モーパッサン 「ジュールおじさん」

« Mon oncle Jules », le 7 août 1883



(*翻訳者 足立 和彦)

「ジュールおじさん」掲載紙 解説 1883年8月7日、日刊紙『ゴーロワ』Le Gaulois に掲載された短編。『ヴォルール』紙(1883年8月16日)再録の後、翌年、短編集『ミス・ハリエット』Miss Harriet に収録される。その後、『民衆生活』誌(1885年1月4日)、『政治文学年報』(1888年2月12日)、『プチ・パリジヤン』付録(1890年5月11日)に再録されている。
 19世紀を通して、「一旗揚げる」ことを目指してヨーロッパから多くの人々が新大陸に渡った。フランス人も少なくなく、1860年代まではニュー・オリンズやセント・ルイスなどのフランスと縁の深い町を、その後はニューヨークやシカゴなどの大都市を目指す者が多かったという。
 「アメリカのおじさん」 « oncle d’Amérique » は辞書にも掲載される慣用句で、「異国から予想外の財産をもたらしてくれる人物」を指す。当時の芝居にそういう役がよく登場したことから生まれた表現であるらしい。巷に流布する「成功者」についての言説をひっくり返し、小市民の抱くはかない夢を打ち砕く苦い「現実」をあばいてみせたところに、レアリスト(現実主義者)・モーパッサンの真骨頂があると言えるだろう。
「ジュールおじさん」挿絵  ジュールが父の兄(伯父)なのか弟(叔父)なのかは本文からは特定できないように思われる。ジュールが相当な年寄りのように描かれていることを踏まえ、本翻訳では「伯父」としているが、1か所を除いて表記は「おじ」を用いている。
 青柳瑞穂訳「ジュール叔父」(『モーパッサン短編集』第1巻、新潮文庫)、高山鉄男訳「ジュール伯父さん」(『モーパッサン短篇選』、岩波文庫)、山田登代子訳「ジュールおじさん」(『モーパッサン短篇集』、ちくま文庫)などの既訳が存在する。
 なお『ふらんす』、2024年10月号、11月号において「対訳で楽しむモーパッサンの短編」の欄で本短編を取りあげた(各回6頁)。
 右の画像はオランドルフ版『ミス・ハリエット』(1901)より、Ch. Morel の挿絵。


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ジュールおじさん


アシル・ベヌヴィル(1)


 あごひげの白い年老いた物乞いが私たちに施しを求めた。友人のジョゼフ・ダヴランシュが100スー(2)を与えたので、私は驚いた。彼は私に言った。
「あの貧乏人が思い出させた出来事があるので、それを君に話そう。その記憶はいつも頭から離れないんだ。次のような次第さ」


