モーパッサン 『水の上』

Sur l'eau, 1881



(*翻訳者 足立 和彦)

モーパッサン『水の上』 解説 1881年、短編集『メゾン・テリエ』 La Maison Tellier に収録された短編小説。
 もっとも、1876年3月10日付『ビュルタン・フランセ』 Bulletin français に「ボートに乗って」 « En canot » という題で掲載された作品を修正・改題したものである。その意味ではモーパッサンの最も初期の作品の一つである。
 二十代のモーパッサンは週末に友人達とセーヌ河畔でボートに乗って遊ぶのを楽しみとし、日焼けした肌、太い腕をむき出しにた名うてのボート・マンだった。ボートを漕ぎ、あるいは泳ぎ、酒を飲み、歌い、踊る。それはまさしく、モネやルノワールが描いた情景でもある。モーパッサン自身も、「ポールの恋人」や「イヴェット」の中に「ガンゲット」(船をレストラン・ダンス場にした娯楽場)に集う若者達を描き、「蝿」においてかつての青春時代を回想している。
 本作品は「幻想小説」と呼んでいい種類のものだが、ここに描かれる不安や幻影は、超自然的なものである以上に、特殊な状況下に置かれた人間の心理として描かれている。確かに結末の一行は効果的で、これによって一連の不思議な体験の意味も変わり、一層に謎が深まるわけだが、かえってそこに、ポーやホフマンの影響を感じさせるかもしれない。
 結末はともかくも、恐らく作者自身が同様の体験をしたのだろうと想像したくもなるのだが、「本当らしさ」に長けた作者の腕前に騙されることになるだろうか。

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 この前の夏、僕はパリから何里も離れたセーヌ川沿いに一軒の田舎家を借りて、毎晩そこに寝に行ったのだった。数日後には、隣人の一人、三十から四十くらいの男性と知り合いになったのだが、彼はこれまで出会った中でも最も興味深いタイプの人間だった。昔からのボート漕ぎ、それも熱狂的なボート乗りで、いつも水の傍に、いつも水の上に、いつも水の中にいる。彼はボートの中で生まれたに違いないし、間違いなく最後のボート漕ぎの最中に死ぬことだろう。
 セーヌに沿って散歩していたある晩、僕は彼に水上生活であった出来事を話してくれるように頼んだ。するとすぐにもこの善良な男は活気づき、顔を輝かせ、雄弁になると、ほとんど詩人のようだった。彼の心の中には大きな情熱、飽くことなく、抵抗しがたい情熱があった。それは川だ。
―― ああ! と彼は言った。すぐ傍のそこに流れているのが見える川について、どれほどの思い出を持っていることだろう! 通りに住むあんた達はみんな、川がどんなものかを知りはしない。だがこの言葉を口にする釣り人に聞いてみるがいい。彼にとって、それは謎めき、奥深くて未知なるもの、幻影や幻想の国であって、そこでは夜には実在しないものが見え、聞いたこともない音が聞こえ、何故とも分からずに震え、まるで墓場を通っているようだ。実際に、それは最も不吉な墓場、棺を持たない墓場なのだ。
 釣り人にとって地面は限られているが、影の中、月も無い時には川は無限だ。水夫は海に対して同じようには感じない。海はしばしば厳しく、意地悪い、それは確かだが、海は叫び、唸り声をあげる。偉大なる海は忠実だ。一方で、川は静かで、不実だ。川は唸らず、いつも音もなく流れ、流れる水の永遠の動きは、俺には大西洋の高波よりも恐ろしい。
 夢想家たちは主張する。海は懐に広大な蒼ざめた国を隠しており、そこでは奇妙な森の中や、水晶の洞窟の中に、水死人たちが大きな魚のように転がっているという。川には黒い深遠があるだけで、人は泥で腐ってゆく。けれども夜明けに輝き、囁く葦に覆われた両岸の間でやさしい音を立てている時には、川は美しい。
 ある詩人は大西洋について語った。

おお波よ、お前達はどれほどの悲痛な物語を知っていることか!
深き波よ、跪く母親達に恐れられ、
潮せり上げながら、お前達はそれを語り合う
そしてそれがお前達の持つあの声を
絶望的なものにする、夜、我等のもとに訪れる時に。

