〈脂肪の塊〉のモデルは誰か

Qui est le modèle de Boule de suif ?





白鳥亭の絵葉書  『脂肪のかたまり』(高山鉄男訳、岩波文庫、2004年)を読み返していたら、「解説」の末尾の一文に目が留まり、おやおやと思う。その一文とは次のようなものである。

 なお、主人公のブール・ド・シュイフにはモデルがあり、それはルアン在住の実在の娼婦、アドリエーヌ・ルゲーであったことが知られている。(105頁)

 アドリエンヌ・ルゲー(と本稿では記述する) Adrienne Legay の名前が初めて登場するのは、
Albert Lumbroso, Souvenirs sur Maupassant, Rome, Bocca Frères, 1905 の中の、« Guy de Maupassant et “Boule de suif” » p. 349-360. においてであり、アルベルト・ランブローゾはこれを Edmond Perrée から聞いたと記している。
 その記述によれば、アドリエンヌは1848年ごろ、フェカンの近くエルトーの村に生まれ、二十歳の時に一財産作ろうとルーアンに出てきた。そこである騎兵将校の愛人となり、別れた後に、今度はルーアンの商人と出会った。彼は小間物や絹織物を扱い、当時は羽振りが良かった。二人は愛し合った。戦争が勃発すると、男は召集され、ル・アーヴルへ赴いた。女はルーアンに留まったが、二人は別れず、アドリエンヌはたびたび男に会いに行った。彼女は他の召集兵たちのニュースを持ち帰り、近親者たちに伝えてもいたという。
 そして、こうした旅行の中で、事件は起こった。馬車の中継地においてプロイセンの分遣隊の将校が彼女に目をつけ、自分に身を任せない限りは出発を許さないと告げる。同乗した旅客たちもエゴイズムから、彼女に同意するように圧力をかけた。彼女は抵抗に疲れ、同意する。だが一度解放されると、旅客たちは彼女を見放し、恥辱の中に置き去りにした。

 以上が、モーパッサンが展開させた主題である。それを留保なしに受け入れるべきだろうか? ヒロインのアドリエンヌ・ルゲーは絶えず結末に異議を示していた。「嘘ですよ!」と彼女は言っていた。「それはギィさんの復讐です。私が彼の話を聞くのを拒んだからですわ。彼は私には気に入りませんでしたし、それに……、彼が有名人になるなんて私に分かったでしょうか?」
(ランブローゾ『モーパッサンについての思い出』、ボッカ、1905年、353頁。)

 「真実はどこにあるのだろうか?」と、ランブローゾは続けており、あくまで一つの証言として記録しているのだが、この話が後にモーパッサンの伝記に取り上げられ、「事実」として普及していくことになる。
 さらにこの話には尾ひれがつく。René Dumesnil, Guy de Maupassant, Armand Colin, 1933 (Tallandier, 1947) の中で、ルネ・デュメニルは、次の後日譚を語っている。

 パンションとモーパッサンの友人であった、ルーアンのジャーナリスト、アンリ・ブリドゥー Henri Bridoux によって記録された、興味深いディテールがある。『脂肪の塊』の作者は、ある晩、ルーアンのラファイエット劇場に二人の友人と一緒にいたが、彼らが彼に、ボックス席に一人でいるアドリエンヌ・ルゲーを指し示した。「彼は彼女をじっと興味深げに見やり、いつまでも注意深く見つめていた。半ば感動した様子であった。それから彼は我々から離れた。そして一瞬後に我々が目にしたのは、彼が婦人のボックス席に入っていき、優雅な近衛騎兵ばりの敬意を込めて深々とお辞儀をすると、彼女の隣に腰を下ろした姿だった。その日、劇場を後にすると、モーパッサンと〈脂肪の塊〉は、ル・マン・ホテルで差し向かいで夜食をとった。二人は何を話したのか? この洗練された、繊細な芸術家肌の作家と、恐らくは粗野な精神の持ち主である女性との間で、どんな言葉が交わされたのだろうか? 恐らく、彼女はかつての情事、恋多き生涯の中で忘れられた小事件について、漠然と漂うような記憶しか持っていなかっただろう。」
(ルネ・デュメニル『ギィ・ド・モーパッサン』、タランディエ、1947年、167頁)