***

 僕の家族はル・アーヴル(3)の出身で、裕福ではなかった。どうにか遣り繰りしているだけだった。父は働き、事務所からの帰宅は遅く、稼ぎはたいしたものではなかった。僕にはふたりの姉がいた。
 僕たちの不自由な暮らしに母はたいへん苦しんでいた。それでしばしば自分の夫に対して、刺々しい言葉、遠回しの陰険な非難をぶつけるのだった。そのときに哀れな父が見せる身振りにはがっかりさせられたものだ。開いた手のひらを額にやって、存在しない汗を拭くようにしながら、何も答えないんだ。甲斐のない苦しみが僕にも感じられたよ。あらゆるものについて節約していた。お返しに招かなくていいように、夕食に呼ばれても決して行かなかった。買い物といえば、店に眠っている在庫の安売りだ。ふたりの姉はドレスを自分たちで作り、1メートルあたり15サンチームの飾り紐の値段について長々と議論していた。普段の食事は脂身のスープと、あらゆるソースで調理した牛肉だった。健康的で力をつけてくれそうに見えるけれど、僕としては他のものがよかったね。
 ボタンをなくすとか、ズボンに穴を開けでもしようものなら、たいへんな騒ぎになったものだった。
 でも毎日曜日には、僕たちは正装して埠頭を一周した。父はフロックコート〔すその長い正装用の上着〕、大きな帽子、手袋という恰好で母に腕を貸し、母は祭りの日の船のように満艦飾だ。姉たちは最初に支度を終えて出発の合図を待っている。だが最後の瞬間になって、いつでも家長のフロックコートに取り残した染みが見つかり、ベンジンで湿らせた布切れで急いで拭かなければならないのだった。
 父は大きな帽子を頭に乗せたまま、シャツ姿で作業が終わるのを待っている。母は大急ぎで近眼用の眼鏡をかけ、傷めないように手袋を脱ぐという次第さ。
 それから仰々しく出発する。姉たちが腕を取り合って前を歩く。年頃のふたりを町中に見せていたんだね。僕は母の左側に張りつき、父はいつでも右側だった。この日曜の散策時に目にした哀れな両親のもったいぶった様子を思い出すよ。表情は硬く、物腰は堅苦しい。重々しい足取りで進み、体をまっすぐにして、足が強張っている。まるで特別に重大な用件がこの服装にかかっているとでもいうかのようだった。
 そして毎日曜日、遠くの見知らぬ国から戻ってきた大型船が入ってくるのを見ながら、父は変わることなく同じ言葉を発するのだった。
「なあ! もしジュールがあそこにいたら、どれほど驚くことだろうな!」
 父の兄であるジュール伯父さんは、かつては家族の恐怖のまとだったが、今では唯一の希望だった。幼い頃から彼について話されるのを聞いていたので、見ればすぐに見分けられるような気がしていた。それほどに彼のことは親しいものになっていたんだ。アメリカに旅立つまでの生活の詳細について熟知していたよ。もっとも、彼の人生のその期間については小声で話されていたのだけれど。
 どうやら彼は素行がよくなかったらしい。つまり、幾らかの金を食いつぶしたんだが、それは貧しい家庭にとっては最大の罪なんだ。金持ちの家では面白がって「馬鹿騒ぎをする」ものだし、そういう者のことを、笑みを浮かべながら放蕩者と呼んでいる。貧窮に苦しんでいる家では、両親に財産を使わせる若者は不品行者、乞食、やくざとなるのさ!
 やっていることは同じだとしても、この区別は正当なものだ。それというのも、行為の重大さを決定するのは結果だけだからね。
 つまるところジュールおじさんは、父が当てにしていた遺産を著しく減らしてしまったのだった。それも自分の分をすっかり食いつぶしてしまったうえでね。
 彼は船でアメリカに送られた。当時よくあったように、ル・アーヴルからニューヨークへ行く貨物船に乗せられたんだ。
 ひとたび彼の地に着くと、ジュールおじさんは何かの商売を始めた。やがて手紙を送ってきて、幾らか儲けたので、父に対する過ちの償いを近いうちにできそうだと告げていた。この手紙は一家に深い感動をもたらした。よく言うようにそれまで「何の価値もなかった」ジュールが、突然、誠実な人間、善良な青年、すべてダヴランシュ家の者がそうであるように公明正大な、真のダヴランシュ家の一員となった。
 さらにある船長が教えてくれたところでは、彼は大きな店舗を借りて、大層な取引をしているということだった。
