モーパッサン 『エラクリウス・グロス博士』(2)

(11章―20章)
Le Docteur Héraclius Gloss (2), vers 1875



(*翻訳者 足立 和彦)



XI
どこでエラクリウス・グロスも
強き性の持つあらゆる弱みを
免れてはいないと証明されたか

 だが家に近づくにつれて、彼は歩みを遅くしてゆくのであったが、それというのも精神の内面では、哲学的真実とはまったく別の困難な問題を検討していたからであった。そしてその問題は不幸な博士にとって次のように定式化された。「どんな口上によれば、私は女中のオノリーヌに対し、我が家にこの未完成な人間を入れることを隠せるだろうか?」ああ、それというのも哀れなエラクリウスは、学部長が恐るべく肩をそびやかせても、学長が辛辣なからかいを見せても毅然と立ち向かうのであったが、女中オノリーヌの怒りの爆発を前にしては、同じように勇敢であるにはほど遠かったのだ。一体、どうして博士はそんなにもこの小柄な女性を恐れるのか、彼女はまだ瑞々しく親切で、主人の損得に対してもあんなにも聡く、献身的であるというのに? 何故なのか? どうしてヘラクレスはオムバレの足元から逃れ、どうしてサムソンはデリラに彼の髪に宿る力と勇気を奪うに任せたのか、聖書が我々に教えるところに尋ねてみるがいい。
 なんと! ある日、博士が野原に裏切られた大いなる情熱をさ迷わせていた時に(というのも、あの晩、学部長と学長が帰宅時にエラクリウスを笑い者にして大いに楽しんだのは理由のないことではなかった)、彼は垣根の隅で羊の番をしている少女に出会った。賢人は常に絶対的に哲学的真実のみを求めていたわけではなく、加えてまだ輪廻転生の偉大な謎を疑ってもいなかったので、もしも当時は知らなかったことを知っていれば確かにそうしたであったようには、雌羊だけに注意を向けることなく、ああ! 彼はそれらの番をしている娘の方と話を始めたのだった。やがて彼は彼女を自分のために雇い、最初の弱みがその続きをも許すことになった。彼自身がたちまちこの羊飼いの娘の羊となり、人が小声に囁くところによれば、聖書にあるのと同様に、この田舎のデリラはあまりに信頼しすぎた哀れな男の髪を切ってしまったが、それがために自分の額の飾りを外すことはなかったのだという。
 なんと! 彼が予測したことが実現し、それは彼の懸念をも超えるものであった。鉄の檻に捕えられた森の住人を見るや否や、オノリーヌはもっとも不躾な怒りの破裂に逆上し、慄く主人に大変に品の無い形容辞の霰を降らせた後、今度は着いたばかりの予想外の客の上に怒りを落とした。だがこの客人には、恐らくは博士と同じようにはこれほど粗暴な女中をなだめるべき理由を持たなかったがために、叫び、唸り、足踏みし、歯をぎしぎしいわせ始めた。牢獄の格子に飛びつくと、大変に憤激し、あまりに猥らな身振りを初めて目にする人物に向けて示したので、こちらは退却せざるをえず、敗れた戦士の如く自分の台所に閉じ籠った。
 そういうわけで、知性ある同輩がもたらした救いに喜ぶ戦場の主、エラクリウスは彼を書斎に運ばせ、檻とその中の住人とを、暖炉の傍の彼の机の前に住まわせたのであった。



