『稽古』について

Sur Une répétition



『寸劇と独白』表紙  ギ・ド・モーパッサンによる一幕韻文喜劇。1875年10月6日、母親宛て書簡に言及があるが、翌76年、3月11日、ロベール・パンションに宛てて、次のように記されている。

僕のほうでは、今は芝居には手をつけていない。劇場の支配人は、彼等のために仕事してやるに値しないと、決定的に分かったのさ!!! 本当のところ、彼等は、僕らの作品に魅力があるとは認めるのだが、上演はしないんだ。僕としては、出来が悪いと思いながら、上演してくれるほうがよっぽどいいと思う。レーモン・デランドが僕の『稽古』を、ボードヴィル座でやるには繊細に過ぎると判断したなんて、言うまでもないことさ。僕もそんなに頑張った訳でもないしね。

 後に、80年になって、出版社トレスが毎年刊行する『寸劇と独白』 Saynètes et monologues 第6集に掲載される。その際、モーパッサンが出版人に宛てた書簡には、駆け出しの作家の苦労と同時に、彼のしたたかな一面も窺われて興味深い(書簡145を参照)。

 ここでもまた主題は恋愛であり、男女の恋愛観のずれ、主導する女性と、従う男性という構図など、『リュヌ伯爵夫人』や『昔がたり』とも共通する面を持っている。
 だが本作品の眼目はやはり、劇中劇という構成にあり、演技における本当らしさがテーマとして扱われている点にあるだろう。
 小説において成功を収めた自然主義作家は、同時に劇への進出も志した。しかし、『ナナ』や『居酒屋』の商業的成功はあるものも、全体として演劇における自然主義は、アントワーヌの自由劇場まで、十分な成果をあげ得なかった。今日、一般的にはそのように考えられているが、このことは、ブルジョア、民衆という観客の趣向が、現実を主題にする深刻(陰惨)なドラマを好んで受容しなかったという点に、その大きな原因を擁していると思われる。また、当時の劇における慣習、様式がかった誇張された演技が、「本当らしさ」を求める自然主義の理念を舞台上に実現するのを阻害した、という点も見逃せない。
 ささやかな小品『稽古』は、決して野心的・前衛的な作品ではないが、ここにおいてモーパッサンは、世間一般における演劇的慣習の「嘘」を槍玉にあげ、本当らしい演技の必要を説き、虚実の交錯を作品の中心に置いてみせる。もっともそのような作品を韻文で綴ったところに、保守的な作者の立場を窺うことが出来るし、結果的に本作を奇妙なものに仕上げてはいる。
 当代への演劇に対する批判を内包させた『稽古』は、モーパッサンにとっての理想の演劇(それは自然主義者にとっての理想でもある)のあり方を、間接的に語っている点で、興味深いように思われる。








Ce site vous présente les informations essentielles (en japonais !)
pour approfondir vos connaissances sur Guy de Maupassant ; biographie, listes des œuvres, bibliographie et liens utiles, etc.

En même temps, nous vous présentons la traduction en japonais des œuvres de Maupassant, théâtre, poèmes, chroniques, et bien sûr, contes et nouvelles !


© Kazuhiko ADACHI