モーパッサン
『戦争』 (1881年)

La Guerre, le 10 avril 1881



(*翻訳者 足立 和彦)

「戦争」掲載紙 解説 1881年4月10日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された時評文。モーパッサンによる反戦論である。
 チュニジアでの権益を求めるフランスは、1878年頃よりイタリアとの対立を深めていった。そんな中でチュニジアの保護領化が主張され、軍事進出のための適当な口実が求められていた。1881年2月にぼっ発したチュニジア・アルジェリア国境地帯での原住民同士の対立は、やがてアルジェリアに駐留するフランス軍を巻き込むものとなり、4月7日、首相ジュール・フェリーは議会でチュニジアへの進軍を決定する。
 本記事はフランス軍が出征する最中に発表されたものであり、小規模な小競り合いといって安心するべきではなく、これを機に戦争が果てしなく継続するかもしれないと警告する一文となっている。現実には一ケ月後に、チュニジアの保護領化が決定し、その後、原住民の抵抗が続いてゆくこととなる。
 1883年12月11日『ジル・ブラース』紙に、モーパッサンは改めて「戦争」と題する記事を発表する。そこでは本記事において戦争の「野蛮さ」を告発する部分が再録された上で、戦争の非道さがさらに烈しい調子で非難されている。合わせてお読みいただきたい。


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 戦争、というこの一語を耳にすると、まるで妖術や異端審問といった、遠くに過ぎ去ったもの、忌まわしく、怪物的で、反自然的なものについて話しかけられているかのように、私は動揺を覚えるのだ。
 戦争!・・・ 戦うこと!・・・ 殺すこと!・・・人間を殺戮すること!・・・ そして今日の我々は、この時代に、我々の文明の中において、科学の発展と、人間の叡智の到達しえた哲学の程度とにあって、殺すことを教える学校を所有しているのだ。はるか遠くから、完璧に、同時にたくさんの人間を殺すことを、家族を背負い、犯罪記録のある訳でもない、無実なる哀れな者たちを殺すことを。そして、最も驚くべきことには、社会全体がそれを自然なことだと思っているのである! ヴィクトール・ユゴー以外の誰かがこんな風に叫んだら、その者は糾弾されたことだろう。「今日、力は暴力と呼ばれ、裁かれ始めている。戦争は告発されているのである。文明は、人類の呻き声の上に、征服者や指揮官どもを予審に付し、彼らについての大きな犯罪調書を作成している。民衆は遂に理解する。大罪の規模を大きくすることは、それを減らすことにはならないと。殺すのが罪であれば、多くを殺すことは、情状酌量になりはしないということを。盗むことが恥であれば、侵略は栄誉ではありえないことを。ああ! こうした絶対的真実を主張しよう。戦争を貶めよう!(1)

