モーパッサン 「自由思想」
« Pensées-libres », le 14 décembre 1881
(*翻訳者 足立 和彦)
解説 1881年12月14日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された記事。
「自由」を前に置く libre pensée 「自由思想」の語は、19世紀当時、宗教をはじめとする権威を否定する思想を意味した。ここでモーパッサンの語る「自由思想」もその系列において考えてよいだろう。
モーパッサンは、人間の行為の唯一の原則は「エゴイズム」であると断言し、宗教感情や道徳、愛情に至るまで、すべては社会上の体裁としてエゴイズムを粉飾するためのものであるとする。
訳文中「詩趣を取り去ろう」と訳した語 « dépoétisons » は、現実を偽るものとしての「詩情」を取り除く行為を指す。70年代の初期詩篇から80年代の短編小説に至るまで、現実の「脱詩化」は、モーパッサン文学の根幹を成す特徴の一つであると言えるだろう。その意味において、本論はモーパッサン文学を理解する上で重要な一文である。
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先日、ユベルティーヌ・オークレール嬢(1)から送られた手紙を掲載したが(2)、そこでは「夫婦生活から不幸と不道徳を追放するためには、法律と自然とを一致させ、風俗と貞節とを調和させる必要があるでしょう」と書かれていた。
アンリ・フーキエ氏(3)はこの文章を引用した上で、たいへんに機知を込めて、ある老劇作家が新人に与えたという助言を思い返している。「良い芝居を作るには」と、劇作家は言うのである。「導入部で興味を抱かせ、展開部で魅了し、結末で感動させなければならない。」
このレシピがあれば成功は保証されている。
「風俗を貞節と調和させる」というのは、まさしく、この世が始まって以来、あらゆる道徳家が自らの使命としてきた仕事である。おおよそであってさえ成功した者は一人もいない。これほどに長く試験を続けた後となっては、風俗と貞節とはいつでも喧嘩状態にあると結論づけるのが、十分に論理的というものであるように思われる。
「法律を自然と一致させる」という方に関しては、それはなお一層はるかに困難な仕事であるだろう。自然に逆らうためにこそ法律は作られているから、というのが、そのごく単純な理由である。
実際、自然は我々に本能を与えており、それが「自然法」というものである。古代人は困難をよく承知していたから、今日我々が悪徳と呼ぶものを、ごく簡単に神々だとしておいたのである。
だが社会的つながりの規則が変化すると、同時に道徳も修正された。実際、道徳とは、市民法の論理的帰結、その理想的な補完物であって、それらの全体がもっぱら自然法に対する障害となっているので、自然法は絶えず人間の慣習を邪魔することになるのだろう……。さて、結婚とはまさしく、現在作られているような社会にもっとも不可欠な法である。同時に、それは我々の本能的衝動が侵犯することをもっとも強力に我々に要求する法でもある。ユベルティーヌ・オークレール嬢や他の誰かが、すべてを和解させる手段を明らかにしてくれたなら、数多くの立法者が深い安堵を感じることだろう。ゆえに私としては、新たな解明がもたらされるまでは、次のように結論づけるのみである。
「道徳」というこの一語を口にしたのだから、この追放されし者について話すことにしよう。人の言うところでは、大臣の求めに応じて、たくさんの学者先生たちが寄宿学校や中学校向けの科学的道徳の計画を作成したという。
なんと、新しい教理問答書だというのか! それにしても「科学的道徳」という語は、鯉とウサギのつがいを思わせるに十分である。
道徳とは何か? それは我々の行動の動機を美化することである。それは、自分の思惑を、献身とか魂の偉大さとか寛大さなどのニュアンスで色づけることによって、自分自身に対して自分を本来の自分以上に良い者と見せかける繊細な技法である。それは、人類の役に立つように人生を詩的に美化することである。本紙の編集主幹がいみじくも述べたように、宗教とは根こそぎにできないものであるが、それは宗教が絶えず人間の脳に取りつく理想を表現しているからである。宗教は詩情の一つの形態である。そうであれば、道徳とは法の詩情を表しているのである。
科学的道徳について言えば、それはつまり法律である。なにか他のものを構想することは不可能であろう。
科学を論じるということは、いっさいの推測を、確認された真実に帰するということである。
だから科学的道徳を作ってみることにしよう。道徳とは何かを確認しよう、つまりはそれから詩趣を取り除こう。社会組織に不可欠なものである道徳的な行動の一切は、その理想性に由来するものである。
我々の行為において常に感知可能な、美しい感情という花飾りの下に常に発見可能な唯一の動機とは何だろうか? ――それはエゴイズムである。
実際、直接的であれ間接的であれ、すべては「私」と関わるのではないだろうか? 人間の行為の一切は偽装されたエゴイズムの表明である。行為の美質は偽装によってのみもたらされる。ある種の役者は、時々、自分が演じている人物そのものだと自分のことを思い込む。それが偉大な役者というものである。ある種の人間は、道徳が我々の行為にまとわせる偽装を信じ込む。それが善良な人々というものである。
もっとも気高い道徳を取りあげよう。あらゆる宗教における報いとは何であろうか? 死後における善行への褒賞と、悪行への処罰である。人というのは、再来が保証されることなしに一つの行為を、褒賞なしに善行を考慮することが決してないのである。「貧しき者に与える者は神に貸している(5)。」だが、有害な本能に身を任せるのを妨げるこの懲罰への恐怖と、現世のもっともはかない快楽を自らに禁じさせるこの将来の悦びへの希求とは、道徳と人類とに役立つように巧妙に開発された、エゴイズムの二つの極を表しているのではないだろうか?
