モーパッサン 「親殺し」
« Un parricide », le 25 septembre 1882
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1882年9月25日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された短編小説(1884年8月19日付『ジル・ブラース』Gil Blas に「殺人者」 « L'Assassin » の題で再録)。1885年、短編集『昼夜物語』 Contes du jour et de la nuit に収録される(マルポン&フラマリオン書店)。
「私生児」は当時の社会問題の一つであり、またモーパッサンが個人的にとくに関心を抱いていた主題でもあった。初期の「シモンのパパ」(1879) から、「むすこ」(1882)、「捨てた子」(1884)、「デュシュー」(1887) などを経て、「オリーヴ畑」(1890) に至るまで、繰り返し取り上げられている。本作ではとくに捨てられた子どもの側からの、親に対する恨みの感情に焦点が当てられている。
また、法廷での弁論という形式も、モーパッサンが繰り返し利用したものである。
なお本作は、三遊亭円朝 『名人長二』(『中央新聞』、明治28(1895)年4月28日~6月15日連載、同年、博文館より単行本)の原作であったことが知られている。これは日本におけるモーパッサン移入のもっとも早い事例であった。円朝はこの作品について、当時、横浜税関長をしていた有島武の妻、幸子から情報を得たという。
両作に関しては、次の著作がある。
- 『有島幸子家集』、有島生馬編輯、1935年(非売品)
(馬場孤蝶 「「名人長次」になる迄」、pp. 433-443、有島幸子による「親殺しの話」(翻訳)、pp. 447-466.) - 小川茂久、「「名人長二」と「親殺し」」、『文芸研究』、明治大学文学部、第22号、1969年10月、pp. 1-21.
- 畠中敏郎 「「親殺し」と「名人長次」――モパサン、圓朝、新七――」、『比較文学の小道』、畠中敏郎先生論集刊行会、1973年、pp. 142-158.
- 多田道太郎 「「名人長二」の成立と構造」、『三遊亭円朝全集』、第6巻「翻案物」、角川書店、1975年、p. 537-547.(「円朝とモーパッサン」、『多田道太郎著作集1 ラ・フランス』、筑摩書房、1994年、pp. 291-310.)
- 富田仁 『フランス小説移入考』、東京書籍、1981年、「第5章 ギ・ド・モーパッサン 『名人長二』をめぐって」、pp. 151-171.
- 斎藤広信 「モーパッサン『親殺し』と円朝『名人長二』――変容の分析とその視点――」、川口久雄編『古典の変容と新生』、明治書院、1984年、pp. 1062-1071.
- 村松定孝 「三遊亭円朝と有島幸子――モーパッサンの『親殺し』をめぐって」、『ソフィア』、第37号3巻、上智大学、1988年10月、pp. 51-66.
- 秋山勇造「三遊亭円朝とモーパッサン」、『明治翻訳文学全集 新聞雑誌編12 キプリング集』、川戸道昭、榊原貴教 編、大空社、1998年、p. 363-366. (『明治翻訳異聞』、新読書社、2000年、p.147-154.)
- 宮信明「モーパッサン、有島幸子と三遊亭円朝 ――『名人長二』論――」、『立教大学日本文学』、第110巻、2013年7月、p. 45-58.
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親殺し
親殺し
弁護士は狂気だと主張したのだった。この不可解な犯罪を説明する方法が他にあるだろうか?
