モーパッサン 『戦争』 (1883年)

La Guerre, le 11 décembre 1883



(*翻訳者 足立 和彦)

「戦争」掲載紙 解説 1883年12月11日、日刊紙『ジル・ブラース』 Gil Blas に掲載された時評文。フランスの植民地政策を批判した反戦論である。
 ナポレオン三世の第二帝政時に本格化したフランスの東洋進出は、第三共和制下においても継続された。首相ジュール・フェリーのもと、フランスはベトナムのアンナンおよびトンキン地方へ進出し、1882年、指揮官アンリ・リヴィエールはハノイを攻略。が、翌年リヴィエールは戦死。フランスは新たに兵を送り、8月、ユレ条約によってトンキン地方を保護領とするが、清朝はこれを認めず、なおも抗争が続く。本文はこの時期に執筆されたものだが、問題は決着せず、翌年の清仏戦争に至る。
 1881年4月10日『ゴーロワ』紙掲載「戦争」において、モーパッサンはフランスのチュニジア進出を批判した。その際の文章が、本文に改めて利用されており、さらに本文の一部は、1888年発表の『水の上』の中にも取り入れられる。その際、本文中の「そういう日が来ることだろう」の一文は、「そういう日が来ることはないだろう」に改められることになる。
 1870年普仏戦争に従軍した体験がモーパッサンに与えた影響は大きく、「戦争」を拒絶する彼の言葉には、「戦争」の引き起こす残虐と愚劣さに対する怒りと嘆きが籠められている。


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 つまり、中国との戦争が話題というわけだ。だが何故なのか? それは分からない。目下のところ、大臣達はためらい、彼方で人々を殺させるかどうかを議論している。人を殺させるということは、彼らにとってはまったくどうでもいいことであり、ただその言い訳のみを憂慮しているのである。中国は、東洋の理性的な国であって、この算術的な殺戮を避けようと努めている。フランスは、西洋の野蛮な国であって、戦争へと突き進み、それを探し求め、望んでいる。
 戦争、というこの一語を耳にすると、まるで妖術や異端審問といった、遠くに過ぎ去ったもの、忌まわしく、怪物的で、反自然的なものについて話しかけられているかのように、私は動揺を覚えるのだ。
 人肉食について話題になると、我々は微笑を浮かべて、こうした野蛮さに対して我々が優れていることを高慢にも主張する。野蛮とは、真の野蛮とはどういうものなのか? 負けた相手を食うために戦う者か、殺すため、ただ殺すためだけに戦う者なのか? 中国の一都市が我々を誘惑した。その街を手に入れるために我々は出かけて行き、五万人の中国人を殺し、一万人のフランス人の喉が掻き切られる。この街はといえば、まったく我々の役に立たないだろう。そこにはただ国家の名誉の問題しかないのである。つまり、国家の名誉(奇怪なる名誉!)が、我々のものでもない都市を奪うように我々を駆り立てる。国家の名誉は、強奪すること、一都市を強奪することで満足し、五万人の中国人と一万人のフランス人との死によって、一層満足することだろう。
 そして、彼の地に斃れることになるのは若者達であるが、彼等は働くことも、産み出すことも、人の役に立つこともできるはずの者達である。彼等の父は年老いて貧しい。彼等の母は、二十年の間、彼等を愛したし、母親がそうするであろうように彼等を慈しんだのだが、六か月後には、自分の子供が、あれほどに苦労して、あれほどに金をかけて、あれほどに愛情を注いで育てた大きな子供が、葦の林の中で、胸に銃弾で穴を開けられて斃れたことを知るのだろう。何故、彼女の息子、美しい息子、彼女の唯一の希望、彼女の自慢であり、人生そのものであった彼女の息子が殺されたのか? 彼女は知らない。そう、何故だというのか? 何故ならば、アジアの奥に北寧(バクニン)という名の街があったからだ。何故なら、その街を知りもしない一人の大臣が、それを中国人の手から奪うのを面白がったからだ。
 戦争!・・・ 戦うこと!・・・ 殺すこと!・・・人間を殺戮すること!・・・ そして今日の我々は、この時代に、我々の文明の中において、科学の発展と、人間の叡智の到達しえた哲学の程度とにあって、殺すことを教える学校を所有しているのだ。はるか遠くから、完璧に、同時にたくさんの人間を殺すことを、家族を背負い、犯罪記録のある訳でもない、無実なる哀れな者達を殺すことを。ジュール・グレヴィ氏(1)は、最も忌まわしい殺人者に、女達を切り刻んだ者に、親殺しに、子供の首を絞めた者に、断固として許しを与えるのである。そして次に、ジュール・フェリー氏(2)は、国家も、代議士も驚くような外交的気まぐれから、軽い気持ちで、何千もの勇敢な少年達を死刑に処するのだ。
 そして、最も驚くべきことには、民衆全体が政府に向かって立ち上がらないのである。それでは王制と共和国との間にどんな違いがあるというのか? 最も驚くべきことには、社会全体が、戦争というこの一語に対して反抗しないのである。
 ああ! 我々はまだ何世紀もの間、野蛮だった我々の祖先の持っていた古く醜い習慣、犯罪的な偏見、残酷な考え方の重石の下に生き続けるのだろう。
 解放と真実を求めるこの偉大な叫びを発したヴィクトール・ユゴー以外のすべての者を、人は糾弾しなかっただろうか?
 「今日、力は暴力と呼ばれ、裁かれ始めている。戦争は告発されているのである。文明は、人類の呻き声の上に、征服者や指揮官どもを予審に付し、彼等についての大きな犯罪調書を作成している。民衆は遂に理解する。大罪の規模を大きくすることは、それを減らすことにはならないと。殺すのが罪であれば、多くを殺すことは、情状酌量になりはしないということを。盗むことが恥であれば、侵略は栄誉ではありえないことを。
 ああ! こうした絶対的真実を主張しよう。戦争を貶めよう!(3)

