モーパッサン 「ルイ・ブイエ」

« Louis Bouilhet », le 21 août 1882



(*翻訳者 足立 和彦)

ブイエ 解説 1882年8月21日、日刊紙『ゴーロワ』 Le Gaulois に掲載されたルーアンの詩人、ルイ・ブイエ(Louis Bouilhet, 1822-1869)に関する記事。9月7日付『ジル・ブラース』 Gil Blas に掲載の「詩人たち」 « Poètes » と題する記事で、改めてその詩作品を取り上げている。その他にも複数の記事でブイエと彼の詩を引用しているが、モーパッサンのブイエ復権の努力の甲斐なく(フロベールの友人として以外)、今日忘れられた詩人である。なお、「孤立した高踏派」とも呼ぶべきブイエの作品には、古代文明への憧憬や中国趣味等が顕著に窺われる。
 両作家の関係は本記事に詳しく、また完璧なる傑作という理想に関するブイエの教えは、『ピエールとジャン』冒頭に置かれた「小説論」中に見られる有名なものである。
 モーパッサン十八歳、一年に満たないブイエとの交際が彼に残した痕跡を作品中に見出すことは難しいが、とりわけ七十年代の詩・劇作において、その影響は無視することが出来ないように思われる。

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 この前の水曜日、ルーアン駅に一箱の木箱が届き、宛名にこう記されていた。「ブイエ委員会代表」そして下の方には「ギヨーム氏発送」と。
 それは十三年前に亡くなった詩人の胸像であり、数日後に、除幕式が行われることになっている。
 それ故、あらゆる新聞雑誌がその名を繰り返すだろう。人々は、文学者達に大変に愛されながら、今日公衆に読まれることの少ない、彼の作品を思い出すことだろう。彼の生涯を語り、その栄光を目覚めさせるだろう。私は、その手始めとして、優美にして力溢れたこの詩人について、再び語ろうと思う。私は彼を知り、愛し、私生活の彼を目にしたのである。
 序幕のセレモニーが行われた後、彼の作品について語り、全く未刊の幾つかの詩篇や、断片をお見せすることも出来るだろう。今日は、数行を費やして、その人について語ろうと思うが、個人的な思い出に、彼の最も親しい友人であった、ギュスターヴ・フロベールから聞き知った事柄を交えよう。
 その頃、私は十八歳で、ルーアンで修辞学級(訳注 高校の最高学年)を修めていた。フロベールの最も親しい仲間であったのに、ブイエの作品を読んだことがなかった。
 街では、彼はよく知られてはいなかったが、図書館員であったので、よく語られていた。地方のアカデミーは幾らか彼を軽蔑していたが、それは郷土の詩人、ドゥコルド氏の影響のためであって、この驚くような顎鬚を生やした詩人の詩句は、アンリ・モニエによって、不滅のプリュドム(訳注 ブルジョアの典型として有名)のものとして作られたようなものだった。
 公衆においては、アカデミー会員の身内である多くの者が、ルイ・ブイエは過大評価されていると広言していた。幾らかの若者達が、熱烈に彼を賞賛していた。
 ある日、散歩を終えて、我々が学校へ向かっていた時に、自習監督官が、彼は稀なことに、人の評価する勉強家であったが、我々の足を止めるべく、荒々しい動作をしてみせた。それから、彼は、かつて王侯に向かってしなければならなかったような、尊敬と謙遜を示す身振りで挨拶した。その相手とは、勲章を下げた太った紳士で、長い口髭が垂れ下がり、お腹を突き出して、頭を逸らしながら、鼻眼鏡をかけて歩いていた。
 それから、散歩者が遠ざかると、我等の学習監督人は、長い間視線で彼を追った後に言った。「あれがルイ・ブイエだ」そしてすぐさま、『メレニス』の詩句を暗唱し始めたが、その詩句は魅惑的で、響きよく、愛に満ち、全て美しい詩句のように、耳と思考とを愛撫した。
 その同じ夜、私は『フェストンとアストラガル』(訳注 共に装飾の種類を示す)を買い求めた。そして一月の間、この震えるように繊細な詩情に酔いしれたのであった。

