた匂いを撒き散らすが、それはロンドンのシナノキのエッセンスで代用したものである・・・」
彼は、化学薬品の香りで工場街を、海の匂いとタールで港を想起させる。花咲く庭を喚起し、緯度を変化させ、思考の内に生まれさすのは、「とてつもない、崇高なる自然、本物ではなく、魅力的で、まったく逆説的であって、熱帯地方の唐辛子、中国白檀の胡椒の効いたような息吹、ジャマイカのエディオスミアを、ジャスミンのフランスの香り、セイヨウサンザシ、クマヅラと結び合わせ、季節や気候に関わらず、様々なエッセンスの木々、色とりどりで、最も対立する芳香を持った花々を生じさせ、これらすべての調子を溶けさせ合い、ぶつけ合って、普遍的で、名づけようのなく、奇妙な香りを作り出し、その中に、執拗なリフレインのように、始めの装飾的文句、リラとボダイジュの香りに満ちた広い牧場の香りが再び現れてくるのである。」
***
ユイスマンスの書物、この常軌を逸し、滑稽で、芸術と、奇妙な幻想に満ち、染み透るようで繊細な文体を持った書物、「ある神経症者の物語」と呼ぶことができるだろうこの書物の、完全な分析を試みることなど私にはできないだろう。
だが一体どうして、この神経症者が、唯一の知的で、賢明で、創意に満ちた、真に理想主義で、宇宙の詩人、もしそのような者が存在するとしてだが、そのような者と私には思われるのだろうか?
『ジル・ブラース』紙、1884年6月10日付
Gil Blas, 10 juin 1884.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 856-862.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
Gil Blas, 10 juin 1884.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 856-862.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)