 2年後に送られてきた2通目の手紙はこう述べていた。「親愛なるフィリップ、僕の健康について心配のないように、君にこの手紙を書く。僕は元気だ。事業もうまくいっている。明日、南アメリカに向けて長い旅に出る。たぶん何年も便りを送らないだろう。手紙を書かないとしても心配しないでくれ。一財産できたらル・アーヴルに帰る。それほど先のことではないと期待している。そうしたら一緒に幸せに暮らそう……」
 この手紙は一家の福音書となった。事あるごとにそれを読み、誰にでも見せるのだった。
 実際に10年のあいだ、ジュールおじさんからはもう便りがなかった。だが時が経つほどに父の期待は大きくなり、母もしばしば言っていた。
「あの善良なジュールがいれば、私たちの状況も変わりますよ。困難を乗り越えた人ですものね!」
 そして毎日曜日、水平線から大きな黒い蒸気船が現れて、蛇のような煙を空に吐き出すのを眺めながら、父は変わることのない台詞を繰り返していたのさ。
「なあ! もしジュールがあそこにいたら、どれほど驚くことだろうな!」
 そして、おじさんがハンカチを振りながら「おーい、フィリップ」と叫ぶ姿を目にすることを、ほとんど待ち構えているのだった。
 この確実な帰還について、千もの計画が温められていた。おじさんの金でアングヴィル(4)の近くに別荘を買うことにさえなっていた。そのために父がすでに交渉を始めていなかったかどうか、断言はできないよ。
 年上の姉は当時28歳で、下の姉は26歳だった。ふたりは結婚しておらず、皆にとっての大きな悲しみの種だった。
 ついに下の姉に求婚者が現れた。勤め人で、裕福ではないが誠実だった。常々僕は確信していたのだが、ある晩見せられたジュールおじさんの手紙が、青年のためらいに決着をつけ、決意を固めさせたのだろう。
 彼はいそいそと迎えられ、結婚式のあと、家族全員でジャージー島(5)まで小旅行をすることに決められた。
 ジャージー島は貧しい人にとって理想の旅先だ。遠くないが、小島はイギリス領だから、定期船で海を渡って外国に行くことになる。つまりフランス人が2時間の航海で、隣国の住民を現地で見て楽しみ、風俗を学ぶことができるんだ。もっとも、飾らずに話す人たちが言うように、イギリス式の小さな一軒家であふれるこの島の風俗は哀れなものだけれどね。
 このジャージー島への旅行は僕たちの関心事、唯一の期待、不断の夢となった。
 ついに出発だ。まるで昨日のことのように目に浮かぶよ。グランヴィル港(6)の河岸に停泊する汽船のかまが焚きあがっている。父はおびえながら、僕たちの三つの荷物が積み込まれるのを見張っている。不安に駆られた母は、結婚していないほうの娘の腕を取る。こちらはもうひとりが去って以来、一羽残された雛さながら途方に暮れているみたいだった。僕たちの後ろには新婚夫婦がいて、いつでも背後にいるので、僕は何度も振り向いたものだった。
 船が汽笛を鳴らす。僕たちは乗船し、埠頭を離れた船は、緑の大理石のテーブルのように平らな海の上を遠ざかってゆく。海岸が消えてゆくのを眺めながら、僕たちは旅慣れていない人に特有の嬉しさと誇らしさを感じていた。
 父はフロックコートの下で腹を突き出す。そのフロックコートはといえば、その朝に念を入れて染み抜きしたものだった。外出の日のベンジンの臭いを辺りにぷんぷんさせているので、僕は日曜日のことを思わずにいられなかった。
 突然、父はふたりの優美なご婦人に目を留めた。ふたりの紳士が彼女たちに牡蠣をご馳走している。ぼろを着た年寄りの水夫がナイフをひと刺しして貝を開け、紳士方に渡すと、それがご婦人方に差し出される。彼女たちは上品に食べる。上質のハンカチに殻を乗せ、ドレスを汚さないように口を突き出してね。それからちょっとした素早い動作で汁を飲むと、貝殻を海に捨てるんだ。
 恐らく、航行中の船の上で牡蠣を食べるというこの上品な行動に魅了されたのだろう。父はそれを品がよく、洗練されており、高級だと思ったので、母と姉たちに近寄って尋ねた。
「幾らか牡蠣をご馳走したいと思うが、いかがかな?」
 出費が理由で母はためらった。だがふたりの姉はすぐに承諾した。母は苛々した調子で言った。
