『モントリオル』復刊に寄せて
Réimpression de Mont-Oriol
岩波文庫、モーパッサン作『モントリオル』(杉捷夫訳)が2005年春に復刊されたことを、寡聞にして最近まで知らなかった。今更「ニュース」でも何でもないのだけれど、ここに一文認めて、売れてくれることを祈ろう。
『モントリオル』 Mont-Oriol は、『女の一生』『ベラミ』に継ぐ、モーパッサンの長編第3作目にあたる作品で、1887年に刊行された。前二作で長編作家としての名声を確立した作者は、この作品以降、長編の執筆に重点を置くようになってゆく。
一女性の人生における「事件」(初夜、妊娠、出産等)を赤裸々に語った『女の一生』や、女性を利用して善悪の区別なく成り上がる男を描く『ベラミ』と比べると、『モントリオル』の印象は穏やかな、あるいは地味なものに映る。1957年初版の翻訳が、50年かけてようやく3刷という(いささか残念な)事実も、この「地味な印象」のためではないかと思われる。
とはいえ、そもそもモーパッサンの文学は「地味」な性質のものである(と断言するのもなんだけれど)。急がず慌てずにしみじみと味わっていただけるなら、『モントリオル』は今も十分に読むに耐える作品であると思うし、本作にはモーパッサン文学の特質がよく出ている。決して大げさではない等身大の人間の物語を語らせた時、モーパッサンはフランス19世紀の数多の小説家の中でも、確実に秀でていると言えるだろう。
さて『モントリオル』はどのような小説だろうか。
まずこの小説は、「温泉小説」だ。舞台はフランス中部のオーヴェルニュ地方。休火山に囲まれた景勝地であるとともに、この地方は温泉が湧出することから保養地としても有名な場所。その内の一つアンヴァルの温泉の傍に、ひょんなことから新しい温泉が発見されるところから、物語は始まる。不妊治療のために当地に滞在していた女主人公クリスチァーヌの旦那アンデルマットはユダヤ人銀行家で、彼はこの新しい温泉を目にするや、すぐにそれが大金を産む源であることを理解し、即座に土地の買収に取り掛かる。新しい保養地を建設し、客を集めることで莫大な収益を上げようとするアンデルマットの奔走が、クリスチァーヌの恋愛と失恋、そして出産に至る経過と交差するように語られてゆく。
温泉保養地に客、すなわち病人を集めるためには、まず医者の存在が重要である。有名な医者がお墨付きを与えることで温泉の価値が保障され、宣伝された効能に誘惑されて保養客が集ってくる。最初アンヴァルにいた三人の医者と、彼等の間の確執にあわせ、さらに新しい医者が何人もこの地を訪れてきて、そこでまた駆け引きが行われる。モーパッサンは巧みにそれぞれの医者をタイプ別に描き分けているが、その皮肉で風刺的な筆致が、本作一つの読みどころといえようか。同時に温泉宿に集う患者達の生態も、いささか滑稽に描かれていて笑いを誘うところだ。ホテルで出される食事について激論を交わす場面など、しみじみとおかしい。
一方に計算高い銀行家がいれば、他方に吝嗇な農民の典型たるオリオル爺さんがいる。彼が一帯の土地を所有しているのだが、取引にあたって、親子そろって決して損を見ないようにと画策する様もまた、滑稽であると同時に、そこはかとなくもの哀しくもある。ちなみに目出度く土地を買い占めたアンデルマットは、新しい温泉地の名前を「オリオル爺さんの山」という意味の「モントリオル」に決定する。
そういうわけで「温泉小説」は同時に「医者と患者」の物語であり、投機を巡る「金銭小説」でもあるわけだが、その点、二三の注釈をしておこう。
明光風靡な景勝地であると同時に療養の場でもある温泉(今でいうリゾート地)は19世紀後半の流行でもあった。温泉を元手に一攫千金を目指す銀行家の活躍は、したがって本当にあってもおかしくない類の話であり、『モントリオル』は時事的な題材を巧みに利用している。一方、作者モーパッサンは彼自身立派な「病人」であり、1885年夏、作中にも名の挙がる有名な保養地シャテルギヨンに滞在している。温泉場における医者と病人の生態の描写は、作者自身の実地の「観察」から生まれたものだった。
ところで銀行家アンデルマットはユダヤ人という設定になっている。金融資本家にユダヤ人が多いという事実を考慮に入れながら、作者は、貪欲な投資家の一典型としてアンデルマットという人物を造形しているので、ここに作者の差別的偏見を見て取るのは恐らく間違いといっていいだろう。ただしかし、ドゥリュモンの『ユダヤ的フランス』が刊行されたのは1886年、ちょうど『モントリオル』執筆の時期と重なる。つまりここでもモーパッサンは、一種の時事的な話題を作品に取り込んでいるのである(ドゥリュモンに関しては内田樹『私家版・ユダヤ論』文春新書に詳しい)。
