モーパッサン 「メダンの夕べ」
« Les Soirées de Médan », le 17 avril 1880
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1880年4月17日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された、短編集『メダンの夕べ』の一種の宣伝文。本書所収「脂肪の塊」によってモーパッサンは小説家としての名声を獲得する。翌月より『ゴーロワ』紙と契約を結び、専業作家としての道がスタートすることになる。
1878年、パリ郊外の小村メダンに地所を購入したゾラはそこに住まい、彼を慕う若い文学青年たちが集うようになった。そして、ユイスマンス、セアール、エニック、アレクシ、モーパッサンの「5人組」は、ゾラも含めた6人による共作短編集を計画する。『メダンの夕べ』の題名は、「ゾラ家で夜な夜な語られた物語」を意味しており、そこには「自然主義宣言」の意味合いが込められていた。最初、ユイスマンスは『滑稽な侵入』という題を提案したというが、戦後10年という時期になお盛んだった愛国主義的文学や、対プロイセン報復論への諷刺の意図がそこに見て取れる。
フロベールの教えによって、芸術家は独立と自由を保持しなければならないと考えるモーパッサンにとって、このタイトルは「よくないし、危険」(フロベール宛書簡、1880年4月23日頃)なものと映っていた。一週遅れで出版の『詩集』が「自然主義」のレッテルと決別させてくれることを期待する。本記事でも冒頭に「流派」を否定しているが、事実はそう簡単には運ばなかったと言えるだろう。以後、数年にわたってモーパッサンは自然主義者のひとりと見なされることになる。
『デカメロン』さながらの牧歌的なモーパッサンの叙述を文字通りに信じることはできない。より事実に即した説明はフロベール宛書簡(80年1月5日)に窺うことが出来る。ここに見られるユーモアは、その後の時評文の一つの特徴を成すだろう。また文学的「流派」を否定しながらも、モーパッサン自身の思想観、文学観が表明されている点でも重要な文章である。ロマン派由来の理想主義的な文学を否定し、現実の「〈存在〉と〈生命〉」を表現することが、モーパッサンの芸術の根幹なのである。
なお、1930年に50周年を記念して『メダンの夕べ』が再刊された際には、レオン・エニックが序文を寄せている。
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メダンの夕べ
どのようにしてこの書が作られたか
どのようにしてこの書が作られたか
『ゴーロワ』紙編集長殿(1)
あなたの新聞が最初に『メダンの夕べ』を告知してくださり、今日はこの書物の由来に関する何か特別な詳細をお求めになりました。もし私たちがある流派の概念を主張し、宣言を提示したいと望んだのだとすれば、私たちが何を成し遂げたと主張するのかを知ることが興味深いと思われたのでしょう。
そうした幾つかのご質問にお答えしましょう。
私たちは一流派を成すと主張するものではありません。私たちはただ単に友人であり、共通の賞賛の思いゆえにゾラの家で出会うことになり、それから、気質の類似、あらゆる物事に対するとても似通った感情、同じ哲学的傾向が、より一層互いを結びつけたのです。
私自身に関しては、文学者としてまだ何者でもないのですから、ある流派に属しているなどとどうして主張することができるでしょう? あらゆる世紀のあらゆるジャンルにおいて優れていると思うものを、私は何でも区別なく賞賛します。
しかしながら、私たちのうちには明確に、ロマン派の精神に対する無意識的で宿命的な反発が生まれたのですが、それは文学の世代は入れ替わり、互いに似ていることはないというだけの理由によるのです。