XII
かくして調教師と博士とは
まったく同義語ではないということ

 それからというもの、もっとも意味ありげな視線が、居合わせた二個人の間に交わされ始めた。そして毎日、丸一週間の間、博士は視線によって(と少なくとも彼は信じていた)自分が手に入れた興味深い主体と会話をすることに何時間も費やした。だがそれでは十分ではなかった。エラクリウスが望んだのは、動物を自由な状態において研究し、その秘密を、欲望を、思考を捉えることであり、相手を好きなように行き来させ、私生活に日々触れることによって、彼が失われていた習慣を取り戻すのを目にし、そうして確かな徴候の内に前世の記憶を認めることだったのである。だがそのためには、客人は自由にならなければならず、従って檻は開かれねばならない。さて、この試みはまったく安心出来るものではなかった。博士は動物磁気や、お菓子や胡桃の効果を試してみたが無駄に終わり、エラクリウスが少しばかり格子に近づき過ぎる度に、四足動物は彼の目に不安を掻き立てる動作に耽った。遂にある日、苛む欲望に抗い切れずに、彼は慌ただしく進み出て南京錠の鍵を回し、扉を大きく開くと、興奮でどきどきしながら数歩下がって事件を待ったが、ともかくそれほど待たせることにはならなかった。
 驚いた猿は最初はためらったが、それから一飛びで外に出ると、もう一飛びで机の上にあがり、一秒とたたずに紙片や書物をなぎ払い、それから三度目の跳躍で、博士の腕の中に収まった。そして彼の愛情表明があまりにも乱暴だったので、もしもエラクリウスが鬘をかぶっていなかったなら、彼の最後の髪の毛は間違いなく恐るべき兄弟の掌中にあっただろう。だが猿が敏捷であったとしたら、博士もまたそれに劣らなかった。彼は右に、それから左にと飛び、鰻のように机の下に滑り込み、グレーハウンドのように椅子を飛び越え、絶えず追われながら、ようやく扉に辿り着くと背後で乱暴に閉めた。それから、ゴールに着いた競走馬のように喘ぎつつ、倒れないようにと壁にもたれたのであった。
 その日の残りの間、エラクリウス・グロスは打ちひしがれていた。自分の中で何かが崩れてゆくように感じていたが、しかし最も気にかけていたのは、先のことを考えない客と彼自身とが、どうすればお互いの置かれた状態から抜け出られるのかが全く分からないということだった。彼は、越えることの出来ない扉の傍に椅子を運んで来て、鍵穴から覗く監視所とした。その時、おお奇跡よ!!! 予期せぬ至福よ!!! 幸福な勝利者が肘掛椅子に座ってくつろぎながら、火で足を温めているのを彼は目にしたのだ。最初の歓喜の絶頂の中、博士は部屋の中に入りかけたが、内省が彼の足を止めさせた。そして瞬間的な光明に照らしだされて、優しさの成し得なかったことを恐らくは飢えが遂げてくれるだろうと考えた。この度は事態は彼に理があったことを示し、空腹になった猿は降服した。結局のところは善良な子どもの猿だったので、和解は完全に成された。そしてこの日から、博士と彼とは二人の古い友人のように暮らしたのである。



XIII
かくしてエラクリウス・グロス博士は
善良なるアンリ四世と
まさに同じ状況に置かれた
王は、二人の弁護士が
弁護するのを聞きながら
双方ともに理があると考えたように

 この記念すべき日からしばらく後のこと、激しい雨が降ってエラクリウス博士は習慣通りに庭に降りて行くことが出来なかった。彼は朝から書斎に腰を落ち着け、哲学的に猿のことを考察し始めた。猿は書き物棚の上にとまって、暖炉の前に身を伸ばしている犬のピタゴラスに向って紙つぶてを投げつけて遊んでいた。博士は、これらの階層落ちした人間達における知性の段階と発展とを研究し、目の前にいる二匹の動物の鋭敏さの程度を比較していた。「犬においては」と彼は考えた。「まだ本能が支配している一方で、猿においては論理的思考が勝っている。一方は匂いを嗅ぎ、耳で聞き、優れた器官で知覚するので、器官が知性の半ばを占めているが、もう一方は組み合わせ、よく考えるのだ。」その時に猿は、敵の無関心と不動ぶりに我慢出来なくなったが、犬はと言えば静かに横たわったまま、頭を足の上に載せ、ずっと高い所で身を守っている攻撃者の方に時々視線を上げるだけでよしとしていたので、猿は偵察を試みることに決めたのだった。家具から身軽に飛び跳ねてそっと進み出るが、あまりに静かだったので、火のはぜる音と掛け時計のちくたくという音以外には全く何も聞こえなかった。時計は書斎の大いなる沈黙の中で巨大な音を立てているかのようだった。それから、不意に荒々しい動作で、猿は両手で不運なピタゴラスの飾り立てた尻尾を掴んだ。だがこちらは、常に動かないままに、四足動物の動きを逐一追っていたのだった。彼の静かさは罠でしかなく、それまで攻撃の届かなかった相手を自分の射程内に引き寄せるためだった。そして主の猿が、自分の芸当に満足して尻尾を掴んだ時に、彼は一気に身を起こすや、相手が逃げる隙を与えずに、猟犬の強力な顎でもってライヴァルの、羊においては慎ましく腿肉と呼ばれる部分を捕まえたのだった。もしもエラクリウスが介入しなければ、戦いがどのように終結したかは分からない。平和を回復した後、ひどく息切れしながらもう一度腰を下しつつ、彼は自問するのだった。全てをよく考慮に入れた上で、犬はこの機会に「優れて狡猾」と呼ばれる動物以上の悪知恵を示して見せなかったかどうかと。そうして彼は深い困惑に沈んだままだった。