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 この分野における巧みな芸術家、才能ある殺戮者、フォン・モルトケ氏(2)は、先日、平和連盟の代表者に対して、次のような奇怪な返答を行った。「戦争とは神聖なもの、神の掟によるものである。それはこの世界の聖なる法の一つである。それは人間の内に、最も偉大で、最も高貴なる感情、名誉、公正、美徳、勇気を培い、一言で申すなら、最も醜い物質主義に堕するのを防いでくれるのである」(彼が自然主義と言わなかったのは驚きだ)。
 すなわち、二十万の群れを成し、昼夜休みなく歩き続け、何も考えず、何も研究せず、何も学ばず、何も読まず、汚れて腐り、泥の中に眠り、絶えず朦朧としたまま獣のように生き、都市を強奪し、村落を焼き払い、人々の財産を失わせ、それからまた別の人肉の集団に出会っては、その上に飛びかかり、血の湖や死体の山を作り上げた上、腕や足をもぎ取られ、脳みそをつぶされながら戦場の片隅に朽ち果てる一方で、妻や子供たちは餓えで死ぬ。それが、最も醜い物質主義(あるいは自然主義)に堕さないと呼ばれることなのである。
 もし我々にまだ野蛮人たちの実用的感覚が残っており、この打ち倒した肉を食べ物に利用し、戦争は貧困国家にとって食料調達の手段であって、塩漬けの兵士の肉を、アメリカ大陸が缶詰の牛肉や豚肉を輸出するように輸出するというのなら、不幸中の幸いというものだろう。そうであれば、時折、夫の腿肉を食べる女たちが展示されるだけのことであろう。それはまた、命のための偉大な戦いであり、我々が動物に対して行使しているのと同じ栄養を取るために殺す権利ということになるだろう。だがそうではないのである。我々が他人の首を切るのは快楽のため、名誉のためであり、我々はこれらくたばった死体を朽ちるに任せている。それは我々にペストとコレラをもたらす役にしか立たない。いやはや! 真の野蛮人とは文明人のことだ。それは怪物である。反対に、食人者は論理的である。私は彼に対してまったく軽蔑の念は抱かない。文明による変化を被っていない自らの自然に従って行動しているからである。
 だが黄金で飾り立てたどこかの将軍に食人種のカナク族(3)について尋ねてみるがいい!
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 こうした議論や憤慨は、アフリカ大陸の沿岸で我々が買って出ようとしている見せしめのための小さな戦闘(4)に向けるにしてはあまりに激しすぎ、大げさすぎるだろう。
 しかしながら、ご婦人方の気晴らしのためのこの争いについて、戦争省の大臣(5)(彼は起こっていることにすっかり驚いているようだが)を筆頭に、その後に起こりうることについて自問している者が誰かいるのかどうか、私は疑問に思っているのである。
 反対に、私の確信するところでは、我々がチュニスやクルミール族を攻撃し、征服するか単に我々の国境を守るかしたら、その時に何が起こりうるか正確に分かっている者など存在してはいないのだ。
 作戦計画はブーム将軍(6)に因るのだろうか?
 我々には不衛生なにきびがあって、それがつまりチュニスだった。我々はそれをしっかりと焼灼できて、すっかり終わったはずだった。
 だが全然そうではなかったのだ。それをひっかき、あまりにひっかいてしまったので、我々は丹毒にかかってしまった。さて、何人かの山賊が国境で何人かを殺す。すると、民衆全体がどよめく。何でも真に受ける人たちから成るこの国の端から端までに震えが走る。人々はささやく。
 ――戦争! 戦争! チュニス、ルスタン(7)、マッキオ(8)、ルスタン!
 そして興奮したブルジョアが一斉に暖炉のそばで新聞を振り回し、仰天した家政婦の前で、妻や子どもを相手に叫ぶ。
 ――チュニスへ、チュニスへ!
 やがて、権力者たちが言い合うことになる。
 ――世論を考慮しなければならん。
 そして軍隊に武装させ、移動させる。大西洋横断定期船を徴用し、大騒ぎをしながら、密かにこう考えている。
 ――何が起こるか確かめるのにちょうどいい時というものがあるものだ。
 そのとき、チュニスの太守は、クルミール族などより他にするべきもっと大事なことがあるのだが、我々が武装していると新聞で知る。彼は戦争省の大臣自身を呼んで、彼に言う。
 「将軍、私の軍隊の一部を率いて、あの善良なるフランス人たちが国境で何を行っているのか見に行ってくれたまえ。」直ちにチュニジアの将軍は少なくとも五百人の兵を連れて出発する。おおいに狼狽し、当惑したまま、フランスの将軍たちのほうへ進んでいくと、フランスの将軍たちのほうもそれほど前進してはいない。そこで両側で、攻撃するべきか一緒に行進するべきか、撃ち合うべきか抱擁しあうべきかと自問する。答は日を見るより明らかである。

