『モーパッサン伝』刊行に寄せて

La traduction de Maupassant d'Henri Troyat



トロワイヤ『モーパッサン伝』表紙  2023年3月、アンリ・トロワイヤ『モーパッサン伝』の翻訳を刊行した(足立和彦訳、水声社)。原著はHenri Troyat, Maupassant, Flammarion, 1989 である。以下、紹介を兼ねて幾らか言葉を連ねたい。
 まずトロワイヤに関しては、「訳者あとがき」の一部を再録。

 著者アンリ・トロワイヤ(1911-2007年)はロシア出身の小説家。モスクワに生まれるが、ロシア革命を逃れて家族と共に1920年にパリに移住し、1935年に小説『ほの明かり』でデビューした。1938年に『蜘蛛』でゴンクール賞を受賞、1959年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出され、長い生涯にわたって旺盛に執筆活動を続けた。故国ロシアを舞台にした連作長編『大地の続く限り』(1947-1950年)などの作品がある。(「訳者あとがき」、p. 311.)

 トロワイヤは、日本ではとりわけ伝記作家として知られている。まず、母国ロシアの権力者、イヴァン雷帝、ピョートル大帝、女帝エカテリーナなどを描いたものがあり(工藤庸子による翻訳がある)、ついでロシアの作家プーシキン、ゴーゴリ、レールモントフ、トゥルゲーネフ、ドストエフスキー、チェーホフなどの評伝がある(いずれも翻訳が出ている)。
 さらに、著者の晩年には19世紀フランスの作家が相次いで取りあげられた。すでにバルザック(白水社)、ボードレール、ヴェルレーヌ、フロベール(以上、水声社)の伝記が翻訳されており、今回、そこにモーパッサンを加えてもらった次第だ。

Marlo Johnston, Guy de Maupassant  フランス語で書かれたモーパッサンの伝記は優に十指に余り、トロワイヤ以降にも何冊も刊行されている。なかんずくMarlo Johnston, Guy de Maupassant, Fayard, 2012 は、質・量ともに決定版と言うべきもの(1,336頁)であり、これによって従来曖昧だったり未詳だったりした事柄の多くが明らかになった。著者の多大な貢献には頭がさがるが、言い換えれば、これ以前の伝記にはいずれも誤りが存在したということになる。したがって、こんにちトロワイヤの伝記を翻訳刊行するというのは「今さら」の感が否めないわけだが、それでもあえて出版を志したのには、それなりの理由がないわけではない。
 まず、日本語で読める手ごろな伝記が存在していなかったこと。アルマン・ラヌー『モーパッサンの生涯』(河盛好蔵・大島利治訳、新潮社、1973年)はすでに50年前であり、(じっくり読むと面白いが)あまりにも読みにくい代物だ。大塚幸男『流星の人モーパッサン ―生涯と芸術―』(白水社、1974年)も同時期のもので、やはり古さは否めない。ほぼ唯一、現在も参照できるのが、村松定史『モーパッサン』、清水書院「人と思想」、1996年(新装版、2015年)であるが、これは概説書なので、伝記の記述は簡略なものとなっている。
 次に挙げたいのは、(素朴だが)読んで面白いものだということ。この点では、数ある伝記のなかでも今もトロワイヤが一番だと言っていいのではないだろうか。トロワイヤの記述はどちらかと言えばあっさりしているが、その分、すいすい読み進められるのは、さすが作家と言うべきだろう。大事な点は、主要な作品についての評価が肯定的かつ好意的で、モーパッサンの魅力を的確に言葉にしているところだ。個人的には、私は今でも彼の講評にほとんど異を差し挟む必要を感じない(物足りないと思う点はあるにしても)。
 現実的なポイントとしては、没後15年を過ぎるとはいえ、トロワイヤには一定の知名度があり、翻訳も多数出ていることがあった。無名の著者・研究者の伝記よりも手に取ってもらえるだろうという計算が働いたことは事実である。

 という次第で翻訳に取り掛かったのだが、問題は、(先に触れたように)本文の記述に明らかな間違いが存在しているということだった。一般の読者が気にせずに読み進めればそれまでなので、いっそ沈黙を決め込もうかと思いもしたが、やはり不誠実の謗りを免れないだろう。さりとて原文を勝手に訳者が修正するわけにもいかない。苦肉の策として、問題のある箇所には訳注をつけて指摘し、最も重大と思われる3点に関しては「訳者あとがき」で触れることにした。この点、読者にはご注意いただくように、この場でもお願い申しあげておきたい。詳細に関しては、ぜひ現物でご確認いただければと思う(なお、水声社の本はAmazonでは取り扱っていません。他サイトや書店での購入をお願いいたします)。

 この本の読者として私が想定したのは、一般の人々であるのはもちろんだけれども、それとは別に大学の卒業論文でモーパッサンを取りあげようという学生のことが心にあった。そういう学生さんが目を通して、参考文献に挙げてくれたら嬉しい。訳者冥利に尽きるというものだ。そのためにとくに取り組んだことについて、こっそり打ち明けておこう。
 実を言えば、トロワイヤの本文においては引用の出典の注記は網羅的ではなく、書かれているものあるが、書かれていなものもけっこう多い。そこで、本文中に「 」で括られていて、引用と明確に分かる部分については、極力出典を当たり、それを注に付すことにした。
 ただし、本文中にいついつの書簡と明記されているもの、同じく本文中に作品名が挙がっていて、そこからの引用の場合などは注記していない。また新聞・雑誌に載った書評に関しても割愛したが、この点は今となって多少後悔している。やはり手間を惜しまず調べておけばよかったかもしれない。
 なお、残念ながら原典が不詳のもの、あるいはフィクション化して人物の台詞に取り込まれているものなど、注を付け(られ)なかった箇所は幾つかある。逆に言うと、注が付いていないところを引用するのには気をつけたほうがいいかもしれない。
 トロワイヤは小説家であり、本書は学術書とは呼び難い。先に触れたように記述に問題のある箇所も認められるし、作者自身の主観が色濃く出ている面もある(たとえば母ロールの存在の大きさについてなど)。したがって学術論文の資料として使用するには一定の注意が必要であり、可能な限り、フランス語の新しい資料で確認を取ることを推奨したい。
 そのような留保をつけながらも、とはいえモーパッサンの生涯をまず一通り理解するうえで本書は有用なはずだし、気になる引用についてはぜひ原典を当たって(今ではその多くがインターネット上に見つかる)、探索の足がかりとしてほしいと思う。
 私自身が学生時代に「あったら良かった」本にしたい、そう思いながら翻訳に取り組んだ。いつか、どこかの誰かの卒論のお役に立ちますように。

Henri Troyat, Maupassant  最後に注釈を二つ。どこにも書けなかったけれど、表紙カバーはアンリ・ジェルヴェクスによる肖像画を借用した。「1886年にギィはジェルヴェクスの前でモデルになっているし、その後も彼を称賛し続けたのだった」(p. 200)と言及されているもので、原書の表紙にも使われていたものだ。なお、二人は親友で、一緒にイタリア旅行もしている(p. 145)。
 そして、表紙に緑字であしらってもらったサインは、モーパッサン直筆のものである。






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