***

 この分野における巧みな芸術家、才能ある殺戮者、ド・モルトケ氏(4)は、今から二年前、平和連盟の代表者に対して、次のような奇怪な返答を行った。「戦争とは神聖なもの、神の掟によるものである。それはこの世界の聖なる法の一つである。それは人間の内に、最も偉大で、最も高貴なる感情、名誉、公正、美徳、勇気を培い、一言で申すなら、最も醜い物質主義に堕するのを防いでくれるのである!」
 すなわち、四十万の群れを成し、昼夜休みなく歩き続け、何も考えず、何も研究せず、何も学ばず、何も読まず、誰の役にも立たず、汚れて腐り、泥の中に眠り、絶えず朦朧としたまま獣のように生き、都市を強奪し、村落を焼き払い、人々の財産を失わせ、それからまた別の人肉の集団に出会っては、その上に飛びかかり、血の湖や、砕かれて泥土と混ざり合い赤く染まった肉の平野、死体の山を作り上げた上、腕や足をもぎ取られ、脳みそをつぶされながら、誰にも益することなく、戦場の片隅に朽ち果てる一方で、年老いた両親、妻や子供たちは餓えで死ぬ。それが、最も醜い物質主義に堕さないと呼ばれることなのである!
 軍人とはこの世の災厄である。我々は自然、無知、あらゆる種類の障害と戦って、我々の惨めな生活の厳しさを和らげようとしている。人々、篤志家、学者達は人生を捧げて働き、助けになるもの、救いになるもの、同胞を慰めうるものを探している。彼等は進む、自らの有用なる労働に専心し、発見を積み重ね、人間の精神を大きくし、知の領域を広げ、日々知性に多くの新しい知識を与え、日々彼等の祖国に幸福と安楽と力とをもたらしている。
 戦争がやって来る。半年の内に、将軍達は、二十年にわたる努力と忍耐と労働と才能との成果を破壊した。
 それが、最も醜い物質主義に堕さないと呼ばれることなのである。
 我々はそれを見た。戦争をである。我々は人間が野獣へと戻り、狂乱し、快楽から、恐怖から、虚勢から、見せびらかしから殺すのを目にした。もはや法が存在せず、死に絶えてしまい、正義という観念が一切消え果てた時に、我々が目撃したのは、道先で出会った無実の人々が、彼等が怯えていたからというので疑わしいと判断され、銃殺された姿である。我々が目にしたのは、新しい拳銃を試すためにと、主人の家の前で、繋がれたまま射殺された犬達である。我々が目にしたのは、快楽目当てに野原に眠る牛達に機銃掃射する姿であり、どんな理由もなく、ただ銃を撃つのが目的であって、笑い話のためだった。
 それが、最も醜い物質主義に堕さないと呼ばれることなのである。
 ある国に侵入し、自分の家を守る人間を殺し、それというのもその者が仕事着を着て、軍帽を被っていなかったからであり、もはやパンすらない哀れな人々の住居を焼き、家具を破壊し、別のものは盗み、貯蔵庫で見つけたワインを飲み乾し、通りで出会った女を犯し、何百万フランを燃やして粉にし、後には悲惨とコレラだけを残していく。
 それが、最も醜い物質主義に堕さないと呼ばれることなのである。
 わずかばかりの知性の存在でも証明するために、彼等は一体何をしたのか、あの軍人達は? 何もしていない。彼等は何を発明したのか? 大砲と鉄砲、それだけである。
 手押し車の発明者パスカルは(5)、一個の車を二本の棒と合わせるという単純で実用的なアイデアによって、現代の要塞の発明者ヴォーバンよりも、人間に対してより多くのことを成したのではなかったか?
 古代ギリシャの何が我々に残っているのか? 書物と彫像である。ギリシャが偉大なのは、この国が征服したからのか、それとも作りだしたからなのか?
 彼等が最も醜い物質主義に堕するのを防いだのは、ペルシャ人の侵略なのか。
 ローマを救い、再生させたのは、野蛮人の侵略なのか?
 ナポレオン一世は、前世紀末に革命的な哲学者達によって始められた偉大な知的運動を継続させたのか?
***