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 ただし、昔の政体がそうだったように、「戦争をする」という古代からの欲求を政府が感じない限りは。酔っ払いが改心しようとして、しばらくの間飲まずにいる。もう立っていられなくなり、ほんの少しと手を出してしまう。ああ! ただの数杯、ちょっと酔うだけじゃないか? ――それと同じことだろうか?
 人が「一か八か」の勝負に財産を賭けるように、政府は戦争を行う。もっとも個人の賭け金はわずかなものであるが、構いはしない、戦争からは栄光が湧きだしてくるし、それは威光、華々しい飾りともなるだろう。戦争とは奈落であり、指揮する者に目眩を起こさせるものだが、彼らは抗いがたくそこへ向かっていくのである。
 けれども私は決して忘れることはないだろう。ある朝、大通りで出会った一人のノルマンディーの老婆が、両手に大きな籠と巨大な傘を持ったまま立ち止まって、歩兵部隊が演習を行っているのを眺めていた。私が彼女のそばを通ると、彼女はこちらを向いて私に言った。悲しみに暮れ、憤慨し、反発する人の哀れな調子だった。
 ――ほらあれが、あの人たちが学ぶことの全部なのね! まったく恥ずかしいことですよ! あんなことのために五年も連れて行かれて、戻って来たときにも手に職一つあるわけじゃない。それでもまだ十分に貧しくなく、病気でもなく、なんでもないかのように、さらには人を殺させなきゃいけないっていうんですよ!
 小柄な兵士たちは前に後ろに行進し、そろって一度に右足を上げ、次に左足、首を回し、馬鹿みたいな様子でじっと一点を見つめたまま足踏みしていた。教官のよく響く声が朝方の空をのぼっていった。そして一人の中尉が、手を背中に回して寂しげに歩いていた。
 通りでは、一人の哀れな砕石夫が休むことなく単調でつまらない仕事を続けていた。私は老婆に言った。
 ――そうですね、おかみさん。けれど彼らは国を守ることも学んでいますよ。
 彼女はただこう答えただけだった。
 ――ねえ、あなた、私たちは動物以下ですよ。

*****

 私は、ベルギーの作家カミーユ・ルモニエ(9)が出版した『死体の山』(10)という書物を皆に読んでほしいと思う。
 スダンの翌日、彼は友人と共に出発し、徒歩でこの殺戮のあった祖国の地、戦場となった地域を訪れた。彼は人体の泥の中を歩き、流れ出た脳みその上で滑り、何日もの間、全域にわたって、腐敗と悪臭の中を彷徨した。彼は泥と血の中で「皺くちゃになって汚れたあの四角い紙片、友人の手紙、母親の手紙、婚約者の手紙、祖父母の手紙」を集めた。
 以下が、彼が目にした無数の内の一例である。
「ジヴォンヌの教会は負傷者で一杯だった。入口のところに、泥に混じって、踏みつけられた藁が山となって発酵していた。
 我々が入ろうとした時、看護人たちが、灰色の前掛けにべったり赤い染みをつけて、戸口のところで、ひどい匂いのする水たまりを掃き出していた。屠殺場で屠殺屋の木靴が音を立てるのと同じような水たまりだった。
 病院は喘いでいた・・・。負傷者は粗末なベッドに紐で結びつけられていた。動こうとすると、人々が肩を押さえて動けないようにした。そして時々、青ざめた顔がわら布団の上に半分ばかり起き上がり、死刑囚のような目で隣の手術を眺めるのだった。
 外科医が近づいて来ると、不幸な者たちが身をよじって叫ぶのが聞こえ、彼らは立ち上がって逃げ出そうとするのだった。
 鋸の下で、彼らはなおも叫び、その声は名づけようもなく、こもってしゃがれていて、皮を剥がれる者のようであった。「いやだ、やめてくれ、いやだ、放っておいてくれ・・・」両足を失ったズワーヴ兵の番だった。
 「皆さん、すまないが」と彼は言った。「ズボンを取られたんだ」
 彼は上着を着ていた。そして彼の足は、下の方をぼろ布で包まれ、そこから血が滲み出ていた。
 医者はこのぼろ布を取り去りにかかったが、それはくっつきあっており、最後のものは肉に貼りついていた。この粗末な包帯の上にお湯がかけられ、そうしながら外科医はぼろ切れを外していった。
 ――誰がこんな風にあんたに貼りつけたんだい? と外科医は尋ねた。
 ――仲間のフィフォレだよ、先生。――うっ。こいつは痛え。――あいつは・・・を持ってかれて、俺は足さ。俺はあいつに言ったんだ。「フィフォレ、俺たちは見事にやられたんだ。」「そうさ!」と彼は言って、それから、パン! 奴はうつぶせに倒れて、ひっくり返った!
 俺は爪で腹をさわりながら「うーうー」言っている一人のプロシア人のコートをはいで、それで仲間のフィフォレにそれをできるだけうまく包んでやった。そのとき、奴が起き上がって、俺には「ちくしょう」と叫ぶだけの時間があった。今度は俺が倒れる番だった。あいつは自分の上着を脱いで、それをおれの足にさ、先生・・・。
 鋸は細身で長く、歯には一面に小さなしずくが残っていた。
 集団の中に動きがあった。片方の部分が地面に置かれた。
 ――もうちょっとだよ、君、と外科医が言った。
 私は人々の肩の隙間に頭をさし込み、ズワーヴ兵を眺めた。
 ――さあ、速く、先生、と彼が言った。どうかなっちまいそうだ。
 彼はハンカチを噛みしめ、死人のように白い顔で、目玉は飛び出さんばかりだった。彼は自分で両手で足を押さえ、瞬間的に震え声で「うう!」と呻くと、こちらまで背中に鋸の歯を感じるようだった。
 ――終わったよ、お前さん! 二番目の部分を切り落としながら外科医が言った。
――ごきげんよう! ズワーヴ兵が言った。
 そして彼は気を失った。」
 この忌まわしい精肉加工を褒め称えるのは詩人に任せておこう。政治家には言わせておこう。「戦争は時には不可避なものであります。それに耐えましょう。それは恐ろしい必然なのです。」――結構、同意しよう。だがいずれにしても、歌の中のマルブルー(11)のように、いつ、どのように帰って来られるのか分からないうちは、絶対に出発してはいけない。
 チュニス、クルミール族等の後には、フラッテール大佐(12)の死の報復をせねばならず、恐らくはそこでまた他の懲らしめるべき野蛮人に出会う以上はなおさらである。つまりアフリカの地は肥沃な苗床となるかのようであり、そこでは我々のために戦争がいくらでも芽を出し、それによって医療者の手はふさがったまま、国家の高邁な感情は保たれるということになるだろう。


