第60信 ポール・アレクシ宛

Lettre 60 : À Paul Alexis



(*翻訳者 足立 和彦)

解説 公開当時からアレクシ宛てと推察されている手紙である。書簡中にもあるように、モーパッサンは文学について議論することを好まなかったため、本書簡は彼の文学観を窺う上で貴重なものである。
 ここで展開されるモーパッサンの論が、師フロベールに多くを負うていることは、フロベールの書簡集を紐とけば理解できる。それは受け売りと言ってもいいほどであるのだが、弟子がいかに師の教えをよく吸収したか、そしてフロベールの教えが、技法について以上に、むしろ創作の根本理念についてであったことを、本書簡はよく語っている。独創的であることを、モーパッサンは何よりも大切と考えつづけた。
 また文末近くの言葉から、当時ゾラのもとに集まりつつあった若い文学青年たちが、世に出るための模索をしていた様が窺える。言うまでもなく3年後の『メダンの夕べ』が、その結実となった。


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海軍植民地省
1877年1月17日

友に
 今受け取ったばかりの手紙で、『国家』紙の方で、僕に関して揉め事が起こったことを知った。それで、僕の小説を『団結』に持って行くのを数日待ってもらいたい。相手方に新しい議論の種を与えないように。不可避的に、ボナパルト派の編集に何らかの影響を及ぼしかねないからね。
 事態が解決し次第、君にお伝えするので、その時になったら、お申し出の件を進めてくれるようにお願いしたい。
 僕たちの関心事であるマニフェストについてよく考えてみたのだけれど、告白するように、文学全体についての僕の信仰宣言を行う必要があるようだ。
 僕は自然主義や現実主義を、ロマン主義と同じくらいに信じてはいない。こうした言葉は、僕の感覚では絶対的に何も意味しないし、対立する気質同士の争いの役にしか立たない。
 自然なもの、現実のもの、人生が、文学作品の「必要不可欠」な条件だとは、僕は思わない。そうしたものは全部言葉でしかない。
 ある作品の「存在」は、ある特殊な、名前もなく、名づけようもないものにかかっていて、それを確認することはできても、分析することはできない。電気のようなものだ。それはある文学的放射体で、漠然と人はそれを、才能とか天才とか呼んでいる。「理想的」なものを作り、「自然な」ものを否定する者は、自然なものを作り、他のものを否定する者と同じぐらいに、物事が見えていないと思う。対立する気質の否定、それだけのことだ。僕がある一つのものを見分けないからといって、必然的にそれが存在しない、ということにはならない。
 僕はシャトーブリアンを十分に賛嘆して見るが、でも愛してはいない。僕はシェニエ、ボワロー、コルネイユ、モンテスキュー、それにヴォルテールを見事だと思う。無限の喜びをもってウェルギリウスを、同様にギリシャ教会の哲学的教父たちを読む。彼らは優れた作家だった。しかしながら、僕らが使う言葉の意味では、彼らは全く生きてはいない。
 僕らの才能の性質がどのようなものであろうとも、オリジナルになろう(オリジナルと奇抜であることを混同してはいけない)。何物かの「オリジン」になろう。何の? 僕にはどうでもいい。それが美しくさえあれば、そして、既に完結した伝統と結びついてさえいなければ。プラトンは、確かこう言ったと思う。「美とは真実の崇高さである。」僕は全くこの意見に与するし、もしも、ある作家のヴィジョンが常に正確であることに拘るとすれば、そのことが、その作家の解釈がオリジナルで、真に美しいものであるために必要だと、僕が信じるからだ。けれども、文学が現実に持つ力、天才、才能は、解釈の内に存在する。眺められた事物は作家を通り、そこにおいて個別の色合い、その形態、その発展、その帰結を、彼の精神の成熟の度合いに比して、獲得することになる。シェークスピアは自然のままだった。だが僕が彼を、詩人たちの中で最も優れた人物だと見るのは、彼が最も賞賛すべき解釈者だったからだ。
 全ては美しくなりうる。時や、国や、流派などが何であろうとも。何故なら、あらゆる気質を持った作家が存在するものだからだ。古典主義者たちは、絶対的、決定的な文学形式を見出したと信じなかっただろうか? だが彼らの内、何が残ったのか?