XIV
いかにしてエラクリウスは
過去の
麗しの貴婦人達の串焼きをまさに食べようとしていたか

 昼食の時間がやってきたので、博士は食堂に入ってテーブルの前に座ると、ナプキンをフロックコートに通し、傍に貴重な手稿を開いて、脂肪たっぷりでよい香りのする鶉の手羽先を口に運ぼうとした時、聖なる書物に目を向けながら、視線の落ちた先の何行かが彼の前に輝いた様は、バルタザールと呼ばれる有名な王の祝祭の間の壁に見知らぬ手によって突然に書かれたあの三語よりも恐ろしいものであった。
 以下が博士の目に入ったものである。
 「・・・従って、かつて命を持っていたあらゆる食物の摂取を断ちたまえ。それというのも動物を食するとは、同朋を食することであり、輪廻転生の偉大なる真理を確信していながら、劣った形態のもとにある人間以外の何物でもない動物を殺し、これを貪る者は、征服した敵を食べる残酷な食人種と同じほどに罪深いものであると、そのように私は考える。」
 そしてテーブルの上には、並んで小さな銀の串に留められた、半ダースの鶉が、新鮮でふっくらとしていて、空気中に美味しそうな香りを発散しているのである。
 精神と腹との間の戦いは激しいかったが、しかし、エラクリウスの栄誉のために述べておこう、それは短いものであった。哀れな男は、打ちひしがれ、長時間この恐ろしい誘惑に抵抗出来そうもないことを恐れて、女中を呼ぶと、しゃがれた声で、直ちにこの忌まわしい料理を取り下げ、以後は卵と牛乳と野菜のみを出すようにと厳命した。オノリーヌはこの驚くべき言葉を聞いてひっくり返りそうになり、彼女は反対しようとしたが、主人の頑なな耳を前にして、有罪判決の下った家禽をもって逃げ出した。にもかかわらず、一般的に言って、一人の者に失われたものが皆にとって失われたわけではないという心地よい考えで自らを慰めたのであった。
 「鶉! 鶉! 鶉は前世では何でありえただろうか?」哀れなエラクリウスは自問しながら、見事なカリフラワーのクリーム煮を悲しげに食べた。その日には、それは惨憺としてひどいものに思えた。―どんな種類の人間が、こんなにもコケットでこんなにも可愛らしい、この甘美な小さい生き物の体に移るほどに、優雅で、洗練されていて、繊細でありえただろうか?―ああ、きっとそれは過去の数世紀にわたる愛すべき小柄な貴婦人達でしかありえない・・・そして博士は一層青ざめるのだった、三十年以上もの間、毎日昼食に、半ダースのかつての麗しの婦人を貪ってきたことを思って。



