モーパッサン
「仲間意識?……」

« Camaraderie ?... », le 25 octobre 1881



(*翻訳者 足立 和彦)

「仲間意識?……」掲載紙 Source gallica.bnf.fr / BnF 解説 1881年10月25日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載された評論文。作家マクシム・デュ・カンのフロベールに関する記事に抗議の意を表明している。
 同年9月、デュ・カンは『両世界評論』に連載していた『文学的回想』のなかで、フロベールがてんかんを患っていたことを暴露し、これを作家の性格と結びつけて論じた。モーパッサンは、作家のプライベートな情報を暴く無神経さに抗議すると同時に、その記事を受けて書かれた批評家ジュール・クラルティのフロベールについての論評にも反論している。
 芸術家は作品だけを公衆に提示するのであり、私生活は秘密にされなければならないというのがフロベールの思想であり、弟子であるモーパッサンもその理念を共有していた。それだけに一層、デュ・カンの行為は容認しがたいものだったのであり、モーパッサンはかなり激しく反応している。本論は、弟子として、継承者としてのモーパッサンの姿勢を垣間見ることのできる一文となっている。
 なお、この記事に対する批評家レオン・シャプロンの反論に対し、モーパッサンは「返答」(10月27日)を発表している。


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仲間意識?……


 民衆の記憶に名を遺すような最も偉大な者たちが属する文芸共和国は、自分の子どものなかに有名だった者すべてを数えている。この共和国は人類のエリート集団であり、偉大な思考や概念、それに最も誇らしげに表現された精神の母であった。
 そうであればこそ作家たちは、文学への敬意、自己の尊重、自身の芸術に対する自負ゆえに、互いに支え合い、擁護し合い、とりわけ亡くなった偉人たち、その名が将来、文学者というこの困難かつ高貴な職業の上に輝かしい栄光と光輝を投げかける偉人たちの記憶を、無傷に保つ義務を負っているのではないだろうか!
 通常なら平凡な「仲間意識」という語は、「文学者の仲間意識」となると特別な意味を持つのではないだろうか? 思考とはこの世で最も気高く非物質的なものだが、ただ思考のために生き、思考によって生きる者同士のあいだには、普通以上の関係、神聖な関係が存在するはずではないだろうか?
 ところが、なんということ! 作家同士のあいだに関係が存在するとしたら、それは嫉妬の関係なのである。
 断じて他のどんな領域、どんな職業、どんな芸術においても、ライヴァルを中傷したいという欲求、他人の成功に対する怒り、他者の才能のあらゆる多様な表れに対する意図的ないし意図せざる無理解が、ここまで幅をきかせることはない。文学者が集うところではどこでも、彼らは同業者を「けなしている」のである。
 それゆえに、もしも我々のうちの誰かが、誰にも愛情も同情も求めないでいられるほど強くないなら、そして自分の心をすっかり打ち明けられる友人が欲しいと思うなら、決して作家のなかにその友人を探さないことだ!
 私は、例外があることを否定しない。そうした例を目にしたこともある。だがそれはごく稀なのである。

