レオン・エニック『メダンの夕べ』序文

Léon Hennique « Préface » des Soirées de Médan, 1930



(*翻訳者 足立 和彦)

解説 1930年、短編集『メダンの夕べ』刊行50周年を記念した再販の際に、著者の一人レオン・エニック Léon Hennique (1850-1935) が寄せた序文。
 『メダンの夕べ』は、エミール・ゾラ(1840-1902)のもとに集った青年たちによる共作短編集。著者はゾラ、エニックに加え、ギィ・ド・モーパッサン(1850-1893)、J・K・ユイスマンス(1848-1907)、アンリ・セアール(1851-1924)、ポール・アレクシ(1847-1901)の計6人からなる。自然主義を掲げるゾラは、1878年にパリ郊外の小村メダンに別荘を購入し、そこで執筆を行っていた。『メダンの夕べ』のタイトルは、「ゾラ宅で夜な夜な語られた物語」を含意しており、実質的に「自然主義宣言」を意味する作品集だった。刊行時にモーパッサンは日刊紙『ゴーロワ』に紹介文「メダンの夕べ」を寄せている。
 レオン・エニックは、ゾラと親しく、後にはエドモン・ド・ゴンクールと近しくなった。短編集に『二つの小説』(1881)、『ブッフ』(1887)、長編に『献身的な女』(1878)、『エベール氏の災難』(1883)、『ある性格』(1889)、『ミニー・ブランドン』(1899)。演劇にも関心を寄せ、ゾラの作品の翻案『ジャック・ダムール』(1887)のほか、歴史劇『エステル・ブランデス』(1887)、『アンギャン公の死』(1888)、パントマイム『懐疑的なピエロ』(ユイスマンスと共作、1881)も著した。1907-1912年にはアカデミー・ゴンクール会長を務めている。
 1930年の時点で、著者のなかで存命だったのはエニック一人だった。エニックは5人の青年の出会いから短編集の成立までを簡潔に語っている。