XV
どのように学長は
神の命令を解釈するか

 この不幸な日の晩、学部長と学長が一二時間ばかり、エラクリウスの書斎におしゃべりしにやって来た。博士はすぐに自分の置かれた苦境を語り、どのようなわけで鶉や他の食用動物が、ユダヤ人にとってのハムのように、彼に禁じられることになったかを証明した。
 学部長は、恐らくはまずい夕食を摂った後だったので、節度をすっかり失ってあまりにひどくののしったので、彼を大いに尊敬している哀れな博士は、彼の盲目ぶりを嘆きながらも、どう身を隠していいか分からなかった。学長に関しては、彼は直ちにエラクリウスの懸念に賛同し、動物の肉を食するピタゴラスの弟子は、自分の父の背肉のきのこソース和えか、祖父の足肉のトリュフ詰めを食べてしまう危険を犯しうることまで指摘し、それはあらゆる宗教の精神に絶対的に反することであるとして、自分の言明を補強するものとしてキリスト教の神の第四の命令を引用した。

「汝が父と母を敬え
長生きするために。

 「本当のところ」と彼は付け加えた。「信者ではない私にとってはだね、飢え死にするぐらいならば、少しばかり神の戒律を変更するか、こんな風に置き換えたいと思うね。

汝が父と母を貪れ
長生きするために。」



XVI
いかにして手稿の四十二回目の読書が
新しい光を博士の精神に投げかけたか

 裕福な者が毎日、莫大な財産の内から新しい快楽、新しい満足を汲みとることが出来るように、エラクリウス博士は、計り知れないほど貴重な手稿の所有者であったので、読み返す度に驚くべき発見をするのであった。
 ある晩、この資料の四十二回目の読書を終えようとする時、突然の啓示が雷のような速さで彼を襲った。
 以前に見たように、一度消えた人間がいつの時代に転生を終え、最初の姿になって再び現れるかを、彼はほとんど知ることが出来た。従って、手稿の執筆者も人間界に自分の位置を再び獲得しうるという考えに、突然、雷のように打たれたのだった。
 それから、今まさに賢者の石を発見せんと信じる錬金術師のように熱中して、彼は細心の計算に没頭し、この仮説の蓋然性を明らかにしようと努めた。そして執拗な労働と、輪廻転生の複雑な組み合わせに何時間も費やした後に、この人間は自分の同時代人であるか、少なくとも理性を働かせる生命に再生する途上であるに違いないと、彼は確信するに至った。エラクリウスは、実際のところ、偉大なる輪廻転生論者の正確な死亡年月を示すどんな資料も持っていなかったので、確かな方法でその再来の瞬間を確定することは出来なかった。
 彼にとっては人間以上、哲学者以上、ほとんど神以上であるこの存在を、再び見出しうるという可能性を垣間見るや、彼が感じたのは、何年も前に死んだと思っていた父親が生きていて、自分の傍にいることを突然に知った時に人が感じる、あの深い感動であった。キリストへの愛と記憶で身を保ちながら生涯を隠棲して過した聖者が、彼の神が目の前に現れるだろうと突然に知っても、エラクリウス・グロスが、いつかこの手稿の著者に出会えると確信した時ほどに驚愕することはなかっただろう。



XVII
いかにエラクリウス・グロス博士は行動したか
手稿の作者を見出すために

 数日後、「バランソンの星」の読者は、この新聞の第四面に以下の広告を目にして驚いたのであった。「ピタゴラス―184年、ローマ―ジュピターの彫像の台座に再発見された記憶―哲学者―建築家―兵士―農民―修道僧―幾何学者―医者―詩人―水夫―等々。熟考し、思い出せ。汝の生命の物語は当方の手中にあり。
 バランソン局留、H.G.宛に連絡求む。」
  博士は、自分がこんなにも熱望している人間がこの告知を読めば、他の誰にとっても理解不能であっても、彼は直ちに隠された意味を理解し、自分の前に現れるだろうことを疑わなかったのである。それから毎日テーブルにつく前に、彼は郵便局まで赴いてH.G.宛ての手紙が着いていないかを問い合わせるのだった。そして「手紙、情報、切手のための郵便局」と書かれた扉を押す瞬間、愛する女からの最初の手紙を開封しようとする恋する男よりも、確かに彼は感動に襲われていた。
 なんと、日々は続き、絶望的なまでに似通っていた。局員は毎朝、博士に向かって同じ返事をし、毎朝、彼は一層悲しげに、一層意気阻喪して家へ帰るのだった。さて、バランソンの民衆は、地上のあらゆる民衆と同じように、敏感で、慎みに欠け、口さがなく、ニュースに貪欲だったので、やがては「星」紙上に掲載された驚くような告知と、博士の郵便局への日参とを結びつけるようになった。それから、そこにどんな秘密が隠されているのかが問い質され、噂話が始まった。