ある朝、シャトゥー(1)近郊のとある蘆の茂みの中で、絡み合った男と女の二体の遺体が発見された。二人はよく知られた上流人士であり、裕福で、もう若くはなかったが、前年に結婚したばかりだった。女はほんの三年前に前夫と死別したのだった。
二人に対して悪意を抱く人物などはまったく知られていなかったし、強盗の被害にあったわけでもなかった。二人は、鉄性の長く尖った凶器によって順に刺された後、土手から川に投げ込まれたらしかった。
調査によっても何も発見されなかった。尋問を受けた船乗りたちも何も知らなかった。ところが、事件が放置されかかった頃、隣村の若い指物師が自首してきたのである。ジョルジュ・ルイという名だが、周囲からは「ブルジョア」と呼ばれていた。
一切の尋問に対して、この男は次のように答えるのみだった。
「私は男の方を二年前から、女の方は半年前から知っていました。二人はよく私に古家具の修理を頼みにきました。私はこの仕事では腕利きなものですから」
そして「何故二人を殺したのか?」と尋ねられると、彼は頑なに答えるのだった。
「殺したかったから、殺したんです」
他には何も聞き出すことができなかった。
恐らくこの男は孤児で、かつて田舎に里子に出されたが、後に捨てられた模様である。ジョルジュ・ルイという他に名前を持たなかったが、成長するにつれて不思議なほど賢くなり、生まれながらの趣味の良さや繊細さを備えていた。そうしたものは仲間内には見られないものだったので、「ブルジョア」というあだ名がつけられると、その名でしか呼ばれなくなった。彼は指物師の職に就き、その仕事では見事な名人として通るようになった。少しばかり木彫り彫刻も手がけるほどだった。人の言うところでは、彼はまたとても激しやすく、共産主義や、さらにはニヒリズムの教義の信奉者であり、事件や血まみれのドラマを語る小説の愛好家、共和主義の労働者や農民たちの集会においては、影響力のある選挙人であり、巧みな弁論家だということだった。
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弁護士は狂気だと主張したのだった。
実際のところ、この労働者が自分の最上の顧客、裕福で気前のいい得意客(彼はそのことを分かっていた)を殺したということを、どうして認めることができるだろうか。彼らはこの二年間に三千フランに及ぶ仕事(彼の台帳がその証拠である)を彼に注文していたのだ。思い浮かぶのはただ一つの説明である。つまりは狂気、落伍者の妄執ゆえに、すべてのブルジョアに対する復讐を、この二人のブルジョアに対して行ったのだ。そこで弁護士は、地元の者がこの孤児につけた「ブルジョア」というあだ名を巧みに引き合いに出した。彼は大声をあげた。
「そこには皮肉がないでしょうか。父も母も持たないこの不幸な青年を一層駆り立てうるような皮肉が? 彼は熱心な共和主義者です。なんと申しましょう? ついこの間、共和国が銃殺にし、流刑に処しながら、今日になって腕を広げて迎え入れているあの党派(2)に属してさえいるのです。この党派にとっては、放火は一個の原則であり(3)、殺人はごく単純な一個の手段なのです。
この嘆かわしい教義は、今日では公の集会の場で喝采を受けていますが、それがこの男を破滅させたのです。彼は共和主義者たちが、女性たちさえもが、そうです、女性たちさえもが! ガンベッタ氏(4)の血、グレヴィ氏(5)の血を要求しているのを耳にしました。彼の病んだ精神は転倒してしまいました。彼は流血を、ブルジョアの血が流れるのを望んだのです!