 そうとも、政府がこんな風に民衆に対して死をもたらす権利を有している以上、時には民衆が政府に対して死の権利を有するというのは、驚くべきことではない。
 彼等は自分の身を守るのであり、彼等には理がある。他者を支配する絶対的な権利は誰にもない。それができるのは、指揮される者にとって善である場合のみである。統治する者であれば誰であっても、船長が難破を避ける義務があるのと同様に、戦争を避ける義務があるのだ。
 船長が船を失った時には、彼は裁かれ、怠慢や無能力が認められれば、刑を宣告される。
 戦争が宣告される度に、どうして政府を裁かないのか? 過失や無能故に敗北した時には、どうして政府に刑罰を与えないのか。
 そうしたことを民衆が理解した日から、彼等が自分達自身で、殺人を犯した政府の誤りを正すようになった日から、彼等が理由もなく殺されるのを拒むようになった日から、必要とあれば、自分達の武器を、殺戮のために彼等にそれを与えた者に対して用いるようになった日から、戦争は存在しないだろう。そしてそういう日が来ることだろう。

***

 私は、ベルギーの作家カミーユ・ルモニエ(6)の素晴らしくも恐ろしい書物を読んだ。題を『死体の山』(7)という。スダンの翌日、この小説家は友人と共に出発し、徒歩でこの殺戮のあった祖国の地、最後の戦場となった地域を訪れた。彼は人体の泥の中を歩き、流れ出た脳みその上で滑り、何日もの間、全域にわたって、腐敗と悪臭の中を彷徨した。彼は泥と血の中で「皺くちゃになって汚れたあの四角い紙片、友人の手紙、母親の手紙、婚約者の手紙、祖父母の手紙」を集めた。
 以下が、彼が目にした無数の内の一例である。短い断片しか引用することができないが、全体をお目にかけたいところである。
「ジヴォンヌの教会は負傷者で一杯だった。入口のところに、泥に混じって、踏みつけられた藁が山となって発酵していた。
 我々が入ろうとした時、看護人達が、灰色の前掛けにべったり赤い染みをつけて、戸口のところで、ひどい匂いのする水たまりを掃き出していた。屠殺場で屠殺屋の木靴が音を立てるのと同じような水たまりだった。
 病院は喘いでいた・・・。負傷者は粗末なベッドに紐で結びつけられていた。動こうとすると、人々が肩を押さえて動けないようにした。そして時々、青ざめた顔がわら布団の上に半分ばかり起き上がり、死刑囚のような目で隣の手術を眺めるのだった。
 外科医が近づいて来ると、不幸な者達が身をよじって叫ぶのが聞こえ、彼等は立ち上がって逃げ出そうとするのだった。
 鋸の下で、彼等はなおも叫び、その声は名づけようもなく、こもってしゃがれていて、皮を剥がれる者のようであった。「いやだ、やめてくれ、いやだ、放っておいてくれ・・・」両足を失ったズワーヴ兵の番だった。
 「皆さん、すまないが」と彼は言った。「ズボンを取られたんだ」
 彼は上着を着ていた。そして彼の足は、下の方をぼろ布で包まれ、そこから血が滲み出ていた。
 医者はこのぼろ布を取り去りにかかったが、それはくっつきあっており、最後のものは肉に貼りついていた。この粗末な包帯の上にお湯がかけられ、そうしながら外科医はぼろ切れを外していった。
――誰がこんな風にあんたに貼りつけたんだい? と外科医は尋ねた。
――仲間のフィフォレだよ、先生。――うっ。こいつは痛え。――あいつは・・・を持ってかれて、俺は足さ。俺はあいつに言ったんだ。
・・・
 鋸は細身で長く、歯には一面に小さなしずくが残っていた。
 集団の中に動きがあった。片方の部分が地面に置かれた。
――もうちょっとだよ、君、と外科医が言った。
