モーパッサン
「書簡に見るバルザック」

« Balzac d'après ses lettres », le 22 novembre 1876



(*翻訳者 足立 和彦)

バルザック 解説 1876年11月22日、日刊紙『国家』La Nation に掲載された、バルザックの書簡集(カルマン-レヴィ書店、2巻、同年)の書評。
 「社交界の紳士淑女向けに書かれ、文学は問題とはなっていない」(フロベール宛書簡、77年1月8日)と作者自ら、この記事について述べている。刊行が始まったばかりの新聞紙上に、書評家・劇評家としての地位を得るべく奔走するモーパッサンは、編集者の意向に沿うような原稿を執筆しなければならなかった。そして努力の甲斐空しく、結果的に、その席を占めることは出来ずに終った。二十代の苦労がここにも窺われる。
 だがここで、作者はそれとなく自分の美的判断を差し挟み、バルザックを批判してもいる。彼は優れた作家ではあったが、芸術家ではなかった。これはまさしくフロベールの見解であったのだが、モーパッサン自身も、最後までその意見を変更することはなかった。 ゾラほどに意識的ではなかったにせよ、モーパッサンもまた、前世代の大作家の批判の上に、自らの文学の道を歩み始めたのだと言えるかもしれない。バルザックが死んだ1850年は、モーパッサンが生まれた年であった。