さて上記のような情景をいわば背景にして展開するのが、恋愛に纏わる物語である。その中心は女主人クリスチァーヌだが、彼女の兄ゴントラン、そして彼女が愛するポール・ブレチニと、オリオル爺さんの二人の娘、ルイーズとシャルロットとの関係も無視できない。三組の恋愛がそれぞれに語られる『モントリオル』は、堂々たる「恋愛小説」でもあるというわけだ。
もっともこの「恋愛小説」は(モーパッサンの作であるので当然の如く)、普通にロマンチックな恋愛を描くわけではない。確かに物語前半、クリスチァーヌとポールの恋愛は、美しい自然を舞台背景に雅びやかに進んでいくけれど、そのいかにも典型的で理想的な恋愛の情景は、その典型さ故に、この恋愛が月並みで凡庸なものでしかないことを暴いているし、加えて、ここには恋愛小説にあるべき障害が何も存在しない。フランス小説伝統の「妻と愛人と夫」の三角関係ではあるのだが、アンデルマットはなにしろ金のことしか頭にないので、妻の浮気を疑うことすら露ぞない。当のクリスチァーヌにも、不貞にまつわる葛藤や悔恨はまったく見られない。そもそも最初から彼女は夫を愛していなかったからでもあるのだが、このあたり、結婚は自然に反する愚かな制度でしかない、という作者の思想が透けて見えるのかもしれない。金銭や社会的地位を理由に個人の意志に反して決められるのが当時の(主に上流社会の)結婚のあり方だった。
いずれにせよ、そういうわけで二人の恋愛は訳なく進展するが、ヒロインが妊娠するや、ポールの恋心は残酷なまでに冷え切ってしまい、二人の関係はあっという間に修復の余地のないものになる。恋愛小説というよりも、これはむしろ「失恋小説」と呼んだほうがいいのかもしれない。言い換えれば、クリスチァーヌの物語の核心は、実は恋愛自体にはなく、失恋によって彼女が残酷な「現実」を知る、そこへ至るまでの過程にこそあるのだ。冒頭、結婚していながら、いまだ本当の恋愛を知らない彼女は、いわば眠れる「少女」として舞台に登場する。そんな彼女が恋愛、失恋、そして子どもの出産を経て、自立した大人の女性へと成長してゆくのである。
このいささか定式的な一連の展開や、とりわけ最初の「物知らずの少女」としてのクリスチァーヌ(『女の一生』のジャンヌと近似している)の描出などは、確かに、今日的視点からするとやや「古びた」感じは否めない(という気がする)。そのことは、この100年の間に、女性の生のあり方がいかに大きく変化したかを物語っていよう。だがそれでも、男の心が自分から離れてしまったことを知る彼女の困惑と悲嘆、別の女性への嫉妬や、生まれてくる彼との子どもに対する思いの変化など、過ぎてゆく時間の中で絶えず移り行く感情を捉てゆく作者の視線は正確であり、100年の時を経ても色褪せていない(ように思われる)。
一方の男性の方はどうか。ポール・ブレチニという人物も、一般の恋愛小説に出て来る男性とは、いささかなりと異なっているようだ。裕福な貴族であるこの青年は、血気盛んで一度思いつめたらとことん突き進まずにはいられない性格の持ち主。女優相手に激しい恋の一幕を演じ、その失恋の傷を癒すために、友人ゴントランに連れられてやって来ているという。
一口に言って、ポールは芸術家肌の人間である。モーパッサン文学における芸術家とは、鋭敏な五感を備え、あらゆる刺激に敏感に反応し、陶酔に浸ることの出来る人間だ。
‐僕は妙なんですよ、奥さん、僕という人間は全身が開いているような気がするのです、すべてのものが僕の中へはいってくるのです。すべてのものが僕の中を通り、僕に涙を流させ、僕に歯をくいしばらせるのです。(上巻、101頁。)
ボードレールの「コレスポンダンス」を朗誦するくだりがとりわけ有名だが、この感覚に陶酔する芸術家の姿には、実は作者自身の自画像が多分に投影されている(時評文や旅行記『水の上』を読むことで、そのことは理解される)。芸術家ポールを、徹底したレアリスト(にして愚鈍な亭主)アンデルマットに対置させ、明白なコントラストを形成するのは物語の常套手段と言えようが、そこに込められた作者の思いは、意外なほどに深いものがある。ポールに焦点を当ててみれば、『モントリオル』は一面、「芸術家小説」の様相を備えている。
しかしながらポールは真の芸術家ではないし、彼は職にも就かずに無為に時間を潰しているような男だ。その点はクリスチァーヌ一家も同様で、兄のゴントランは散々に放蕩を尽くした挙句、財産目当てでオリオル爺さんの娘をものにするのであり、彼にあっては恋愛・結婚は一層卑俗な現実に染まっていて、全ては打算に基づいている。モーパッサンは二重・三重にと「恋愛」がまとう幻想のヴェールをはぎ、むき出しの現実の前にさらけ出して見せるわけだが、クリスチァーヌの目にはじめは理想の男性と映ったポールも、結局はさしたる特色もない平凡な一青年でしかないようだ。一度はクリスチァーヌを熱烈に愛するけれど、彼女が妊娠したことを知るに及んで恋心が冷めてしまうと、後はただ嫌悪と後悔を感じるばかり。そうこうするうちにオリオル爺さんの娘シャルロットの瑞々しい魅力に、また同じように惹きつけられていくのである。多かれ少なかれ自己を投影しながらも、モーパッサンはポール・ブレチニさえも理想化して描こうとはしないし、反対に彼の狭隘なエゴイスムを、これまた冷静かつ諧謔的な筆致で描き上げてゆくのである。