社交界から身を引いた者が避難してくる修道院とは、この人生において一切を自らに禁じることで来生でより多くを得ようとする、エゴイズムによる加入でないとすれば、いったい何であろうか? そこにあるのは、永遠を約束する保険会社のようなものではないだろうか? 生きている内に味わいもしただろう幸福を、少しずつ天国の金庫に払い込んで、死んだ後に増えた利子と一緒にまとめて全額に手をつけようというのである。守銭奴の洗練されたエゴイズムである。
引き続き、詩趣を取り除こう。
人による奉仕についてはどのように言えるだろうか?
そこでお尋ねするが、あなたが一つの奉仕をする時には、心の底では、千パーセントの利率であなたの寛大さを投資するのだという密かな確信を、あなたは抱いているのではないだろうか? あなたが親切にしてあげた相手は、あなたから裏切り者とか不誠実な人間と思われないようにするために、人生の最後の日まであらゆる仕方で、あなたに恒常的で根気強い感謝の念を示す心構えをしていなければならないのではないだろうか?
否定しようのない真理を含んだ以下の二つの箴言を発明したのは私ではない。――「人は自分にしてくれた奉仕に対して他人に感謝するものである。」――そして――「人は自分に善行を施してくれた隣人を愛するものである。」
繊細なエゴイズムでないとすれば、これは一体何であろうか?
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つづけて詩趣を取り去ろう。他の例が必要だろうか? では、ここにご婦人方用のが一つある。
愛を取りあげよう。それは熱狂した者の誰もが言うところでは、自己犠牲、英雄的行為、もっとも高貴な献身の生みの親であり、無私無欲の理想の形を表しているという。
本当のところ、あなたが誰かをあなた自身以上に愛しているという時、あなたはそれによって何を言わんとしているのか? ――ごく単純に、その者を愛することで、あなたはあまりに鋭く、あまりに激しく、あまりにも力強い快感を味わっているので、一切のもの、あなたの財産も、あなたの将来も、あなたの人生も、この快感ほどの価値を持たなくなったということである。それは激しく高ぶった状態にあるエゴイズムである。
奥様、あなたはお答えになるでしょう。――「それは正しくありません。私は彼を彼のために愛しているのであって、私のためではありません。私はもう自分のことを考えません。私は彼のためにすべてを犠牲し、彼のために死ぬ用意ができています」と。だがそのことが証明しているのは、ただその愛があなたに与えている幸福ゆえの熱狂だけなのである。
激しく高ぶった状態にあるエゴイズムと私は先に述べた。それはやがては残忍なエゴイズムともなるだろう。説明しよう。
二人の恋人のうちの一人が、自分の愛情の糸巻を繰り出し尽してしまうと、糸を切って立ち去り、もう相手のことを構わず、不適切ながら「背中一杯に背負う」と人の言うように相手の存在にうんざりして、新しい情熱を探しはじめる。それはエゴイズムなのか、それとも無私無欲なのだろうか?
だが、いつまでも愛しつづけているもう一方の恋人は何をするだろうか? その者は卑俗な言葉で「しつこい奴」と呼ばれる者になる。ひっきりなしに、哀れみもなく、休むことなく逃げ去る者に執着するのだ。そこから始まるのが、分かちもたれない情念のもたらすあの苛立たしい迫害、大騒ぎ、詮索、車での追跡、激しい嫉妬であり、手にはナイフ、拳銃、あるいは硫酸のガラス瓶を持つに至るのである。
そこにあるのは、恐らくは自己犠牲であり無私無欲でもあるだろうか?