***

 文学者の友情は、忠実で誠実で確実なものであったとしても、それでも危険である。なぜなら文学者の内面には、友人への献身よりも根強い、話したい、書きたい、判断したいという欲望のうずきのようなものがあり、それが無意識のうちにも彼を押しやって行動させ、その結果を当人もよく予測できないのである。
 そうしたことがごく最近にも見られたが、私は、マクシム・デュ・カン氏(1)によって『両世界評論』に発表された『文学的回想』について話さざるをえなくなるようなことを望んではいなかった。
 デュ・カン氏はギュスターヴ・フロベールの親友の一人であり、フロベールを熱烈に愛していた。私もそのことは疑わないが、間違いなく、彼は自分の暴露がどのような影響をもたらすか予想してもみなかったのだろう。
 つまり今日、人々はギュスターヴ・フロベールが恐ろしい病、てんかんの患者だったこと、そのために彼が亡くなったことを知っている。この秘密を知っていた者たちはみな、注意深くそれを隠していた。この大家が夜に(辻馬車に乗ってでさえも)一人で家に帰ろうとしないのを見て外国人が驚く時にも、我々は偉大な作家の深い苦悩を彼らに語ったりはしなかった。フロベールは病的な羞恥心でもって、まるで恥辱であるかのように悩みを秘密にしていたのである。
 この内密な文書の公表に、私の心は深く傷つけられた。だが私は、恐らく自分が過剰に敏感になっているのだろうと思っていた。ところが故人の友人たちに会うにつれ、彼らがマクシム・デュ・カン氏の明らかに軽率な振る舞いにショックを受けていることを知ったのである。それだけではない。ルイ・ユルバック氏(2)のような無関係な者でさえ、『政治評論』誌のなかでこの暴露に対して激しく抗議しているが、それも理由のないことではない。他の者たちが後に続いた。そして私は手紙を受け取った。亡くなった有名な小説家を愛していた人たちからのたくさんの手紙である。そのうちの一通には心を動かされた。それは、私は会ったことがないし、私が親しくしていた気の毒な師をまったく知らない女性からのものだった。フロベールの作品の熱烈な讃美者である彼女は、女性の本能的で敏感な感受性から気を悪くし、二十行ばかりの見事な手紙を書いてきたのだが、その手紙はフロベール自身がよく話していた〈見知らぬ友人たち〉のことを考えさせるものだった。マクシム・デュ・カン氏はさらに、深刻な神経症に襲いかかられた日から、フロベールの精神は縛られてしまったようだ、その時から彼は変わらぬ概念と冗談の円の中を回りつづけたのだ、そして彼はもはや新境地を開くことがなかった、と述べている。加えてこの批評家は、古い友人の例外的な才能を認めながらも、もしも彼の知性がこの恐ろしい病によって曇らされることがなかったら、彼は「天才になった」だろうと言うのである!
 友情の問題を脇に置いておくとして、私は次の二点だけは答えておきたい。
 もし、バルザックと並んで、そしてバルザックの後に現代小説を作り出した人物、彼の個人的なインスピレーションが我々の文学全体に痕跡を残している人物、その創造の息吹がこんにち発表されるあらゆる小説のうちに見いだされる人物、「歓待者聖ジュリヤン」というあの見事な傑作を別にしても、『感情教育』、『ボヴァリー夫人』、『サランボー』、『誘惑』という書物を遺した人物、そのような者が天才でないのなら、私には誰が天才なのかまったくもって理解不能である! マクシム・デュ・カン氏はさらに、彼の友人の「想像力は破壊されてしまった」ために、フロベールは青年時代の着想を実現させることだけに残りの人生を費やしたと指摘している。もちろんそうだろう! 私にとってはそれで十分だ! そもそも、どんな芸術家であっても「成熟した」後には、想像と着想の能力が衰えていくように見えることを誰が知らないだろうか。その時に彼は創造する。花は一年中咲くわけではないが、繁殖力がある花は果実をみのらすだろう。そうでない花は枯れてしまう。人間も木々と同様なのだ。
 デュ・カン氏はさらにフロベールに対して、その特別な作家観、一文を入念に作りあげるための並外れた労働を非難しているようである。
 ボワローは「いつでも取りかかりたまえ等々(3)」と言ったのではなかったか?
 ビュフォンは「才能とは長い忍耐に他ならない(4)」と書いたのではなかったか?
 もっとも私は、デュ・カン氏の記事は多くの点で特別な正確さと、とても繊細な分析からなっているのを認めるのに少しもやぶさかではない。つまるところ、この才能ある作家は暴露を得意としているようだが、今度のようなものは無しで済ますこともできただろう。