不滅の傑作を生み出したといえども、少なくともロマン主義が私たちを驚かすのは、ひとえにその哲学的な帰結においてです。ユゴー(2)の作品が部分的にもヴォルテール(3)やディドロ(4)の作品を破壊したことを私たちは残念に思います。ロマン主義者たちの仰々しい感傷主義によって、彼らの教条主義的なまでの法と論理に対する軽蔑によって、古き良識、モンテーニュ(5)やラブレー(6)の古き叡智は、私たちの国からほとんど姿を消してしまいました。彼らは正義の概念を許しの概念に置き換えることで、私たちのうちに慈悲深く感情豊かな感傷癖を広め、それが理性に取って代わったのです。
彼らのおかげで、いかがわしい紳士や娼婦で一杯の劇場は、舞台の上に一人の単純な道楽者さえ許容することができません。群集の抱くロマン主義的な道徳が、裁判において、心をうっとりさせるようであるが言い訳の余地のない、市民やふしだらな女性を無罪放免にさせるのです。
この流派の(というのも流派が問題だからです)偉大な大家に対して留保のない賞賛の念を私は抱いているのですが、そこにしばしば理性の側からの反抗が付け加わります。というのも私は、ショーペンハウエル(7)とハーバート・スペンサー(8)は人生について、『レ・ミゼラブル』の有名な作家よりも多くの正しい思想を持っていると思うからです。――以上が私があえてする唯一の批判で、ここでは文学は問題になっていません。――文学的には、私たちにとって疎ましく思われるのは、涙を誘う古びた手回しオルガンの音であり、ジャン゠ジャック・ルソー(9)がその仕組みを発明し、私の期待するところではフイエ氏(10)で打ち止めの一連の作家が、執拗にクランクを回しては、物憂い偽りの曲を飽きもせずに繰り返しつづけたのでした。
言葉の上での争いに関しては、現実主義も理想主義も、私には分かりません。
曲げようのない哲学的法則が教えるのは、感覚に触れるものの他には、私たちは何も想像することができないということです。その非力さの証拠となるのが、理想的と言われる概念や、あらゆる宗教によって考え出された天国に見られる愚かしさです。したがって私たちには唯一の対象があるのです。すなわち〈存在〉と〈生命〉であり、それを芸術家として理解し、解釈することができなければいけません。もしもそれらについて正確であると同時に芸術的に優れた表現ができなければ、それは十分な才能を持っていないということです。
レアリストと評される一人の男性ができるだけよく書きたいと苦慮し、芸術についての関心に絶えず捕われているのならば、私の感覚からすればその人物は理想主義者です。あたかも実際とは違った風に人生を思い描くことができるかのように、人生を自然以上に美しいものにしようと、自分の書物の中に天国を描こうと主張し、「奥様のための小説家」として書く者に関しては、少なくとも私の意見では、いかさま師か、さもなければ馬鹿者でしかありません。――私は妖精物語を賞賛しますし、付け加えておけば、こうした類の着想も、それ固有の特殊な領域においては、現代生活を描くどんな風俗小説よりも本当らしくなるに違いありません。
以下、私たちの書物に関する幾らかの注釈になります。
夏、ゾラ(11)がメダン(12)に所有する家に私たちは集まりました。
長い食事のあとの時間をかけた消化(というのも私たちは皆、大食家にして美食家であり、ゾラは一人で普通の小説家三人分は食べるのです)のあいだ、私たちはおしゃべりをしていました。彼はこれから書く長編小説、自分の文学観、あらゆるものについての意見を述べました。何度か彼は銃を手に取り、近眼の目で操ると、話を続けながら草むらに向かって撃ったものです。私たちが彼に鳥ですよと断言したからです。まったく死骸が見つからないと、彼は大層驚くのでした。
ある日には釣りをしました。エニック(13)は腕のあるところを見せてゾラをがっかりさせました。彼にはぼろ靴しか釣れないのでした。
私はボート「ナナ」号の底に横になったり、あるいは何時間も泳いだりしました。そのあいだ、ポール・アレクシ(14)は際どい想像をしながら歩き回り、ユイスマンス(15)は煙草を吸い、セアール(16)は退屈し、田舎は馬鹿げていると思うのでした。