XVIII
どこにエラクリウス博士は認めたか
驚きとともに、手稿の作者を

 ある夜、博士は眠ることが出来なかったので、午前一時と二時の間頃に起き出すと、まだ十分よく理解出来ていないと思われる一節を読み返しに行った。古びたスリッパを履き、部屋のドアを出来る限り静かに開いて、同じ屋根の下で罪をつぐなっているあらゆるカテゴリーの人間‐動物の眠りを妨げないように注意した。さて、この幸福な動物達の以前の状況がどのようなものであったにせよ、確かに、これほど完璧な平穏と幸福とを享受したことはかつてなかったのである。というのもこの救済の館の中では、よい食事、よい住まい、その他のものさえもが見出されたからであり、それほどに、この善良な男性は思いやりの心を持っていたのである。絶えず些細な物音も立てないままに、彼は書斎の敷居まで辿り着き、そして中へ入った。ああ、確かに、エラクリウスは勇敢だった。彼は亡霊も幽霊も恐れてはいなかった。だが一人の人間の大胆さがどれほどのものであろうとも、最も不屈な人間の心をも砲弾のように穿つ恐怖が存在するのであり、博士は立ったまま、青ざめ、恐怖に囚われ、目を血走らせ、髪の毛は頭骨の上に逆立ち、歯をがたがた鳴らし、頭からつま先まで恐ろしい震えに襲われながら、眼前に呈された理解不能の光景を目にしていた。
 仕事用のランプは机の上に灯っており、そして、火の前に、彼は見た、彼が入って来たドアに背を向けた・・・エラクリウス・グロス博士が熱心に手稿を読んでいるのを。疑うことは出来なかった・・・それはまさしく彼自身だった・・・ 彼は肩の上に古い絹の、大きな赤い花の描かれた長い部屋着を着て、そして頭の上には金の縁取りのある黒ビロードのギリシャ風ボンネットを被っていた。博士は理解した、もしこのもう一人の自分が振り向き、二人のエラクリウスが顔を見合わせたなら、この瞬間に皮膚の内側で震えている方が、自分の複製を前に驚愕のために倒れてしまうだろうと。だがその時、神経の痙攣に捉われて両手を開き、持っていた手燭が音を立てて床を転がった。―この激しい音に彼は恐ろしく飛び上がった。もう一方が突然に振り返り、驚愕した博士は認めた・・・自分の猿を。数秒の間、嵐に運ばれる枯れ葉のように、脳の中で思考が渦を巻いた。それから突然に、彼はかつて感じたことのない最も激しい歓喜に捕われた。それというのも彼は理解したのである、ユダヤ人にとってのメシアのように待ち焦がれ、望んでいたあの作者が、自分の前にいる―それは自分の猿だったのだ。彼は幸福にほとんど狂ったように駆け寄り、崇拝する存在を腕に捕まえ、大変な熱狂でもって抱きしめたので、どんな熱愛される愛人も、恋人からこれ以上に情熱的に抱擁されたことはなかったほどだった。それから暖炉の反対側に、相手の正面に座って、彼は朝まで敬虔な心で相手を眺め続けたのである。