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序文


「ところで」と、このあいだ、好奇心を持ったひとりのジャーナリスト、それも有能なジャーナリストが、私に尋ねたのだった。「ゾラと彼の若いグループとの最初の繋がりについて世間に広まっている物語は何でしょうか? あなた方はどこで彼に会われましたか? どういう点であなた方は、年齢の差にもかかわらず彼の友人となったのでしょうか? 何の名において『メダンの夕べ』を計画するにいたったのでしょうか?」
 私は答えた。
「あなたは不意にお尋ねになりましたね。すでに遠い昔のことをお尋ねになる……。私にはもう分かりませんし、決めかね、ためらってしまいます……。よく考えて、思い出し、突然に海辺に姿を現した旅行者のようにするのをお許しいただきたい。」
「旅行者ですか?」
「そう、旅行者です。彼はいきなり目がくらみ、何も識別できません。見えるのは彼方の見事な太陽、それから波打ち、休むことなく光を散乱させている広大な海原だけです。それでも少しずつ――目の上に手で陰を作って――小さな黒い点が見分けられるようになります。ひとつ、ふたつ、三つと、非常に遠くに。黒い点は動きます。それは釣り人の舟なのです。彼はやがて小船団を数えるにいたります。」
「それから?」
「それから?……私の寓話はあなたに辛抱をお願いするためのものです。後日またお出でいただければ、あなたのお気に召すように努めましょう。つまるところ、あなたはぶしつけ過ぎるわけではありません。」
 ジャーナリストは戻ってこなかったが、私は彼を待っている。私の答えについていえば、私は急いでそれを書きあげたのだった。それが誰かの興味を引きますように!
 ブリュッセル通りのカテュール・マンデス(1)宅での月曜日の会合で知り合ったユイスマンスを介して、私はポール・アレクシを知った。私たちはすぐにたびたび集まることに決め、会合の場はピガール広場にあるいかがわしいカフェに決めた。その場において、意見の一致に喜び、ともに貧しく、熱狂に溢れていた私たちは、文学について語り合い、『ルーゴン゠マッカール叢書』を賞賛し、ある種の新聞を激しく非難した。考えてみていただきたい! 彼らはバルザックの子孫、新しいものをもたらす者、そのデビューから私たちが断固として高く評価している者を理解せず、理解しようともしていなかったのである。
「僕は」とユイスマンスが叫んだ。「ベルギーの雑誌に彼についての記事を書こう。その雑誌で僕は自由に振る舞えるんだ(2)。」
「僕は」とポール・アレクシが続けた。「新聞に記事を書こう。いつも無料で記事を載せてくれるんだ。」
「僕は……」
 私は言葉を続けられず、恥ずかしい思いをした。私には雑誌も新聞もなかったのだ。
「僕は」と、それでも私は続けた……。「そうだ! アイデアがある…… 『居酒屋』が印刷中なんだろう? ……キャプシーヌ大通りで講演をしたらどうだろう?」
 ユイスマンスが褒めてくれた。アレクシが具体的な事柄を挙げた。
「急いで講演会の主催者と話をつけなよ。僕が君をゾラのところへ連れていこう。彼は序文と『居酒屋』の校正刷りを君にくれるよ。」
「オール・ライト!」
 私が想像したことが現実になった。講演会の主催者は愛想がよかった。そして翌日、ある冬の晩のことだが、紹介者に伴われてバティニョール(3)に向かい、九時きっかり、私は一階の門の前で止まった。
「呼び鈴を鳴らしなよ。」
 ゾラがドアを開けた。赤いフランネルの上着を着て、大柄で、ひげを生やし、肉付きがよい。ゾラの顔はエネルギッシュで、麗しい額の上の髪は短く刈られていた。口は? 平均的。鼻は? 嗅覚と鋭敏さを備えたスパニエル犬の鼻のように、先のほうで少しばかりふたつに別れている。声は? 友好的で、気立てのよい男性の声だ。
 私は望んでいた序文と校正刷りを手に入れた。私の講演は幸運にも成功を収めた(4)。ゾラ夫人がこっそりと出席していた。
 その後、緊急の招待を受けて、ゾラの隣に、アレクシや目が笑っているユイスマンスに加え、感じのよさそうな四人の男性を目にしたときの喜びは、どれほどのものだったろう。ひとりはギィ・ド・モーパッサン、たくましい好漢、しかも気さくで、フロベールの友人だった。ふたり目はアンリ・セアール、ユイスマンスの忠実な友だった。三人目はA・ギユメ(5)、見事な風景画家で、最後はマリユス・ルー(6)、エクス出身で『プティ・ジュルナル』に勤めていた。
 三か月が流れ去るよりも前に、モーパッサン、ユイスマンス、セアール、そしてこの小文の語り手は、毎水曜日に親しく夕食を共にし、――それからゾラ夫妻宅を訪れていた。
 彼の家は居心地がよく、皆が連帯していた。私たちは、あまり外交的ではない犬のラトンに気に入られるという名誉も得た。
 ゾラは引っ越しをし、バリュ通り(7)に居を定めた。――『居酒屋』は大成功だったのだ――そして、〈大家〉の精力的な仕事によって扉が開かれたと判断したのだろう、「生活のゆとり」が新しいアパルトマンに入ってきて、客間を深紅のビロードで飾ったのだった。マネによって描かれたゾラの肖像画、ルイ十六世様式のふたつの書架、家具の上のたくさんの置物を覚えている。
「アレクシ、今日は何も壊さないようにお願いね」と、この忠実な仲間がやって来ると、ゾラ夫人がからかうように言うのだった。
 彼は危険なほどに近眼だったのである。
「私はメダンにあばら屋を買ったよ」と、ある晩、ゾラが私たちに言った。「都会にうんざりしている母のためだが、仕事が一杯のときの自分のためでもあるのさ。」
 私たちは程なくメダンに赴き、白い小さな家と庭にたどり着いた。庭にはいろいろな色の花が咲き、野菜が植えられており、周囲には農地、線路、道路、橋があった。
 この慈愛に満ちた住居の戸口において、後にヴァレス(8)はゾラに告げたのだった。
「ねえ、次に来るときには、木を一本持ってきますよ。」
 ヴァレスは陽気さに欠けていなかった。
 小さな家と庭は次第に大きくなっていった……。そしてパリでは、モーパッサン、ユイスマンス、セアール、アレクシと私が、相変わらずエミール・ゾラ宅でテーブルを囲み、取り留めもない雑談をしていた。戦争の思い出話が始まった。あの七〇年の戦争である。私たちのうちの何人かは志願兵や国民遊撃兵だったのだ。
「そうだ! そうだ!」とゾラが提案した。「それについて一冊の本、短編小説集を作ったらどうだろう?」
 アレクシが答える。
「ええ、いいですね。」
「題材はあるかい?」
「みんな、持っていますよ。」
「書物の題はどうしようか?」
 セアールが言う。
「『メダンの夕べ』でしょう。」
 彼は『ヌイイの夕べ(9)』を思い出したのだった。
「ブラボー! いい題だ!」とユイスマンスが賛成した。「子どもに服を着せて、ここへ連れてくることにしよう。」
「すぐに?」
「できる限りすぐに。」
 子どもたちは目を覚まし、服を着せられた。〈脂肪の塊〉は熱烈な喝采に値した。喝采が終わると、将来の十二折版にそれぞれが――ゾラを除いて――占める場所を決めるために、私がくじを引いた。モーパッサンが最初になった。
「彼には決して才能がないだろう!」と、若い作家の習作を呼んでトゥルゲーネフ(10)は予言したものだった。
 最も知識に富んだ者でも、なんと分別を失うことがあるものだろうか!
 六人の書物は――ゾラがそこに好戦的な序文を添えた――出版者の手に渡され……、印刷され……、綴じられ……、献呈され……、書店のショーウインドーに並べられ……、批評家はいきり立って攻撃した……。私たちは恐れていなかったし、楽しんでいた。公衆も楽しみ、購入した。
 単純な時代だった! 実直で、情愛に溢れた時代だった! 友人たちは誰も、自分しか賞賛しない訳ではなかった(11)。彼らには師匠がいて、深く愛し、尊敬していたのだ。フロベール、エドモン・ド・ゴンクール、アルフォンス・ドーデ、ゾラ。みんな亡くなってしまい、私たちも同様に、ほとんどの者が……。
 私たちのかつての人生の一部分、憂鬱な一部分が、『メダンの夕べ』の再販によって生き延びようと努めんことを。