皆さん、罰するべきなのは彼ではありません。コミューンなのです!」
称賛の囁きが駆け巡った。訴訟は弁護士の勝利だと思われた。検察官は反論を述べなかった。
そこで裁判長は被告に慣例の質問を行った。
「被告人は弁護に付け加えることがありませんか?」
男は起立した。
彼は小柄で、亜麻色の髪をして、灰色の瞳は明るく、動かなかった。このか弱い青年から力強くはっきりとよく響く声が発されると、最初の数語から、彼に関して形作られてきた見方を、一気に変えてしまった。
彼は堂々と話し、その調子は演説でもするようだったが、はっきりとした調子だったので、一番小さな言葉でも広い部屋の奥まで十分に届いた。
「裁判長、私は癲狂院に入りたくはありませんし、ギロチンのほうを望みさえしますので、すべてをお話しすることにします。
私がこの男女を殺したのは、二人が私の両親だったからです。
私の話すことをお聞きください。そして私をお裁きください」
一人の女が、息子を生んだ後、その子どもをどこかに里子に出しました。彼女は、自分の共犯者がその子をどの地方に連れて行ったのか、せめて知っていたでしょうか。その子は無実でありながら、しかし永遠の悲惨という刑罰を、私生児であるという恥辱の罰を負わされたのです。いやそれ以上です。それはまさに死刑でした。なぜならご承知のように、彼は捨てられたのだからです。なぜなら乳母というものは、彼女たちがよくそうするように、もう養育費を受け取れないということになると、その子が衰弱し、空腹で苦しみ、見捨てられて死ぬまで放っておくということもありえたからです。
私に乳を与えてくれた女性は誠実でした。私の実の母よりも誠実であり、より女性らしく、より立派で、より母親だったのです。彼女が私を育ててくれました。でも彼女が自分の務めを果たしたのは間違いでした。町はずれに捨てられるごみのように、郊外の村に捨てられる哀れな子どもたちは、放っておいて死なせてしまうほうがよいのです。
私は、自分が不名誉を負っているという漠然とした印象を抱えたまま大きくなりました。ある日、他の子どもたちが私を「私生児」と呼びました。その内の一人が両親から聞いたその言葉が何を意味するのか、彼らは知りませんでした。私にも分かりませんでしたが、それでも私は自分がそうであることを感じました。
あえて申し上げれば、私は学校内でもっとも賢い子どもの一人でした。私は誠実な人間に、裁判長、きっと優れた人間にもなっていたことでしょう。もしも私の両親が、私を捨てるという罪を犯さなかったならば。
その罪を、二人は私に対して犯したのです。私は被害者であり、彼らは犯罪者でした。私には身を守る手立てがありませんでした。彼らには哀れみが無かったのです。二人は私を愛さなければいけませんでした。しかし、彼らは私を捨てたのです。
私は二人に命を負っています。でも命というものは贈り物なのでしょうか? いずれにしても、私の命は不幸でしかなかった。彼らに卑劣にも放棄された後、私が彼らに負っているものは、もはや復讐の義務でしかありませんでした。彼らは私に対して、一人の人間に対してなしうる中でもっとも非人間的で、もっとも卑しく、もっともおぞましい振る舞いをしたのです。
罵られた人間は殴り返すでしょう。盗まれた人間は力ずくで自分の財産を奪い返すでしょう。騙され、弄ばれ、虐待されれば、殺します。平手打ちされれば、殺します。名誉を汚されれば、殺すのです。あなた方がその怒りを許す者たちの誰よりも、私はより一層盗まれ、騙され、虐待され、精神的に平手打ちの侮辱を受け、名誉を汚されたのです。
私は復讐し、殺しました。それは合法的な私の権利でした。二人が私に押しつけたひどい人生と引き換えに、私は彼らの幸福な人生を奪ったのです。
あなた方は親殺しだと騒がれることでしょう! 二人は私の両親だったのでしょうか。私の存在が忌わしい重荷、恐怖の的、恥辱の汚点だったこの人たち、私の誕生が災いの種であり、私の人生が辱しめを受けかねない脅威だったこの人たちが? 二人は身勝手な快楽を求めました。そして想定外の子どもが出来てしまった。彼らはその子どもを抹消したのです。私の番が回ってきたので、私は彼らに対して同じことをしました。
それでも、最後まで、私にはまだ二人を愛する用意がありました。