***

 まだ若かったので、まだ恐れがちな尊敬の念をもってしか近づけなかったフロベールに、ブイエの家に連れて行ってもらうことは頼めなかった。私は自分一人で出かける決心をした。
 彼の住まいはビオレル通り、地方の郊外にあって街から田舎へと通じている、あの終わりのない通りの一つにあった。一方の端は群成す家の中に流れ込み、もう一方は、最初に目にする燕麦や小麦畑の中に紛れ、消えてしまうといったものである。通りは壁や生垣から成っていて、小さかったり、時には随分大きな庭を囲い、住居はその囲いの奥にあって、通りからは離れている。高い壁に埋め込まれたような小さな扉、そこに吊らされた鉄の紐を引っ張ると、ずっと向こうで鈴が鳴るのが聞こえた。長い間、誰も出て来なかった。私が立ち去りかけた時になって、近づいて来る足音が耳に入った。ドアが開いた。私の正面に、自習監督官の挨拶した、太った男性がいた。
 彼は驚いたように私を眺め、私が話すのを待っていた。私といえば、鍵が回っている間に、三日前から準備した巧みでお世辞に満ちた演説を、完璧に忘れてしまったところだった。ただ単に、自分の名前を名乗った。ずっと以前から、彼は私の家族を知っていたので、私に手を差し出してくれた。私は中へ入った。
 果樹や、影を作る木々の植わった幅広の庭が、素朴で正方形の住居へと続いていた。道はまっすぐで、両側を花で縁取られ、専門の庭師が花壇の周りをくねらせながら生やすような一列の線ではなく、あらゆる種類、あらゆるニュアンスからなる素晴らしい花々の、二列のクロス、二つの幅広の生簀のようであり、掻き立てられた香りが、空気を濃くしているようだった。
 そこに詩人の情熱の一つがあった。私は、ペダントリー混じりに、古い詩句を暗唱してみせた。

それから、本に疲れると、私は花々を眺めた。
魅力的で、有用で、誠実なる仲間。
別のものはおしゃべりで、私の頭を陶然とさせた。

 その時、ブイエは私の方を振り向いて微笑んだ。私はその時に初めて、この見たこともない、魅力的な微笑を目にしたが、それこそまさしく、彼の顔の、特別で、はっきりとして、特徴的な印だった。
 人はただ唇だけで微笑むものだ。彼は、唇よりも視線でもって微笑むのだった。
 幅広で善良そうな目、無限に善良で、鋭く、からかうようであり、歓迎するようでもある、小さな光が点っていた。そこにはっきりと、いつも目を覚ましていて、いつでも鋭い皮肉を見ることが出来たが、しかしながら、父性的であり、芸術家としての彼の性質の、本質そのもの、根深い層であるように思えるのだった。それというのも、この優しく、優美であり、コルネイユ的な詩人は、生来的に優しく、洗練さによって優美で、文学的教養と意志によってコルネイユ的であるのだが、彼には誰よりも、からかい好きの才気、刺すような観察眼、辛辣ではあるが、決して残酷ではない言葉とが備わっていたのだ。彼の笑いは善良な子どものものだった。
 私は住まいの中に入った、詩人の簡素な室内であり、彼は繊細な装飾物を探し求めることはなく、むしろ学者の部屋であったが、それは、彼がその時代の最も優れた人文主義者の一人だったからである。