 私は人々の肩の隙間に頭をさし込み、ズワーヴ兵を眺めた。
――さあ、速く、先生、と彼が言った。どうかなっちまいそうだ。
 彼はハンカチを噛みしめ、死人のように白い顔で、目玉は飛び出さんばかりだった。彼は自分で両手で足を押さえ、瞬間的に震え声で「うう!」と呻くと、こちらまで背中に鋸の歯を感じるようだった。
――終わったよ、お前さん! 二番目の部分を切り落としながら外科医が言った。
――ごきげんよう! ズワーヴ兵が言った。
 そして彼は気を失った。」

***

 そして私は思い出すのだ。ある勇敢な水夫がしてくれた、この前の中国への遠征の話を。彼はまだ喜んでそれを笑っていた。
 彼は語った。兵士を楽しませるために通りに沿って並べられた、串刺しにされた捕虜達。処刑された者の大変滑稽なしかめ面。上級士官に命令された虐殺は、その地域を恐怖に陥れるためであり、東洋のああした住居でなされた強姦は、怯える子供達の目の前で行われ、両手に山と抱えた強奪において、物を持ち去るためにズボンは足首で括られていた。規則正しい略奪は、公共企業体のように職務を遂行し、小市民の家屋から荘厳な夏の離宮までが荒廃に帰したのである。
 もし我々が中国と戦争をすれば、漆塗りの古家具や高価な中国製の陶器は大変に値下がりすることだろう、愛好家の皆さん方。

ジル・ブラース紙、1883年12月11日付




訳注
(1) Jules Grévy (1807-1901) 1879-1887年の間、フランス共和国大統領。
(2) Jules Ferry (1832-1893) : 政治家。教育の世俗化、および植民地政策に積極的に関わった人物として知られる。1880年9月-1881年11月、1883年2月-1885年3月首相。
(3) 原文引用符無し。編集者の誤りと思われる。1881年の記事、および『水の上』では引用符が付されている。1878年5月30日、ヴォルテール没後百周年の講演原稿より。引用者による省略がある。
(4) Helmuth von Moltke (1800-1891) : プロシア陸軍参謀総長として、1871年普仏戦争勝利に貢献した。
(5) パスカルが一輪の手押し車を発明したという伝説が存在する。実際にはヴィネグレットと呼ばれる二輪の腰車の改良を行ったとされる。
(6) Camille Lemonnier (1844-1913) : ベルギーの小説家。1881年『牡』Un mâle でフランスでも名を広めた(モーパッサンも書評を残している。「一冊の書物を巡って」« Autour d'un livre », Le Gaulois, le 4 octobre 1881)。「ベルギーのゾラ」とも呼ばれたが、今日では自然主義よりもむしろデカダン派に分類される。『取りつかれた男』 (Le Possédé, 1890) 『ブルジョアの終り』 (La Fin des bourgeois, 1892) 『恋する男』 (L'Homme en amour, 1897) 等。
(7) Les Charniers, préface de Léon Cladel, A. Lemerre, 1881. 本書は、Sédan, Bruxelles, C. Muquardt : H. Merzbach, successeur, 1871 の再販。モーパッサンの言う「友人」とは画家フェリシアン・ロップスのこと。




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