 ああ、俺は信じるけれども、細い葦があまりにも優しい小声で囁く物語は、波の唸り声によって語られる悲痛なドラマよりも、一層不吉なものになるだろう。
 だが君が思い出の幾つかを求めるのだから、ここで俺の身に起こった奇妙な出来事について話そう。十年ほども前のことだ。
 今と同じように、俺はラフォンの上さんの所に住んでいて、一番の親友の一人のルイ・ベルネ、今ではボートや大騒ぎや下卑た言葉を捨てて国務院に入った男が、二里ほど川下のC・・村に住んでいた。俺達は毎晩一緒に、ある時は彼の家、ある時は俺の家で夕飯時を過ごしていた。
 ある夜、たった一人、とても疲れて、苦労して俺の太っちょの舟、いつも夜だけ使う十二尺の「オセアン」(訳注:川舟の種類)を進めていた時、俺はしばらく止まって一息つこうとした。葦のはずれの傍、向こうの、鉄道の橋の二百メートルばかり手前のところだ。素晴らしい天気だった。月が照り、川は輝き、空気は静かで穏やかだった。この静けさに誘惑された。俺は思った、ここでパイプを一服するのはとてもいいだろうと。行動が考えに続いた。俺は錨を掴むと川に投げた。
 ボートは流れのままに下って行き、鎖を端まで伸ばし、それから止まった。そして俺は後ろの方で羊の毛皮の上に、できるだけ楽なように腰を下ろした。何も、何も聞こえなかった。ただ時々、岸に寄せるほとんど聞き取れないような水の音が耳に入ったような気がした。そしてより高い葦の茂みが驚かすような姿に見え、時々動いているようだった。
 川は完全に穏やかだったが、俺は周囲を包む異常なほどの沈黙に驚かされた。あらゆる生き物、蛙や蝦蟇という沼地の夜の合唱隊も黙っていた。突然、右手のほうで、蛙が俺に向かって鳴いた。俺は震えた。蛙は黙った。もう何も聞こえない。俺は気晴らしにもう一服することに決めた。だけども、俺は評判のパイプ呑みなのだが、吸うことができなかった。二口めで吐き気がしたのでやめた。俺は鼻歌を歌い出した。自分の声音が我慢ならなかった。それで、船底に横になって空を見上げた。しばらくする内に落ち着いてきた。だがやがて、舟のかすかな動きにも不安になる。とんでもない揺れを起こして、川の両岸に次々とぶつかるような気がする。それから、何物か、あるいは目には見えない力がゆっくりと舟を水底へと引き寄せ、それから持ち上げてはまた落とそうとしているのだと思った。俺は嵐の中にいるようにふらふらした。周りで物音がする。一気に跳ね起きた。水は輝いていて、全ては静かだった。
 神経が幾らか動揺しているのだと俺は理解し、出発することに決めた。俺は鎖を引っ張った。ボートが動き出す。その後で抵抗を感じ、もっと強く引っ張ったが、錨は動かなかった。水の底で何かに引っかかっていて、引き上げることができないのだ。俺はもう一度引き上げてみたが、無駄だった。それで、オールを使って舟を回転させ、錨の位置を変えるために川上へと移動させた。それも無駄で、いつまでも動かない。怒りに捕われて鎖を思い切り振った。何も動かなかった。がっかりして腰を下ろし、自分の状況について考え始めた。この鎖を切ったり、ボートから外すということは考えられなかった。それは太く、舳先のところで俺の腕よりも太い木片に打ち付けてある。だが天気は大変良好なままだったので、きっとその内に釣り人に会って助けてもらえるだろうと考えた。不慮の出来事に気が静まっていた。腰を下ろし、ようやくパイプを吸うことができた。一本のラムの瓶を持っていたので、二三杯飲むと、自分の置かれた状況に笑いたくなった。とても暑かったので、最悪でも、大した問題もなく美しい星空のもとに夜を過ごすことができるだろう。
 突然、外板の辺で小さな音が鳴った。俺は飛び起き、冷たい汗がつま先から頭までを凍らせた。その音は恐らく水に流されて来た木片のものだったが、それだけで十分で、俺はまた奇妙な神経の動揺に捕われた。鎖を掴み、絶望的な努力で体を強張らせた。錨はそのままだった。俺は力尽きて腰を下ろした。
 その間に、川は少しずつ白い靄に包まれ始め、とても濃い霧が水面を低く這うので、立ち上がるともう川も、自分の足も、舟も見えず、ただ葦の先端と、それからさらに遠くに、月光に蒼ざめた平原と、天に昇る黒い染みだけが見えた。それはイタリア産のポプラの茂みだった。奇妙な白さの綿に腰まで埋まったようになり、そして幻想的な想像がやって来た。俺は思い描いた。見分けることもできない俺の舟に、誰かが上がって来ようとしている。そしてこの不透明な靄に隠された川は、周囲を泳ぐ奇怪な生き物で一杯なのに違いない。俺は恐ろしいほどに気分が悪くなり、額が締め付けられ、心臓が息切れするほどに鳴った。そして我を忘れて、泳いで逃げ出そうと思った。だがすぐに、この考えに俺は恐怖に震えた。自分の姿が目に浮かんだ。取り乱し、行き当たりばったりにこの濃い霧の中を行く俺は、避けることもできない草や葦の中でもがき、恐怖に喘いで、岸を目にすることもなく、もう舟に戻って来ることもできない。そして俺は、この黒い水底へと足を引っ張られるように感じるだろう。