***

 彼のデビューは困難な、とても困難なものだった。姉妹に自分の相続分の遺産を分け与え、彼はラテン語、ギリシャ語の目覚しい研究の後、医学に従事することになった。
 マクシム・デュ・カン氏は、文学的無遠慮さの内に、彼について記している。「彼に知られていない、どんなギリシャ詩人も、どんなラテン詩人も存在しなかった。彼は習慣として読書し、少しも衒学者ぶるところがなかった」
 製作の欲求に駆られ、生活のために授業を持ちながら、詩作をつづけた。その頃に、『メレニス』、優美さと力とリズムに溢れる、繊細で素晴らしい作品、恐らくは彼の傑作を作り上げた。
 それから、彼はパリにやって来た。そこで『マダム・ド・モンタルシー』によって最初の大きな成功を得た。次いでマント、それから人生の終わりにルーアンに住んだ。劇場での最後の成功は、『アンボワーズの陰謀』であった。
 二冊の詩集、『フェストンとアストラガル』と『最後の歌』は、彼を今世紀中、真の詩人の第一級に分類させるものだ。
 彼の大きな不幸は、常に貧しかったこと、あるいはパリに来るのが余りに遅かったことにあった。パリは芸術家達の堆肥である。そこにおいて、足を石畳の上に乗せ、酔いを含んだ生き生きとした雰囲気の中に頭を浸すことによってしか、彼等は完全に才能を開花させることがないのである。それに、そこに来るだけでは十分ではない。そこに存在することが必要であり、その家々、そこの人々、思想、風俗、内密な習慣、からかい、機知に、早くから親しまなければならない。どれほど偉大で、力強く、才能があったとしても、骨の髄までパリジャンになることが出来なければ、何か地方的なものを残すことになる。ブイエは、その超然とした詩は、偉大な詩人達の最も美しい作品にも比肩しうるが、演劇においては、稀に見る豊かさを備えてはいるのだが、幾らかなりと型にはまった偉大なるものへの傾向を見せており、他の多くの者のように、二十歳で大通りへやって来ることが出来たなら、そうしたものを捨て去ったことだったろう。
 六ヶ月の間、ある時は彼の家、ある時はフロベールの家で、私は毎週彼に会った。公衆においては内気な彼は、内輪では、比べるものもないような才気、肥沃な才気に、古風で尊大な雰囲気に溢れ、同時に叙事的な息吹きと繊細さに満ちていた。
 ある日、彼の病気がとても悪いということを知った。その翌日に、突然に彼は亡くなったのだった。
 そして私は思い出す。群集、鈍感で、微細な繊細さを持たない群集が、彼の花々を踏み荒らし、花壇を潰し、ナデシコを、バラを、彼が歌うような、うっとりするような愛情で愛した全てを押し潰して、樫の木で出来た重たい棺の周りに急ぎ、棺を運ぶ四人の葬儀人夫が、道に沿って、青いブーケでなる二列の繊細な縁飾りを、目茶目茶にして行くのを。
 私は機械的に、最後の書物の中の最後の作品にある、悲しい詩句を繰り返していたのだった。

今日、私が愛するのは、黒い腕をした
墓堀り人夫の、跡取り娘、
毎夜、私は忠実に出かける
墓場での逢引に。

とっく、とっく、とっく、音が聞こえる
夜に穴掘る老人の鋤の音。
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ある日、やがて、いつ? 分からない、
お前の家から四歩のところ、
芝生の下に眠りに行くだろう。
お前はまだ、なんと魅力的なことだろう!
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 地方の新聞は、記念碑の除幕式は今月24日に行われると告げたところだ。この知らせが否定され、もっと先に延ばされることを期待しよう。亡くなった詩人の胸像の前に、現在のフランスの、老若全ての詩人、バンヴィル、コペー、シルヴェストル、マンデス、ブールジェ等を招くことが出来るだろうこのセレモニーを、こんな風に急ぐことで、その日には像の周りに、数少ないルーアンの文士と、作家の個人的な友人しか集まらないようなことになるだろうし、それでは不十分なことだろう。

『ゴーロワ』紙、1882年8月21日付



訳者注 最初の引用はロンサール、『エレーヌに捧げるソネット』第二集所収「エレジー」。ただしモーパッサンの引用には誤りがある。
 ブイエの詩の引用は『最後の歌』所収「墓堀り人夫の娘」より。




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