『ゴーロワ』紙、1881年4月10日付




訳注
(1) 1878年5月30日、ヴォルテール没後百周年の講演原稿より。引用者による省略がある。
(2) Helmuth von Moltke (1800-1891) : プロシア陸軍参謀総長として、1871年普仏戦争勝利に貢献した。
(3) ニューカレドニア北部のメラネシア系民族。18世紀から19世紀にかけて西洋人は食人種と見なしていた。
(4) 2月よりチュニジア・アルジェリア国境では原住民の部族間の対立が続いていた。首相ジュール・フェリーは4月7日、議会の承認を得てチュニジアへの出兵を決定。2万4千人から成る部隊がチュニジアのクルミール族討伐の名目で派遣された。
(5) 当時の大臣は Jean-Joseph Farre (1816-1887).
(6) ジャック・オッフェンバックのオペラ=ブッフ La Grande-Duchesse de Gérolstein 『ジェルロスティン大公妃殿下』(1867) の人物「ブン大将」。
(7) Théodore Roustan (1833-1906) : テオドール・ルスタン、外交官。1874年よりチュニスのフランス総領事。1881年5月12日バルドー条約締結によりチュニジアの保護領化が決定した際、初代の総督 résident général に就任する。
(8) Licurgo Maccio (1826-1905) : リクルゴ・マッキオ、外交官。1878年より81年までチュニスのイタリア領事。ルスタンに対立し、フランスの権益の妨害に努めた。
(9) Camille Lemonnier (1844-1913) : ベルギーの小説家。1881年『牡』Un mâle でフランスでも名を広めた(モーパッサンも書評を残している。「一冊の書物を巡って」« Autour d'un livre », Le Gaulois, le 4 octobre 1881)。「ベルギーのゾラ」とも呼ばれたが、今日では自然主義よりもむしろデカダン派に分類される。『取りつかれた男』 (Le Possédé, 1890) 『ブルジョアの終り』 (La Fin des bourgeois, 1892) 『恋する男』 (L'Homme en amour, 1897) 等。
(10) Les Charniers, préface de Léon Cladel, A. Lemerre, 1881. 本書は、Sédan, Bruxelles, C. Muquardt : H. Merzbach, successeur, 1871 の再販。モーパッサンの言う「友人」とは画家フェリシアン・ロップスのこと。
(11) « Malbrough s'en va-t-en guerre » : 「マルブルーは戦争に行った」という18世紀末に流行した歌。
(12) Paul Flatters (1832-1881) : ポール・フラッテール、軍人・探検家。1880年にサハラ南部へ探検に出発。トゥアレグ族の襲撃にあって、81年2月に死亡した。




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