恐怖について
Sur la peur
Avec le surnaturel, la vraie peur a disparu de la terre, car on n'a vraiment peur que de ce qu'on ne comprend pas. Les dangers visibles peuvent émouvoir, troubler, effrayer ! Qu'est cela auprès de la convulsion que donne à l'âme la pensée qu'on va rencontrer un spectre errant, qu'on va subir l'étreinte d'un mort, qu'on va voir accourir une de ces bêtes effroyables qu'inventa l'épouvante des hommes ? Les ténèbres me semblent claires depuis qu'elles ne sont plus hantées.
(« La Peur » (1884), in Maupassant, Contes et nouvelles, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », t. II, 1979, p. 200.)
「超自然的なものと一緒に、真の恐怖というものも地上から姿を消しました。それというのも、人が真に恐れるのは、何か理解出来ないものを前にしてだけだからですよ。目に見える危険だって心を動かし、混乱させ、怖がらせもするでしょう! しかしながら、さ迷える幽霊に会うかもしれないとか、死者の抱擁を受けるかもしれないとか、人々の不安が産み出した、ああした恐ろしい怪物が駆けるのを見てしまうかもしれないといった思いから来る魂の痙攣に比べれば、そんなものが何だというのでしょう? 幽霊が住まなくなって以来、私には闇が明るくなったように思われるのです。」
(「恐怖」、1884年)
登場人物の一人が「恐怖」について語った言葉。
宗教の衰退・科学の発展が迷信を払拭した19世紀末は、実証主義・合理主義的思想が主流を占めていく時代であった。「全て説明のつかないものは、説明づけられるものになった」(同)と人々が考えるような状況において、作家もまた、昔ながらの迷信に頼った「幻想小説」との決別を強いられることになる。「神秘よさらば」 « Adieu mystères » (1881), 「幻想的なもの」 « Le Fantastique » (1883) といった時評の中で、モーパッサンは素朴な迷信との離別を、半ば哀惜を込めて語っている。
しかし、それでも「人は理解出来ないものを恐れる」ことに変わりはない。二編の「恐怖」と題した短篇や、その他の作品の中で、モーパッサンは繰り返し、「理解出来ない」ものとの対面、それが人間に与える心理的影響の大きさを語った。例えば「幽霊」 « Apparition »(1883) と題された作品において、語り手は幽霊(?)と遭遇した体験の衝撃を次のように語り始める。
Voici maintenant cinquante-six ans que cette aventure m'est arrivée, et il ne se passe pas un mois sans que je la revoie en rêve. Il m'est demeuré de ce jour-là une marque, une empreinte de peur, me comprenez-vous ? Oui, j'ai subi l'horrible épouvante, pendant dix minutes, d'une telle façon que depuis cette heure une sorte de terreur constante m'est restée dans l'âme.
(« Apparition » (1883), in Maupassant, Contes et nouvelles, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », t. I, 1974, p. 780.)
「この出来事があってから今では56年にもなりますが、夢の中でそれを再体験することなしには1ヶ月も過ごせないのです。あの日以来、私の中には恐怖の痕跡、刻印が残っているのです。お分かりになるでしょうか? そうです、私は10分の間に恐ろしい恐怖を味わったので、その時からずっと一種の持続的な恐怖が、魂に残りつづけているのです。」
「幽霊」(1883年)
例え幽霊の存在を信じてはいなくても、人間の理解を超えた出来事は存在し、それに対して恐怖を感じずにはいられない。モーパッサンが繰り返し描いた「恐怖」の体験は、楽観的な合理主義の席巻する時代思潮への反論として読めようし、また人間の存在を飽くことなく追及し、これを描きつづけた作家の見る「真の人間の姿」とは、今なお多くの理解を越えたものに取り巻かれるか弱く、限界ある存在であったとも言えよう。
気ままな独身生活を楽しんでいた男性が、突如結婚を決意する。その理由は「一人にならないようにするため」という。「彼か?」 « Lui ? » (1883) の主人公の語る言葉はまた、恐怖の、そして人間の精神の在り様そのものの不可解性を炙り出している。
Eh bien ! j'ai peur de moi ! j'ai peur de la peur ; peur des spasmes de mon esprit qui s'affole, peur de cette horrible sensation de la terreur incompréhensible.
(« Lui ? » (1883), op. cit., p. 869.)
「ああ! 僕は自分が怖いんだ! 恐怖のための恐怖。 度を失った自分の精神の痙攣、理解出来ない恐怖のもたらすあの恐ろしい感触が怖いんだ。」
「彼か?」 (1883年)
訳もなく打ちひしがれた主人公は、夜中自分の部屋に一人戻るが、何故かドアは開いている。友人が来て待っているのだろうと思った彼は、椅子に座った男の姿を見るが・・・
« Qui est-ce ? » On y voyait peu d'ailleurs dans la pièce. J'avançai la main pour lui toucher l'épaule !...
Je rencontrai le bois du siège ! Il n'y avait plus personne. Le fauteuil était vide !
Quel sursaut, miséricorde !
(Ibid., p. 873.)
「『誰だろう?』ところで部屋の中はほとんど見えなかった。僕は手を伸ばし、彼の肩に触れようとした!・・・
椅子の腕木にぶつかったんだ! もはや誰もいなかった。椅子は空っぽだった!
なんて驚いたことだろう、ああ!」
(同)
この体験はやがて強迫観念として彼に取り付くことになる。彼はそれが幻覚に過ぎなかったと考える。しかしそれでも恐怖を拭い去ることは出来ない。再び同じ体験をするかもしれないという思いが彼を恐れさせる。「一人でいないようにするために」結婚するという決断は、客観的には滑稽でもあろうが、しかし当人にとっては極めて切実な問題である。
恐怖のための恐怖。現代の「恐怖」を追求したモーパッサンの一つの発見とは、孤独な「自我」に閉じ込められた「私」の存在そのものこそが、一切の恐怖の根源にあるということだったに違いない。
Il me hante, c'est fou, mais c'est ainsi. Qui, Il ? Je sais bien qu'il n'existe pas, que ce n'est rien ! Il n'existe que dans mon appréhension, que dans ma crainte, que dans mon angoisse ! Allons, assez !...
(Ibid., p.875.)
「彼に執り付かれている。いかれた話だ。だが事実そうなんだ。誰なのか、彼は? あいつが存在しないこと、無でしかないなんてことはよく分かっているんだ! あいつは僕の懸念、僕の不安、僕の懊悩の内にしか存在しないって! ああ、もうたくさんだ!・・・」
Car il est là parce que je suis seul, uniquement parce que je suis seul !
(Ibid., p.875.)
「それというのもあいつがそこにいるのは、僕が一人だから、ただ僕が一人でいるからなんだ!」