ところで、妊娠して醜くなってゆく女性はもはや恋愛の対象にはならない、という身も蓋もないポールの断言は、もしかすると現代の読者の顰蹙を買うかもしれない。何故このような意見が声高に述べられるのかといえば、ひとつには、恋愛の対象であることと、良き母親であることと(その二つだけ)が女性の果たすべき役割である、という当時は一般に容認されていた女性観というものがあった。そこから一方に娼婦、他方に貞淑な妻にして良き母親、という二極化した女性像が流布するに至るわけで、基本的に両者は相容れない。また同時に、ボードレールからマラルメへと受け継がれてゆく現代的な美学の中では、「不毛性」に価値が置かれるようになるという事情もあった。ここでは明らかにその両方が作用している。当然、ここにも作者モーパッサン自身の思想を読み取ることは不可能ではないけれど、それを批判するよりもより重要であると思われるのは、男性の視線を相対化する、女性の視線が対置して描かれている点に注目することだ。
ポールに一方的に捨てられるクリスチァーヌは、確かに女性の立場の弱さを反映しているといえる。だが全てを見聞きした後、物語の最後に対面する二人の関係は、明らかに逆転している。動揺し、何を口にしていいかも分からないポールに対して、クリスチァーヌは毅然とした姿勢を崩さない。失恋の経験は彼女を成長させたが、男の側では何も学ぶことも、変わることもなかった。その相違が決定的なものとして現れるこのラストの場面は秀逸だし、そこには確かに、時代の偏見を超えた、女性に対する作者の、憐憫ではない共感を読み取ることが出来るのである(と思われる)。
そもそも、複数の人物が行き交い、一人の人物が中心を占めることのない本作『モントリオル』の一番の特色は、この相対化される視線にあると言えるのではないだろうか。温泉保養場という一つの場所に寄り集う多数の人間は、それぞれが自分の思惑と利害計算を抱いている。誰にもそれなりの理があり、誰かに特別に非があるわけでもない。ある特定の視点が特権化されないことで、全ての思想や価値は相対的なままに留まる。作者は決して結論を下さない、判断するのは読者の役割なのである。
「最初の二章で四十人の人間を躍らせた」という作者の自慢の言葉が伝わってはいるけれど、実際に40人の人間皆が同じ程度にしっかりと描かれている訳ではないので、数に拘ることにあまり意味があるとは思わない。ただそれでも、多数の人物の交錯によって綴られることで、その交錯の全体が大きな一つの物語を構築していることは疑いない。『女の一生』がジャンヌ一人の人生を描いたのであれば、本作品もまたタイトル通り「モントリオル」という一つの場所を語った物語なのであり、随所に挟まれる自然描写の美しさと、そこで織り成される様々な人間模様とが融合して、『モントリオル』の世界を作り出しているのである。
最後に時間の重要性について触れておこう。本作品は二部構成(翻訳では上下巻に分かれている)で、間に一年の開きがある。第一部で温泉の発見と、クリスチァーヌとポールの恋愛が語られ、一年後には、モントリオルの温泉場が開設し、クリスチァーヌは出産間近の身である。同じ場所、同じ季節でありながら、一年の間には多くの事物が変化している。そして、世の中と同じように、それ以上に変化するのが人の心なのだ。
時を隔てて同じ場所に赴いた人物が、時の流れをまざまざと実感する、というのはモーパッサンが殊に好んだテーマであり、『女の一生』から始まる長編の中にしばしば認められる。多くは短い時間の中で物語が進行する短編では描けないものとして、ゆっくりと、だが確実に流れ去って行く時間と、その中に生きる人間の変化を、モーパッサンは長編小説の中に描いた。
以上、ここまで『モントリオル』の特色を色々と見てきたけれど、つまるところは、「モーパッサンの代表作として推すにはばからない名品であると断言してもいいように思われる」という50年前の訳者の言葉も、決して誇張ではない(ように思われる)。もっとも「人間のいんちきと愚劣の地獄絵図」というのは言い過ぎだろうけど。
見た目は「地味」ながら、『モントリオル』の中身はなかなかどうして豊かである。この度再読してみて、モーパッサンは長編も悪くない、という思いを新たにした次第である。杉捷夫の訳文も、50年という割りにはそれほど古びた感じをさせずに読みやすい(今日ならクリスチアーヌ、ブレチニーと記すところだろうけど)。
というわけで、ぜひともご一読頂ければ、一愛読者としても嬉しい限りなのである。
(28/11/2006)