 ここまでくると、さすがに眉に唾をつけたくなるが、いずれにしても、こうして〈脂肪の塊〉のモデル、アドリエンヌ・ルゲーという物語が完成した。以後に書かれる伝記の多くが、この挿話を採用してきたのである。

 さて、もう随分前のことなのだけれど、実は、このアドリエンヌ=〈脂肪の塊〉のモデル説に疑問を呈するような発見がされている。
Richard Bolster, « Boule de suif : une source documentaire ? », Revue d’Histoire littéraire de la France, LXXXIV, n° 6, novembre-décembre 1984, p. 901-908.
において、リシャール・ボルステール(と仏語読みしておく)は、1870年1月7日付『ル・アーヴル日報』 Journal du Havre に、次のような記事が掲載されていることを報告している。以下に記事全文の翻訳を掲載する(なおこの手紙文は、1月17日付『ボルドー日報』 Journal de Bordeaux にも掲載されているという)。

*****


プロイセン人による新たな残虐行為

1871年1月5日、アーヴルにて

 親愛なる友人たちへ
 想像力が最高に活気づいている内に、旅行中に私が目撃したプロイセン人たちについての卑劣な出来事についてお話ししたい。
 プロイセン人たちが、ルーアンからディエップまでの乗合馬車の事業の開設を許可したということを、皆さんはきっとご存知でしょう。私はこの乗合馬車という手段を利用して、ル・アーヴルへと避難してきたのです。幾らか不都合な点があったのを除けば、トートまではすべて順調でした。トートで、御者はプロイセンの部隊から停車するように命令を受けました。この分遣隊を指揮する将校は、乱暴に、私たちに身分証明書の提示を要求しました。
 旅の道連れの中に、一人の若く魅力的な女性がいて、将校のやり方に強い衝撃を受けたようでした。ブロンドのプロイセン人がその女性客のパスポートに一瞥をくれるや、彼の表情に悪魔的な意地悪さが映し出されました。彼は、我々の同乗者が舞台女優であることを知ったのです。
 その時から、他のパスポートにはもう普通の関心しか向けず、そして彼は女優に言いました。
 「奥様、あなたの証明書は規定に適っていません。私について来てください。」女優は説明しようとしましたが、無駄でした。プロイセン人は何も聞こうとせず、御者に命じました。「出発は四時間後だ」と。
 生きているというよりも死んだようになって、女優は暴力に屈し、その横柄な先導者について、多くの兵士が警護する隣の旅籠屋に行かねばなりませんでした。
 旅行を中断させられたので、耐え難い四時間のあいだ、私たちはできる限り寒さから身を守りながら、辛抱強く待っていました。
 五時間、六時間が過ぎても、将校は姿を見せませんでした。あまりにも不安が高まったので、私たちは決心して、プロイセンの兵士に説明を求めに行きましたが、返事の代わりに、銃剣の先を突き付けられました。
 つまるところ、翌朝の九時になってようやく、旅の道連れは我々のもとに返されたのです。彼女の顔はやつれていました。彼女は熱い涙を流して泣き、嗚咽の合間にどうにか叫びました。「ああ! 私は破滅してしまった。」 容易に見抜ける説明を求めたりして、彼女の苦しみを大きくするようなことを私たちは望まなかった、ということはご理解いただけるでしょう。
 獣じみた様子で勝利を誇る将校は、銃の装填を命じるのと同じような調子で、御者に出発を命じました。ようやくディエップに着くことができた後、私たちは、可哀そうな若い女性を哀れを催す状態なまま後に残しました。彼女の絶望はあまりに深く、彼女が理性を保てるか本当に心配に思うほどでした!
 この若い女優はルーアンの劇場に属しており、私が間違っていなければ、少し前まではル・アーヴルの劇団の一員だったはずで、そこでは貞節な暮らしぶりのためにいつも注目されていたのです。
あなたの友