XIX
いかにして博士は最も恐ろしい
二者択一の選択を迫られたか

 だが、夏の最も美しい日々がしばしば急に凄まじい嵐に乱されるように、博士の至福を突然に、最も痛ましい暗示がよぎったのである。彼は見事に探していた者を見つけ出した、だがなんということ! それは猿でしかなかったのだ。なんの疑いもなく、彼等はお互いに分かり合っていたが、話し合うことは出来なかった。博士は再び天から地へと転落した。さらば、多くの利益を引き出せると期待していたあの長時間の対話よ。さらば、二人で取り組むはずだった迷信に対するあの麗しの十字軍よ。それというのも、無知という怪物を打ち倒すに十分な武器を、一人孤立した博士は持ってはいなかったのである。彼には一人の人間が、使徒が、証聖者が、殉教者が必要だったのだ―それらは、ああ! 猿には務めることの不可能な役割だった。―どうすべきか?
 恐ろしい声が彼の耳に叫んだ。「あいつを殺せ」
 エラクリウスは震えた。一秒の間に彼は計算した。もしもあれを殺せば、引き離された魂は直ちに生まれる寸前の子供の中へと入るだろう。成熟に達するには少なくとも二十年は待たねばなるまい。その頃には博士は七十歳になっているだろう。しかしながら、それは可能だ。だがその時になって、その人間を見出せるだろうか? ついで、彼の宗教は、なんらかの動物の命を奪って殺人の罪を犯すことを禁じていたし、エラクリウス自身の魂も彼の死後、殺人者がそうであるように残忍な獣の内へと移ることになるだろう。―それがどうした? 自分は科学と、―そして信仰の犠牲となるだろう! 彼は武具一式の中にぶら下がっていた大きなトルコの三日月刀を握り、山上のアブラハムの如くに打ちに行かんとした時、ある内省が腕を留めたのだった・・・。もしもあの男の贖罪が終わっていなかったら、そしてもし、子供の体に移る代わりに、その魂がもう一度猿の体に戻って行ったとしたら? それはありうること、本当らしくさえあり、―ほとんど確実だった。こんな風に無駄な罪を犯すことで、同朋達に何の利益ももたらさないままに、恐ろしい懲罰にと身を捧げることになるのだ。彼は力なく椅子に倒れこんだ。繰り返された感情の高ぶりにすっかり憔悴し、彼は気を失った。



XX
どこで博士は女中と短く言葉を
交わしたか

 目を覚ました時、女中のオノリーヌが額を酢で湿らせていた。朝の七時だった。博士の頭に最初に浮かんだ考えは猿のことだった。動物は消えていた。「私の猿、私の猿はどこにいる?」彼は叫んだ。―ああ、そうですよ、それについてお話ししましょう。いつでも機嫌を損ねる準備のある女中兼愛人は反撃した。消えた内にとんだ災難のことをね。可愛らしいけだものですよ、本当に! あれは旦那さまがなさるのを目にしたことをなんでも真似するんです。この前はあなたの長靴を履いているのを見つけたんじゃなかったかしら、それから今朝、そこであなたを助け起こした時には、まったく、しばらく前からどんな呪われた考えが頭の中を動き回っていて、ベッドに休んでいるのを邪魔したのか知りませんけど、あのいやらしいけだものときたら、むしろ猿の皮をかぶった悪魔ですわ、あなたのキャロット帽と部屋着を着て、あなたを眺めながら笑っているようじゃなかったですか、まるで人が気を失っているのを見るのがとっても面白いみたいに? それから、私が近づこうとしたらですよ、あのろくでなしは私のほうに飛んで来て、まるで食べようとでもするみたいでした。でも、神に感謝しますわ、そんなに内気じゃないし、まだちゃんとした腕を持ってるんですから。私はシャベルを取って、あいつの汚らしい背中をうまいこと叩いてやったんで、あなたのお部屋から逃げて行きましたよ。また何か新しいことをあいつなりに仕出かそうとしていたに違いありませんわ。―私の猿をぶっただって! 憤慨した博士はうめいた。いいかい、お前、以後はあれを尊敬し、この家の主人であるようにあれに仕えてもらいたい。―ああ、いいですとも、単にこの家の主人なだけじゃなく、ずっと前からもう主人の主人になっているんですからね」オノリーヌはぶつぶつと言い、自分の台所に引き下がって行った。エラクリウス・グロス博士は完全に狂ってしまったのだと確信しながら。


1875年頃



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