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 素晴らしい未知の世界を駆け巡り、驚きに溢れる死滅した街の中を、緑豊かな田園を、知られざる人々がひしめく都市を通り過ぎ、眼前には目を見張る光景、そして高い山の頂から、誰も見たことのない遠くを眺める、そんな夢をご覧になったことがあるだろうか?
 バルザックの書簡を開くと、ちょうどそのような印象を受けるのであるが、それというのも、偉大な作家の脳内以上に壮麗な世界は、存在しないものだからである。彼の想像力の生み出す、たくさんの、様々なものの間を読者は横切って行き、予想もしなかった風景のように、彼の思想の遥かな地平、彼の才能の意外性とその展望とが、絶えず目の前に現れるのである。
 この書物の中で、我々は、多様で興味深いたくさんのものに出会ったので、その全てをお話しすることはできない。駆け足で巡りながら、所々で立ち止まってみることにしよう。
 最初に現れるのは、大きな善意、広く、忠義に溢れ、率直で、少女の魂のように優しい心だ。すなわち、ナイーヴで素朴な精神である。
 彼は愛情に貪欲で、自分の周囲の者皆にそれを求め、彼等を大変に愛するので、我々も彼等を愛したいと思うほどである。最初は彼の妹、ロール・フレヴィユであり、彼は彼女を大変可愛らしく描いている。次に彼の母親であって、優れた女性であるが、彼をよく理解することは決してなく、しばしば、こせこせした要求で彼を困らせた。それは長い手紙を頻繁に寄こすようにという催促であったりするが、その時に彼は大変な困窮に陥っていて、そこから抜け出すために、二十四時間ぶっ続けに働いた後、五時間だけ眠るといった様なのである。彼女について、ある日、彼は妹に語っている。「あんな風に気取らずに生きていきたいとは誰も思わないだろうさ。」その少し後で、「だけど、幸福に備える必要があると伝えておくれ、決して怖がらせてはいけないよ」と付け加えている。息苦しく思うほどの愛情を、彼等に向かってどんな風に表現していいか、彼には分からなかった。彼女達のために考え出した、愛溢れる手紙の末語を集めて、一冊の本に出来そうである。そこには優しく、心動かすものがあり、迸る愛情が見られる。「君の心にこの身を投げ出すよ……愛しい君の瞳に口づけしよう。」彼は容赦ない悲惨をくぐり抜け、たくさんの仕事を成し遂げたので、どうして彼が耐えられたのか理解出来ないほどである。彼は常に金を必要としており、それ以上に、時間が必要だった。「日々は僕の手の内で、太陽に照らされる氷のように溶けてゆく」と彼は述べている。
 決して夢見ることなく、彼は思考する。まだ若い時には、一度は言ったこともある。「僕は時には陽気だが、時には夢想に耽るので、仲間達と離れなければならないだろう。」そしていつでもそうしたのであった。人生の残りにおいては、実際、ほとんどヨーロッパ全体を巡ったが、自分の頭の中にある概念以外のものは、何も見もせず、じっくり考えることもなかった。記憶の詰まった廃墟を前にしても、森の一隅、太陽の光線、水の雫を前にしても、サンド夫人がしばしばそうしたようには、うっとりするようなことは決してなかった。あの素晴らしい風景画、テオフィール・ゴーチエが惜しげもなく手がけた、魅力的な自然描写に、我を忘れるようなことがなかった。しかしながら、後にはこう記している。「憂鬱に落ちて以来、魂が人々にうんざりし、風景がそこに野原以上のものを残す、ということに気づいた。」
 彼にあっては、全てが頭と心である。全てのことは内部に起こる。外部の事象はほとんど興味を抱かせず、造形的な美、純粋な形式、事物の意味、詩人がその材料を愛する生命に対しては、漠然とした素質しかもたなかった。それというのも、彼は、自分でなんと言おうとも、ほとんど詩人ではなかったからである。
 ドレスデンのギャラリーを訪れた際、ルーベンスやラファエロを前にしても無感動のままだったことを告白しているが、彼の手の内には、ただ愛しいハンスカ侯爵夫人の手があったからで、彼女は後に彼の妻となる。
 彼はなにより、思想の変革者である。唯心論者であり、彼は自らそう述べ、断言し、繰り返している。彼は観察者である以上に、優れた発明者であった。ただ、彼は常に正確に洞察したのである。最初に、彼は人物達を一塊に着想し、それから性格を各人物に与え、人生の全ての状況において、彼等が成すはずの全ての行為を、誤ることなく演繹する。彼が目指すのはただ魂だけである。事物と出来事は、彼にとっては付属物に過ぎない。
 作家の役割についての彼の言葉を聞いてみよう。――「常に美に立ち帰る必要がある……。知性が何の役に立つだろうか、もしも、物質的、地上的なものの到達することの出来ない高みにある岩の上に、何か美しいものを置くのでなければ。」
 彼が賞賛するのは、ラシーヌ、ヴォルテールと彼の悲劇、我等が将軍と呼ぶコルネイユ、ゲーテ、そしてとりわけウォルター・スコットであり、彼と比べればバイロンは何物でもないか、ほとんど何物でもない、と彼は考える。オーギュスト・バルビエとラマルチーヌを、ヴィクトール・ユゴーより上に置き、ユゴーはただ、その明晰なる瞬間しか認めていない!!!!! 従って、彼はポエジーそのものに鈍感であり、自らのそれに呼応する思想しか求めていないということだが、それというのも、彼はラシーヌを偉大なコルネイユと同列に置き、ヴォルテールの悲劇をゲーテの素晴らしい作品と同等に、そしてラマルチーヌの、詩的ではあるがうんざりさせる愁嘆を、ヴィクトール・ユゴーの広大な詩篇以上に評価しているからである。