L・H、一九三〇年。


『メダンの夕べ』、ファスケル社、1930年
Les Soirées de Médan, Fasquelle, 1930.
(Zola, Maupassant, Huysmans, Céard, Hennique, Alexis, Les Soirées de Médan, Présentation par Alain Pagès et Jean-Michel Pottier, GF Flammarion, 2015, p. 291-296.)


訳注
(1) Catulle Mendès (1841-1909):高等派の詩人。雑誌『文芸共和国』の編集長を務め、1876年7月9日号―1877年1月7日号にわたってゾラ『居酒屋』を連載した。
(2) ブリュッセルで発行の『アクチュアリテ』、1877年3-4月号に、ユイスマンスは「エミール・ゾラと『居酒屋』」と題する記事を発表する。
(3) 1874年から77年春まで、ゾラはバティニョール地区のサン=ジョルジュ通り(現在のアペナン通り)21番地に住んでいた。
(4) エニックの講演は、1877年1月23日に、キャプシーヌ大通り39番地の会場で行われた。
(5) Antoine Guillemet (1842-1918):印象派の風景画家で、マネ、セザンヌ、ゾラらと親交があった。
(6) Marius Roux (1838-1905):ジャーナリスト、作家。ゾラの同窓生、友人だった。1868年から『プティ・ジュルナル』の編集次長を務めていた。
(7) ゾラは1877年4月にブーローニュ通り(1886年にバリュ通りに改名)23番地に転居した。
(8) Jules Vallès (1832-1885):ジャーナリスト、作家。パリ・コミューンに加担した廉で死刑を宣告され、イギリスに亡命していたあいだ、ゾラの援助を受けた。1880年に大赦を受けて帰国した。
(9) 『ヌイイの夕べ 劇的・歴史的エスキス』は、ド・フォンジュレー氏名義で1827年に刊行された書物。本当の著者はオーギュスト・カヴェ (1796-1852) とアドルフ・ディットメール (1795-1846) のふたり。
(10) Ivan Tourgueniev(1818―1883):ロシアの小説家。フランスに長期滞在し、ギュスターヴ・フロベールと親しく、ゾラとも親交を結んだ。自然主義の作家たちのロシアでの紹介に貢献した。
(11) 原文は « Aucun de mes amis n’admirait que soi »「私の友人たちは誰も、自分しか賞賛していなかった」となっているが、文意を汲んで「しない訳ではなかった」と訳した。




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