「胃が痛くならないか心配ですからね。子どもたちだけにしてくださいな。でもたくさんは駄目ですよ、病気にしちゃいますものね」
 それから僕のほうを向いてつけ加えた。
「ジョゼフには必要ありませんよ。子どもを甘やかしてはいけないわね」
 そこで僕は母のそばに留まったが、この区別は不公平だと思っていた。僕は目で父を追った。父はもったいぶった様子で、ふたりの娘と婿をぼろ着の水夫のほうへ連れていく。
 ふたりのご婦人は去ったところだった。父は姉たちに、汁をこぼさないように食べるにはどのように振る舞えばいいかを教えたうえで、みずから例を見せようと牡蠣をさっとつかみ取った。そしてご婦人方を真似ようとして、すぐに汁を全部フロックコートの上にぶちまけてしまった。母がつぶやくのが聞こえたよ。
「おとなしくしていればいいものをねえ」
 突然、父が不安がっているように見えた。数歩離れると、牡蠣売りの周りに集まっている家族をじっと見つめた。それから不意に僕たちのほうへやって来る。顔は真っ青で、目つきが変だった。父は小声で母に言った。
「信じられないね、牡蠣を剥いているあの男はなんてジュールに似ているんだろう」
 仰天した母が尋ねた。
「どのジュールのですの?……」
 父が続けた。
「どのって……私の兄さ……兄がアメリカでよい地位に就いていると知らなかったら、本人だと信じるところだよ」
 びっくりした母がつぶやいた。
「どうかしてますよ! 彼じゃないと分かってるなら、どうしてそんな馬鹿なことを言うんです?」
 だが父は引きさがらなかった。
「見にいってくれよ、クラリス。お前自身、その目で見て確信してほしいんだ」
 母は立ちあがり、娘たちのところへ行った。僕もまたその男を見た。年寄りで、汚く、しわだらけだった。彼は自分の仕事から目を逸らさなかった。
 戻ってきた母が震えているのが分かったよ。母は素早く口にした。
「彼でしょうね。船長に事情を尋ねてきてください。注意するんですよ。今さら、あのごろつきを押しつけられるなんてご免ですからね!」
 父が離れていき、僕はあとについていった。奇妙なほどに心を動かされていたよ。
 船長は背が高い瘠せた男で、頬ひげが長く、まるでインド航路の船(7)を指揮しているかのように、ブリッジの上を尊大な様子で歩いていた。
 父はうやうやしい様子で近づき、お世辞を交えながら彼の仕事について尋ねた。
「ジャージー島はどういう点で重要だったのでしょう? 生産物は? 人口は? 風俗は? 習慣は? 土の性質は?」などとね。
 話を聞いた人は、少なくともアメリカ合衆国が問題となっていると思ったことだろう。
 それから僕らが乗っている船「エクスプレス」号が話題となり、次に乗組員の話となった。ようやく父は、声を震わせながら尋ねた。
「あそこに牡蠣剥きの男がいますが、とても興味深く見えますね。あの男について何かご存知ですかな?」
 しまいにはこの会話に苛立っていた船長は、素っ気ない態度で答えた。
「あれは年寄りのフランス人の浮浪者で、昨年、アメリカで見つけて連れて帰ってきたんです。ル・アーヴルに親族がいるが、借金があるので帰りたくないとか。名前はジュール……、ジュール・ダルマンシュだったか、ダルヴァンシュだったか、そんな名前です。一時は向こうで裕福だったようだが、今やどうなったかはご覧の通りですな」
 父は真っ青になり、喉を締めつけられ、目に狼狽の色を浮かべながら口を開いた。
「ああ! ああ! 結構……、おおいに結構……。そんなことでしょうとも……、お礼申しあげますよ、船長どの」
 そして父は離れたが、去っていく姿を船乗りは驚いた様子で眺めていたね。
 母のそばに戻ってきた父の顔があまりにも歪んでいるので、母は言った。
「座りなさいな。何かあったと気づかれますよ」
 父はベンチに座り込み、口ごもりながら言った。
「兄さんだ、確かに兄さんだ!」
 それから疑問を口にした。
「どうしたらいいんだろう?……」
 母は激しい調子で答えた。
「子どもたちを遠ざけなきゃいけません。ジョゼフはぜんぶ知っているから迎えにやりましょう。とにかく婿に何も気づかれないように注意するんですよ」
 父は打ちのめされた様子でつぶやいた。
「なんて災難なんだ!」
 急に怒り出した母が言い足した。