***

 だが、これに関する以下のような文章の載った雑誌を人から渡されなかったら、いかに騒ぎが大きくても、私はこの文書について話すことはなかっただろう。なお、その文章の署名者が誰かを私はまったく知らない。
 「彼(デュ・カン氏)はこのギュスターヴ・フロベール、一冊の、いやむしろ二冊の本の著者の奇妙で病的な姿を思い出している。その恐ろしい苦悩によって、肥大化した思い上がり、怒りっぽい虚栄心、苛立たしい奇行が説明されるのだろう(5)。」
 「このギュスターヴ・フロベール」!――あたかもこの記事の著名な著者には、大した価値のない「この」小説家を軽蔑する権利があるかのようである。
 「肥大化した思い上がり」!――それはつまり、自分の価値を意識していたフロベールは、凡人に対して決して「カッシアをくれれば、センナをあげよう〔訳注:互いに譲歩しよう〕」とは言わなかったということである。彼はあらゆるジャーナリスティックな争い、あらゆる不和、どんな作家たちの怨恨からも距離を取っていた。彼は自分の身の丈にあった忠実な者たち、トゥルゲーネフ氏(6)、ゴンクール氏(7)、ルナン氏(8)、テーヌ氏(9)といった人たちや、今では有名になったが次世代に属する真の友人たち、ゾラ氏(10)やアルフォンス・ドーデ氏(11)とだけ一緒に暮らしてきた。彼は互いの記事による文学的仲間意識を、その価値によって判断していた。彼は仲間のなかで最良かつ最も献身的で最も情熱的な人物であり、古き友人ルイ・ブイエ(12)の記憶のために死の時まで戦い、市の参事会相手のグロテスクな論争にも関与し、嫌悪していた序文を書き、親しい故人たちの記憶のために時間を惜しまなかったのである。
 恐らくはそうしたこともが、「苛立たしい奇行」という言葉であなたが言おうとしたことなのだろう。ああ、『誘惑』と『教育』を否定し、『サランボー』をほとんど受け入れず、明らかに現代小説最大の大家の記憶にとってよりもあなたの名声にとって忌わしい事柄をあえて書いた批評家よ。
 私は「現代小説最大の大家」と述べた。そのように考えるのは私一人ではない。最近受け取った手紙から以下の一節を引用することをお許し願いたい。私は名前しか知らない外国人によるものだが、ヨーロッパで最も優れた批評誌の一つ、ベルリンの『雑誌』の編集長エドゥアルト・エンゲル博士(13)のものである。
 「文学的であると共に個人的でもある私の共感があなたに、そして〈現代芸術の偉大な大家〉であるギュスターヴ・フロベールの友人だった人たちに向けられているとお信じください。もしもあなたがたまたまベルリンに来られることがあったら、この地においてフロベールがダライ=ラマであるサークルをご覧になることでしょう。」ドイツにおいてさえ、このように考えられているのである。『リリュストラシオン』誌の時評家は違ったふうに判断しているのだろう。だがそれが遺憾なのは、フロベールにとってというわけではない。


『ゴーロワ』紙、1881年10月25日
Le Gaulois, 25 octobre 1881.
Guy de Maupassant, Chroniques, préface d'Hubert Juin, U. G. E., coll. « 10/18 », 1980, t. I, p. 294-298.

(画像:Source gallica.bnf.fr / BnF)