 実際、草やイグサがなく足が着く場所を見つけるまでには、流れを少なくとも五百メートルは上がる必要があっただろうから、俺がどんな優れた泳ぎ手だろうとも、十中九の確立でこの靄の中を進むことができずに、溺れていたことだろう。
 俺は理性的になろうと努めた。少しも恐れないでいようとするしっかりした意志を感じたが、俺の内には自分の意志とは別のものがあり、この別のものが恐れている。何を恐れる必要があるのかと自問した。勇敢な俺の「自我」は臆病な「自我」をあざ笑った。この日ほど、自分の内にある二つの存在が対立するのを感じたことはない。一方は望み、他方は抵抗し、入れ替わりにどちらかが優位を占める。
 この馬鹿げて説明のつかない恐れは絶えず大きくなり真の恐怖になった。俺は身動きもできず、目を見開いて、耳そばだてて待ち構えていた。何を? 何も分からなかったが、それは恐ろしいものに違いなかった。俺は信じるのだが、よくあるように魚が水の外へ飛び出すようなことでもあったなら、硬直し、意識を失って倒れるのに十分だっただろう。
 そうこうする間に、大変な努力をして、どこかへ行っていた理性をどうにか取り戻すことができた。俺はもう一度ラムの瓶を取り、大口を開けて飲んだ。その時ひらめいて、全身の力を込めて叫び出しながら続けて四方へと体を向けた。喉が完全に痺れてしまった後、俺は耳を澄ました。―― 一匹の犬が遠吠えを上げていた、ずっと遠くで。
 もう一度酒瓶を傾け、船底にすっかり横たわった。そんな風に恐らく一時間、もしかしたら二時間もじっとしたまま、眠りもせず、目を開いたまま、周りを悪夢に囲まれたままでいた。起き上がろうともしないでいながら、俺はそうしようと強く思っていた。刻一刻と俺は繰り返す。自分に言い聞かせる。――「さあ、立ち上がれ!」そして俺は動くことを恐れていた。ようやく、最大限の注意を払って起き上がった。あたかも自分の立てるどんな小さな音にも、俺の人生がかかっているかのように。そして縁の向こうを眺めた。
 見ることができる限りで最も不思議で、最も驚くべき光景に目がくらんだ。それは妖精の国の幻影の一つ、遠くから戻って来た旅人が語り、誰も耳にしながら信じはしないあの幻の一つだった。
 二時間前には水面を漂っていた靄は、少しずつ身を引いて岸の上へと集まっていた。川を完璧に自由なままに残し、靄はそれぞれの岸に六、七メートルの高さの、途切れることのない丘を成しており、月光を浴びて見事な雪のような眩さで輝いている。だから、目に入るのはただ二つの白い山の間の、火を織り込んだようなこの川だけだ。そして頭の上には、丸く幅広い、大きな月が留まり、青みがかって乳白色の空の中央に輝いていた。
 水辺の生き物達は揃って目を覚ましていた。蛙が怒ったように鳴き声を上げる一方、瞬間瞬間に、右で、左で、蝦蟇の甲高い声が星へと投げかける、短く単調で悲しげな音色が耳に聞こえた。奇妙なことに、俺はもう怖くなかった。俺はあまりにも普通ではない景色のただ中にいたので、どんな奇妙さにも驚くことがなかったのだろう。
 どれくらいそれが続いたのか、まったく分からない。というのも俺はうとうとと眠ったからだ。目を開けた時には、月は沈み、空は一面の雲だった。水は悲痛に音を立て、風が吹いていた。寒く、暗闇は深かった。
 俺はラムの残りを飲み、それから震えながら、葦の立てる音、不吉な川の音を聞いた。よく見ようとしたが、舟も、目を近づけても自分の手さえ見分けがつかなかった。
 それでも少しずつ、闇の濃さが薄れていった。突然、すぐ近くを影が滑って行くのを感じたと思った。俺は叫び、声が応えた。釣り人だった。彼を呼び、彼が近寄って来ると、俺は不慮の出来事を語した。それから彼は舟を俺のと並べ、二人で鎖を引っ張った。錨は動かなかった。夜が明けて、暗く、灰色、雨模様で、凍ったような、悲しみや不幸をもたらすようなああした一日だった。もう一艘の舟を認め、俺達は呼んだ。舟を運んで来た男が力を貸してくれた。その時、少しずつ、錨が動き出した。上がって来るが、ゆっくり、ゆっくりで、随分な重荷を伴っていた。ようやく俺達は黒い塊を認め、それを俺の舟へと引き上げた。
 それは老婆の遺体で、首に大きな石を結びつけていた。

『メゾン・テリエ』所収、1881年


訳者注:文中引用の詩は次のもの。
Victor Hugo, Oceano Nox, dans Les Rayons et les Ombres.




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