そんな風にして午後が過ぎます。けれど夜が素晴らしく、熱気がこもって、木の葉の香りに満ちる頃には、毎晩、正面の「大島」に散歩へ出かけました。
私は皆を「ナナ」で運びました。
さて、ある満月の夜、私たちはメリメ(17)の話をしていました。彼について奥様方は言ったものです。「なんて魅力的な短編作家でしょう!」ユイスマンスはおおよそ次のように言いました。「短編作家とは、書くことを知らず、無駄話を気取ってしゃべり散らす男さ。」
あらゆる有名な短編作家が引き合いに出され、生き生きとした声で語る者が褒めそやされましたが、なかで最も優れているのは、私たちの知る限りでは偉大なロシア作家トゥルゲーネフ(18)、ほとんどフランス人であるあの大家です。ポール・アレクシは一編の短編を書くのはとても難しいと主張しました。懐疑家のセアールは、月を眺めながら呟きます。「ほら、美しくロマンチックな装飾だ。あれを利用しなければならないだろう……」ユイスマンスが付け加えます。「……感情溢れる物語を語る際には。」けれどゾラはそれを一つの思いつきだと考え、各人が物語をするべきだと言いました。その発想は我々を笑わせました。そして困難を増やすために、最初の者が選んだ枠組みを他の者たちも採用し、そこに別々の出来事を繰り広げようという合意がなったのでした。
座りにゆくと、和やかな田園の大いなる休息のなか、眩い月明かりの下で、ゾラは戦争についての不吉な物語の恐ろしい一ページを我々に語ったのです。それが『水車小屋の攻防』でした。
彼が語り終えると、皆が叫びました。「それを早く書かなければ。」
彼は笑い出しました。「もうできているのさ。」
翌日が私の番でした。
ユイスマンスはその次の日、熱意のないある国民遊撃兵の惨めな物語で我々を大いに楽しませました。
セアールはパリの攻囲について語り、新しい説明を加え、哲学に溢れ、本当でないにせよ絶えず本当らしく、ホメロスの古い詩以来常に現実である物語を繰り広げました。というのも、もしも永遠に女性が男たちに愚かな行為をそそのかすものとすれば、女が自分の利益から特別に好意をかける兵士たちは、必然的に他の者よりも一層そのことに苦しむからです。
エニックはもう一度、人間は、しばしば知的で理性的であっても、孤立し、しかも多数であるときには、必ず獣と化すということを示して見せました。――それは群集の陶酔と呼びうるものです。――娼館の占拠と可哀そうな娼婦たちの虐殺以上に、同時に滑稽でもあり恐ろしくもあるものを私は知りません。
けれどもポール・アレクシは主題が見つからず、四日間、私たちを待たせました。彼は死体を汚したプロイセン兵たちの物語をしようと思いました。私たちの憤慨の声に黙ったあと、戦場に亡くなった夫を探しにいった身分ある婦人が、一人の哀れな傷痍兵に「うっとりする」に任せるという面白い小話を思いつきました。――そしてこの兵士は神父なのです。
ゾラはこれらの物語を興味深く思い、一冊の本にすることを提案しました。
編集長殿、以上が急いで書きあげました注釈ですが、あなたの興味を惹くすべての詳細が含まれているように思います。
あなたの好意に感謝しつつ、敬具
ギィ・ド・モーパッサン
『ゴーロワ』紙、1880年4月17日付
Le Gaulois, 17 avril 1880.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 67-70.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
Le Gaulois, 17 avril 1880.
Guy de Maupassant, Chroniques, éd. Gérard Delaisement, Rvie Droite, 2003, t. I, p. 67-70.