*****


 短編「脂肪の塊」の中でも語られる通り、当時ル・アーヴルには撤退したフランス軍が籠城していた。新聞も発行されていたために、このようなプロイセン軍の非行を告発する記事も掲載されたようである。それはともかく、一読して分かる通り、ルーアン一帯がプロイセン軍の占領下にある中で、開通したばかりのルーアン―ディエップ間の乗合馬車、およびトートの旅籠屋で起こった事件であり、時期および舞台が「脂肪の塊」と完全に一致している。1871年1月時点で、モーパッサンがル・アーヴルにいた可能性は低いと思われるが、しかし後日に記事を目にしたのかもしれず、また、事件を知る人から伝え聞いた可能性もある。いずれにしても、この実際に起こったら(らしい)出来事が、「脂肪の塊」の着想源となったことは確かだろう。
 だとすると、アドリエンヌ・ルゲーの存在はどうなるのだろうか? ボルステールは三つの仮説を挙げている。1)アドリエンヌの話は根拠のない伝説だった。2)モーパッサンは新聞記事を元に着想し、そこにアドリエンヌから身体的特徴などの細部を借りた。3)モーパッサンは記事の存在を知らなかった。著者は2)の可能性が高いだろうとしている。確かに、まったく根拠のないところからアドリエンヌの名前が挙がってきたというのもおかしな話かもしれず、何らかの形で彼女が「脂肪の塊」と関りを持っていた可能性は、依然として残るだろう。したがって、彼女の存在をすぐに忘れていいわけではないとしても、〈脂肪の塊〉にはモデルがあった、と単純に断定することには注意が必要だと思われる次第である。

 ここで、モデル問題の詮索をひとまず置けば、より重要なことは、モーパッサンが実在の事件を出発点にしたとして、実際にどのような作品を書いたか、ということであるはずだ。すでに先の論文の中で、ボルステールは記事と小説を比較し、モーパッサンの作家としての独自性がどこにあるかを詳しく検討している。
 ボルステールが論じているように、新聞記事が語るのはあくまで事件の粗筋だけであり、モーパッサンがそこに独自の内容をたくさん盛り込んでいることは明らかだ。とりわけ道中の前半と後半の馬車の場面で、食料を巡る対称的なエピソードが物語の悲劇性を高めている点、旅館の場面では期間が大幅に伸ばされ、人々の心理の展開が描かれている点、そして、記事では女優だった主人公を娼婦に変えることで、単に征服者の横暴を告発するだけではなく、被征服者の貴族・ブルジョアたちの側に潜むエゴイズム、残酷さ、欺瞞性を暴く、という社会風刺の物語に仕立て上げた点などに、作家としての確かな感覚と技量を認めることができるだろう。
 モーパッサンは、三面記事の中に普遍的な人間性が透けて見えることを見逃さなかった。その鋭い批評感覚は、後に新聞小説家として短編小説を矢継ぎ早に発表してゆく中で、さらに遺憾なく発揮されることだろう。その意味で、デビュー作にして最初の傑作「脂肪の塊」の源泉に新聞記事があった(だろう)という事実は、その後の彼の経歴を予兆するもののように見えなくもない。
 一方で、アドリエンヌ・ルゲーという実在のモデルがいたという説は、モーパッサンは「ただ事実をありのままに語っただけである」というような素朴な見方を生む元になったという経緯がある。主観を交えずに事実を忠実に模倣する作家、という単純化されたイメージは、モーパッサンをレアリスムの作家の一種の理想形として規定する一方で、彼には想像力や独創性が欠如としているという批評をもたらすことにもなった。
 真実は、他の多くのレアリスム作家がそうであるのと同様に、たとえ事実から出発したとしても、モーパッサンもまた自らの想像力を駆使することによって、優れた芸術作品を生み出したという、単純にして厳然たる事実の内にある。1984年の新聞記事発見のニュースは、そうしたことを改めて考えさせてくる機会となったのだった。

 なお、岩波文庫の解説は、先の一文の後に、「また、トートの宿屋、コメルス亭も実在し、現在でも白鳥亭(オーベルジュ・ド・シーニュ)の名のもとに営業を続けている」と記して閉じられているが、このオーベルジュ・ド・シーニュ、長い歴史を持っていたが、どうも2016年に閉業したらしい。詳しいことは分からないが、可能であれば、ぜひ復活してほしいと思っている。
 1870-71年の冬の寒い日に思いを馳せながら、宿屋の暖炉の火に当たってみたかった。

 なお、冒頭の絵葉書はトートの「白鳥亭」を写したもの。サイト Aux Pays de mes ancêtres 中のページ、
Tôtes (Seine Maritime) Auberge du Cygne CPA
より借用させて頂きました。


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