「ずっと思ってましたよ、あの泥棒は何もしないまま、また私たちに迷惑をかけるんじゃないかって! ダヴランシュ家の者に何かが期待できるなんてことがあるもんですか!」
 母の非難を受けたときにそうするように、父は手のひらを額にやった。
 母は言葉を続けた。
「ジョゼフに金を渡して、今から牡蠣の代金を払いにいかせてください。このうえ、あの乞食に見つかるようなことがあったら最悪だわ。船中の笑いものですよ。反対側に行きましょう。あの男が私たちに近づいてこないように!」
 母は立ちあがり、両親は僕に100スーの硬貨を預けて離れていった。
 姉たちは驚いた様子で父親を待っていた。僕は母さんが海のせいで少し気分が悪くなったと断言し、牡蠣剥きに尋ねた。
「幾らお支払いすればいいですか?」
 僕は「おじさん」と言いたかった。
「2フラン50ですよ」
 僕は100スーを差し出し、彼は釣りを返してくれた。
 僕は彼の手を見た。しわだらけの可哀そうな水夫の手だ。そして顔を見た。悲し気で、打ちひしがれた、年寄りの哀れな顔を見ながら思った。
「これがおじさん、父の兄、僕のおじさんなんだ!」
 僕は心づけとして彼の手に10スーを残した。彼は礼を述べた。
「お若い旦那様に神の恵みがありますように!」
 施しを受ける貧者の口調だった。向こうで物乞いをしていたに違いないと思ったよ!
 姉たちは僕を見つめ、僕の気前のよさにびっくりしていた。
 僕が父に2フランを返すと、驚いた母が尋ねた。
「3フランぶんもあったのかい?…… 本当かしらねえ」
 僕はしっかりした声で告げた。
 「心づけとして10スーをあげたんだ」
 母は飛びあがり、僕の目を見つめて言った。
「どうかしてるんじゃないの! あの男、あんな乞食に10スーもやるなんて!……」
 だが父の視線に気づいて母は黙った。父の目は婿を指していた。
 そして皆が黙った。
 目の前の水平線上に、紫色の影が海から出てきたかのようだった。ジャージー島だ。
 埠頭に近づいているとき、もう一度ジュールおじさんを見たい、そばに寄って、慰めとなるような優しい言葉をかけたいという激しい欲望が心に湧き起こった。
 だが牡蠣を食べる人はもういなかったので、彼は姿を消していた。この貧しい男が寝起きしている不潔な船倉の底へおりていったのだろう。
 そして僕たちは、彼に会わないようにサン゠マロ(8)行きの船で帰ってきた。母は不安に苛まれていたよ。
 父の兄にふたたび会うことはなかった!
 そういう訳で、君は時折、僕が浮浪者に100スーを与えるのを目にするだろうね。


『ゴーロワ』紙、1883年8月7日
Le Gaulois, 7 août 1883.
Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », t. I, 1974, p. 931-938.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) Jean-Achille Bénouville (1815-1891):アカデミックな風景画家。ローマ賞受賞の後、長らくイタリアに滞在した。
(2) 1スーは5サンチーム。慣習的に5フラン銀貨を「100スー」と呼んだ。
(3) Le Havre:セーヌ河口の港町で、大西洋航路の発着地。
(4) Ingouville:ノルマンディーのコー地方、フェカンから東に約30キロに位置する村。19世紀には芸術家に愛好される場所として知られた。
(5) Jersey:ジャージー島は英仏海峡、コタンタン半島の西に位置する島。英王室の属領。1852-55年に亡命中のヴィクトル・ユゴーが滞在していたことでも知られる。
(6) Granville:コタンタン半島西岸に位置する町。ジャージー島までの距離は約60キロ。
(7) Le courier des Indes:la malle des Indesともいい、イギリスのロンドンとインドのボンベイを船と鉄道で結んだ便。フランスのカレー・マルセイユ間は鉄道を用いた。
(8) Saint-Malo:ブルターニュ半島北部の港町。ジャージー島の真南に位置する。




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