(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)
訳注
(1) 当時の『ゴーロワ』紙の編集長はアルテュール・メイエール(Arthur Meyer, 1844-1924)。モーパッサンは翌月より『ゴーロワ』紙に定期的に寄稿するようになる。
(2) Victor Hugo (1802-1885):詩人・劇作家・小説家。戯曲『クロムウェル』(1827) や『エルナニ』(1830)、『東方詩集』(1829) などによってロマン主義を主導した。第二帝政期には国外に亡命、小説『レ・ミゼラブル』(1862) を発表した。
(3) Voltaire (1694-1778):啓蒙思想家。百科全書派のひとりで、理性と自由の名のもとに専制政治や教会を批判した。『哲学書簡』(1734)、哲学コント『カンディード』(1759)など。
(4) Denis Diderot (1713-1784):啓蒙思想家。ダランベールと共に百科全書を編集。小説『ラモーの甥』(1762起稿)、『宿命論者ジャックとその主人』(1796)など。
(5) Michel Eyquem de Montaigne (1533-1592):思想家。人間性について深い洞察を示した『エセー』(1580-1588)が名高い。
(6) François Rabelais (1483頃-1553):作家。『パンタグリュエル』(1532)、『ガルガンチュア』(1534) 等の小説において、古典に基づく該博な知識と言葉遊び、造語、スカトロジーとを混ぜ合わせた一大世界を創造、その作品はユマニスム文学最大の成果と言える。
(7) Arthur Schopenhauer (1788-1860):ドイツの哲学者。主著『意志と表象としての世界』(1819)。ショーペンハウエルの思想は19世紀後半のフランスで流行した。モーパッサンも20代に親しみ、大きな影響を受けた。短編「死者のかたわらで」(1883)で哲学者の臨終の場面を描いている。
(8) Herbert Spencer (1820-1903):イギリスの哲学者、社会学者。進化論に基づいて諸現象を説明、また認識の相対性を主張した。『総合哲学体系』(10 vols, 1862-96)。モーパッサンはフロベールの影響のもとにスペンサーを発見し、その思想を評価していた。
(9) Jean-Jacques Rousseau (1712-1778):思想家・小説家。ジュネーヴ出身。『新エロイーズ』(1761)、『告白』(1782-1789) など。ロマン主義の先駆者としてのルソーをモーパッサンは一貫して批判しつづけた。
(10) Octave Feuillet (1821-1890):小説家・劇作家。上品な作風で第二帝政時代に活躍した。『ベラ』(1852)、『貧しい青年の物語』(1858)。1862年にアカデミー・フランセーズ入会。
(11) Émile Zola (1840-1902):小説家。「自然主義」を唱道し、「第二帝政期における一家族の自然的・社会的歴史」の副題を持つ『ルーゴン=マッカール叢書』全20巻を完成させた。『テレーズ・ラカン』(1867)、『居酒屋』(1877)、『ナナ』(1880)、『ジェルミナール』(1885)、『獣人』(1890)。その後、『三都市』(1894-1896)、『四福音書』(1899-1902)の執筆を続けた。
(12) 1878年にゾラはメダンに地所を購入。以降、住居の増改築を続けるとともに、文筆に専念した。
(13) Léon Hennique (1850-1935):小説家、劇作家。『メダンの夕べ』寄稿者の一人。ゾラと親しかった。『エベール氏の災難』(1883)、『ある性格』(1889)等。
(14) Paul Alexis (1847-1901):小説家。『メダンの夕べ』寄稿者の一人。後にジャーナリズムの場で活躍する。『リュシー・ペルグランの最期』(1880)、『ムリヨ夫人』(1890)。
(15) Joris-Karl Huysmans (1848-1907):小説家。『メダンの夕べ』寄稿者の一人。自然主義から後に神秘主義に転じた。『ヴアタール姉妹』(1879)、『さかしま』(1884)、『彼方』(1891)、『大伽藍』(1898)。
(16) Henry Céard (1851-1924):小説家、劇作家、批評家。『メダンの夕べ』寄稿者の一人。『美しい一日』(1881) 等。
(17) Prosper Mérimée (1803-1870):小説家・考古学者。異国情緒に満ちた世界を簡潔な文体で描いた。『コロンバ』(1840)、『カルメン』(1845)など。「マテオ・ファルコーネ」(1829)、「タマンゴ」(1829)などの短編に秀でていた。
(18) Ivan Tourgeniev (1818-1883) : ロシアの小説家。人道主義に立って社会問題を取りあげた。フランスに長期滞在し、ギュスターヴ・フロベールをはじめとしたフランスの芸術家と親しかった。『猟人日記』(1852)、『初恋』(1860)、『父と子』(1862)など。モーパッサンはトゥルゲーネフを高く評価し、追悼文「イヴァン・トゥルゲーネフ」(1883)や「幻想的なもの」(1883)で彼について語っている。なおモーパッサンはTourgueneffと綴っている。