お話ししたように、今から二年前、男が、私の父親が、初めて私の家にやって来ました。私は何も疑いませんでした。彼は二つの家具を注文しました。後で知ったことですが、彼は事前に司祭から、もちろん絶対に秘密を守るという約束で、私についての情報を得ていたのです。
彼はしばしばやって来ました。私に仕事を与え、気前よく支払いました。時には、少しばかり四方山話をすることもありました。私は彼に対して親愛の情を感じていました。
今年の初め、彼は妻を、私の母を連れて来ました。入ってくる時、彼女はあまりに震えていたので、神経症にでもかかっているのかと思ったほどです。彼女は椅子と、一杯の水を欲しがりました。何もしゃべりません。狂ったような様子で私の家具を見つめ、男の質問にはでたらめに、はいとかいいえとかだけ答えていました! 彼女が出て行った後、ちょっと頭がどうかしているのではないかと私は思いました。
翌月、彼女はまたやって来ました。落ち着いて、自分を抑えていました。その日、二人は随分と長い間留まっておしゃべりをした後、私に大きな仕事の注文をしました。その後さらに三度、私は彼女に会いましたが、何も気づきませんでした。けれどある日、彼女は私の人生、私の幼年時代、私の両親について話しはじめたのです。私は答えました。「奥様、私の両親は、私を捨てたひどい人たちです」 すると彼女は手を胸にあて、意識を失って倒れてしまいました。すぐに私は思いました。「この人が母なのだ!」 けれども私は、何も表に出さないように気をつけました。彼女にまた来てほしかったのです。
けれど、私自身も情報を集めました。彼らは前の年の七月に結婚したばかりで、それというのも母が寡婦となったのはほんの三年前のことだと分かりました。最初の夫が生きていた頃から二人は愛しあっていたのだと盛んに噂されましたが、証拠は一切存在しませんでした。私こそがその証拠でした。最初は隠し、次いで破棄してしまおうとした証拠だったのです。
私は待ちました。ある晩、いつも通りに父に付き添われて、彼女がやって来ました。その日、彼女は何故だかすっかり興奮しているようでした。そして去ってゆく時に、私に言いました。「私はあなたに良いことをしてあげたいの。だってあなたは誠実な青年で、働き者のように見えますから。きっとあなたはいつか結婚したいと思う日が来るでしょう。あなたにふさわしい女性を、あなたが自由に選べるようにと助けに来たのです。私は、一度は自分の心に反して結婚したので、そのことに人がどんなに苦しむものか知っています。今では、私は裕福で、子どもも無く、束縛もなく、財産を自分の自由にできるのです。これを、あなたの婚資にしてくださいね」
彼女は封のしてある大きな封筒を私に差し出しました。
私は彼女をじっと見つめ、それから言いました。「あなたは私の母ですね?」
彼女は三歩ほど後ずさり、私を見ないように手で顔を隠しました。彼、その男、私の父は、腕に彼女を支えながら、私に向かって叫びました。「あなたはどうかしていますよ!」
私は答えました。「そうじゃありません。あなた方が私の両親だということはよく分かっているんです。こんな風に私を騙そうとしないでください。本当のことを打ち明けてください。私は秘密を守ります。私はあなた方を恨んだりしません。私は今の私のまま、ただの指物師でいますから」
彼はずっと妻を腕に支えながら、出口のほうへと後ずさっていました。彼女は泣きはじめていました。私は駆けて行って扉を閉め、鍵をポケットに入れると、再び口を開きました。
「彼女をご覧なさい。これでもまだ、彼女が私の母だということを否定するのですか」
すると彼は怒りに駆られ、すっかり蒼ざめました。これまで避けてきたスキャンダルが突然に表沙汰になるかもしれない、彼らの身分、名声、名誉は一気に消し飛んでしまうだろうという考えに怯えたのでしょう。彼は口ごもって言いました。「あなたは我々から金を引き出そうとする悪党だ。せいぜい民衆に、あの平民どもに善行を施してやればいい。奴らを助け、救ってやりたまえ!」
母は取り乱し、間を空けずに繰り返していました。
「行きましょう、行きましょう」
扉は閉められているので、彼は叫びました。「すぐにドアを開けないと、脅迫と暴行の廉で刑務所に放り込ませるぞ!」
私は自制心を保っていました。扉を開け、二人が暗闇の中に消えてゆくのを見ていました。