それはエゴイズムの狂乱である。
そうです、奥様。もしも愛が献身であるなら、あなたがもう愛されてはいないと感じた日から、あなたはあなたの幸福を、あなたに対して不実な者の幸福のために犠牲になさるでしょう。その者を恩知らず(何において恩知らずなのか?)、裏切り者(なぜ裏切り者なのだろうか?)、卑怯者(何について卑怯なのか?)、その他無数の同じように不当な名前で呼ぶ代わりに、あなたは彼に告げるだろう。「あなたが別の女性のほうを好んで、彼女と一緒にもっと幸福になろうと望むのですから、どうぞ自由におなりなさい。だって私は、あなたの幸福しか望んでいなのですもの!」
こんな風に振る舞うのは、おそらくいささか愚かなことであろう。だがそれこそが、確かに、魂の偉大さ、自己犠牲と人の呼ぶものであるだろう。
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休まずに詩情を取り去ろう。
国にとって、愛国心以上に有用な感情があるだろうか? それ以上に気高く、高貴な感情があるだろうか? まったく、科学的道徳家の諸君は、現存するもっとも偉大な思想家の一人、恐らくあなた方も知らないとは言わない人物、ハーバート・スペンサーのあの言葉を、子どもたちに教えるのだろうか。――「国家にとっての愛国心は、個人にとってのエゴイズムに等しい。同じ根を持ち、同じ善を生み出すが、同じ悪徳も伴っている(6)。」
この間、たいへんに評判の人物が道徳の話をしていて、次のように言うのを私は耳にした。「非宗教的な道徳の一切は次の一文に含まれている。『自分がしてほしいと思わないことを、他人にしてはいけない。』そこにこそ、法律の起源、隣人愛の原則、社会的つながりの規則、我々の行為を計る基準、個人の許される限界がある。それこそがすべての答である。」
私はこの意見に同意するが、しかし、たいへん見事なこの教えを掘り下げると、最後にはそれが巧妙な手品であると確信することになる。「自分がしてほしいと思わないこと」、それはエゴイズムの美化である。
科学的、あるいは哲学的な道徳? だが精神の現象に関する科学である哲学とは、我々にその変動、その変容、絶えず目にする根本的なその矛盾を教える(あなた方はそのことを否定するだろうか?)が故に、道徳の否定なのではないだろうか?
それではあなた方は一切の行為の原則としてエゴイズムを教えるか、あるいは我々の行為の裸の姿を隠すために新たな衣服を発明するのだろうか? より論理的であったある頑固者は言ったものだった。「私は道徳を廃止する」と。
ところで、芸術がなければ、絵画、文芸、音楽がなければ、女性のエレガンス、機知、優美さがなければ、宮殿、細工した大理石、大都会の見事な構成がなければ、詩のヴェールがなければ、人生はどうなってしまうだろうか? 我々が愛するすべてのものは、その詩のヴェールを通して、我々の前に現れてくるのである。
貞節に対する道徳は、人生に対する芸術に等しいのである。
『ゴーロワ』紙、1881年12月14日付
訳注
(1) Hubertine Auclairt (1848-1914). 女権拡張を求めて運動した活動家。1876年に「女性の権利」Le Droit des femmes という名の団体を設立、女性への選挙権付与を訴えた。1881年2月には新聞『女性市民』La Citoyenne を創刊している。
(2) 「スティリアーナ」 « Styliana », Le Gaulois, 29 novembre 1881. 先に「あるジレンマ」 « Un dilemme » (22 novembre) の末尾に、モーパッサンがオークレールに意見を聞いてみたいと記したのに対する彼女の返答。
(3) Jacques-François-Henry Fouqier (1838-1901). ジャーナリスト。第三共和政下では Le Bien public, Courrier de France, L'Événement, Le Figaro, Gil Blas などに記事を掲載。モーパッサンは「時評文執筆家諸氏」(『ジル・ブラース』、1884年11月11日)の中でフーキエを紹介している。
(4) メイヤック、アレヴィー台本、オッフェンバック作曲のオペラ=ブッフ『パリの生活』(第2版、1873年初演)、第4幕第1場の中の台詞。Henri Meilhac et Ludovic Halévy, La Vie parisienne (seconde version, 1873), IV, I.
(5) « Qui donne aux pauvres prête à Dieu. » 『旧約聖書』、「箴言」19, 17. ヴィクトール・ユゴーの詩集『内なる声』(1837)所収の詩篇「神は常にそこにいる」中の一行でもある。Victor Hugo, Les Voix intériures (1837), « V. Dieu est toujours là », II, v. 106.
(6) ハーバート・スペンサー、『社会学研究』、第10章「愛国心についての偏見」中の言葉。Herbert Spencer, Introduction à la science sociale (Study of sociology), 2e édition, Germer Baillière, 1875, chapitre X, « Les Préjugés du Patriotisme », p. 222.