 コルネイユが幾らか、ボワローが少し、ボシュエが少々だ!!
 ロマン主義者たちは勝利の叫びを上げ、それに世界中が応えた。彼らは、芸術の崇高な形式を発見したと考えた。
 何が残っただろう?
 ユゴーの幾つかの作品。それは恐らく、これまでに書かれた中で最も美しい詩だ。だが、ただ幾つかの詩篇だけだ。――それは残るだろう。その理由は、ユゴーが優れた天才詩人だったからであって、彼がロマン主義者たちを生み出したからではない。
 ユゴーはロマン主義を創り出す必要があった。何故なら、それが彼の才能の本質だったからだ。――ただ彼一人が、ロマン主義者だった。
 別の流派が現れて、現実主義、自然主義と呼ばれた。それは何人かの才能ある者の内に受肉化し、通り過ぎて行くだろう。――何が残るのだろうか? 彼ら偉大なる者たちの、幾つかの美しい作品。
 一つの教義は、ある作家の勝利である。というのもそれは彼から出たのであり、彼と同一であり、彼の性質、能力であるからだ。だが一般的に言って、その教義は彼の後に来る者を殺してしまう。ちょうどロマン主義がパルナス派の詩人たちを殺したように。その内の何人かは、もしも独立を勝ち得たならば、恐らくは生き延びることができただろうが。
 ロマン主義は必要だったのだ。
 今日、ゾラは傑出し、眩いばかりの、そして欠くべからざる人物だ。だが彼の方法は、芸術の表明の一つのあり方であって、「総体」ではない。ユゴーの方法が、同じ芸術の別の表明であったように。
 彼らのヴィジョン、彼らの解釈は異なっている。だが、どちらの者も、文学が進むべき宿命的な道を切り開いたのではない。彼らは二人ともそう信じた。二人ともに、個性と才能とを持っているからだ。僕は確信するのだけれども、自然主義の後には、超-理想主義者がやって来るだろう。ただ反動がけが宿命であるからだ。――歴史はそこにあり、人間の性質同様に、それも変化することがないだろう。ロマン主義者たちが既にそこを通ったからといって、中世が現代の現実以上に閉ざされているとは僕は信じない。全ては、それを手にする術を知る者にとって良いものだ。ある流派に属する滑稽な者たちが、ある歴史的時代への入り口を閉じた訳では少しもない。そこを別の仕方で眺めることが必要で、そこに閉じ篭らないことが必要なのだ。
 僕は「メランコリック」な者たちが、しばしば突然に広げて見せる地平の広さを好む。官能的な者たちの、真の、刺すような、しばしば狭隘な情熱を好むように。
 どうして自ら制限するのか? 自然主義は幻想的なものと同様に限定されている……。
 以上だ。
 僕は、文学も、原則も議論しない。そうしたことは全く無意味だと信じているから。人は誰をも転向させることはできない。だからその目的で、この長い手紙を書いた訳ではない。君が十分に、僕の見方と文学的信仰とを理解してくれるようにと思ってだ。それを僕は、いささか不器用に、一まとめにして、幾らか気取って、散漫な仕方で表明した。だがこの主題を追求したり、理屈をまとめたり、「上品に」お見せするような暇が僕にはない。浮かんで来たままだ。言い方が下手で、整合性がないとしたら、許してもらいたい。
 この手紙は、僕らの「サークル」の外に出てもらっては、もちろん困る。君がゾラに「お見せする」ようなことがあれば遺憾に思う。彼を僕は心から好いているし、深く賞賛しているのだが、恐らく気を悪くすることになるだろう。
 「成り上がる」手段について真剣に議論する必要があるだろう。五人いれば多くのことができるし、恐らく、今まで使われたことのない「策略」もあるだろう。
 一つの新聞を六ヶ月ほど包囲し、友人たちで記事や要求や色々なものを浴びせかけて、遂には僕らの誰か一人を入れさせようか? 思いもしない手を見つけて、一撃で、公衆の注意を掻き立てる必要があるだろう。恐らくは滑稽なことだろうか? 十分に機知に富んだ爆弾。つまり、相談することにしよう。
 敬意を込めて握手を。火曜日に、それ以前に会わなければ。

ギィ・ド・モーパッサン



Guy de Maupassant, Correspondance, éd. Jacques Suffel, Évreux, Le Cercle du bibliophile, 1973, t. I, p. 112-116.


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