それから、突然、自分は今しがたみなし子にされたのだ、捨てられ、溝へ投げ込まれたのだ、という思いに捉われたのです。恐ろしいほどの悲しみに襲われました。そこには怒りと、憎しみ、嫌悪の気持ちも混じっています。私の全存在が迫り上がってくるようでした。正義の念、廉直さ、名誉、拒絶された愛情が、うねるように盛り上がってきたのです。私は二人に追いつくために駆け出すと、シャトゥー駅に着くために二人が辿るに違いないセーヌの川沿いを走りました。
すぐに二人に追いつきました。夜がやって来てすっかり真っ暗です。私は草の上を忍び足で進んだので、二人には音が聞こえませんでした。母はいつまでも泣いていました。父が言っています。「あなたが悪いのだよ。どうして彼に会うことにこだわったんだい! 我々の身分にあっては、そんなのは気違い沙汰だったんだ。姿を見せずに、遠くからでも彼に善行を施してやれただろうに。我々が彼を認知することはできない以上、こんな危険な訪問が何の役に立ったというんだい?」
その時、私は二人の前に飛び出していって、懇願しました。私は口ごもりながら言いました。「自分たちが親だということをよく分かっているじゃないですか。あなた達は一度僕を捨てた。もう一度、僕を拒絶するというんですか?」
裁判長、その時、彼は私に向かって手をあげたのです。名誉と、法と、共和国にかけてそのことを誓います。彼は私を殴りました。それで私が彼の襟首をつかまえると、彼はポケットから拳銃を取り出しました。
視界が真っ赤になりました。後はもうよく分かりませんが、ポケットにはコンパスがありました。私は力の限り、彼を刺しに刺しました。
すると彼女が叫び始めました。「助けて! 人殺し!」と、私のあごひげを掴みながら。私は彼女も殺してしまったようです。この私に分かるでしょうか、その瞬間に私がどんなことをしたのかなんて?
それから、二人ともが斃れているのが目に入ると、私は、深く考えもせずに、遺体をセーヌ川に投げ込んだのです。
以上です。――どうぞ、私をお裁きください。
*****
被告は着席した。この告白を受けて、事件は次の開廷期まで先送りされることになった。再開は間もなくである。もし我々が陪審員であったら、この親殺しの男をどうするだろうか?
『ゴーロワ』紙、1882年9月25日付
『昼夜物語』、1885年所収
Le Gaulois, 25 septembre 1882, repris dans Contes du jour et de la nuit, Marpon et Flammarion, 1885.
Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », t. I, 1974, p. 553-559.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
『昼夜物語』、1885年所収
Le Gaulois, 25 septembre 1882, repris dans Contes du jour et de la nuit, Marpon et Flammarion, 1885.
Guy de Maupassant, Contes et nouvelles, éd. Louis Forestier, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », t. I, 1974, p. 553-559.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
訳注
(1) Chatou. パリ西方の郊外に位置する町で、セーヌ川に面している。印象派の画家たちが頻繁に訪れた地の一つとしても有名。
(2) 1879年および80年に、パリ・コミューン加担者への恩赦が認められ、流刑地のニューカレドニアから多くの者が帰国した。
(3) 1871年のパリ・コミューンの際、チュイルリー宮やパリ市役所など、多くの建物が焼失した。
(4) Léon Gambetta, 1838-1882. 1870年、普仏戦争の際に臨時国防政府を指揮し、共和政の成立に重要な役割を果たした。急進共和派として政局の中心にあった。1881年末に首相に選出されるが、翌82年1月に退陣。以後、静養していたが、82年の大晦日に急死する。
(5) Jules Grévy, 1807-1891. 共和派の政治家。1879年にマクマオンに代わって第4代大統領に就任(87年まで務める)。共和国の安定に貢献した。