 初めの頃の手紙には機知が溢れている。次のものなどそうではないだろうか?「一人の大佐がいるんだが」と彼は述べている。「彼は、ろくでなしのエッセンスの詰まった一本の瓶で通っているよ(訳注 chenapanとchampagneをかけた)。」別の箇所では、妹がバイユーに住んでおり、その街でしばらく過ごすには、どんな装いをすればいいか彼女に訊くように、母親が彼に求めた時に、彼は書いている。「バイユーとは何なんだい? 黒人達と、お供の者と、ダイヤと、レースと、カシミヤと、騎兵隊、あるいは歩兵隊、すなわち、肩を出した服か、出さない服かを持っていかなければいけないのか…… どの音程で人は歌うのかい? どんな足で踊るのかい? どんな縁を歩くのかい? どんな調子で話すのかい? どんな人物に会うのかい? かいかーい、かい、かい。」こんな風に、とても面白い手紙がたくさんある。
 だがやがて、機知は姿を消す。悲惨と不幸が彼を押しつぶすからだ。「運が転じることはなかった」と彼は記している。「恐ろしい重しの下で、いつも身を屈めていたのだ。」――彼の手紙にはもはや、偉大さと愛情しか見られない。
 彼は絶望の日々を過ごした。だが超人間的な彼の勇気は、決して彼を見放すことはなかった。青春時代から既にこう述べている。「いいえ、お母さん、僕は、貧乏生活からは逃げません。僕はこの生活を愛しているんです。」
 残念ながら、苦しい生活はしばしば彼を訪れた。
 敵対者に囲まれていながら、しかし彼は、魂が望みうる最大の慰めを得ることが出来た。それは女性達、彼の忠実な女友達からもたらされたものだ。彼は、彼女達の愛情に貪欲だった。生涯、それを求めていた。まだほとんど青年時代の頃に、彼は書いている。「僕の皿は空で、僕は空腹だ。ロール、ロールよ。僕のたった二つの大きな欲望は、有名になること、愛されること、決して満たされることはないだろう。」そして後には、「一人の女性の幸福に自分を捧げることは、僕にとって永遠の夢だ。」別の時には、彼を殺すほどの狂ったような仕事の時期の後、書くのに疲れ、絶えず呼びかけるこの愛へと顔を向け、叫んでいる。「まったく、私は一人の愛人を持つに相応しい。日々、それを持たない悲しみが大きくなる。何故なら、愛とは我が人生、我が本質であるからだ。」
 彼は絶えずそれを夢見たが、そこには、宿題を終えて褒美を待つ学生のナイーヴさがあり、彼はそれを、天によって、自分の労働に当てられ、約束された見返りだと考えたのである。
 この女性への渇望の中に、物質的なものは何もない。彼は彼女達の心、言葉の魅力、彼女達の与えてくれる慰めの甘美さ、交際においての幾らか優しげな甘え、恐らくはその香り、握った手の繊細さ、周囲の雰囲気の中に振りまく、あの柔らかいぬくもりを愛した。彼女達に対し、介抱してもらいたがる病気の子供のような愛情を抱いた。彼女達の愛情に身を投げ出し、それを懇願し、悲しみにあってはそこに逃げ込んだが、それはあのパリジャン達の不正に傷つけられた時のことで、「彼等にあってはいつでも、理解の代わりにからかいがあるのだ。」肉体的なことに関する思いは、決して彼には訪れなかった。
 彼は激しくそれから身を守った。「僕は一年来、貞節な男だ……魂から生まれるのでなく、そこへ戻ってもゆかないような、全ての快楽は汚らわしいものと思っている。」
 遂に、最も情熱的な彼の願いが叶えられた。彼は愛し、そして愛された。その時、それは、最初の愛に対する、青年時代の終わりない心情の吐露であった。無限に溢れ出る喜び、異常なほどに思いやりのこもった言葉、感情の精髄であり、その純真さであった。彼女が遠くにいる時には、好物の果物を食べるのをためらったが、彼女が分かち合わないような喜びを、味わいたいとは思わなかったからだ。母親が要求する手紙に多くの時間を割くことを、あれほど嘆いていた彼が、熱愛する相手に手紙を書くのに幾晩をも過ごし、もはや仕事にも手をつけずに、ひっきりなしにポストへ行っては、ロシアからの返事を探すのだった。それから、それが見つからないと、絶望の発作にかられ、ほとんど狂気に近かった。ある時はじっと留まり、ある時は目的もなく動き回り、何をしていいかも分からずに、苛立ち、興奮した。「動きは彼を疲れさせ、休息は彼を打ちのめす。」
 恋人達の、あの永遠に繰り返される驚きの中で、彼は記している。「何年も経った後でも、あなたを知ることにまだ慣れてはいないのです。」彼は、彼女と過ごした幸福な日々の思い出の中に浸る。遠い幸福の思いが蘇って来た時には、自分の気持ちをどう表現していいかが分からない。その時に彼は叫ぶ。「過去のこうした出来事の中には、巨大な花を思わせるものがあります、なんと言ったらいいのでしょう? 歩く木蓮のようなもの、あまりに詩的で、あまりに美しいがために実現不可能な、青年時代のああした夢の一つのようです。」
 その彼の夢が実現した。だがあまりに遅すぎた。
 彼が熱烈に愛し、我々にも強く賞賛させる女性が、無数の障害を越えて、遂に彼の妻となることが出来たのだ。だが長い間、心臓の病が彼を蝕んでいた。夫の栄光を分かち合い、彼の大きな愛が約束する幸福を味わう代わりに、オノレ・ド・バルザック夫人には、もはや介抱すべき瀕死の病人しかなかったのである。
 この生涯の最後は痛ましいものだ。彼は視力を、「とても善良な、哀れなその目を」失い、テオフィール・ゴーチエ宛ての最後の手紙に、署名することしか出来なかった。
 この書物を閉じた後に、人は、この才能ある人物の、最後の日々の悲しみを思うのだが、彼には、自分が有名になったことを知る時間もほとんどなく、幸福である時間もなかったのである。

『国家』紙、1876年11月22日付




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