訳注
(1) Maxime Du Camp (1822-1894) : 作家、写真家。1851年、『パリ評論』創刊者の一人。1880年にアカデミー入会を果たしている。フロベールの友人で、1847年には共にブルターニュ、1849-52年には東方旅行へ出かけた仲だった。デュ・カンは『両世界評論』1881年9月号に『文学的回想』第4回「ギュスターヴ・フロベール (I)」を掲載した。
(2) Louis Ulbach (1822-1889) : ジャーナリスト、小説家、劇作家。1868年に諷刺新聞『クロッシュ』を創刊。1878年からアルスナル図書館司書の地位にあった。ユルバックは1881年9月17日の『政治文学ニュース』の記事のなかでデュカンの文章を取り上げている。
(3) Nicolas Boileau (1636-1711) : 17世紀の詩人、批評家。古典主義の理念の確立に寄与した。「ゆっくりと急ぎ、勇気を失うことなく/あなたの作品に二十度も取りかかりたまえ/絶えず磨き、さらに磨きあげたまえ/ときには付け加え、しばしば削りたまえ」『詩法』(1674)、第1歌、171-174行。
(4) Georges Louis Leclerc Buffon (1707-1788) :18世紀の博物学者。正確な原文は「天才とは、忍耐に対して一層ふさわしい適性に他ならない」« Le génie n’est qu’une plus grande aptitude à la patience. »(エロー・ド・セシェール『モンバールとビュフォンの城への旅』(1785) の中で報告されている)。
(5) 1881年10月15日の『リリュストラシオン』誌にペルディカンの筆名で掲載された記事「パリ通信」の一節。著者は評論家のジュール・クラルティだった。Jules Claretie (1840-1913) は小説家、劇作家、批評家。
(6) Ivan Tourgeniev (1818-1883) : ロシアの小説家。人道主義に立って社会問題を取り上げた。フランスに長期滞在し、フランスの芸術家と親しかった。『猟人日記』(1852)、『父と子』(1862) など。モーパッサンはフロベールを通してトゥルゲーネフと親交を持ち、彼の作品を高く評価した。最初の短編集『メゾン・テリエ』はトゥルゲーネフに捧げられる。また、彼が亡くなった時には「イヴァン・トゥルゲーネフ」(1883) などの追悼文を執筆している。
(7) Edmond de Goncourt (1822-1896) : 批評家・小説家。弟ジュールと協力して『ジェルミニー・ラセルトゥー』 (1865) などの作品を執筆。弟の死後は一人で創作を続けた。『娼婦エリザ』(1877) などによって、レアリスム文学の代表の一人と位置づけられる。美術収集家として日本美術に詳しく、また長年記した『日記』でも名高い。
(8) Ernest Renan (1823-1892):哲学者、歴史家。『キリスト教起源史』(1863-1881) の第1巻『イエス伝』(Vie de Jésus, 1863) においてイエスの生涯を実証的に記述した。
(9) Hippolyte Taine (1828-1893):思想家、歴史家。実証哲学を継承し、科学的手法を文芸研究に取り入れた。『英国文学史』(1864-1869)、『知性について』(1870)、『芸術哲学』(1882)、『現代フランスの起源』(1875-1893)。
(10) Émile Zola (1840-1902) : 小説家。文学への科学の導入を掲げ、自然主義の運動を主導した。全20巻からなる『ルーゴン=マッカール叢書』(1871-1893) において第二帝政下のフランス社会を描いた。
(11) Alphonse Daudet (1840-1897) : 南仏出身の小説家。短編集『風車小屋だより』で文名を確立。風俗小説を数多く著わした。『陽気なタルタラン』(1872) のシリーズなどが名高い。
(12) Louis-Hyacinthe Bouilhet (1822-1869) : 詩人・劇作家。ルーアンの中等学校でフロベールの同級生となり、以後親しい友人となった。『メレニス ローマの物語』(1857)、詩集『フェストンとアストラガル』(1859)、戯曲に『マダム・ド・モンタルシー』(1856) など。遺作『最後の歌』はフロベールの助力によって1872年に出版され、フロベールは序文を寄せている。また、ブイエ像の建立を拒むルーアン市に抗議の文書を送るなど、フロベールは詩人の顕彰に努めた。
(13) Edouard Engel (1851-1938) : 1879年より『外国文学雑誌』の編集長を務めた。1882年には『起源から今日までのフランス文学』を刊行。フランス現代文学を擁護し、フロベールを高く評価していた。




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